2007年6月28日

脱自由中心さ

自由主義として我々がかつて道具的信仰の役割を与えていた社会構築対象概念とは、労働力を搾り取る為アダム・スミスにより考案された配分返報制に過ぎなかった。我々は最早それを狂信しうる程に無学ではない。散種された思想の粒は土壌に依って繚乱する。もし国情が怠惰なら自由主義是政は不可能。
 自由の桃源郷は有り得ない。それは国際可能態に過ぎないから。更に、技術革新は国情の基礎を移項させる。産業形相に最適化した国家のみが繁栄の順番をえる。我々は上下慈善すなわち、国連調整と民間寄付、並びに文化多元主義的企業進出によって国際福祉を実行していく事ができるにも関わらず、尚且つ、それらの中庸善行が又、国家文明なる共時象徴の興隆に因る世界史の最高段階の目的に適う様に工夫しなければならない。そして国際福祉と国家文明とは普遍的正義に基づく均衡の絶えざる再構築によってのみ達成しえる。