2007年11月18日

天文学

いかなる銀河系も仮の相。なぜなら不可逆変化だから。そして我々自身の認識作用は化学作用である限りそれに又逆らわない。つまり我々は過去を観察することは永久にない。想像力という虚構によっては仮説するが、実際にはそれが人間の与える何らかの文学作為によってのみ可能なリクリエーションの方法でしかない以上、我々は物理法則に支配された自由人である。我々にとって過去は思議の対象に挙がらない。我々にとって現象のベクトル、これを時空系と呼ぶが、時空系についてしか考案されるべき物理法則上での課題はないのだ。それは過去を含まず、漸次に展開する物質作用の、とある密度を対象にする。
 我々は量子論を物理学的だと考えることができない。必ずしも実証されない法則を物理学は世界認識の基礎に仕立て上げるへまをしない。確率が入り込む法則を物理学に組み入れる錯誤はそれが非実証化されることを意味し、従って形而下学的秩序から食み出すものだ。数学は物理学にとっては実証手順を抽出的に省略するための道具であって目的とはならない。なぜなら自然科学の対象自体には数学性が存在しないからだ。我々が知性によって知りえるのは経験知についてであり、思弁知についてはそれ自体が認識対象である数学に任される。以上の混乱は純粋理性批判以前の命題として人類から歴史的に退けられた。とある密度がどのレベルにあるにせよ、我々はそのレベルに鎮座し世界をscholeを通じてtheoriaする。結局、我々は人間原理言い換えれば人間中心主義的な理性使用をとりあえず、控えるわけには行かない。我々は我々の五感以外の直観を知らないのだから。我々の云う、物理学而のとある密度は経験知の範囲を敢えて知性を支持監督し超えようとしないがゆえに我々にとっての物の理を知らせる。従って正しい物理法則は我々の生活範囲に普遍的に応用できるものだ。たとえいかなる宇宙的な変異に対してすら、我々の物理法則は我々の認識密度に対して適用可能なものである。物理法則はもののあわれに反する。物理法則は縁起の詳細である。