2007年7月30日

才能論

科学の天才は意味の上で正確な意味での天才、つまり生得的な才ではない。それは大衆より遥かに知性的な知能というものに過ぎないし、かかる才能は学習による以上、能率に格差はあれど飽くまでも或る認識型の模擬の延長にある。もし新たな認識型を創造するような思考を展開した個性があれば、彼は追随の求道を旨とする科学者ではなく、むしろ哲学者と呼ばれる。哲学すなわち形而上学の範囲には、未体系であるべくして幾多の批判と思想の二つの側面そのいずれかが存在する。批判は道徳を構成し、思想は思想潮流つまり思潮を形成する。前者は純粋形而上学つまり道徳哲学と呼ばれ、後者は応用形而上学つまり派生哲学と呼びうる。前者だけが哲学の文脈であり続け、後者は一旦成立すれば切り離されて新たに科学の分野へ編入される。つまり科学は確立された派生哲学思潮に対する学習の延長である限り、生来の天才による独創ではなく、模擬の秀才。生来の感性にのみ適用しうる天才の概念は、芸術の才能にしか用いてはならない。
 では、哲学は天才の事業だろうか。それは単なる学識の誇示ではないし、教養ある暇人達の娯楽というものに言い尽されないだけの社会的必然がある。乃ち、学識の軌道修整を行う事こそ哲学の正しい方法なのだ。そしてこのような観想的思索を行う事のできる才能は、科学的秀才と芸術的天才とは異なる、生来および習得的な実践理性の深度に由来しなければならない。たとえば、哲学的な思索の才に欠ける個性は慣用表現しか使えない文筆家の如く、理性の疑義に耐えうる強度を遂には持ちえない。
 我々は理性の才を充分に発揮せしめる為には、思索の道具としての教養がある程度必要となる事を承知している。それは幼児の思索がいずれも無稽たらざるを得ない事で知れよう。とは言え、単なる百科辞書を最善の哲学者と見なす訳にもいかない人々は、秀才と天才の相克的才能、つまり哲学の才能を英才と呼んでも構うまい。それは閑暇の環境と観想の習慣とがなければ育ちえないものだろう。