2007年8月10日

文学論

文学とは合理美の抽出。それは多彩性の作為と同時に文明の便利でもある。文体と文脈の揚棄が傑作を生む。教養と天才は不可欠であり、名品は万世を啓発する古典となる。文学は世界観の見極めによって未来文明への布石となる。最高傑作已が聖書として読み継がれる。我々が娯楽としての文芸を弄ぶのは審美淘汰の便宜に過ぎない。
 どのような書物と雖も最大多数の最高啓発則ち救済を目指している。文芸が哲学より尊いならその大衆性に因る。聖書が科学書より貴いなら同じ理由から。文学は聖書の更新。それは旧典を新たな智恵と折衷させて時世へ翻訳する文化技術。よって文学は宗教を土台とし、又その真理を抽象する。
 救済の度合いに応じてのみ文学の偉業は量られうるだろう。時代を通じて古典化しない明文こそが万民の参照に値する。宿世すくせを越境し続ける経典は古今東西人間世界の真相を穿うがって、理性的存在者の宇宙観へ仮設の信仰方針を与える。
 全ての明文は考えのかたちであり永久に聖書の完成たり得ない。文字に付随した観念だけが理想の契機として重宝される。いずれ一文字で全知を表現する迄、文学は続く。その大衆部を文芸と呼び上座部を哲学と呼ぶ。どちらも文語を通じた聖書の更新という目的に於いて変わらない。科学は数字を含む少数記号を利用して哲学すら抽象化した文化だろう。この方法で現行可能なのは上座部の内、最高峰の知識人を宗派教化する事のみ。科学は知性の宗教。その普及は閑暇への適性に依存する。よって風光明美な涅槃寂静で理論生活への宗教寛容がなければ、比喩の具体性を逃れきれない文学に比べて完全に抽象化しうる科学は一部の特権選良にしか共有される事は無い。いわば科学は上座を文学は下座を救う舟となる。それらは何れが欠けても人類文化を形跡しないだろう。
 科学、哲学、文学は近代迄地球人類文明が育み得た三位一体の活字文化だった。我々は感性、理性、知性という三つの特性をこれ等から成長させる事ができた。そしていずれの特性も近代文明にとっては不可欠となった。