2007年12月6日

教育文化論

実川真由『受けてみたフィンランドの教育』に曰く、宿題は多くなく普段それほど勉強している風はない。勉強という言葉代わりに「読む」をよく使う。分厚い本を何冊も読むことが要求され、テストではその知識に基づいてエッセイを書かせる。暗記要素は自然に身に着く。英単語帳は無く、歴史年代がテストに出ることもありえない。
 これと比較すれば日本人が中国から輸入した科挙の弊害が、知識学習ならぬ暗記勉強の観念を民に植え付けたことが明らかになる。畏らく我々は科挙型の暗記中心教育を改めるべき分かれ道に立っている。科挙を実際に続けて来た現代中国と、北欧諸国のどちらがより教育大国にふさわしいか、教育関係者自身、思慮判断しなければならない。
 又、初等教育におけるゆとり教育の弊害が叫ばれるが、事実上、朝礼暮改ほどおろかな改良策もない。偏差値教育が科挙の変形でしかなく、欧米を遥かに追い越す成果を挙げるしくみでなかった以上、我々は既存の体制を二度と振り返ってはならず、進む他ない。それには科挙から自由教育へという大枠の維新が必然となる。
 私見では、ゆとり教育の成果は格差の為に働く。格差は義務教育の範囲を出れば必ずしも否定されるべきことですらない。フィンランドよりPISAの劣るイギリスの方が沢山のノーベル賞級の結果、及びコペルニクス的革命を興して来た理由を問われれば、彼らを圧倒的な分業の優等生と見なす他ない。一人の大秀才の出現は一億の凡脳に優る結果をもたらす。
 我々は初等教育においてフィンランドの高平均値に習うべきだろうが、同時に、高等教育へ向かうに連れて徐々に教育寛容度を上げて行き、個々人の優秀格差を肯定する様に導くべきだろう。