2007年12月1日

芸術教育論

『判断力批判』に倣い、天才は構想力と悟性との自然が分け賜っためでたい関係たる判断力において芸術の先天的才能であると定義すれば、いつの世のいかなる芸術学校ですら単なる伝統芸能の保存修復にしか役立ちはしない。
 古典や同時代の天才に範例を求めるにせよ、また判断力自体の補足として制作の実例に与かるにせよ、芸術学校は天才を全く教育し得ないばかりか、その様な才能を既成の原則から外れた奇形として排除しさえするだろう。従って、芸術学校は自らが一つの制作規則な天才の所業たる芸術にとっては、害があって益はない。そこでは凡才たる模倣者達を教授の流派に招き入れ伝播する多少あれ集団強制的な師弟制が図られえるに過ぎず、また勢い飛び抜けた天才の芸術は大衆は勿論専門家にも当代に正当な評価を受けることは希であるから、この様な同時代の権威の役に就く方々が一流の歴史的芸術家な事は極めて望みが薄いという状況に行き着くのだし、その様な芸術教育の体制というものは、我々の文明にとっては単なる模擬としての伝統文化の保守的な維持に有効なだけだ。よって芸術に学歴は存在しえない。芸術というものは後天的に知識として学んだところで、その為に必須な自由美に関する制作の規則だけは先天的独創性に待つ他ない。多少あれ教育可能性があるとするならば、いわゆる設計者における付属美制作の訓練、すなわち工学技術者に対する既存の芸術模擬を課程づけることができるに過ぎないだろう。例えば現代、建築という半面において付属美を要求される造形美術分野において、かつて達成された天才的建築家たちの芸術作品を範例として模擬させ、それを仕方なく学的な規則にまで貶めてすら工学教育に伴う必然的不足としての建築術を補わせる、といった方法において。これはやはり流派の伝道であるから、伝統芸能の保守に働くだけである。建築とは用途を審美的に表現する芸術なので、用途に対する計画的対処という学的に習いえる部分に関してのみ、我々は既に技術が失われた古典的実作の模擬をもってその第一の範例としても構わない。しかし現行の技術には新たな工学に埋もれやすい単なる流行の方法が学的なものと術的なものの境をぼかしたまま混在しており、ひとえに学的実例を伴わねばならない充分な模範にはなりえない。具体的には、日本建築が慣習的に手洗いと風呂とを分けて清潔感の具に供するといったことは、古典的日本建築の範例を一度模擬してみることを通じてしか手習い得ないわけだ。そして全く伝統風土に属さない建築作品は文化的な産物ですらなくただ巨大彫刻とみなされるに過ぎないから、建築術の修養には天性の判断力としての天才が不足すればするだけ、建築学からの工学的な補完を半面として必要とする。逆に言うならば、天才的な建築家は殆ど実例を引用することもなく、用途に最適な独創的作品を巧みに科学技術を活用して導き出すことができる。よって、建築学が学校組織で教えられることは一般に凡才の為の工学教育であると考えられ、芸術学校はやはり理念上不要となる。これに対して結局あらゆる建築物を作る際に必須な建築術というものは悟性と構想力とを統括する判断力の先天的才能であり、前例と似た状況が絶えず訪れるわけではない建設現場においていくら沢山の実例を示そうが、凡才にはその制作に伴う付属美を自由美から区別できない以上、まるで教育不可能である。なお、これは俗に、職人達の間で筋がいいとかわるい、また建築批評家たちの間で感覚或いは勘がいいとかわるいという言い方で、学的なものに還元できない術的な能力の判定にも普段から息づくような、先天性を含む判断力である。
 芸術学とは審美批評論を旨とする哲学者たちの仕事であり、芸術学校で教えてよい分際の生業ではない筈。それはコントの基礎科学の分類に倣い社会学内に、歴史学における文化史の一種としてのみ定義されえる。そこにおいてしか哲学者たちの審美論が学的なものとして、科学的につまり歴史に至る積み重ねとして採用される余地はない。
 とすると、我々の文明が芸術学校を学問の府に模して日々築くことは未開な人類が犯した巨業な過ちであって、この様な場所が真実、幾多の芸術家たちをその非模擬性すなわち独創性によって迫害し駄目にし極端な場合淘汰粛清さえしたか計り知れないことは、なんら大学的教育とは無縁の天才達を永らくその古典的模範として来た我々の歴史が証明するところだろう。芸術学校が芸術家にとって自明の義務として栄えた国からはいかなる天才の飛翔も閃けない。よって、各文明国は芸術学校の名義を剥奪し、伝統芸能の学校つまり工芸学校と事実誤認を修正謝罪するべきである。芸術学校を名乗りうる場所は唯一、天才芸術家自身の工房だけだ。まことに単なる伝統芸能の模擬者たちが芸術学歴とやらを厚顔無恥にも堂々公然標傍し、市民社会に自律的な趣味判断の発達を妨げる模擬的な芸能権威化の錯誤を繰り広げるところは混沌迷盲たる野蛮界さながらであり、我々はこのような現状が散見される未文社会に暮らす限り、人為環境の洗練を信条とする品格ある文明国家を主張することは永久に不可能である。天才的芸術が凡才の仕業である模倣とは飽くまで対立する以上、我々は全く、どういう社会的立場からその様な希有な能力の証が現れてくるか、将来にわたり予測するわけには行かないだろう。なぜならば旧来のとうに知られた美学化に堕した規則を外れてのみ、新しい規則を樹立する天才の芸術は華開くから。