2007年8月7日

ヘーゲル批判

多様観が目的だとすれば、文明は宇宙がそうである如く多声秩序を要請する。我々はギリシアの調和つまり理性が世界中の理想であると考えてはならない。それは文化風土的な当為であり決して万民の規範とは成り得ないのだった。ある時それは脱人間中心的・自然本位な調和となった。彼らにとって幸福はセオーリアによらなかった。そこで理性は感性に従属し、理論理性は技術理性の道具とされた。
 文化交遊を通じて已、純粋理性的存在者、人格は当然の進化を経られる。しかし実際には全文化の保身は不可能。住民の文明化は世界遺産を離脱する様に臨むもの。でなければ地球は何れの御時にか墓場の用地に過ぎない。
 何とは無くても均質化の破格とは元来不自然だと万世へ自覚させよ。観光遺産は壊死文化であらざるを得ない。
 外部からの伝統啓発とその保護買収とは分際に留まる。以外は侵略と呼ぶのだから。この文化的分際の中庸度は単に文明の経済力へ依存している。軍事力は兵器の後手となる。抑止力は侵略力の寡言。よって、もし貴方が少数民族の自然淘汰を憐れむならば私財を投じてその趣味的鑑賞に務める他無い。その国家的な意義は進化の渦中に在る万物誰にとっても存在しえない。
 私がヘーゲルに対して確実に批判しうるのは、統一されざる全体としての梵我一如にのみ現実は存在し又二度と存在しえないという道理。自民族中心主義も脱構築の洗礼を経るべきだろう。