英人M・スペンスのシグナリング(符号化)理論のもっとも主要な誤りは、おもに学歴獲得用の費用が各自や各家計で異なるという、教育投機への資本金の社会的不平等さを無視か省略した前提として論を進めていることにある。つまりそれはケインズと同じく選良主義の偏見(俗にハーヴェイロードの前提条件といわれるそれ)を前提に置いている点で、通用する範囲もせまく或いは資本主義内での貴族趣味、紳士の理屈に過ぎない所がある。
具体的に、この符号化は同一の努力、たとえば学習過程を大幅に試験用に省力化できる学習塾の様な抜け道を利用できるか否かといった世代間所得からの投機資本の度合いを無視した段階での努力個人差を絶対視するものではない。いいかえると、大して頑張らなくとも一流の進学塾講師から秘伝を授かるお坊ちゃまお嬢さんと、ほとんど泥沼的家庭で貧乏子沢山を地で行く煩雑さの内で黙々とだんまりを決め込んで無償支給のチャート式を解かねばならない生徒とでは、明らかに意図もしくは学歴用初期投資が異なる。ほぼ装飾としての符号化は、実質は富裕団の資産増徴の結果であり、「実学」なる東洋語彙が示す最小額での最大成果の学習(それはプラグマティストの姿勢だ)と異質なばかりか目的を異にしている。つまるところ、シェークスピアとディケンズの教養はその獲得に費やされた額のみならずそもそもの出版が、経済学の主要命題たる福祉効果の合理性かそれとも経営学とか商人のてぐすね引きとか呼ばれることも屡々なうまい稼ぎ方のハウツー読本なのかで趣が違う。善良な婦女子に好まれるのがどちらかは今更いうまでもない。ここで私の論破が雄弁に過ぎるとお思いの方は、スペンス氏が巧く最少の努力で最高の符号化を施したことを疑うべきではないだろう。それも伝統に屈せし偉大なる紳士の徳かもしれない。
つまり、私が批評家風の観点からより現実的な理論を提示するなら、逆符号化論、即ち生物学に於けるハンディキャップ理論を人為社会へも少なからず適用した学歴の負担化理論も当然考えられてしかるべきだというのである。この負担は、たとえば上野にある某神社への坂に二種の粋な計らいがあること、つまり男はより険しい道をえらぶことでかえって自らの努力係数を誇示できるという町人なりの道徳は、彼らか彼が同一の結果的仕事を為す上で最少の符号化を練ってからそれを行うとき、企業内合理性ではなく社会福祉の効用面では最大の外部経済に繋がる経験則からきたのだろう。
もし符号化理論が初期投資の不透明や不平等を可視化できていない欠点から、経済学に於ける微視な内的合理化の文法に過ぎないなら、なるほど部分最適化には適うだろうが、これにすなわち負担化理論というものは少なからず有性生物界全般と共有できる巨視の規則をもつことになる。なぜなら学歴ではなく学力を、装飾ではなく質実を、華美なネクタイではなく燻し銀の心意気をより趣味が合うとみなす精神は決して功利性を無視した訳ではないのだ。たとえば不治の病にある少年が希望をみいだすのは生まれながらに最大の初期投資を約束された主ではなく必ずやできるかぎりの配慮を払って努力家の面を隠蔽する側へである。負担化理論の効用の関数はそれが符号の及ぼす企業人事内の心理戦を十分熟慮したものであるが故に、符号化のいやおうない趨勢であるプラグマティズムへの援用、直接には議論ごと回避されるはず努力の価格差を単なる日本的経営の古きよき側面を超えて直属の上司へくりいれさせるだろう。
2009年11月20日
2009年11月19日
神類の想像を超えない論証
世代間変異の向きは、人類にあって今日迄に展開されてきた歴史様相では彼らが国民国家の単位でいかにその暮らしの知的合理化を果たすかで測れるらしいことを省みると、文明論への批判考証としてたとえばレヴィ・ストロースの万民平衡的視野の間にまに、また所謂仏教からきた慈悲の理念は、対する経済という日本語では経世済民なる救世概念の、他方で輸入されたeconomyつまり支配という語趣意との翻訳触媒として生まれたその言葉のもつ意味に於いて、我々にあって西洋圏とも米大陸とも違う一切衆生との福利共生という含みを単なる市場効率をこえて胚胎させる。これは経済を経世済生、即ち世を経て生きものを済 うという一つの日本的な概念へと高める道が、他のどの圏域よりも先に神道の国統を含めて、自然崇拝や自然愛顧の感情的基盤の上に可能であると教える。
芸術、少なくとも古来の意味での藝 るという植栽の術、つまり園 の藝というものはこの達成のためには最も神の命令に忠実なこと、我々がrecreationとよぶ生業が全てもとの神ながらの計画を完成させる唯一の道であるらしいことへ、調和という概念の自然と人為の関係の適度さを穿つ文脈から示唆を加えている。例えば究極の崇高さが自然畏敬への自己反省の念から生ずるという、カントに於ける精神論の本質は、実際にはこの自然という我々以外の全的知能による創造物とみなすほか仮にも解釈の仕様がない無限の宇宙界を、その中で藝に遊ぶべき生き物どもにとっての神からの楽園の恵与として捉えたとき、孔子が最高の完成と考えた人格の境地と同じく又、決して既得人類界にあって理想状態が東西で違うものではないと生来の調和を感じる心情の尊重から、天才論か天性論によって擁護解説する。
十二分に繁栄された経済界が形づくられるなら、それは藝術の商化が一切の人格主義の理想と限りなく一致させられた世界に於いてだろう。そしてその世界では、消費的進化にまつわる生態的上位種の変異も、艸刈り効果の一般解と近似して現実に、各生態系内で異種の多彩化に一役買うのみのものに過ぎないことだろう。が為に、選好の消費序列は人類やその末裔へ向けて、優先種への経済的哺食を肯定させている。だが人類がひとたび競争的飽和で最低でも地上世界の最優先種となってしまえば、既に彼ら自身の過剰消費による、それ以上は殖えられなくなった適所内が終末での過当競争的共食いや資源不足にまつわる絶滅を誘なうだろう。これは戦争や飢饉か恐慌と呼ばれるが、もし彼らの内ある一種か集団が、自然畏怖を維持した結果ほかの群生とは違い藝術の本質的意図に忠実か少なからず肉薄であったなら、その生態は言わば共生的な最適化もしくは適応の隙間効果で当生存ごと保障されゆくだろう。そして我々は人類という生態の侭ならいずれもこの藝術優先種としてしか保存されえないのを観るだろう。最も原理的な狩猟採集か農村共同体として人類の最優先種は僻地に取り残され得る。彼らが哺食される割合は、遠い将来の変化した地球の環境誘因がどれだけ強壮な生態を育むかに依存し、おもとしては寒冷化か品種改良に基づく身体増大と、人類以降の種分岐後の競争力強化の度次第だろう。
全知全能という理念は人類がその容積に依存した知能で万物の創りはじめが有り得ると想像した限りで伝達された理想なのだから、ある民族状態内で最高のかしらが少なくともこの理念に、最も近しい何らかの考えを得るのは確かだ。もしも当仮説を撤廃して世界は創りはじめられたものではない、という近現代物理学の主流を道徳哲学の面へも引用すると、古代ギリシアからカントのいた中世へと流れきた神という絶対の仮定は、このかしらの考えを神秘化したもの、つまり知り得ない事について無知で居るべしという古代哲学の教えが超越論的仮定という概念の枷を彼の理想に填めこんだものだ、と分析する程度が妥当だろう。
以上から考えられるのは、神という仮定に漸近することは実現面で可能なばかりか、それは究極段階では確実視できる未来ということだ。具体例に即せば、知能容積と社会現象ふくむ自然界学習の限度がその侭、彼が神格と自ら名付けた所の彼自身の理想像、要するに知り得ないことなく為し能わないこともない境地への道なのだ。さてこのことは確約できる。人類に留まりたがる者は留まるだろうが、神への道を辿りたがる者はやがて神へ至るであろう。そしてこの両者はいちど道を違えれば永遠に交わらないだろう。進化が系統的であること、まったく同じ種の復活がありえないことは進路選択の失敗か脱落は致命的か宿命的であると教えるのだ。
全宇宙ではつねに有限の向こう側が漸次見つかるという道理は、無限という概念が神内序列を設けることを論証している。上位神と下位神とは理解できる計画量に於いて違いがあるだろう。そしてそれは実質、彼らがどの引力場に引き付けられた星の子かという生まれに依存している。もしある宇宙系での中心圏と周縁圏とをみ比べると、それらの宇宙系ごとの育みうる生斥力の大きさとは別に、周縁圏では計画量が低い代わりに高速な知能すなわち敏捷な形質か高い再生産率をもつ生態が、中心圏ではとてもゆっくりとした育ちだが極めて甚大な計画量をもつ神類が生きているだろう。彼らは人類とは異なる生態と社会か個性の秩序を持っていることが殆どで、この高度さは系統発生の繁雑な経緯に依存する以上、できるだけ大きな銀河団の最も主要な恒星での適度な衛星内でのみ文明化流率に応じた栄えの光を魅せている。
そして我々の将来についていえば、現在観測できる範囲では地球は天の川銀河団の周縁圏に過ぎない様なので、それよりも大きな銀河団の我々が計画量として持っている天体知識の少なさから言って、できるだけ七夕宇宙系の中心圏に近い他の文明場に属する賢者か神格に習う事でこそ今より遥かに進んだ、単一星内人類系統のみでは辿り得ない文化の手法をこの惑星の生態に摂り込めるだろう。地球外への連絡に関して神がその名に値するだけ十分に知能が高ければ自然界の意図からして哺食の必需を超えて異種と争うことは先ず考え難いことから、我々かその精神的末裔にとって少なくとも動物段階か優先種状態を抜け出していない生物間の競争状態にある野種がいると見える場合には、いいかえれば某文明が脱遊藝でない状態らしいならこの種の属する中途文明場か夷狄途上場とは接触しない方がよく、仮に必要があれば確実に一瞬で殲滅か征服できるときだけだろう。結局、脱遊藝とは彼ら又は彼が、理論以外を目的としている集団とは変異の度や集合性に於いて、国民国家以上としてまとまった到達観をみせていることだ。神の目には理論以外は機械の仕事である。生物機械論はこの本能設計面で真なので。当表徴は情報量の珍しさで高い可逆率のゆえ他の一般経済圏や自然的文化より隔絶か遊離しているだろうから、より単純に、文明の整理度とも言いかえられる。藝術がではなく、藝術の中の整理度が神達、随って理論集積の適所として相応しい。
そして全世界を見渡せば想像できるかぎり最上位神というものも、おそらく希望があるだろう。それ、或いは彼のありさまは知能のよさに依存し、全宇宙圏の内もっとも中心に近いどこかの衛星で計画量の極限を支配している。それ、というのは究極全知全能性は我々と最小の類似しかもたないかもしれないから。
芸術、少なくとも古来の意味での
十二分に繁栄された経済界が形づくられるなら、それは藝術の商化が一切の人格主義の理想と限りなく一致させられた世界に於いてだろう。そしてその世界では、消費的進化にまつわる生態的上位種の変異も、艸刈り効果の一般解と近似して現実に、各生態系内で異種の多彩化に一役買うのみのものに過ぎないことだろう。が為に、選好の消費序列は人類やその末裔へ向けて、優先種への経済的哺食を肯定させている。だが人類がひとたび競争的飽和で最低でも地上世界の最優先種となってしまえば、既に彼ら自身の過剰消費による、それ以上は殖えられなくなった適所内が終末での過当競争的共食いや資源不足にまつわる絶滅を誘なうだろう。これは戦争や飢饉か恐慌と呼ばれるが、もし彼らの内ある一種か集団が、自然畏怖を維持した結果ほかの群生とは違い藝術の本質的意図に忠実か少なからず肉薄であったなら、その生態は言わば共生的な最適化もしくは適応の隙間効果で当生存ごと保障されゆくだろう。そして我々は人類という生態の侭ならいずれもこの藝術優先種としてしか保存されえないのを観るだろう。最も原理的な狩猟採集か農村共同体として人類の最優先種は僻地に取り残され得る。彼らが哺食される割合は、遠い将来の変化した地球の環境誘因がどれだけ強壮な生態を育むかに依存し、おもとしては寒冷化か品種改良に基づく身体増大と、人類以降の種分岐後の競争力強化の度次第だろう。
全知全能という理念は人類がその容積に依存した知能で万物の創りはじめが有り得ると想像した限りで伝達された理想なのだから、ある民族状態内で最高のかしらが少なくともこの理念に、最も近しい何らかの考えを得るのは確かだ。もしも当仮説を撤廃して世界は創りはじめられたものではない、という近現代物理学の主流を道徳哲学の面へも引用すると、古代ギリシアからカントのいた中世へと流れきた神という絶対の仮定は、このかしらの考えを神秘化したもの、つまり知り得ない事について無知で居るべしという古代哲学の教えが超越論的仮定という概念の枷を彼の理想に填めこんだものだ、と分析する程度が妥当だろう。
以上から考えられるのは、神という仮定に漸近することは実現面で可能なばかりか、それは究極段階では確実視できる未来ということだ。具体例に即せば、知能容積と社会現象ふくむ自然界学習の限度がその侭、彼が神格と自ら名付けた所の彼自身の理想像、要するに知り得ないことなく為し能わないこともない境地への道なのだ。さてこのことは確約できる。人類に留まりたがる者は留まるだろうが、神への道を辿りたがる者はやがて神へ至るであろう。そしてこの両者はいちど道を違えれば永遠に交わらないだろう。進化が系統的であること、まったく同じ種の復活がありえないことは進路選択の失敗か脱落は致命的か宿命的であると教えるのだ。
全宇宙ではつねに有限の向こう側が漸次見つかるという道理は、無限という概念が神内序列を設けることを論証している。上位神と下位神とは理解できる計画量に於いて違いがあるだろう。そしてそれは実質、彼らがどの引力場に引き付けられた星の子かという生まれに依存している。もしある宇宙系での中心圏と周縁圏とをみ比べると、それらの宇宙系ごとの育みうる生斥力の大きさとは別に、周縁圏では計画量が低い代わりに高速な知能すなわち敏捷な形質か高い再生産率をもつ生態が、中心圏ではとてもゆっくりとした育ちだが極めて甚大な計画量をもつ神類が生きているだろう。彼らは人類とは異なる生態と社会か個性の秩序を持っていることが殆どで、この高度さは系統発生の繁雑な経緯に依存する以上、できるだけ大きな銀河団の最も主要な恒星での適度な衛星内でのみ文明化流率に応じた栄えの光を魅せている。
そして我々の将来についていえば、現在観測できる範囲では地球は天の川銀河団の周縁圏に過ぎない様なので、それよりも大きな銀河団の我々が計画量として持っている天体知識の少なさから言って、できるだけ七夕宇宙系の中心圏に近い他の文明場に属する賢者か神格に習う事でこそ今より遥かに進んだ、単一星内人類系統のみでは辿り得ない文化の手法をこの惑星の生態に摂り込めるだろう。地球外への連絡に関して神がその名に値するだけ十分に知能が高ければ自然界の意図からして哺食の必需を超えて異種と争うことは先ず考え難いことから、我々かその精神的末裔にとって少なくとも動物段階か優先種状態を抜け出していない生物間の競争状態にある野種がいると見える場合には、いいかえれば某文明が脱遊藝でない状態らしいならこの種の属する中途文明場か夷狄途上場とは接触しない方がよく、仮に必要があれば確実に一瞬で殲滅か征服できるときだけだろう。結局、脱遊藝とは彼ら又は彼が、理論以外を目的としている集団とは変異の度や集合性に於いて、国民国家以上としてまとまった到達観をみせていることだ。神の目には理論以外は機械の仕事である。生物機械論はこの本能設計面で真なので。当表徴は情報量の珍しさで高い可逆率のゆえ他の一般経済圏や自然的文化より隔絶か遊離しているだろうから、より単純に、文明の整理度とも言いかえられる。藝術がではなく、藝術の中の整理度が神達、随って理論集積の適所として相応しい。
そして全世界を見渡せば想像できるかぎり最上位神というものも、おそらく希望があるだろう。それ、或いは彼のありさまは知能のよさに依存し、全宇宙圏の内もっとも中心に近いどこかの衛星で計画量の極限を支配している。それ、というのは究極全知全能性は我々と最小の類似しかもたないかもしれないから。
仏
ナニモデキズ
ヒタスラカネヲタメ
ニヘラニヘラトワラツテヰル
ヒガシヘユケバデクノボートヨバレ
ニシニカヱレバブヾヅケドウドストヤラレ
ウマニノレバオチブレ
クーデターヌシイワクラトモミヲソンケイシオサツニシタテ
アラユルテロリストドモヲエイユウシヽテハ
トタンニヒルガエツテミトミツクニコウヲケイアイス
キドツテヒゲヲハヤセバコマラレ
アメカゼニメツポウヨワリ
ホンノナグサメノナヱヲテサギヨウデカリトリ
コンクリヰトノサバクデヒトリダケミドリデカコマレテヰル
サフイウモノニワタシハナリタクナイ
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
ヒタスラカネヲタメ
ニヘラニヘラトワラツテヰル
ヒガシヘユケバデクノボートヨバレ
ニシニカヱレバブヾヅケドウドストヤラレ
ウマニノレバオチブレ
クーデターヌシイワクラトモミヲソンケイシオサツニシタテ
アラユルテロリストドモヲエイユウシヽテハ
トタンニヒルガエツテミトミツクニコウヲケイアイス
キドツテヒゲヲハヤセバコマラレ
アメカゼニメツポウヨワリ
ホンノナグサメノナヱヲテサギヨウデカリトリ
コンクリヰトノサバクデヒトリダケミドリデカコマレテヰル
サフイウモノニワタシハナリタクナイ
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
南無法妙蓮華經
先端工学からの高速道論
高速道路無料化への臆病は、民衆が渋滞を心配するところからくる。なぜならいかなる人間でも只を喜ばないことはないのだ。
もし全てが無料になった世界を想像すればいい。
だから、おもとして渋滞緩和対策を事前に十分考慮しておけば、この決断はすべて結果的には社会に大きな福祉効果を用入る;もちいるだろう。
たとえば船舶や飛行機の熱機関効率がいかに自動車よりも改良の余地が少ないか、いいかえると――鉄道網の上に施設できるピストン輸送機としてのリニアモーターカーを除けば――国内移動の最高速度を容易に達する手段があきらかに、自動車の高速化と高環境効率であるのを、工学者には確実視できる。
(最も進んだ段階ではチューブ状にし内部を真空近似状態にすることで空気摩擦を最小化する様な、「高速道路網の進化」こそ輸送能力向上の現実味の高い未来であるのを疑いえない。
しかしさらに進んだ段階のテクノロジーでは、量子転移という物理的効果を利用した光速度により近い情報解析輸送がこの他に現時点でも十分考えられるが、こちらの実践には人体よりも機械化された身体の方がはるかに再構成の可逆化率にまさるので、いわば人工知能で心理化された、ロボット・プログラムの移動方法にしか決して適合性が高くない。
‥具体的にいうと低次なドラえもん級のプログラムならほぼ瞬間に大距離を輸送可能にはなるだろう。だがのび太級のかなり生態的上位の生物体になると、あまりに転送情報量が多いので空中にチューブ化された高速道路を通った方が単純で速く精確に移動、又は原形のまま別の時空間へ再構築できるはずだ。但しこの例の場合でかなり遠い銀河間規模なら、時間分の費用はほぼ等価となるだろうから除く。)
これらから我々が現日本人の世論を納得させるには、たとえばアウトバーンの様に車線拡張か、それともレインボーブリッジ状に積層させた高速レーンを新たに設けるという「ETC有料版の超高速レーン」を新財政支出としてたくみに経営すること、つまり『超高速路維持計画』を工期上実現可能なレベルで建設国債内で確立できれば、将来インフラへの準備をふくむ景気復元力、を土建屋のコンクリート・マニアさに吹っかけてとりあえず期待できる。
かつ少なくともこの新設レーンではそれが直線状を主義とするのであれば、一般スポーツカーで危険ではない限界速度、おそらく200km超までは許可できるだろう。
…但し、素材としてのコンクリートは持ちが悪い欠点があるので、近未来の建設業ではいわゆるリニアモーターカーの家庭用自動車単位化がとうぜん技術可能性の面から起こりそうなことからも、超高速路の新設路面は強化プラスチックかなんらかの合金がいずれ基礎素材となる。なぜならこの車体は重力に依存して静止するのではないから。よって、進取政権にまつわる今度のコンクリート製の一時拠出金は、それがあるならだが、飽くまで機会費用にすぎない。
つまり、ピラミッド計画者に類比しようとも、このコンクリート版の高速道設置費用を永遠のものだと考えるべきではなく、いずれは「人工地盤」として使える様なできるかぎり土に近い範囲でのみ、いつ造られたものなりとも基盤施設性があるだろうこと、これは以下で詳しく説明できる。
‥もし空中路面といういわゆる脚付き道路をつくれば二世代を超えることなく自然風化し無用のものとなるうえ様々な破壊処理費を負担させられるだろうが、仮に一般のアスファルト舗装と同様にはじめから接地路面に近づけて造っておけば、破壊した石材を上から拘束か打掣:ダセイかしておしかためるだけで、べつの空中に張る新型超高速道を建設する際の足場用の、基礎材の費用をいわゆる世代間の固定資産として人事省力化に援用できることだろう。
もし全てが無料になった世界を想像すればいい。
だから、おもとして渋滞緩和対策を事前に十分考慮しておけば、この決断はすべて結果的には社会に大きな福祉効果を用入る;もちいるだろう。
たとえば船舶や飛行機の熱機関効率がいかに自動車よりも改良の余地が少ないか、いいかえると――鉄道網の上に施設できるピストン輸送機としてのリニアモーターカーを除けば――国内移動の最高速度を容易に達する手段があきらかに、自動車の高速化と高環境効率であるのを、工学者には確実視できる。
(最も進んだ段階ではチューブ状にし内部を真空近似状態にすることで空気摩擦を最小化する様な、「高速道路網の進化」こそ輸送能力向上の現実味の高い未来であるのを疑いえない。
しかしさらに進んだ段階のテクノロジーでは、量子転移という物理的効果を利用した光速度により近い情報解析輸送がこの他に現時点でも十分考えられるが、こちらの実践には人体よりも機械化された身体の方がはるかに再構成の可逆化率にまさるので、いわば人工知能で心理化された、ロボット・プログラムの移動方法にしか決して適合性が高くない。
‥具体的にいうと低次なドラえもん級のプログラムならほぼ瞬間に大距離を輸送可能にはなるだろう。だがのび太級のかなり生態的上位の生物体になると、あまりに転送情報量が多いので空中にチューブ化された高速道路を通った方が単純で速く精確に移動、又は原形のまま別の時空間へ再構築できるはずだ。但しこの例の場合でかなり遠い銀河間規模なら、時間分の費用はほぼ等価となるだろうから除く。)
これらから我々が現日本人の世論を納得させるには、たとえばアウトバーンの様に車線拡張か、それともレインボーブリッジ状に積層させた高速レーンを新たに設けるという「ETC有料版の超高速レーン」を新財政支出としてたくみに経営すること、つまり『超高速路維持計画』を工期上実現可能なレベルで建設国債内で確立できれば、将来インフラへの準備をふくむ景気復元力、を土建屋のコンクリート・マニアさに吹っかけてとりあえず期待できる。
かつ少なくともこの新設レーンではそれが直線状を主義とするのであれば、一般スポーツカーで危険ではない限界速度、おそらく200km超までは許可できるだろう。
…但し、素材としてのコンクリートは持ちが悪い欠点があるので、近未来の建設業ではいわゆるリニアモーターカーの家庭用自動車単位化がとうぜん技術可能性の面から起こりそうなことからも、超高速路の新設路面は強化プラスチックかなんらかの合金がいずれ基礎素材となる。なぜならこの車体は重力に依存して静止するのではないから。よって、進取政権にまつわる今度のコンクリート製の一時拠出金は、それがあるならだが、飽くまで機会費用にすぎない。
つまり、ピラミッド計画者に類比しようとも、このコンクリート版の高速道設置費用を永遠のものだと考えるべきではなく、いずれは「人工地盤」として使える様なできるかぎり土に近い範囲でのみ、いつ造られたものなりとも基盤施設性があるだろうこと、これは以下で詳しく説明できる。
‥もし空中路面といういわゆる脚付き道路をつくれば二世代を超えることなく自然風化し無用のものとなるうえ様々な破壊処理費を負担させられるだろうが、仮に一般のアスファルト舗装と同様にはじめから接地路面に近づけて造っておけば、破壊した石材を上から拘束か打掣:ダセイかしておしかためるだけで、べつの空中に張る新型超高速道を建設する際の足場用の、基礎材の費用をいわゆる世代間の固定資産として人事省力化に援用できることだろう。
2009年11月18日
志の他なにも持たないとして
糞みたいな東京の町で
全国から集まった糞みたいな集会をひらく奴ら
それを蟻みたいに寄ってたかって
ゴミみたいな姦淫罪小説屋都知事を選出し、やることなすこと
お下劣な猥褻物の違法販売だけ。君らが見てる
東京人など、昔っからその程度の生命体だが。
何を美化してんの? 見たこともないくせに
僕は見た。家康に就いた江戸というものの末路を。そして
そこには馬鹿しかいないことを悟った。
消えうせろ
地上で最も低い所に蠢く無数のお荷物どもめ
だが彼の声を聞く者はいない。
世界では権力を振るう愚物類が、次々
戦争で弱者を叩き殺していった。彼は、志の他
なにも持たないとして
次々殺されていく犯罪者を見ながら、皇族が、
権力者と呼ばれる武器を支配した大金持ち共が
いかに俗物かを批判し続けるだろう。
全国から集まった糞みたいな集会をひらく奴ら
それを蟻みたいに寄ってたかって
ゴミみたいな姦淫罪小説屋都知事を選出し、やることなすこと
お下劣な猥褻物の違法販売だけ。君らが見てる
東京人など、昔っからその程度の生命体だが。
何を美化してんの? 見たこともないくせに
僕は見た。家康に就いた江戸というものの末路を。そして
そこには馬鹿しかいないことを悟った。
消えうせろ
地上で最も低い所に蠢く無数のお荷物どもめ
だが彼の声を聞く者はいない。
世界では権力を振るう愚物類が、次々
戦争で弱者を叩き殺していった。彼は、志の他
なにも持たないとして
次々殺されていく犯罪者を見ながら、皇族が、
権力者と呼ばれる武器を支配した大金持ち共が
いかに俗物かを批判し続けるだろう。
政治学
自然的有性生殖という形態がそれ以外の人為よりすぐれる大きな理由は、美醜に関する中庸の規則が働くことだろう。もしこの制限、つまり審美的な選好の潜在された全体規制を撤廃すると、まず極端な速度で系統から大きく異質な形態が生じる中で進化についての目安としての統計的変異を失う。次にこれは、又最も危険なのは寧ろこちらの点だが、部分誇大化の傾向を極端に進める内に先祖との類似点をより多く速く失い、結果としては審美性や能力に関わらず母集団数をへらすのが明らかだろう。
分けても自然的有性生殖での最大の利点は、実はその形質改良の緩やかさにあると思われる。だから共通の遺伝の池をもつ集団が混み合いを相互比較によって促進するという群生のことわりも、この形態にのみ忠実に機能する。
もし母集団数を期待しなくてよい何らかの遺伝変異を誘発するべき場合なら、自然的有性生殖以外の方法は選種の上で幾つもの利点をもつことから正当化できる。要は、意図的品種改良の手段としてのみ愛以外の不自然か人為の配合は遺伝知の上で合理なのだ。人類自身へこの意図が合理的かは結論されていないし、仮に真と認められるとして我々が母集団の数量を一定より保ちたければ必ずや自然的有性生殖、つまり自由恋愛の極めて高い再生産率を社会統計面でも採用したがる。もっと俗なかたちでいえば発情期に繁殖させるのが動物をふやす骨である。
特定集団か階級の経験則や教訓により上記の論証を実現したがる者は、選良化の副産物を推して良かれあしかれ引き受ける。つまり自ずと少数派となる道を辿り再生産率を自主抑制するのだ。一般に、階級化誘引の高い隙間が進化場であると仮定すればこの進歩に逸る一味は、いずれはその他の群生に編入されるのを待つだろう。我々が選良嗜好を例外とみなす訳はここにある。よって社会学の営みの上では貴族政治という特定団の支配権はやはり例外期に当たるので、安定度でいえば民主と皇帝をより選択しがちになる。もし有性生物の発生期に起きたろう系統発生史へ類比すると、最も活発な細胞が精子という多数派内の選良を、また最も鈍重な細胞が卵子という少数派の母体を担った淘汰知の帰結は、社会力学や歴史運動とでもいうべき人類間の性選択(いわば政治淘汰)についても同じかもしれない。
以上から私が結論できるのは、政治社会間には次の経過がつねにくりかえされるだろうことだ。一者は民主化し、他者は皇帝化する。そして進歩した個人を導き出せるのは民主政の自由の下でだから、つねに皇帝政はその新たな集団に征服されるであろう。だがこの中途ではより大きな皇帝権を担うに成功した母集団の数こそが、盤石の地位を占める役割を果たすであろう。もし貴族政治の余地があるならその社会では階級化が進みすぎた為、他のより自由度の高いか群生の数に優る民主か皇帝の権力に支配されゆくであろう。
こういう政治力学が最終的に生み出すのは、最も進歩した自由化の世界と逆に、想像できる限り多数の同一種群生だろう。そして社会進化についていえば、政治の最終目的は一国家という単位でこの系統発生の内部化を完成させることだろう。たとえば、今日では間接選挙による代議制度から始まる一連の手続きでこれを行う全経過が、母集団内で最高の能力をもつ個性を代表として立たせるのを合理とみなす慣習が、如何に国統の象徴を一座の華とも人生不動の目的ともするのかをみるがいい。人類が自らの地位をふりかえればやがて、彼らの内ある者が個性の発生過程の中に上述の内部化、即ちのべ伝えられてきた国統を身に修めているのを知るだろう。そして英雄という古代から最高のものと信じられてきた雄性形質開花の誉れが、いかに自らの欲する原因存在乃至起源として機能したかをまざまざと実証するであろう。
分けても自然的有性生殖での最大の利点は、実はその形質改良の緩やかさにあると思われる。だから共通の遺伝の池をもつ集団が混み合いを相互比較によって促進するという群生のことわりも、この形態にのみ忠実に機能する。
もし母集団数を期待しなくてよい何らかの遺伝変異を誘発するべき場合なら、自然的有性生殖以外の方法は選種の上で幾つもの利点をもつことから正当化できる。要は、意図的品種改良の手段としてのみ愛以外の不自然か人為の配合は遺伝知の上で合理なのだ。人類自身へこの意図が合理的かは結論されていないし、仮に真と認められるとして我々が母集団の数量を一定より保ちたければ必ずや自然的有性生殖、つまり自由恋愛の極めて高い再生産率を社会統計面でも採用したがる。もっと俗なかたちでいえば発情期に繁殖させるのが動物をふやす骨である。
特定集団か階級の経験則や教訓により上記の論証を実現したがる者は、選良化の副産物を推して良かれあしかれ引き受ける。つまり自ずと少数派となる道を辿り再生産率を自主抑制するのだ。一般に、階級化誘引の高い隙間が進化場であると仮定すればこの進歩に逸る一味は、いずれはその他の群生に編入されるのを待つだろう。我々が選良嗜好を例外とみなす訳はここにある。よって社会学の営みの上では貴族政治という特定団の支配権はやはり例外期に当たるので、安定度でいえば民主と皇帝をより選択しがちになる。もし有性生物の発生期に起きたろう系統発生史へ類比すると、最も活発な細胞が精子という多数派内の選良を、また最も鈍重な細胞が卵子という少数派の母体を担った淘汰知の帰結は、社会力学や歴史運動とでもいうべき人類間の性選択(いわば政治淘汰)についても同じかもしれない。
以上から私が結論できるのは、政治社会間には次の経過がつねにくりかえされるだろうことだ。一者は民主化し、他者は皇帝化する。そして進歩した個人を導き出せるのは民主政の自由の下でだから、つねに皇帝政はその新たな集団に征服されるであろう。だがこの中途ではより大きな皇帝権を担うに成功した母集団の数こそが、盤石の地位を占める役割を果たすであろう。もし貴族政治の余地があるならその社会では階級化が進みすぎた為、他のより自由度の高いか群生の数に優る民主か皇帝の権力に支配されゆくであろう。
こういう政治力学が最終的に生み出すのは、最も進歩した自由化の世界と逆に、想像できる限り多数の同一種群生だろう。そして社会進化についていえば、政治の最終目的は一国家という単位でこの系統発生の内部化を完成させることだろう。たとえば、今日では間接選挙による代議制度から始まる一連の手続きでこれを行う全経過が、母集団内で最高の能力をもつ個性を代表として立たせるのを合理とみなす慣習が、如何に国統の象徴を一座の華とも人生不動の目的ともするのかをみるがいい。人類が自らの地位をふりかえればやがて、彼らの内ある者が個性の発生過程の中に上述の内部化、即ちのべ伝えられてきた国統を身に修めているのを知るだろう。そして英雄という古代から最高のものと信じられてきた雄性形質開花の誉れが、いかに自らの欲する原因存在乃至起源として機能したかをまざまざと実証するであろう。
文化論上の善
同一の時間流率を一方が知識あつめに、他方が道徳的内省に費やしたとする。この両者の間には同傾向によって、時間がほぼ同一の引力場内だったとすると進歩と保守の触れ幅が次第にふえる。
もしこの個性が大幅に異質化し、また空間の隔離で変種化を経過したら、種分岐も起こりうるだろう。だから、我々が宗教をもつこと、そしてできるだけあまねく通用するそれをもつことは進化、その連続的過程のうち少なくとも社会内変異の原則的趣味化にとって必須なのだ。つまり人が宗教というやさしげな趣きすら失うならその個性は、道徳の退化に伴う様々な弊害をさける為には特に保守の論理を維持する能率が哲学という手間ひまなしには達せないのを悟り、内省の時間を余分に設けざるをえない。
宗教を無化しようとする社会は知識あつめの能率が阻まれる。いいかえれば学習に遅れる。この論理が真なら、宗教間の学問、つまり文化論はそれが常識化されて恒常値として高いほど当社会の学習能率をよりよくする。
宗教同士の論争や対立は、みな無意味だ。それをする個人は、道徳哲学の上には偽装がありえないこと、最も合理的な社会規則しか真理とは呼べないことをしらない。
もしその個人の道徳が真に迫っているなら、いかなる批判も誹謗と化しかえって自らを傷つける刃となりまったくの無意味に帰す。孟子が云う如く仁者は無敵である。真理は否定しえないこと、正義や美徳といった文面上の概念ですらその部分集合にすぎないことを理解すれば、謙譲という消極的な能力がどうして論破や勝利より時に仁慈の手段なのかも腑に落ちる筈だ。頑なに説教を続けるより自由な成りゆきにまかせ、とりあえず道を譲ることで寧ろ過ちに悟らない、生き急ぐ彼らの自業自得で反省を促すべき場面もある。
もしこの個性が大幅に異質化し、また空間の隔離で変種化を経過したら、種分岐も起こりうるだろう。だから、我々が宗教をもつこと、そしてできるだけあまねく通用するそれをもつことは進化、その連続的過程のうち少なくとも社会内変異の原則的趣味化にとって必須なのだ。つまり人が宗教というやさしげな趣きすら失うならその個性は、道徳の退化に伴う様々な弊害をさける為には特に保守の論理を維持する能率が哲学という手間ひまなしには達せないのを悟り、内省の時間を余分に設けざるをえない。
宗教を無化しようとする社会は知識あつめの能率が阻まれる。いいかえれば学習に遅れる。この論理が真なら、宗教間の学問、つまり文化論はそれが常識化されて恒常値として高いほど当社会の学習能率をよりよくする。
宗教同士の論争や対立は、みな無意味だ。それをする個人は、道徳哲学の上には偽装がありえないこと、最も合理的な社会規則しか真理とは呼べないことをしらない。
もしその個人の道徳が真に迫っているなら、いかなる批判も誹謗と化しかえって自らを傷つける刃となりまったくの無意味に帰す。孟子が云う如く仁者は無敵である。真理は否定しえないこと、正義や美徳といった文面上の概念ですらその部分集合にすぎないことを理解すれば、謙譲という消極的な能力がどうして論破や勝利より時に仁慈の手段なのかも腑に落ちる筈だ。頑なに説教を続けるより自由な成りゆきにまかせ、とりあえず道を譲ることで寧ろ過ちに悟らない、生き急ぐ彼らの自業自得で反省を促すべき場面もある。
2009年11月17日
2009年11月15日
物理学
アインシュタインの万有引力定数
⇔ 8πG/c4 …①
と、質量Mを単位とした調和定数
⇔ G/8π2 …②
から、次の値が導ける。
c4/π ⇔ 光流率
証明。①をG=c4/8πに変形せよ。②をもし掃除分と措くと、G=8π2×掃除分となる。両者は等しい。よって、8π2×掃除分=c4/8π。ここで掃除分のみを一辺へ整理せよ。以上。
この値は、花火効果が最低でもこの七夕宇宙系でいかなる起爆力をもつかの単位となる。なぜなら質量と真空中の光速度とは等価ゆえ。
⇔ 8πG/c4 …①
と、質量Mを単位とした調和定数
⇔ G/8π2 …②
から、次の値が導ける。
c4/π ⇔ 光流率
証明。①をG=c4/8πに変形せよ。②をもし掃除分と措くと、G=8π2×掃除分となる。両者は等しい。よって、8π2×掃除分=c4/8π。ここで掃除分のみを一辺へ整理せよ。以上。
この値は、花火効果が最低でもこの七夕宇宙系でいかなる起爆力をもつかの単位となる。なぜなら質量と真空中の光速度とは等価ゆえ。
極東文化圏の生化学的省察
キリスト教思想の意味の未浸透ならびに生まれながらの不平等を正当化させる天皇権力の主張さえなければ、一切の生活は以前よりも高質で高貴になりうるという心理上の幸福への約束が、つまり世界宗教という偉大な聖者の足跡がいわゆる覇権政治界隈よりも尊い真実のありかである。人知を超越した絶対唯一さの仮定、即ち、神の前では生まれつきの上下はありえない。
朝鮮礼賛戦法
政治の現実は結果が、少なくとも「いかなる過程を経た結果か」がすべてを説明する。いいかえれば手段にしかその現実の的はない。
もし世界平和を実現しても、極悪な手だてによればその政治が安定を樹立するのは難しい。なぜなら敵対勢力を納得させ難いから。
つまり、現実にできる最善の仁慈の手段を取る者こそが最も長期に渡る覇権を敷く筈だ。これは究極論なので、現実に即せばその時代なりの最善さ、たとえば戦国時代なら攻略は最善とみなされたことを理解すべきだ。今日では既にそうではない。
推移する最善さの内、その場その場で最も現実的なものを選択しなければならない。
さて、極東にロシアとの折衝から北朝鮮という疾患部を抱えた継;ままにしておき、将来興るアジア極東の内戦化を将来の利潤込みの軍事介入へ利用しようという意図がどれだけGHQを操る、本土のニューディーラーにあったか。
この真意闡明を未だ有識に頼れないだけ我々の知識収集度がたちおくれた低情報文明状態の老廃政治体制の中では、いわゆる北朝鮮の核開発がもつ実行力の前で、何らかの軍事示威を起こせば途端に憲法九条と矛盾するのを避けえない。
某お坊が盛んに吠えたてるのと違って、もし北朝鮮が自暴自棄の極として排他水域を含む日本国内へ核かそれ以下の威嚇を実践したとすると、即刻この国連内での地位から総攻撃で占領されるのは目に見えている。
つまり、単に日本一国からみれば、北朝鮮を恐れるべき理由はその‘自暴自棄のとばっちり’のみにある。取立作戦を全く事前対策なしに行うと、多少あれ自暴自棄行為の誘発にはなるだろう。
以上と中国の軍事予算の膨張傾向を天秤にかけて将来図を描くと、我々にとって最も好都合な極東展開とは『北と南の朝鮮内乱』を何らかの外交政略によって実行させる、一種の半島文脈の復古調の援用である。
もしこれが北朝鮮への決定打となる偽装した好意の餌付けによって、核カードの矛先の向け換えで実現できれば我々自身は無傷なうえ、米軍出動による内需拡張の好景気が演出できるはずだ。
そしてこの計画が真の文官によってもし十分賢明にまとまるなら、殆ど完全理想主義の遺産である九条の文面を一種の国際保護にあたいする勲章的天然記念物として、未来の国連内での盤石な地位を求める爵位の様なものとしていずれ使える様になるかもしれない。
つまり、この一文で書いておきたかったことは、和平工作のみによってたくみに取立作戦の平和的敢行は可能であるということだ。それは在日朝鮮人らの画策で文化的下流大衆一般の韓流人気が栄える他方では、某国内では排日法が現に存在する様にまったく真逆の嫌悪感がまかり通っている「好悪の非対称さ」を一つの、槍玉の煽情報道に仕立てる道を教えている。
具体的にまとめると、先ず相手の核カードを封鎖するためには非核三原則の建前がなければならない。これさえあれば実質は中性子衝突爆弾理論により複数個の地球規模惑星潰滅以上の技術開発力が現にあろうと、なにも問題はない。なぜなら当然、国連通報で非武装平和主義者の善人組に入れる。
次に、取立作戦の実行にはコツがあって、これは完全に手放しで大韓流ファンの風を装った機密外交官が絶対に不可欠である。この人物は例にもれず酒豪であればいい。しかも北朝鮮も国際的参加をはじめたサッカーファンならなおいい。但し、血統が純倭人でないと朝鮮語の会話時の情にほだされいざとなって微妙に裏切る危険性が高いので在日系や京都系皇族関係者をつかうべきではない。
こうして、勇気ある小泉氏以来の日本人側の北風と太陽文脈をチェンジの世風を逆手にもちいて、戦前については完全反省した豹変と平謝りの風で、両班研究にもとづく「朝鮮人の徹底的礼賛」を数々の古風きわまる儒学の知識を引いていきなり大袈裟に振る舞わせるのだ。
これはいわば大政奉還の前提づくりに等しい。一旦この前提をつくられてしまえば、北朝鮮は韓流にかこつけ親朝化しきった酒盛りで腹を分かち合うことになったひとのいい日本人高官への私情の念から今後、威嚇の悪さを働く大義名分を失うのは確実である。さもなくば取立作戦の前提通りに討幕の密勅を内奏せざるをえなくなり、彼らは無理に敵をつくる独裁内政の建前上、我々のどこかの領海へ示威行動を働くであろう。
(もし我々がこの被害すら避けるつもりなら事前対策が有効だ。それは国内へのかれらの密偵によるテロを徹底的に退けるために韓国籍を装った、朝鮮系の渡来するテロリストを最初から排除するため、空港や港での韓国人の一人一個の国民番号との合致をチェックする鎖韓態勢をはじめから構築しておくのだ。)
そして最後に、この朝鮮礼賛戦法が体よくも巧を奏するなら、完全に大義名分を失った北朝鮮首脳は(主としてはほぼ必ず腐敗する世襲次代の暗愚さがつけいれる隙となるだろう)、つぎの天敵をさがす必要から前方を宗主国に囲まれ一方をもと骨肉の大社会主義圏に往路塞がれ、また唯一の敵視可能で異質なはずの強大自由主義者にも間一髪で友愛の念を押し込まれて窮地に陥り、“南側との大きな格差”をはからずも照準にするほかなくなり、朝鮮人元来の情緒的性格からしてこの挑発は兵役済み韓国内過激派をソウル北で侵略型報復戦争に駆り立てるであろう。
もし世界平和を実現しても、極悪な手だてによればその政治が安定を樹立するのは難しい。なぜなら敵対勢力を納得させ難いから。
つまり、現実にできる最善の仁慈の手段を取る者こそが最も長期に渡る覇権を敷く筈だ。これは究極論なので、現実に即せばその時代なりの最善さ、たとえば戦国時代なら攻略は最善とみなされたことを理解すべきだ。今日では既にそうではない。
推移する最善さの内、その場その場で最も現実的なものを選択しなければならない。
さて、極東にロシアとの折衝から北朝鮮という疾患部を抱えた継;ままにしておき、将来興るアジア極東の内戦化を将来の利潤込みの軍事介入へ利用しようという意図がどれだけGHQを操る、本土のニューディーラーにあったか。
この真意闡明を未だ有識に頼れないだけ我々の知識収集度がたちおくれた低情報文明状態の老廃政治体制の中では、いわゆる北朝鮮の核開発がもつ実行力の前で、何らかの軍事示威を起こせば途端に憲法九条と矛盾するのを避けえない。
某お坊が盛んに吠えたてるのと違って、もし北朝鮮が自暴自棄の極として排他水域を含む日本国内へ核かそれ以下の威嚇を実践したとすると、即刻この国連内での地位から総攻撃で占領されるのは目に見えている。
つまり、単に日本一国からみれば、北朝鮮を恐れるべき理由はその‘自暴自棄のとばっちり’のみにある。取立作戦を全く事前対策なしに行うと、多少あれ自暴自棄行為の誘発にはなるだろう。
以上と中国の軍事予算の膨張傾向を天秤にかけて将来図を描くと、我々にとって最も好都合な極東展開とは『北と南の朝鮮内乱』を何らかの外交政略によって実行させる、一種の半島文脈の復古調の援用である。
もしこれが北朝鮮への決定打となる偽装した好意の餌付けによって、核カードの矛先の向け換えで実現できれば我々自身は無傷なうえ、米軍出動による内需拡張の好景気が演出できるはずだ。
そしてこの計画が真の文官によってもし十分賢明にまとまるなら、殆ど完全理想主義の遺産である九条の文面を一種の国際保護にあたいする勲章的天然記念物として、未来の国連内での盤石な地位を求める爵位の様なものとしていずれ使える様になるかもしれない。
つまり、この一文で書いておきたかったことは、和平工作のみによってたくみに取立作戦の平和的敢行は可能であるということだ。それは在日朝鮮人らの画策で文化的下流大衆一般の韓流人気が栄える他方では、某国内では排日法が現に存在する様にまったく真逆の嫌悪感がまかり通っている「好悪の非対称さ」を一つの、槍玉の煽情報道に仕立てる道を教えている。
具体的にまとめると、先ず相手の核カードを封鎖するためには非核三原則の建前がなければならない。これさえあれば実質は中性子衝突爆弾理論により複数個の地球規模惑星潰滅以上の技術開発力が現にあろうと、なにも問題はない。なぜなら当然、国連通報で非武装平和主義者の善人組に入れる。
次に、取立作戦の実行にはコツがあって、これは完全に手放しで大韓流ファンの風を装った機密外交官が絶対に不可欠である。この人物は例にもれず酒豪であればいい。しかも北朝鮮も国際的参加をはじめたサッカーファンならなおいい。但し、血統が純倭人でないと朝鮮語の会話時の情にほだされいざとなって微妙に裏切る危険性が高いので在日系や京都系皇族関係者をつかうべきではない。
こうして、勇気ある小泉氏以来の日本人側の北風と太陽文脈をチェンジの世風を逆手にもちいて、戦前については完全反省した豹変と平謝りの風で、両班研究にもとづく「朝鮮人の徹底的礼賛」を数々の古風きわまる儒学の知識を引いていきなり大袈裟に振る舞わせるのだ。
これはいわば大政奉還の前提づくりに等しい。一旦この前提をつくられてしまえば、北朝鮮は韓流にかこつけ親朝化しきった酒盛りで腹を分かち合うことになったひとのいい日本人高官への私情の念から今後、威嚇の悪さを働く大義名分を失うのは確実である。さもなくば取立作戦の前提通りに討幕の密勅を内奏せざるをえなくなり、彼らは無理に敵をつくる独裁内政の建前上、我々のどこかの領海へ示威行動を働くであろう。
(もし我々がこの被害すら避けるつもりなら事前対策が有効だ。それは国内へのかれらの密偵によるテロを徹底的に退けるために韓国籍を装った、朝鮮系の渡来するテロリストを最初から排除するため、空港や港での韓国人の一人一個の国民番号との合致をチェックする鎖韓態勢をはじめから構築しておくのだ。)
そして最後に、この朝鮮礼賛戦法が体よくも巧を奏するなら、完全に大義名分を失った北朝鮮首脳は(主としてはほぼ必ず腐敗する世襲次代の暗愚さがつけいれる隙となるだろう)、つぎの天敵をさがす必要から前方を宗主国に囲まれ一方をもと骨肉の大社会主義圏に往路塞がれ、また唯一の敵視可能で異質なはずの強大自由主義者にも間一髪で友愛の念を押し込まれて窮地に陥り、“南側との大きな格差”をはからずも照準にするほかなくなり、朝鮮人元来の情緒的性格からしてこの挑発は兵役済み韓国内過激派をソウル北で侵略型報復戦争に駆り立てるであろう。
2009年11月14日
2009年11月13日
南京大虐殺の独裁者末裔バンザイ
ニートを蔑み亡命躍らすきちがい東京ぢから万歳!
若年失業者の救済がわりに税収で国外追放おどらす東京テレビ特番ヒャッホウ!
和をもって貴しとなし溜め込んだカネで書き付けさせし皇族猥談集はっぴい!
チンの国には批判者などいらぬゆえに今すぐハラキリ特攻イヤッホウッ!
追い込まれ差別されつつ生き抜いた犯罪者蔑視で南京大虐殺の独裁者末裔バンザイ!
若年失業者の救済がわりに税収で国外追放おどらす東京テレビ特番ヒャッホウ!
和をもって貴しとなし溜め込んだカネで書き付けさせし皇族猥談集はっぴい!
チンの国には批判者などいらぬゆえに今すぐハラキリ特攻イヤッホウッ!
追い込まれ差別されつつ生き抜いた犯罪者蔑視で南京大虐殺の独裁者末裔バンザイ!
2009年11月12日
落ち葉
ひとひらの落ち葉の名にも気づかずに想うこゝろの散るのぞをかし
八咫烏 傅く凪ぞちりぬるをひでひらつゝぬ月のおとずれ
可ならずや東のみやこすぎぬるを堅気健気のあき月におぼゝゆる
をりふしのことのなきをそたずねつゝみちのさなかにおとすさけのは
よみしけり冊 の數はいとおほりゐしゐさぬかもしりもせぬまゝ
澱みなき水うち叩く音すればすでに晴れたりさつきの笑みし
可ならずや東のみやこすぎぬるを堅気健気のあき月におぼゝゆる
をりふしのことのなきをそたずねつゝみちのさなかにおとすさけのは
よみしけり
澱みなき水うち叩く音すればすでに晴れたりさつきの笑みし
2009年11月11日
理屈の効用
世界で最も最初に神の概念を発見した者はそれが及ぼす驚異的な伝播能率の為に、彼自身の知的上位性を預言者という形で保存したがった筈だ。もしこの試みに世継ぎで成功すれば神官階級を独占できた筈で、現に、幾つかの地域ではいまだこの名残りが実在する。ユダヤ教徒、バラモン教徒、そして神道 教徒は土着性の強い姿で残った神官階級の末裔である。彼らの始祖は属した共同体の部派闘争を鎮める方便に、理解不能性の比喩として神概念を用いることを思い付いた。絶対唯一神、汎多神、一族神などの地域風土に由来した多種多様さはあれ、どれも超越概念を確信として伝播することでは同じである。
もし人類内社会が超越概念による人心掌握の業を既に今日的でないと見なすほど進歩した知性を確保すれば、しかもそれは社会であればこそ多数必要だが、彼らの一派は確かに世界宗教を終った試みとして伝統芸能面でしか省みなくなるだろう。具体的には、政治と宗教の関係は完全に分割され、二度と接触しなくなるだろう。なぜなら狂信以外の合理的方法で協力可能な群生は、確実により知的な集団関係の処理を可能にする。だが最も伝統的な方法としての信仰による教化は、最後まで原理主義群での基調となるに違いない。この方法の利点は戦争目的の正当化を熱狂によって確保できること、いいかえれば説得の省略にある。ゆえに生態が知性を保有したがらないほど、理屈抜きに一致団結できる宗教的群生は神官長の独裁に理想的となるのだ。
今日考えられる限り最も協力行動にとり合理的なのは、共通の利害をまとめこんだ理念への帰依を誘なうことと考えられている。たとえば民衆政治とか自由主義は最も先進国内現代人らの間で好んでいる文化素だと言える。仮に真偽が危うい場合でも、理念はいくつもの知的省力を施した単純化された考え方なので、少なくとも強い内省力をもたない個性らの行動を一定の型で支配するのに急速である。
主義とか思想と呼ばれている各種の考え方は、結局それが政治結社をまとめるのに役立つ限りで使える実用の手段であり、究極の真理ではおそらくない。もし究極の真理とよぶべき目あてがあるとして、それは人類が研究肌なら分かる様、無際限に細分も拡大もできる自然界の果てしなさ即ち無限への知的解析による永遠の接近過程だけだろう。最小の単位も最大の単位も人類の限られた大きさと生存期間内の知能には永久に確定できないだろう。つまり、超越概念の段階的仮設による漸進的な理解と微積にしか知性本来の意図はない。これが教えるのは、最高の理念というプラトンの考えは原則として当為だが、現実には実在ではないということだ。だから理想するという知的機能の哲学性の中にしか本当の神聖さが宿る余地はない。さてこれがどうして哲学の結果が政治行動に引用されがちなのかを示した理由であった。この真理探求のせめてもの仮設物としての理念という結晶は、大変に利用価値の高い説得力をもつ合理性集積の進んだ滋養分なので、単にそれを先にひそかに確保して神官や預言者を大勢へふるまえばたとえ自らが考えついた考えでなくとも、無知な人間を帰依させるのは比較して容易である。この説得効果は理念の超越概念化が緻密に進めば進むほど高まる。神の概念がかつて旧世界を席巻した様に、真理への集積された理論的発見の漸近が進んでいればいるほど、知能の高さの誇示としての理念価は同類説得による支配力をもつ。以上から推論できるのは、学者の多い集団は理屈の効用によって支配圏を広げるといういわば戦争行為による征服の常識とは正反対の、社会的因果の真相だろう。碩学が多ければ多いほどその集団の協力に入り込む知的順位制は複合される傾向があるので、最も原始的で単純な超越概念素である神への帰依のみに留まった一群よりはるかに、内的知能指数を変異づけうる。だから政治家は、少なくとも完璧な勝利を収めるつもりのある政治家は一時の征服ではなく、決定的理屈を志すべきなのだ。もし理屈で劣る様なら征服を試みるべきでない。なぜなら相手の知能の方が優っている以上、たとえ一見した武威によって相手が攻撃のそぶりを収めたとしても結局は機を看て逆襲され最終的勝利を奪われる。しかし裏をとれば理屈で劣る相手は征服可能だと言える以上、この秘伝じみた権威をいわゆる能ある鷹の風で決して無用に振るまい歩くべきでないのが明らかである。つまり達人剣術の様に、知己の過剰な誇示はその派手さの為に無駄な威嚇の結果を不可避に伴うので、特に国家単位では警戒心を誘い、包囲網を敷かれる場面がとても多い。威嚇は怯えた者の武器であり、自重は思慮深い者のそれである。ところで強すぎる自尊心のため普段から部下へ無益な叱咤を好んでいた者は自らが真の上位者になった頃、いつどこから裏切り者が現れるかしれずにつねに警戒心をゆるめられない。こうして実際に訪れた高位での自由の能率が阻害される。
だから、政治家がもし相手の才能を見抜きたければ、その人物がどの程度理に屈強かを注意深く観察せよ。もしこの才覚が誇示の装飾を取りのぞいても本心から劣る様なら相手を何れ平定できる。しかしどういう擬態にも関わらず決して軽視できない程なら、その時は相手を侮る代わりに同盟を結ぶか又は服属するがいい。こうすることで地位秩序の中で最も有利な位置どりを、実際の衝突以前に最小の被害で続けることができる。無闇に利口ぶる者が本当に賢かった試しはない、或いは聞き齧りは怪我の素とは兵法以外にもあてはまる諺である。もし彼が十分畏いなら臣下忠実な批判者の立場に留まり、いずれ孤軍では戦えない仲間の軽蔑を後から態々買う様な一芝居を打つ必要はない。これがなぜ多くの役者を儲ける芸能界では道化と俳優が違う職分をもつかの訳だろう、彼らが共におのが個性を誇示するにせよ。
もし人類内社会が超越概念による人心掌握の業を既に今日的でないと見なすほど進歩した知性を確保すれば、しかもそれは社会であればこそ多数必要だが、彼らの一派は確かに世界宗教を終った試みとして伝統芸能面でしか省みなくなるだろう。具体的には、政治と宗教の関係は完全に分割され、二度と接触しなくなるだろう。なぜなら狂信以外の合理的方法で協力可能な群生は、確実により知的な集団関係の処理を可能にする。だが最も伝統的な方法としての信仰による教化は、最後まで原理主義群での基調となるに違いない。この方法の利点は戦争目的の正当化を熱狂によって確保できること、いいかえれば説得の省略にある。ゆえに生態が知性を保有したがらないほど、理屈抜きに一致団結できる宗教的群生は神官長の独裁に理想的となるのだ。
今日考えられる限り最も協力行動にとり合理的なのは、共通の利害をまとめこんだ理念への帰依を誘なうことと考えられている。たとえば民衆政治とか自由主義は最も先進国内現代人らの間で好んでいる文化素だと言える。仮に真偽が危うい場合でも、理念はいくつもの知的省力を施した単純化された考え方なので、少なくとも強い内省力をもたない個性らの行動を一定の型で支配するのに急速である。
主義とか思想と呼ばれている各種の考え方は、結局それが政治結社をまとめるのに役立つ限りで使える実用の手段であり、究極の真理ではおそらくない。もし究極の真理とよぶべき目あてがあるとして、それは人類が研究肌なら分かる様、無際限に細分も拡大もできる自然界の果てしなさ即ち無限への知的解析による永遠の接近過程だけだろう。最小の単位も最大の単位も人類の限られた大きさと生存期間内の知能には永久に確定できないだろう。つまり、超越概念の段階的仮設による漸進的な理解と微積にしか知性本来の意図はない。これが教えるのは、最高の理念というプラトンの考えは原則として当為だが、現実には実在ではないということだ。だから理想するという知的機能の哲学性の中にしか本当の神聖さが宿る余地はない。さてこれがどうして哲学の結果が政治行動に引用されがちなのかを示した理由であった。この真理探求のせめてもの仮設物としての理念という結晶は、大変に利用価値の高い説得力をもつ合理性集積の進んだ滋養分なので、単にそれを先にひそかに確保して神官や預言者を大勢へふるまえばたとえ自らが考えついた考えでなくとも、無知な人間を帰依させるのは比較して容易である。この説得効果は理念の超越概念化が緻密に進めば進むほど高まる。神の概念がかつて旧世界を席巻した様に、真理への集積された理論的発見の漸近が進んでいればいるほど、知能の高さの誇示としての理念価は同類説得による支配力をもつ。以上から推論できるのは、学者の多い集団は理屈の効用によって支配圏を広げるといういわば戦争行為による征服の常識とは正反対の、社会的因果の真相だろう。碩学が多ければ多いほどその集団の協力に入り込む知的順位制は複合される傾向があるので、最も原始的で単純な超越概念素である神への帰依のみに留まった一群よりはるかに、内的知能指数を変異づけうる。だから政治家は、少なくとも完璧な勝利を収めるつもりのある政治家は一時の征服ではなく、決定的理屈を志すべきなのだ。もし理屈で劣る様なら征服を試みるべきでない。なぜなら相手の知能の方が優っている以上、たとえ一見した武威によって相手が攻撃のそぶりを収めたとしても結局は機を看て逆襲され最終的勝利を奪われる。しかし裏をとれば理屈で劣る相手は征服可能だと言える以上、この秘伝じみた権威をいわゆる能ある鷹の風で決して無用に振るまい歩くべきでないのが明らかである。つまり達人剣術の様に、知己の過剰な誇示はその派手さの為に無駄な威嚇の結果を不可避に伴うので、特に国家単位では警戒心を誘い、包囲網を敷かれる場面がとても多い。威嚇は怯えた者の武器であり、自重は思慮深い者のそれである。ところで強すぎる自尊心のため普段から部下へ無益な叱咤を好んでいた者は自らが真の上位者になった頃、いつどこから裏切り者が現れるかしれずにつねに警戒心をゆるめられない。こうして実際に訪れた高位での自由の能率が阻害される。
だから、政治家がもし相手の才能を見抜きたければ、その人物がどの程度理に屈強かを注意深く観察せよ。もしこの才覚が誇示の装飾を取りのぞいても本心から劣る様なら相手を何れ平定できる。しかしどういう擬態にも関わらず決して軽視できない程なら、その時は相手を侮る代わりに同盟を結ぶか又は服属するがいい。こうすることで地位秩序の中で最も有利な位置どりを、実際の衝突以前に最小の被害で続けることができる。無闇に利口ぶる者が本当に賢かった試しはない、或いは聞き齧りは怪我の素とは兵法以外にもあてはまる諺である。もし彼が十分畏いなら臣下忠実な批判者の立場に留まり、いずれ孤軍では戦えない仲間の軽蔑を後から態々買う様な一芝居を打つ必要はない。これがなぜ多くの役者を儲ける芸能界では道化と俳優が違う職分をもつかの訳だろう、彼らが共におのが個性を誇示するにせよ。
2009年11月10日
昔話
野ざらしになった死体の山の上でその
南蛮夷狄は僕らの先祖を賊あつかいした。
なにもできず腐敗していく息子の死体の前で、侍は
必ず復仇を誓った。なにひとつ大義のない
邪悪な、テロリストども
蛆が湧いたひ孫の死体が置いてある山を
毎晩狂った様に拝んでいるお婆様は、いまさら
天に、なにを願った? 純真な忠義の志の前で
旗振りを誤った京都土人、
便乗し、あからさまに裏切った南蛮俗物ども。
貴様らを永久に赦さない
将軍を恥辱で染めた官人は、外人から貰った拳銃を裏の手に
なんの弁別もない痴呆同然の麿連中を手玉に取る。
それが大昔から京都の文法だったのだ
話してわかる相手ではない。渡来した大陸の血族だ
空を迂回する
幾羽ものカラスが、赤紫に染まる夕暮れ空に舞う。
奴らの死肉を啄みきるまで、真実を知っている僕達は
貴様ら官佞どもをどこまでも追い詰めるだろう
南蛮夷狄は僕らの先祖を賊あつかいした。
なにもできず腐敗していく息子の死体の前で、侍は
必ず復仇を誓った。なにひとつ大義のない
邪悪な、テロリストども
蛆が湧いたひ孫の死体が置いてある山を
毎晩狂った様に拝んでいるお婆様は、いまさら
天に、なにを願った? 純真な忠義の志の前で
旗振りを誤った京都土人、
便乗し、あからさまに裏切った南蛮俗物ども。
貴様らを永久に赦さない
将軍を恥辱で染めた官人は、外人から貰った拳銃を裏の手に
なんの弁別もない痴呆同然の麿連中を手玉に取る。
それが大昔から京都の文法だったのだ
話してわかる相手ではない。渡来した大陸の血族だ
空を迂回する
幾羽ものカラスが、赤紫に染まる夕暮れ空に舞う。
奴らの死肉を啄みきるまで、真実を知っている僕達は
貴様ら官佞どもをどこまでも追い詰めるだろう
2009年11月9日
婚姻制度について
私は嘗て多少あれ社会生物学の知識から、一国内での種的多様化を図る意図で場所毎に多妻制も容認すべきかもしれないと考えた時があった。具体的にはイスラム教の勉強をした時に、その戦闘行動への高い適性を見いだして武士道と呼ばれてきた旧日本人の道徳観に於ける‘命の軽視’との共通項を見つけあげたことによる。
だが総合して勘案すると、もしこの婚姻制度に於ける制限解除を行うと、全体としての国内では内的増加率の過剰による種分岐の偏りの方が起きそうに思えた。なぜなら、実際には日陰者という名目の元で、現行の民法内でも認知されない非嫡子の存在は完全に抹殺された訳ではないのである。
いいかえれば、建前としての一妻制度はやはりどの様な場合でも、人類に於ける熱帯圏適応のさなかですら高い家庭秩序、特に幼児教育環境の安寧には基本となるということを見いだした。
これは世俗派救世主教の教義の中ですら、現実には制度のゆとりが存在する示し合わせなので、社会風紀という温帯での基礎を鑑みる限り「一妻制の維持堅持」には必然性があると考えた方が、全体としての成員間の種的多様化には余程優れる、という推論結果につながる。
内的増加率以外の行動も擁護されるにはその種への艸刈り効果がなければならない。だから法律がこの『非嫡子』という概念を維持することには知的社会内有用性がある。
もしも日本国民が分派を許すなら、具体的にその性向が最も見受けられそうなのは冷厳な知的風習には伝来事欠くらしい九州圏だが、地方自治内で条例上の法的解除を工夫し、非嫡子概念を現西洋諸国の如く破棄できる可能性か危険はある。
具体的には回教徒の流入が東南アジアとの経済協力中途に進む中で当然、薩長同盟以来の政治的急進性の擁護の性癖の為に直接国政へかれらを参画させたがる中でもこの、浅ましい隼人風紀の国法化を隙あらば狙わせるだろう。
だがこれに協賛しそうな性悪か商売繁盛第一な渡来系血縁である近畿人一群を除けば、在来の日本人種は過半数を超えてあしき独善政治屋一類を除き、元々のきまじめな習性から大勢に於いて上述の熱帯圏最適応の退化を望まない。
よって本土と下関海峡とを「国防の関所」としてその人種の間行を原則閉鎖か通行料によって大幅に塞き止め、政治過信の風習を促進したがる九州一島と概念の垣によってきりはなすことによってのみ、上記の野望は実現性があるだろう。
但し、それでも一国二制度を統制領域の減耗ならず過度の内乱誘引変異による中枢国力弱体化の因果と悟る官史がいれば、関東圏に重しのある武力又は知謀による鎮圧か威嚇によって九州勢の急進をよく封じ込める手立てが東アジアの商圏的一帯化事前に考じられておく可である。
より直接には、何らかの党派内策謀による西郷像の取り壊しや目立たず人目につかない美術倉庫への移転、九州圏の危険な経済力の致命的減衰を謀るべく原子力やメタンはじめ各種大規模発電所の非設置や取り壊しと国策による新興の原則回避、特に目先の利害に動きやすい長州と確実に分断する為に山口県側へ監視用の新設太宰府(九州監視府、又は本土府)の設置、並びに薩英戦争の顛末を重く看て武器への転用が最も及び易い現九州大学への福祉税配分の大幅見直しが考えられる。
これらをどれも行っても決して本土に損失はないばかりか、政治的急進派の来る爛熟阻止を可能とし、本国の知的風土の減殺(要するに日米開戦までの自壊暴力団ルートを誘導した知的に劣る層の国政支配に応ずる自滅大敗という最悪の二の舞)を未然に防止し、もとい擁護さるべき理知高い各穏健派をありうる南蛮風俗伝来の聞き及ぶ悪影響から満足できるかなりの分保護し、結果、当決断は本国の高貴な文明度をより長く守る役割を果たすであろう。
だが総合して勘案すると、もしこの婚姻制度に於ける制限解除を行うと、全体としての国内では内的増加率の過剰による種分岐の偏りの方が起きそうに思えた。なぜなら、実際には日陰者という名目の元で、現行の民法内でも認知されない非嫡子の存在は完全に抹殺された訳ではないのである。
いいかえれば、建前としての一妻制度はやはりどの様な場合でも、人類に於ける熱帯圏適応のさなかですら高い家庭秩序、特に幼児教育環境の安寧には基本となるということを見いだした。
これは世俗派救世主教の教義の中ですら、現実には制度のゆとりが存在する示し合わせなので、社会風紀という温帯での基礎を鑑みる限り「一妻制の維持堅持」には必然性があると考えた方が、全体としての成員間の種的多様化には余程優れる、という推論結果につながる。
内的増加率以外の行動も擁護されるにはその種への艸刈り効果がなければならない。だから法律がこの『非嫡子』という概念を維持することには知的社会内有用性がある。
もしも日本国民が分派を許すなら、具体的にその性向が最も見受けられそうなのは冷厳な知的風習には伝来事欠くらしい九州圏だが、地方自治内で条例上の法的解除を工夫し、非嫡子概念を現西洋諸国の如く破棄できる可能性か危険はある。
具体的には回教徒の流入が東南アジアとの経済協力中途に進む中で当然、薩長同盟以来の政治的急進性の擁護の性癖の為に直接国政へかれらを参画させたがる中でもこの、浅ましい隼人風紀の国法化を隙あらば狙わせるだろう。
だがこれに協賛しそうな性悪か商売繁盛第一な渡来系血縁である近畿人一群を除けば、在来の日本人種は過半数を超えてあしき独善政治屋一類を除き、元々のきまじめな習性から大勢に於いて上述の熱帯圏最適応の退化を望まない。
よって本土と下関海峡とを「国防の関所」としてその人種の間行を原則閉鎖か通行料によって大幅に塞き止め、政治過信の風習を促進したがる九州一島と概念の垣によってきりはなすことによってのみ、上記の野望は実現性があるだろう。
但し、それでも一国二制度を統制領域の減耗ならず過度の内乱誘引変異による中枢国力弱体化の因果と悟る官史がいれば、関東圏に重しのある武力又は知謀による鎮圧か威嚇によって九州勢の急進をよく封じ込める手立てが東アジアの商圏的一帯化事前に考じられておく可である。
より直接には、何らかの党派内策謀による西郷像の取り壊しや目立たず人目につかない美術倉庫への移転、九州圏の危険な経済力の致命的減衰を謀るべく原子力やメタンはじめ各種大規模発電所の非設置や取り壊しと国策による新興の原則回避、特に目先の利害に動きやすい長州と確実に分断する為に山口県側へ監視用の新設太宰府(九州監視府、又は本土府)の設置、並びに薩英戦争の顛末を重く看て武器への転用が最も及び易い現九州大学への福祉税配分の大幅見直しが考えられる。
これらをどれも行っても決して本土に損失はないばかりか、政治的急進派の来る爛熟阻止を可能とし、本国の知的風土の減殺(要するに日米開戦までの自壊暴力団ルートを誘導した知的に劣る層の国政支配に応ずる自滅大敗という最悪の二の舞)を未然に防止し、もとい擁護さるべき理知高い各穏健派をありうる南蛮風俗伝来の聞き及ぶ悪影響から満足できるかなりの分保護し、結果、当決断は本国の高貴な文明度をより長く守る役割を果たすであろう。
皇国
あたしみたいな奇形女でもいきのこれる様に
家族なんかぶっつぶして、イケメンふやしなさいよ、と
その陸でもない関西系東京人は言った。江戸の末裔。
死ねばいい
だれもが生き残るのに必死だ
肩書ほしさに腐るほどある大学に通い、落とすのは
碌でもない江戸人の末路だけ。都知事!
もっともっと猥褻女優へ淫行勧誘罪で繁栄して下さい!
死ねばいい
やくざの親玉は民衆を見下しながらアジアを恣にした
生きている価値があるのか? 芸者ジャップ
極東の奇形児どもよ? ハラキリ侍民族が、
世界中で中華民族の蔭に隠れて繁殖しまくる。お前ら
死ねばいいのに
碌もない関西人が世界中に姦淫小説をばらまき続ける
ごみ民族ジャップ。金もうけと安物廉売と、変態アニメにしか
才能がないのはわかったから、はやく死んでくれ。
もうお前らの品性下劣さはだれも見たくない。都知事!
奴隷制げす天皇様を崇拝して発狂してください!
死ねばいい。
だれも貴様らなど、好む者はない。神の裁きに従うのだ。
魂の歪んだ首長を持つ無神論者どもが
家族なんかぶっつぶして、イケメンふやしなさいよ、と
その陸でもない関西系東京人は言った。江戸の末裔。
死ねばいい
だれもが生き残るのに必死だ
肩書ほしさに腐るほどある大学に通い、落とすのは
碌でもない江戸人の末路だけ。都知事!
もっともっと猥褻女優へ淫行勧誘罪で繁栄して下さい!
死ねばいい
やくざの親玉は民衆を見下しながらアジアを恣にした
生きている価値があるのか? 芸者ジャップ
極東の奇形児どもよ? ハラキリ侍民族が、
世界中で中華民族の蔭に隠れて繁殖しまくる。お前ら
死ねばいいのに
碌もない関西人が世界中に姦淫小説をばらまき続ける
ごみ民族ジャップ。金もうけと安物廉売と、変態アニメにしか
才能がないのはわかったから、はやく死んでくれ。
もうお前らの品性下劣さはだれも見たくない。都知事!
奴隷制げす天皇様を崇拝して発狂してください!
死ねばいい。
だれも貴様らなど、好む者はない。神の裁きに従うのだ。
魂の歪んだ首長を持つ無神論者どもが
2009年11月7日
高速無料化の迂直
高速道路の一律無料化への非難がしばしばみられるが、この貴重な社会基盤の補修費や適宜増設にかなうのにあわせて、通行料の維持や増幅が必要なのは普段から渋滞が起こっている地点と減価償却が済んでいない有料道路についてだろう。
いいかえれば「迂回税(ロード・プライシング)」は所々の要所では必然だし、有用だみとめられる。これは計算実地に即して勘案すべきだろう。
いいかえれば「迂回税(ロード・プライシング)」は所々の要所では必然だし、有用だみとめられる。これは計算実地に即して勘案すべきだろう。
2009年11月6日
土建票閥の害悪
参議院予算委員会中、自民党内の利権癒着議員による詭弁あり。いわくへんてこな標語をつかったことをコンクリート業者に誤れと。
コンクリートの為に人がいるのではない。場合によっては、人の為になんらかの建材が要るのである。つまり『コンクリートから人へ』という首相の見識は、やみくもな土建票癒着でなあなあやってきた自民党閥公共事業対象の見直しの標語としてはまことに正しい。
石鍋のごときヒートアイランド化の原因と大規模建設産業の排出する異常に大量なCO_2の及ぼす全地球的害悪は、‘無軌道なコンクリート詰め都市化’にあるのは火をみるより明らかだ。
政治家の仕事は公共奉仕であり、建設業のごとき目先の利潤に奢った破滅型新興開発への追従ではない。
土建屋と癒着した悪徳党員はおおやけに迫害排斥しても何一つ国民の目の前の公正透明な討議審判上、問題は起きないだろう。
公務員は「全体の奉仕者」であり、決して自民党員を裏からあやつる悪徳土建屋どもの、やくざじみた金儲け威嚇の傀儡であってはならない。
コンクリートの為に人がいるのではない。場合によっては、人の為になんらかの建材が要るのである。つまり『コンクリートから人へ』という首相の見識は、やみくもな土建票癒着でなあなあやってきた自民党閥公共事業対象の見直しの標語としてはまことに正しい。
石鍋のごときヒートアイランド化の原因と大規模建設産業の排出する異常に大量なCO_2の及ぼす全地球的害悪は、‘無軌道なコンクリート詰め都市化’にあるのは火をみるより明らかだ。
政治家の仕事は公共奉仕であり、建設業のごとき目先の利潤に奢った破滅型新興開発への追従ではない。
土建屋と癒着した悪徳党員はおおやけに迫害排斥しても何一つ国民の目の前の公正透明な討議審判上、問題は起きないだろう。
公務員は「全体の奉仕者」であり、決して自民党員を裏からあやつる悪徳土建屋どもの、やくざじみた金儲け威嚇の傀儡であってはならない。
食料製品の情報量付加論
その考え方がどの時制で伝えられるかとは別に、島国では総生産量の絶対的不足から汎用品需要は最終的に全面輸入化するという法則(卸し価格の大陸依存法則)は同時に、内国での既存の汎用品目がいわゆるブランド化、銘柄つき特産品化によってしかその侭では生き残らない将来を予見させている。
具体的な食料品市場に即していうと、農産物が地産地消を直接消費の的とするのは、輸送費分の購買量の関係から島国内では真であるケースが殆どだろう。例えば薩摩芋やジャガ芋、砂糖黍と甜菜の有効需要が国内のどの地方で最も大きいか、つまりどこで食べられているかをみればよい。人類もまた農耕文化を引きずる土地の子である間には、土地に独特の作物を食する中でこそ地方独特の形質や性格が育ってくる。
ところで食品産業の中には加工や料理の分野がある。そして上述の特産品を最も決定づける方法として正統なのは、この加工や料理の方法論を秘伝か技法として確立することによる。農産物(ここでは魚介類や栽培した自然作物を含む概念とする)を地産地消という土地定着の概念から大きく引き離してもなおも新品係数を保ち続けるのは、この食品化の方法論にもとづく。なぜならその製品情報量が他の土地ではまねがたい何らかの工夫によっている場合、更にこの工夫が気候と文化という土地の特徴を拡大させて示す場合の誇示効果は指数関数的に増大するが、明らかに当製品の珍しさは農産物の価格を販売用付加価値として増大させる。
例にとれば京都産の八ッ橋、茨城産のほしいも、北海道産の白い恋人、こういった土地独特の製法に基づいた作物はいわば食料の作品であり、その地方文化に特有の性格を伝統の品性とか素朴な感性とか巧妙な計算とかへ結晶させている点では、単なるなまの収穫物そのものの販売よりずっと特産品化の正道となる。そして日本の様に海洋を除く農地面積そのものが大陸平原国に比べれば絶対的に不足している環境条件のなかでその土地生産性を所得面から高度化しようと努力すれば、いかなる内陸的量産ともことなり、この様な食品加工の技術的な多岐多彩に生き残りの戦略を図るしかないと思われる。お米に於いても地方の気候に即した品種改良によって、たとえばミルキィークイーンとササニシキでは味から粘りまでまったく質に違いが出せるとすれば、この食料作品化の工夫が特産物の文化的製造の中へ十分活かされた結果だと言える。こういう製品が既存及び開拓された農産物の生産力の上に多数かつ多彩につくられることになれば、いくら狭い国土であっても輸出に堪える堅調で先行き明るい食料品市場はどこまでも豊富につくられうるのである。
更に、もしサービスとしての料理の振る舞い分野もこの作品化の意図の内に組み込めるなら、たとえばきりたんぽを鍋で囲んで食べさせる秋田式の田舎農家風料亭とか香川式に立ちながら素うどんを啜る庶民派簡易食堂とか、築地市場に程近い江戸前式の高級懐石寿司屋とか、地方の特産品をくみあわせつつ土地勘のよさによって最適化した経営を適宜はやらせれば、それ自体が食品の特産性をさらに強調する役に立つ。
掛け替えの効かない情報量の高さを食事経験の一回性の演出で果たすなら、いわば食道楽化でその料理へ期待できる減価償却後付加価値はおよそぐっと強化されるだろう。
具体的な食料品市場に即していうと、農産物が地産地消を直接消費の的とするのは、輸送費分の購買量の関係から島国内では真であるケースが殆どだろう。例えば薩摩芋やジャガ芋、砂糖黍と甜菜の有効需要が国内のどの地方で最も大きいか、つまりどこで食べられているかをみればよい。人類もまた農耕文化を引きずる土地の子である間には、土地に独特の作物を食する中でこそ地方独特の形質や性格が育ってくる。
ところで食品産業の中には加工や料理の分野がある。そして上述の特産品を最も決定づける方法として正統なのは、この加工や料理の方法論を秘伝か技法として確立することによる。農産物(ここでは魚介類や栽培した自然作物を含む概念とする)を地産地消という土地定着の概念から大きく引き離してもなおも新品係数を保ち続けるのは、この食品化の方法論にもとづく。なぜならその製品情報量が他の土地ではまねがたい何らかの工夫によっている場合、更にこの工夫が気候と文化という土地の特徴を拡大させて示す場合の誇示効果は指数関数的に増大するが、明らかに当製品の珍しさは農産物の価格を販売用付加価値として増大させる。
例にとれば京都産の八ッ橋、茨城産のほしいも、北海道産の白い恋人、こういった土地独特の製法に基づいた作物はいわば食料の作品であり、その地方文化に特有の性格を伝統の品性とか素朴な感性とか巧妙な計算とかへ結晶させている点では、単なるなまの収穫物そのものの販売よりずっと特産品化の正道となる。そして日本の様に海洋を除く農地面積そのものが大陸平原国に比べれば絶対的に不足している環境条件のなかでその土地生産性を所得面から高度化しようと努力すれば、いかなる内陸的量産ともことなり、この様な食品加工の技術的な多岐多彩に生き残りの戦略を図るしかないと思われる。お米に於いても地方の気候に即した品種改良によって、たとえばミルキィークイーンとササニシキでは味から粘りまでまったく質に違いが出せるとすれば、この食料作品化の工夫が特産物の文化的製造の中へ十分活かされた結果だと言える。こういう製品が既存及び開拓された農産物の生産力の上に多数かつ多彩につくられることになれば、いくら狭い国土であっても輸出に堪える堅調で先行き明るい食料品市場はどこまでも豊富につくられうるのである。
更に、もしサービスとしての料理の振る舞い分野もこの作品化の意図の内に組み込めるなら、たとえばきりたんぽを鍋で囲んで食べさせる秋田式の田舎農家風料亭とか香川式に立ちながら素うどんを啜る庶民派簡易食堂とか、築地市場に程近い江戸前式の高級懐石寿司屋とか、地方の特産品をくみあわせつつ土地勘のよさによって最適化した経営を適宜はやらせれば、それ自体が食品の特産性をさらに強調する役に立つ。
掛け替えの効かない情報量の高さを食事経験の一回性の演出で果たすなら、いわば食道楽化でその料理へ期待できる減価償却後付加価値はおよそぐっと強化されるだろう。
音楽産業の転回
現音楽産業の致命的な冷え込みの訳は、海外市場への最適化に急きすぎて、基盤構造だったCDのダビングを直接経由せずとも作品が手に入る様にととのえられたiPodやiTunesの追随に走ったことにある。
特にソニーミュージックの純赤字縮小は、その米追随型のお雇いCEOを総括の責任者にしていることから、いわゆる既得権益だったCD‐MD間への購入経路をみずから破壊した節操にある。
なぜならおもな流行音楽めあての購入者だった若者が一人一台以上の同社パソコンをただの流行歌試聴用にもてる時代など製造業者の思惑がかったただの幻想でしかないし、実際に高級品種しか生産しないお高くとまった同系列企業が、ますます縮減しつつある景気のなかで貧しい若者から貴ばれる可能性はまったくない。
そして我々消費者がこの一連のお粗末な市場自己破壊現象から国内的に達観把握したのは、「リーダー企業の誤った判断は既存市場そのものを崩壊させる」という経験則だった。いいかえれば管理価格をになった寡占業者の判断はそれ以下の全消費生態を支配しており、結果、道を誤ればすでに現実となったMDの様な有用性の高い既存製品種の恣意的絶滅も起こりうるということだ。
法人格たるソニーミュージックはこの一連の事後顛末の責任をいずれとられるであろう。目先の株価目当てに消費者及び外部に対する福祉の意図をあきらかに裏切った利己主義同族企業の汚名は、永久に将来の投資関係者一同の感情内に刷り込まれる。すべてを目撃した若者がいつまでも若者であることはない。
このみずからつくりあげた惨々たる事態を回収したければ、すでにアップルによって支配的となったネットミュージックではなく、ふたたび以前の様にCDを中心とした既得権益の回復を計るべく、『音楽自販機』を多産するといいだろう。これには割安な数百円単位で各種のメモリーにダウンロード可能な挿入口をつければいい。
尤も、いつものエリート気取り驕り高ぶりの由縁で遂には誰からも見放され、最終的に市場淘汰される迄その音楽産業連中を好意から養う消費者及び彼らを後押しする株主の営業努力への期待を裏切りつづけるつもりなら、いまのままアップル追従ネットワーク販売中心の独自規格の独善姿勢を貫くがいい。一部マニア向けの適所ならいつまでも、ごく広い世界の隅にひっそり用意されつづけるだろうから。
歌え若者、などと大上段に命令する奢った生産者を我々消費者は無視も毛嫌いもできれば何れ食い潰すこともできる事を、すべてがまるきり転回しうる現実の市場進化論的証明によって、言い換えれば「市場の弱肉強食」によって理解するがいい。
特にソニーミュージックの純赤字縮小は、その米追随型のお雇いCEOを総括の責任者にしていることから、いわゆる既得権益だったCD‐MD間への購入経路をみずから破壊した節操にある。
なぜならおもな流行音楽めあての購入者だった若者が一人一台以上の同社パソコンをただの流行歌試聴用にもてる時代など製造業者の思惑がかったただの幻想でしかないし、実際に高級品種しか生産しないお高くとまった同系列企業が、ますます縮減しつつある景気のなかで貧しい若者から貴ばれる可能性はまったくない。
そして我々消費者がこの一連のお粗末な市場自己破壊現象から国内的に達観把握したのは、「リーダー企業の誤った判断は既存市場そのものを崩壊させる」という経験則だった。いいかえれば管理価格をになった寡占業者の判断はそれ以下の全消費生態を支配しており、結果、道を誤ればすでに現実となったMDの様な有用性の高い既存製品種の恣意的絶滅も起こりうるということだ。
法人格たるソニーミュージックはこの一連の事後顛末の責任をいずれとられるであろう。目先の株価目当てに消費者及び外部に対する福祉の意図をあきらかに裏切った利己主義同族企業の汚名は、永久に将来の投資関係者一同の感情内に刷り込まれる。すべてを目撃した若者がいつまでも若者であることはない。
このみずからつくりあげた惨々たる事態を回収したければ、すでにアップルによって支配的となったネットミュージックではなく、ふたたび以前の様にCDを中心とした既得権益の回復を計るべく、『音楽自販機』を多産するといいだろう。これには割安な数百円単位で各種のメモリーにダウンロード可能な挿入口をつければいい。
尤も、いつものエリート気取り驕り高ぶりの由縁で遂には誰からも見放され、最終的に市場淘汰される迄その音楽産業連中を好意から養う消費者及び彼らを後押しする株主の営業努力への期待を裏切りつづけるつもりなら、いまのままアップル追従ネットワーク販売中心の独自規格の独善姿勢を貫くがいい。一部マニア向けの適所ならいつまでも、ごく広い世界の隅にひっそり用意されつづけるだろうから。
歌え若者、などと大上段に命令する奢った生産者を我々消費者は無視も毛嫌いもできれば何れ食い潰すこともできる事を、すべてがまるきり転回しうる現実の市場進化論的証明によって、言い換えれば「市場の弱肉強食」によって理解するがいい。
2009年11月5日
将軍
なんのことか存じ上げませんけれど、とその公家は言った。
とてもたのしゅう夕餉 にてございました。
国民の金であろうが、なにを遠慮などしましょう。
わたくし達には有り余る富があるのです!
その公家は京都の文法を絶対視した挙げ句、
あっという間に軍人に牛耳られて
ボロボロになった憲法ごと殺される前に自殺した。
だれが同情するんだよ? あなた方の生前の功徳など
あの晩餐会で僕の働いた金で豪華な和牛を喰った事だけ
それともゲイシャと遊び回るあなたの祖先がなにか
猥談以外のえらい業績でも、私たちのためにのこしたとでも?
その公家は、とっくの昔に仇をとった
白虎隊の墓場のうえで踊りくさっていたにすぎない。
薩長の下心に流された道化芝居をね。
それともあなた方の命一つが、あの何億もの特攻隊員よりも
主君を信じて忠義を尽くした、まだ成年式も終えない
幾多の魂をつきうごかしたわれらの魂よりも
貴いとでも? それをやしなっているのが
俺らの汗水たらして働き通した衣食住の品物でも?
お前は俺達を裏切った。そして、狂ったゲイシャ遊びをし、
遂にはアメリカ人に殺されかかって命乞いをした。
さもなければ今、こうして
あの墓の前で祈りを捧げる多くの
侍たちの心を裏切りつづけるだろう。京都の人よ。貴様には
少しの勇気もない
おかわいそうに、ご機嫌をつくろいなさって
僕はその声を、刀で叩き斬るだろう。それが
すでに失われてしまった主君の、最後の将軍の仇なのだ
とてもたのしゅう
国民の金であろうが、なにを遠慮などしましょう。
わたくし達には有り余る富があるのです!
その公家は京都の文法を絶対視した挙げ句、
あっという間に軍人に牛耳られて
ボロボロになった憲法ごと殺される前に自殺した。
だれが同情するんだよ? あなた方の生前の功徳など
あの晩餐会で僕の働いた金で豪華な和牛を喰った事だけ
それともゲイシャと遊び回るあなたの祖先がなにか
猥談以外のえらい業績でも、私たちのためにのこしたとでも?
その公家は、とっくの昔に仇をとった
白虎隊の墓場のうえで踊りくさっていたにすぎない。
薩長の下心に流された道化芝居をね。
それともあなた方の命一つが、あの何億もの特攻隊員よりも
主君を信じて忠義を尽くした、まだ成年式も終えない
幾多の魂をつきうごかしたわれらの魂よりも
貴いとでも? それをやしなっているのが
俺らの汗水たらして働き通した衣食住の品物でも?
お前は俺達を裏切った。そして、狂ったゲイシャ遊びをし、
遂にはアメリカ人に殺されかかって命乞いをした。
さもなければ今、こうして
あの墓の前で祈りを捧げる多くの
侍たちの心を裏切りつづけるだろう。京都の人よ。貴様には
少しの勇気もない
おかわいそうに、ご機嫌をつくろいなさって
僕はその声を、刀で叩き斬るだろう。それが
すでに失われてしまった主君の、最後の将軍の仇なのだ
2009年11月4日
清流
おとなくきえゆたつなみの満ち干
自動車列車と汽車電車金属音変る
只降り注ぐ水色の空白云のさやか響く町うごく
打ち寄せる波きみはしずかに祈る聞き届けられるのを
なにを信じた百円玉がおちるアスファルトの隈
徐々に盛り返す試合情勢サッカー場の上みる
山奥だった兜虫のくぬぎの木ゆばテーブルのうえ煮える
略して綴れる想い毎あなたは夜波止場に留るのか
聞える生れ育った古里の匂いと空気が私の声になる
ただミンミン蝉が鳴き捨てる真夏日蜩 かなし
ゆったりとしさかみちをくだるシティサイクルのハンドルをはなす
むかしだったそこも地獄橋のうえをわたった後ろかご
おちつきなく湯気ふりしきる山形の銭湯おもしろさ
ゆきのちらつくころ蔵王は眩しさをもってくるゲレンデ白さ
おばあちゃんちの畳の匂いベッドの固さ踏み石の巾
竹林のおくになげすてられた菓子パンの袋竹の子たのし
芹を摘みにいきましたさとやまのおくの田んぼの静けさ
おともなくふりしきる雪のねもきこえるしずかな田んぼに
あおい軽トラックと耕運機がひびくおたまじゃくしのたまご
沢山川の底しれぬ流れの緩さよ笹の枝垂る渓流
とびこむ歓声ひたるつめたな清き流れとこしえに
夜空へつながる海へのめぐりゆきは星月のまほろば
笹舟はてのひらをぬけて宇宙のなかを駆けめぐる
自動車列車と汽車電車金属音変る
只降り注ぐ水色の空白云のさやか響く町うごく
打ち寄せる波きみはしずかに祈る聞き届けられるのを
なにを信じた百円玉がおちるアスファルトの隈
徐々に盛り返す試合情勢サッカー場の上みる
山奥だった兜虫のくぬぎの木ゆばテーブルのうえ煮える
略して綴れる想い毎あなたは夜波止場に留るのか
聞える生れ育った古里の匂いと空気が私の声になる
ただミンミン蝉が鳴き捨てる真夏日
ゆったりとしさかみちをくだるシティサイクルのハンドルをはなす
むかしだったそこも地獄橋のうえをわたった後ろかご
おちつきなく湯気ふりしきる山形の銭湯おもしろさ
ゆきのちらつくころ蔵王は眩しさをもってくるゲレンデ白さ
おばあちゃんちの畳の匂いベッドの固さ踏み石の巾
竹林のおくになげすてられた菓子パンの袋竹の子たのし
芹を摘みにいきましたさとやまのおくの田んぼの静けさ
おともなくふりしきる雪のねもきこえるしずかな田んぼに
あおい軽トラックと耕運機がひびくおたまじゃくしのたまご
沢山川の底しれぬ流れの緩さよ笹の枝垂る渓流
とびこむ歓声ひたるつめたな清き流れとこしえに
夜空へつながる海へのめぐりゆきは星月のまほろば
笹舟はてのひらをぬけて宇宙のなかを駆けめぐる
ねこのこのあくび
にゃいにゃいねこにゃうねこのこのあくび
おそらにとんだわたぼうしとって
まぶしいおひさまにこんにちはをいうの
おつきさまのでるまでのあいだよろしくね
あそんでくれてありがとうねこのこのあくび
ふしぎなぽっけでねこじゃらしなの
おっきなゆめにみたぽんぽこたぬきのおなかのたいこ
ぽんぽんぽこぽんきこえてきました
ゆずのきのかおりでおふろのじかんだ
つるつるすべるぞきをつけろ
ぽこぽんたぬきのおなかのたいこで
ねこのこのあくびはきこえなかったの
よるもおそくにおしっこのあいずだ
ぶるぶるゆーれいいないかこわい
ひんやりゆかでもおかあさんのぱじゃまにつかまれ
とおくのやまおくでぽんぽこたぬきはねむりこけてる
ねこのこのあくびはきこえてきますか
ぽかぽかおひさまでたりきえたり
ひろえんでねっころがってみえたりきえたりするの
じゅうにじのあいずはもうすぐきこえる
おそらにとんだわたぼうしとって
まぶしいおひさまにこんにちはをいうの
おつきさまのでるまでのあいだよろしくね
あそんでくれてありがとうねこのこのあくび
ふしぎなぽっけでねこじゃらしなの
おっきなゆめにみたぽんぽこたぬきのおなかのたいこ
ぽんぽんぽこぽんきこえてきました
ゆずのきのかおりでおふろのじかんだ
つるつるすべるぞきをつけろ
ぽこぽんたぬきのおなかのたいこで
ねこのこのあくびはきこえなかったの
よるもおそくにおしっこのあいずだ
ぶるぶるゆーれいいないかこわい
ひんやりゆかでもおかあさんのぱじゃまにつかまれ
とおくのやまおくでぽんぽこたぬきはねむりこけてる
ねこのこのあくびはきこえてきますか
ぽかぽかおひさまでたりきえたり
ひろえんでねっころがってみえたりきえたりするの
じゅうにじのあいずはもうすぐきこえる
英雄
だれにとってでもない
それは、自然なことに思える
街中があっという間に様変わりしても所詮、
資本主義国のつね。何を驚くことぞあろう
保守派を拳銃で脅した挙げ句、無理に圧し殺したのは
君らだろう?
それともいまさら
負けるのをおそれて、卑怯な手に訴えたグループに
嫌気がさしたか? もともと
やくざに憧れてたんだったよな? 僕は
豪華きまわる工芸品だらけの盆地で、きみらに
殴り掛かるのをぐっとこらえた
いいのか? それで。すべてがもし、過ちでも
僕は散々修業してきた剣の腕を試す晴れの舞台を目前に
潔しとしない
君を敬った。それで
礼を払ってすぐに引き下がった。まるで
はじめから戦う気はなかった風で。ところが
君達は僕を、負け組だと銘打って、銃刀で追いこんだ。
そして君達は、僕の名をけがし、よろこんでその上に土足でふみあがった
そんなに出世したかったの?
僕はゆっくりと帰途に着くだけだ。まるで
傷ついたドン・キホーテの様に。それで
愛する妻と子供のために、大きな
資本主義のケーキを持ち帰れるものなら。
それは、自然なことに思える
街中があっという間に様変わりしても所詮、
資本主義国のつね。何を驚くことぞあろう
保守派を拳銃で脅した挙げ句、無理に圧し殺したのは
君らだろう?
それともいまさら
負けるのをおそれて、卑怯な手に訴えたグループに
嫌気がさしたか? もともと
やくざに憧れてたんだったよな? 僕は
豪華きまわる工芸品だらけの盆地で、きみらに
殴り掛かるのをぐっとこらえた
いいのか? それで。すべてがもし、過ちでも
僕は散々修業してきた剣の腕を試す晴れの舞台を目前に
潔しとしない
君を敬った。それで
礼を払ってすぐに引き下がった。まるで
はじめから戦う気はなかった風で。ところが
君達は僕を、負け組だと銘打って、銃刀で追いこんだ。
そして君達は、僕の名をけがし、よろこんでその上に土足でふみあがった
そんなに出世したかったの?
僕はゆっくりと帰途に着くだけだ。まるで
傷ついたドン・キホーテの様に。それで
愛する妻と子供のために、大きな
資本主義のケーキを持ち帰れるものなら。
2009年11月1日
教育行政の事前対策
米国の大学がいわゆる学歴主義の弊害として、殆ど所得の調整力をもたないのはその国を尋ねた者へは周知と思う。国際人権規約が教える教育費無償化への誘導も、意欲の有無による能力別の進学率ならまだしも、只にしたらどのヤンキーも喜んでまなびまくるかといえば全く逆だろう。現東大でも所得順位でみると、科挙への殿試勉強が一般にそうだった様にこの遠東洋風の儒学的官位甘やかしは寧ろ階級の再生産率を奢る結果に終わっている。いいかえれば、日本の現況で国立教育機関を一気に無償にすると逆に、特に名門校といわれているブランド大学ではそこへの入試志願者の激化にともなって、多年の勉学費用負担をにないうる高所得集団の利点が益す確率がとても高そうだ。
つまり本来の福祉的意図である階級固定化への緩和としての意欲と才能はあるが、学費に恵まれない所得層の本当は優秀な子どもへの投融資の結果とはかなり遠い結果が、単なる一律一元の教育無償化では出そうといえる。米ではこの危機を、超自由主義的風土のゆえにまったく痛痒にも感じなければ植民政策の効果でつくられた英語圏の広域さに伴って次々集まる移民の保有によって、どちらかといえば利益とさえ考えるリベラルが多い。
だが人が産業革命時点での英で、たとえばグラスゴー大学の有職へ一修理工だったワットを招いたアダム・スミスの徳性やまさに丁稚上げたファラデーの大きな活躍、開拓初期の米でもフランクリンやエジソンの挙げた業績を省みれば、人事の機械的合理化のみに着目した類いの学歴主義のやみくもな蔓延は、いわば科挙制度下での一階級による官位独占の時代へ退行する隠された差別と暴威のめばえであり、決して最善ではない。少なくとも、何らかの抜け道としての階級化の影響力を弱めうる制度の余裕を持たせておく方が、単なる知的上級生の慈愛を越えて、結局は予期せぬ発明という多元な進路に於ける人事加工過程の化学変化のリターンも大きくなると考えられる。一般に、王侯貴族(日本に於いては公家や旧華族といわれる)は支配率を目あてとし、上述の様な寛容思想は封建権力を弱めるものとして忌み嫌い場合によっては公に法または裁判権を引用した暴力で迫害する。だから、仮に米のリベラリズムが一種の実現最優先への偏りのために急ぎ足に過ぎ、定着や滞在によってただならぬ名誉をもちいるはず渡来した愛国者や親交者を帰化後の長期間の目でみてWASPより無碍に扱うならそれは、人間の格というものを学歴という本来は学資ではなく学識や勉学意欲の付属品にすぎなかった肩書を、理論や技術そのものの創意工夫の才能及び努力よりも高く見積もりすぎた浅慮の為である。以上から、事前にありうべき不測の惨禍である自民族中心主義或いは京都学派の悪用による神道原理思想の声高な復活を教育権の援用によってある程度より多めに避ける豪快な行政手腕には、聴講生制度の確保とそれに伴う国費の規模を予定できる政府税収の内、教育助成予算のかなりの部分を多くとも見積もることが必要である。図書館施設の原則開放もこれに入る。周囲の多少あれ安価な学生街に定着しさえすれば、いかなる社会階層や国籍、所得及び人種出身でもある程度より高い教育効果がえられる地域の自由度を達する事が、すぐれた創造生態の確保には有用だからだ。
ところで企業への権力介入はライブドア事件以来の情報産業の冷え込みにはっきり示される様に、おおきな市場萎縮の効果を不可避に伴うので、最小限に留めた方がよい、若しくは推してそうす可きと基本的寛容思想の立場からは定率できる。ここで、待つばかりではなく特に技術革新をより喫近とする工学系大学や専門学校含む研究学園街への景気づけたる能動的な対策案として賢明なのは、地方自治体単位の条令で、学園都市周囲の冒険起業人事への学歴差別禁止を諮ることだろう。こうすれば飛び入りした特殊な才能が生き残る確率があがる為、もっと安定した企業成熟をめざす大手とはことなり、いい意味で未熟なその場限りの独創が集積しやすくなる。但し、全面的な国政でこれを独断専行してはいけない。なぜなら進路の極端な放任による人材の過剰流動とそれをとりのがした経営破綻の続出や、成功率につながらない基礎学力の特徴的軽視によるおおよその人事不詳化が確実に起こるからだ。
つまり本来の福祉的意図である階級固定化への緩和としての意欲と才能はあるが、学費に恵まれない所得層の本当は優秀な子どもへの投融資の結果とはかなり遠い結果が、単なる一律一元の教育無償化では出そうといえる。米ではこの危機を、超自由主義的風土のゆえにまったく痛痒にも感じなければ植民政策の効果でつくられた英語圏の広域さに伴って次々集まる移民の保有によって、どちらかといえば利益とさえ考えるリベラルが多い。
だが人が産業革命時点での英で、たとえばグラスゴー大学の有職へ一修理工だったワットを招いたアダム・スミスの徳性やまさに丁稚上げたファラデーの大きな活躍、開拓初期の米でもフランクリンやエジソンの挙げた業績を省みれば、人事の機械的合理化のみに着目した類いの学歴主義のやみくもな蔓延は、いわば科挙制度下での一階級による官位独占の時代へ退行する隠された差別と暴威のめばえであり、決して最善ではない。少なくとも、何らかの抜け道としての階級化の影響力を弱めうる制度の余裕を持たせておく方が、単なる知的上級生の慈愛を越えて、結局は予期せぬ発明という多元な進路に於ける人事加工過程の化学変化のリターンも大きくなると考えられる。一般に、王侯貴族(日本に於いては公家や旧華族といわれる)は支配率を目あてとし、上述の様な寛容思想は封建権力を弱めるものとして忌み嫌い場合によっては公に法または裁判権を引用した暴力で迫害する。だから、仮に米のリベラリズムが一種の実現最優先への偏りのために急ぎ足に過ぎ、定着や滞在によってただならぬ名誉をもちいるはず渡来した愛国者や親交者を帰化後の長期間の目でみてWASPより無碍に扱うならそれは、人間の格というものを学歴という本来は学資ではなく学識や勉学意欲の付属品にすぎなかった肩書を、理論や技術そのものの創意工夫の才能及び努力よりも高く見積もりすぎた浅慮の為である。以上から、事前にありうべき不測の惨禍である自民族中心主義或いは京都学派の悪用による神道原理思想の声高な復活を教育権の援用によってある程度より多めに避ける豪快な行政手腕には、聴講生制度の確保とそれに伴う国費の規模を予定できる政府税収の内、教育助成予算のかなりの部分を多くとも見積もることが必要である。図書館施設の原則開放もこれに入る。周囲の多少あれ安価な学生街に定着しさえすれば、いかなる社会階層や国籍、所得及び人種出身でもある程度より高い教育効果がえられる地域の自由度を達する事が、すぐれた創造生態の確保には有用だからだ。
ところで企業への権力介入はライブドア事件以来の情報産業の冷え込みにはっきり示される様に、おおきな市場萎縮の効果を不可避に伴うので、最小限に留めた方がよい、若しくは推してそうす可きと基本的寛容思想の立場からは定率できる。ここで、待つばかりではなく特に技術革新をより喫近とする工学系大学や専門学校含む研究学園街への景気づけたる能動的な対策案として賢明なのは、地方自治体単位の条令で、学園都市周囲の冒険起業人事への学歴差別禁止を諮ることだろう。こうすれば飛び入りした特殊な才能が生き残る確率があがる為、もっと安定した企業成熟をめざす大手とはことなり、いい意味で未熟なその場限りの独創が集積しやすくなる。但し、全面的な国政でこれを独断専行してはいけない。なぜなら進路の極端な放任による人材の過剰流動とそれをとりのがした経営破綻の続出や、成功率につながらない基礎学力の特徴的軽視によるおおよその人事不詳化が確実に起こるからだ。
2009年10月31日
一律保障論について
小人間居して不善を為すという『大学』第二章のせりふがある。この裏は君子は間居して不善を為さない、又は善行をなすということだ。もし崇敬すべき古典原理主義者に畏れ多くもこの聖の諺を現代風にかみ砕いて解釈すると、「少なくとも知識人なら暇を有為に使える」と凝った意訳で言い換えれるかもしれない。
そして一律生活保障金構想という穏やかならぬ商人蔑視潮流の痛み分けを声高に叫ぶおかしな浅慮は共産思想のいいかえにすぎず、仮に幾らかの賢明きわまる資本主義道の後退や変節と共にこのおかしな施策が行われれば当然、悪徳の増長と必要悪とよばれて陸でもない人々から正当化されているが全く不必要で害のある商品への需要増大がみこめる。
ヒマを持て余しそうになった船員へ碇を磨かせた船長は人間性というものの体得者だったと言える。仮に働かざる者へでも助けの手をさしのべようとするまで有り余る財産がある大富豪政府国家なら、先ず『大学』の費用を免除した方がいい。
そして一律生活保障金構想という穏やかならぬ商人蔑視潮流の痛み分けを声高に叫ぶおかしな浅慮は共産思想のいいかえにすぎず、仮に幾らかの賢明きわまる資本主義道の後退や変節と共にこのおかしな施策が行われれば当然、悪徳の増長と必要悪とよばれて陸でもない人々から正当化されているが全く不必要で害のある商品への需要増大がみこめる。
ヒマを持て余しそうになった船員へ碇を磨かせた船長は人間性というものの体得者だったと言える。仮に働かざる者へでも助けの手をさしのべようとするまで有り余る財産がある大富豪政府国家なら、先ず『大学』の費用を免除した方がいい。
2009年10月30日
成人年齢奉冠論
民意にあからさまに逆らってでも成人年齢をひきさげてしまおうとする政府のかくしもった意図は、それによって無理にでも若年層の貧困な現状をひきのばしながら派遣労働者などの労働権内弱者を殖やそうという貪欲にある。さもなくば先ず成人が適した職場を捜すのすら難しい社会の高齢化及び老人支配の既得権益の調整措置を講ずる筈であり、上意下達の笠をかぶって教育費にすら欠く社会の不良数を増長させたがるその悪徳の中身は、今よりさらに己どもの利権を延長させようとする欧米文脈の悪用なのである。もし胃袋をみたすため若々しい国民の奴隷化をみちびこうとするのなら、その法制を全国単位ではなくて、自らの害他な家がおのれの歪んだ理想として掲げたがる地域の都道府県単位で、堂々と成年時期をひきさげるがいい。
法制審議委員会のなかに属した悪人の実名や出自がはっきり出、商売柄がはっきり試される地方自治体ごとのありうべき恣意或いは公民度の法的保証の可能な場合で政商癒着擁護論たる弱冠引き下げをすれば、結果的にはslum形成を通した反面教育というもっとも公共に有益な実行力がその自己矛盾の業によって十分証明されうるのだから。
法制審議委員会のなかに属した悪人の実名や出自がはっきり出、商売柄がはっきり試される地方自治体ごとのありうべき恣意或いは公民度の法的保証の可能な場合で政商癒着擁護論たる弱冠引き下げをすれば、結果的にはslum形成を通した反面教育というもっとも公共に有益な実行力がその自己矛盾の業によって十分証明されうるのだから。
かえるの歌
儲からないから辞めてしまえと言った
そしてひきガエルの子が游んでいた緑一面の田ん圃は
あっという間にひろすぎる郊外型店舗になった
自動車の排ガスで息をつくひまもない稲よ
別に望んでもない
死んでいく自然の声なんかだれも聞こうとはしないもの
幼稚園児がたんぽぽの咲くあぜみちを仲良く歩いてた
その光景はコンクリートの広告で囲まれてしまった
大人になるってことなんですとまだ若い支店長は言う
客より店長のほうが偉いですそう習いましたし
テレビの中の大都会から湧く見たことある様な無い様な芸能人が
着飾った豪華ぶった衣裳で青少年をどんどん誘惑します
金が回れば死人が増える
売りまくれと上司がいうアメリカだって
どこだってやっているうちだけ損しちゃ損やから売り捌きまくれや
私はそのうるさいひとこえで潰れた犠牲者の
墓場の前であのかえるたちの歌をうたいあげよう
もしそれを聞くのがいつかのこころやすらかな詩人と
僕の目の前で遊ぶすなおな幼稚園児たちだけでも
そしてひきガエルの子が游んでいた緑一面の田ん圃は
あっという間にひろすぎる郊外型店舗になった
自動車の排ガスで息をつくひまもない稲よ
別に望んでもない
死んでいく自然の声なんかだれも聞こうとはしないもの
幼稚園児がたんぽぽの咲くあぜみちを仲良く歩いてた
その光景はコンクリートの広告で囲まれてしまった
大人になるってことなんですとまだ若い支店長は言う
客より店長のほうが偉いですそう習いましたし
テレビの中の大都会から湧く見たことある様な無い様な芸能人が
着飾った豪華ぶった衣裳で青少年をどんどん誘惑します
金が回れば死人が増える
売りまくれと上司がいうアメリカだって
どこだってやっているうちだけ損しちゃ損やから売り捌きまくれや
私はそのうるさいひとこえで潰れた犠牲者の
墓場の前であのかえるたちの歌をうたいあげよう
もしそれを聞くのがいつかのこころやすらかな詩人と
僕の目の前で遊ぶすなおな幼稚園児たちだけでも
2009年10月29日
記号論理学
次の記号はどれも普遍性が高いので、論理式の推論過程を厳密に且つ省略して表記するに推して有用。漢字と英語も代表的訓と共に並列表記しておく。
∀ すべての 全 all
∃ ある、とある 或 a
∽ いくつかの 幾 some
⇔ おなじ 同 same
←→ ちがう 違 differ
… かな、かも 哉 may
‥ たとえば 例 example
⇒ すなわち、つまり 即 namely
~ おして、のだろう 推 would
* かならず 必 must
∧∧ ともに 共 both
∨∨ みなは、どちらか 皆 each
そして、是非且又(→¬∧∨)という基本記号を含むこれらの間にはつぎの様な対称関係がある。
→←→¬ 是はと非ずは違う
∧←→∨ 且つと又はとは違う
∀←→∃ 全ては或るとは違う
∽←→⇔ 幾つかのと同じは違う
(←→)←→… 違うと哉なは違う
‥←→⇒ 例えばと即ちは違う
~←→* 推してと必ずは違う
∧∧←→∨∨ 共にと皆はとは違う
∀ すべての 全 all
∃ ある、とある 或 a
∽ いくつかの 幾 some
⇔ おなじ 同 same
←→ ちがう 違 differ
… かな、かも 哉 may
‥ たとえば 例 example
⇒ すなわち、つまり 即 namely
~ おして、のだろう 推 would
* かならず 必 must
∧∧ ともに 共 both
∨∨ みなは、どちらか 皆 each
そして、是非且又(→¬∧∨)という基本記号を含むこれらの間にはつぎの様な対称関係がある。
→←→¬ 是はと非ずは違う
∧←→∨ 且つと又はとは違う
∀←→∃ 全ては或るとは違う
∽←→⇔ 幾つかのと同じは違う
(←→)←→… 違うと哉なは違う
‥←→⇒ 例えばと即ちは違う
~←→* 推してと必ずは違う
∧∧←→∨∨ 共にと皆はとは違う
2009年10月28日
図書電子化の公益
日本人社会の高齢化及びベンチャー起業への恐縮ムードは経営主体を果敢な進取から遠ざける誘因となっており、下記の行為はおおよそ上意下達式にならざるをえないかもしれないが、各種の公共私立をとわない図書館がその少なくとも著作権の切れた書籍を電子ペーパー化する作業はきわめて公益性が高く、もし急進展に行なってもほとんど害がない。ばかりか、特に昔日の書籍を電子化することは保存の観点からきわめて有利であり、もしこの作業の福祉が一般認知されるまでとなればいわゆる本の形態を無駄遣いするなかで伐採やパルプ製法のうちに排出するCO2量を削減する効果がある。既存の出版社が最終的には必ず書物の電子化に追随せざるをえないことを悟れば、いまは不便なパソコン経由でしかアクセスできないインターネット閲覧に適度な電子書物状の端末が、またそれに併せて既得作家業態のデジタル化が訪れる。
自由恋愛の今日的根拠
自由恋愛と呼ばれているシステムの利点は、それが先得的知能の度合いに準じた速度で数量的にはいわばピラミッド型の社会構成員数を夫々得せしめるところにある。哺乳類としての人類の発情期の遠近は、結局その生まれ持たされた知能が、いいかえれば大脳がどの程度並の類人猿から引き離された発達を自然とするかにほぼ等しい。
そして数々の抑圧の、又は逆の助長のシステムによってこの動物としての発情の速度を調整しない侭にしておくことの利潤は、常にそれらが不可避に用いる不自然な社会的地位の損失を上回るのだろう。だから自由恋愛と呼ばれる、社会環境の中であたかも犬畜生を放し飼いにしておく様な独特の寛容思想は、もし社会そのものが富士の法則という最も基本となりうる労働力種別順の数比を合理也と認めるつもりならご尤もなのだ。
晩生の形質だけが人類のつくりだした数々の文化要素の後天的習得のゆえに、更に価値の高い文化を継ぎ足す能力を獲得するとしたところで、社会が完全な工学的段階を達したかなり遠い将来を予測できない丈その地域の生業が土着的なら、この郷原の数量的統計を発情への寛大の原則で産業の許す最も低廉で済む社会保障費によって賄うことは是政の福祉感覚にとってごく利口なのである。もし胎生や成長の初期に置かれた条件がその集合発生にとって共通感覚の因果だとしても、郷原層を部落的に大幅には隔離させずにそのみせしめとしての地位を堂々得せしめること、つまり不良の実証は人類という脱哺乳類的中途を経過しつつある多少なりとも安定した遺伝集合の公徳啓蒙へ値するのだ。
仮に各種の迷惑料を囲い込みで省略しようと試みる一族が現れ、この生態を郷原層とは違う条件で育てようとしたとする。多くの場合は私立学校の中で善良な子女をできるだけ有利な知的動機づけが可能な無垢にした世界を構想したとする。だがこの知識層が現実に、郷原層の持っている生態を目の当たりにした経験が全くない再生産率を達したとすると、我々は人間の奴隷視に一役買う事にもなるだろう。なぜなら彼らは彼らの選良意識かそれとは意識しない過度の気品の為に、この殆ど土人の如き生態と言動を日常とする郷原を同類視しようとすればするほど彼らは自らの常識が通じない相手を却って遠避けるしかなくなる。
『徒然草』に、僧侶がお供に連れた荒くれ者の郷原からなんの他意もないのに機嫌を損ねて斬られる説話がある。この実例かとおぼわしき経験談はいわゆる社会格差というものが、その少なくとも競走開始の初期段階で対話または観察の理解によって、各々の生態地位乃至能力を応酬の海によって寛容するより以外の納得のさせ方がない証拠だ。もし京育ちの甘い僧侶が子供の遊びというまだ致命傷につながる怖れの比較的少ない条件で、不良の実情を生々しい悪業の凡例によって適度な以上にいやがおうにも理解していれば、のちの悲劇は注意深い人物批評眼で避けられた筈である。
今日の成育条件の中で自由恋愛といわれる発情期への未規制が有用であると目されるのはこれら、社会格差応酬制度への遠慮に原因が求まる。有徳な両親が悪習や過剰再生産率の増長をおそれて郷原層との隔離を急ぐよりは、実際には、理想的家庭という安全基地をある程度は複雑でよかれあしかれ多様な社会条件の内にしっかり確立しておく方が、生態理解込みの侮蔑感情の穏やかな形成という郷原層活用の最たる反面教育上の利益が大きいと思うのである。啓蒙思想が差別思想よりも少なくとも人間的であると認める者は、以上の理由を便宜上真なりと考えるであろう。
そして数々の抑圧の、又は逆の助長のシステムによってこの動物としての発情の速度を調整しない侭にしておくことの利潤は、常にそれらが不可避に用いる不自然な社会的地位の損失を上回るのだろう。だから自由恋愛と呼ばれる、社会環境の中であたかも犬畜生を放し飼いにしておく様な独特の寛容思想は、もし社会そのものが富士の法則という最も基本となりうる労働力種別順の数比を合理也と認めるつもりならご尤もなのだ。
晩生の形質だけが人類のつくりだした数々の文化要素の後天的習得のゆえに、更に価値の高い文化を継ぎ足す能力を獲得するとしたところで、社会が完全な工学的段階を達したかなり遠い将来を予測できない丈その地域の生業が土着的なら、この郷原の数量的統計を発情への寛大の原則で産業の許す最も低廉で済む社会保障費によって賄うことは是政の福祉感覚にとってごく利口なのである。もし胎生や成長の初期に置かれた条件がその集合発生にとって共通感覚の因果だとしても、郷原層を部落的に大幅には隔離させずにそのみせしめとしての地位を堂々得せしめること、つまり不良の実証は人類という脱哺乳類的中途を経過しつつある多少なりとも安定した遺伝集合の公徳啓蒙へ値するのだ。
仮に各種の迷惑料を囲い込みで省略しようと試みる一族が現れ、この生態を郷原層とは違う条件で育てようとしたとする。多くの場合は私立学校の中で善良な子女をできるだけ有利な知的動機づけが可能な無垢にした世界を構想したとする。だがこの知識層が現実に、郷原層の持っている生態を目の当たりにした経験が全くない再生産率を達したとすると、我々は人間の奴隷視に一役買う事にもなるだろう。なぜなら彼らは彼らの選良意識かそれとは意識しない過度の気品の為に、この殆ど土人の如き生態と言動を日常とする郷原を同類視しようとすればするほど彼らは自らの常識が通じない相手を却って遠避けるしかなくなる。
『徒然草』に、僧侶がお供に連れた荒くれ者の郷原からなんの他意もないのに機嫌を損ねて斬られる説話がある。この実例かとおぼわしき経験談はいわゆる社会格差というものが、その少なくとも競走開始の初期段階で対話または観察の理解によって、各々の生態地位乃至能力を応酬の海によって寛容するより以外の納得のさせ方がない証拠だ。もし京育ちの甘い僧侶が子供の遊びというまだ致命傷につながる怖れの比較的少ない条件で、不良の実情を生々しい悪業の凡例によって適度な以上にいやがおうにも理解していれば、のちの悲劇は注意深い人物批評眼で避けられた筈である。
今日の成育条件の中で自由恋愛といわれる発情期への未規制が有用であると目されるのはこれら、社会格差応酬制度への遠慮に原因が求まる。有徳な両親が悪習や過剰再生産率の増長をおそれて郷原層との隔離を急ぐよりは、実際には、理想的家庭という安全基地をある程度は複雑でよかれあしかれ多様な社会条件の内にしっかり確立しておく方が、生態理解込みの侮蔑感情の穏やかな形成という郷原層活用の最たる反面教育上の利益が大きいと思うのである。啓蒙思想が差別思想よりも少なくとも人間的であると認める者は、以上の理由を便宜上真なりと考えるであろう。
2009年10月27日
繁栄
経済的繁栄バンザイと経団連がほざいた。
へぇと僕は思う。そんなもんなの、人生。いいんじゃないのアメリカン。
そしてそのハゲが映り込んだテレビをバットで叩き割る。ブラウン管ってそういうことなんでしょ
大事にしてきたMDがどれもこれもダメにされた。だがSONYは責任感なさ気。
お前の金なのか俺の物が。そして僕は新しいはずのネットワークウォークマンをトイレに落とした。
あまりに小さすぎるし、曲が出し入れしづらい。
そういうことなんでしょ? 経済的繁栄って。買って下さい、とは言わない隠しタイマーが今かいまかと没落を望んでいる。
庶民から金を絞りあげ陛下のあしもとに平伏す。
そういうことだったんだ、ふぅん。
あれだけ必死だった小説家が、簡単に名誉の前に膝間即くのを全国民が笑う。
ぎゃははそういうことだったんだ、人生。勝てば官軍、小御所会議。だれも見ちゃいないって。
カミサマは目の前にいる。それさえ敬っておけば
僕はそんな邪悪なクニの王様が、アメリカに殺されなかった幸運を祝う日々に生まれた。
幸運?
自業自得だろ? 媚びへつらう追従者どもを身につけ、本当の実力者を排斥した公家のあやまった勘定がそこへ君を導いただけ。当然の結果に驚いてどうする?
僕はもうあなた如きをカミサマだとは考えなくなった。
なにもできず、ただもろ手をあげて贅沢を尽くし、ほかの時間は暇つぶしに費やす名目の貴族。
僕はあらゆる手管をつくして人を見下す権威を望んだその一族が、決して幸福ではないことを知った。
いつもびくびくし、真実を見抜かれ殺されるのを怖れながら、本当は交尾のことしか頭にない地上の王様。
経団連が言う様に、君が代を歌い、経済的繁栄を謳歌するんだ。
それで幸せに成れる。立派な伝統宮殿から気が狂った民衆のお祭り騒ぎから金をまきあげるだけでいい。
だから僕らは、小中学校でくりかえしくりかえし、気違いじみた国粋教師に殴られ、厭味を言われ、精神的虐待を受けねばならない。それがこのクニの道理なのだ。
どうして社会を愛せるか不思議でならない。畜生の戯れる乱れた地獄を。
へぇと僕は思う。そんなもんなの、人生。いいんじゃないのアメリカン。
そしてそのハゲが映り込んだテレビをバットで叩き割る。ブラウン管ってそういうことなんでしょ
大事にしてきたMDがどれもこれもダメにされた。だがSONYは責任感なさ気。
お前の金なのか俺の物が。そして僕は新しいはずのネットワークウォークマンをトイレに落とした。
あまりに小さすぎるし、曲が出し入れしづらい。
そういうことなんでしょ? 経済的繁栄って。買って下さい、とは言わない隠しタイマーが今かいまかと没落を望んでいる。
庶民から金を絞りあげ陛下のあしもとに平伏す。
そういうことだったんだ、ふぅん。
あれだけ必死だった小説家が、簡単に名誉の前に膝間即くのを全国民が笑う。
ぎゃははそういうことだったんだ、人生。勝てば官軍、小御所会議。だれも見ちゃいないって。
カミサマは目の前にいる。それさえ敬っておけば
僕はそんな邪悪なクニの王様が、アメリカに殺されなかった幸運を祝う日々に生まれた。
幸運?
自業自得だろ? 媚びへつらう追従者どもを身につけ、本当の実力者を排斥した公家のあやまった勘定がそこへ君を導いただけ。当然の結果に驚いてどうする?
僕はもうあなた如きをカミサマだとは考えなくなった。
なにもできず、ただもろ手をあげて贅沢を尽くし、ほかの時間は暇つぶしに費やす名目の貴族。
僕はあらゆる手管をつくして人を見下す権威を望んだその一族が、決して幸福ではないことを知った。
いつもびくびくし、真実を見抜かれ殺されるのを怖れながら、本当は交尾のことしか頭にない地上の王様。
経団連が言う様に、君が代を歌い、経済的繁栄を謳歌するんだ。
それで幸せに成れる。立派な伝統宮殿から気が狂った民衆のお祭り騒ぎから金をまきあげるだけでいい。
だから僕らは、小中学校でくりかえしくりかえし、気違いじみた国粋教師に殴られ、厭味を言われ、精神的虐待を受けねばならない。それがこのクニの道理なのだ。
どうして社会を愛せるか不思議でならない。畜生の戯れる乱れた地獄を。
2009年10月26日
短さ
音もなく降りしきる雨
唯ひたすら世におりつ
生き残る者へ道を
知らせ給ゐぬ
秋の短さ音もなく事ずれの跡を枯れ葉に代えぬ
唯ひたすらに世の理を問ひし者へ
いたずらに聞こゆる葉のざわめきはその侭で
みやまのからす共へ寝床ごと音に楽しみを置き棄て賜る
ひたすらにかしこき闇よ
海鳴りの夜ひとひらの燈し火を掲げせしまに
吹き消した月あかりはしらず
町へしずやかな繕いを施せしとはにや
唯ひたすら世におりつ
生き残る者へ道を
知らせ給ゐぬ
秋の短さ音もなく事ずれの跡を枯れ葉に代えぬ
唯ひたすらに世の理を問ひし者へ
いたずらに聞こゆる葉のざわめきはその侭で
みやまのからす共へ寝床ごと音に楽しみを置き棄て賜る
ひたすらにかしこき闇よ
海鳴りの夜ひとひらの燈し火を掲げせしまに
吹き消した月あかりはしらず
町へしずやかな繕いを施せしとはにや
2009年10月25日
京都学派の修整的再解釈
理性と知性の分離はカント哲学の最も主要な達成であり、前者を実践理性、後者を純粋理性と同じ理由の名で呼んではいたが、より平明な表記に於ける理と知の差は、それが形而上学か後自然学というアリストテレス的伝統の学問体系の凡例(乃ち範畴論)の中でニュートン力学の樹立と共に当時めざましく展開しつつあった自然科学の領域とは異なる理由づけの領域を確保しようとしたカント個人の定義だと云える。そしてこの定義を否定した明白な論説の個性は見当たらない。理性と知性の分岐は正当なカテゴリーだと現代では考えられている。
しかし次の事は理解しておくに足る。理性の実質的内容物とは、その個性が有した経験則を含める知識の総量なのである。もし社会学あるいは社会の学という後起の科学を自然学あるいは自然についての知識の一分野として認めるなら、結局、理性というカント的定義が本当に指し示している中味とは総合的知識量のことなのである。そして一般の概念に直すと、これは教養のことだ。つまり、哲学という諸般科学探究への動機づけの名義が用いる結果は自由教養または一般教養という古代奴隷制下のギリシア自由市民が愛好や何れ愛惜したその参照物と重なる。だから一見するとカント的な理知定義には批判の余地がない様に見えるが、彼による三批判書以前のこの様な初歩的な源流域に遡ると、殆ど素朴なまでの認識界に於ける知覚にとって理性と知性とはまったく一致しているのであって、自然科学と社会科学との分類が常識化しだした近代の能率優先な蛸壷分業制学園思想がそれらの分裂を、いうなれば諸国民の富への急ぎ足の野心から謀ったのだ。西田哲学に於ける純粋経験への感情論的批判としての三木哲学に於ける構想力概念とは、カント語彙の借用によっているので洋の東西に共通の文脈下にはない。つまりカント的構想力は上述の知性(慣習訳語では悟性)と判断力という概念を中間項として繋ぐ為に導入されているが、三木のそれは西田哲学が開拓しておいた主客未分の強すぎる厳格性をただただ理知(ロゴス)の統一に片寄った論だとして情緒(パトス)の側から再統一を試みたものである。
もし西欧大陸に於ける思想潮流とブリテン島に於ける一歩の速度差とが理性と知性を大きく分割させた西洋風近代化だけの特殊事情なら、多くの途上国か後進国ではわが国が短期間に急激な勢いで経験した複合性をまた、それぞれの近代化経験の中で必要か最低限重要とするだろう。
よって、私は三木哲学の主要概念である構想力とカント哲学のそれとを明白に峻別しておくことは、その文脈の輸出や摘出にとっても相応の功績があると思う。いいかえれば、日本語の中での語感や漢字表意適性から三木に於けるイマジネーション概念を想像力或いは単に想像と再解釈しなおしてカント哲学に於ける構想力の概念とは別に保って措く事が、私達人類精神の知識の内で将来の教育的規律、つまり全認識の分析と総合の効用を高めるに違いない。想像と構想の違いはこれらの文化史的定義の為により精確とされ、結果、単なる理知の統一としての構想力と、更なるその上に情緒もしくは感情との統一を果たした概念としての想像力、とは我々の社会哲学の中で等価に且つ別々に用いられ得るだろう。
世事へ最も疎いほど道家に親しんだ諦念の人はこの意義を殆ど断章取義の虫ピン作業にしか価値判断しないのだろうと、慧眼の教えが千里の道への一歩から出発し得ると十知できるほど生来学問好きなら、なぜこの小論の趣意者が一文字の違いをわざわざ長たらしい理由づけで満たしたかも予測できるかも解らない。それは近代化潮流を接ぎ木した跡を内発的それと遜色なく成長させきる為の一節なので。
しかし次の事は理解しておくに足る。理性の実質的内容物とは、その個性が有した経験則を含める知識の総量なのである。もし社会学あるいは社会の学という後起の科学を自然学あるいは自然についての知識の一分野として認めるなら、結局、理性というカント的定義が本当に指し示している中味とは総合的知識量のことなのである。そして一般の概念に直すと、これは教養のことだ。つまり、哲学という諸般科学探究への動機づけの名義が用いる結果は自由教養または一般教養という古代奴隷制下のギリシア自由市民が愛好や何れ愛惜したその参照物と重なる。だから一見するとカント的な理知定義には批判の余地がない様に見えるが、彼による三批判書以前のこの様な初歩的な源流域に遡ると、殆ど素朴なまでの認識界に於ける知覚にとって理性と知性とはまったく一致しているのであって、自然科学と社会科学との分類が常識化しだした近代の能率優先な蛸壷分業制学園思想がそれらの分裂を、いうなれば諸国民の富への急ぎ足の野心から謀ったのだ。西田哲学に於ける純粋経験への感情論的批判としての三木哲学に於ける構想力概念とは、カント語彙の借用によっているので洋の東西に共通の文脈下にはない。つまりカント的構想力は上述の知性(慣習訳語では悟性)と判断力という概念を中間項として繋ぐ為に導入されているが、三木のそれは西田哲学が開拓しておいた主客未分の強すぎる厳格性をただただ理知(ロゴス)の統一に片寄った論だとして情緒(パトス)の側から再統一を試みたものである。
もし西欧大陸に於ける思想潮流とブリテン島に於ける一歩の速度差とが理性と知性を大きく分割させた西洋風近代化だけの特殊事情なら、多くの途上国か後進国ではわが国が短期間に急激な勢いで経験した複合性をまた、それぞれの近代化経験の中で必要か最低限重要とするだろう。
よって、私は三木哲学の主要概念である構想力とカント哲学のそれとを明白に峻別しておくことは、その文脈の輸出や摘出にとっても相応の功績があると思う。いいかえれば、日本語の中での語感や漢字表意適性から三木に於けるイマジネーション概念を想像力或いは単に想像と再解釈しなおしてカント哲学に於ける構想力の概念とは別に保って措く事が、私達人類精神の知識の内で将来の教育的規律、つまり全認識の分析と総合の効用を高めるに違いない。想像と構想の違いはこれらの文化史的定義の為により精確とされ、結果、単なる理知の統一としての構想力と、更なるその上に情緒もしくは感情との統一を果たした概念としての想像力、とは我々の社会哲学の中で等価に且つ別々に用いられ得るだろう。
世事へ最も疎いほど道家に親しんだ諦念の人はこの意義を殆ど断章取義の虫ピン作業にしか価値判断しないのだろうと、慧眼の教えが千里の道への一歩から出発し得ると十知できるほど生来学問好きなら、なぜこの小論の趣意者が一文字の違いをわざわざ長たらしい理由づけで満たしたかも予測できるかも解らない。それは近代化潮流を接ぎ木した跡を内発的それと遜色なく成長させきる為の一節なので。
政商癒着
マオイスト経団連全国一律TOYOTA分社化で派遣斬り
系列バラマキ多国際勝ち組企業ひとりがち
原口相導醜制論に小突かれ日本全国TOYOTA化計画
紋切り型計画経済ミニチュア中国統制経済
弱体農村の一律壊滅マオイストMr. オクダ
車だらけのクニジャポン豪農潰滅
消費税は統制経済覇権への先手打った還元財
斜陽国家へ誘導トヨタ自動車の城下島ジャパン
政商癒着の薩長土肥が関西系経団連と驕る国
系列バラマキ多国際勝ち組企業ひとりがち
原口相導醜制論に小突かれ日本全国TOYOTA化計画
紋切り型計画経済ミニチュア中国統制経済
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車だらけのクニジャポン豪農潰滅
消費税は統制経済覇権への先手打った還元財
斜陽国家へ誘導トヨタ自動車の城下島ジャパン
政商癒着の薩長土肥が関西系経団連と驕る国
2009年10月24日
趣味的修繕観
社会正義への道徳監督役である評論家の生業とは美徳養生への最低限度のきっかけであり、それは選良化の中で静かに奇跡的形質の開花が偶有の機会を通じて咲き誇りだすのを待ち続ける忍耐強い育種家の仕事と似ている。
岡倉天心の論説による互譲の精神とやらは、我々の全才能を超えている自然の圧倒的創造力への敬意でありその驚嘆すべき繊細で複雑な仕組みへの利用価値および巨視か微視かに関わらない審美的格式の尊重と、加えて人為になしうる再創造への逆算なのだろう。これを解りやすく紐解けば、創作者の設計意図への謙譲、つまり修繕観こそが理想の趣味論の実質であり、本来の芸術についての感性が才能を遺憾無く発揮できる分野、いいかえると心情の純真、心の良さの実務領域である。詩才が生じる所には同様の観測事実がある。つまり凡庸の他者には見及び難い微妙な不調和への気づきと再修整の欲求が、言葉による利い注意力の喚起を要する。だから詩才あるいは感性の鋭さとは心理の繊細さと一体不可分の相対をなす。
岡倉天心の論説による互譲の精神とやらは、我々の全才能を超えている自然の圧倒的創造力への敬意でありその驚嘆すべき繊細で複雑な仕組みへの利用価値および巨視か微視かに関わらない審美的格式の尊重と、加えて人為になしうる再創造への逆算なのだろう。これを解りやすく紐解けば、創作者の設計意図への謙譲、つまり修繕観こそが理想の趣味論の実質であり、本来の芸術についての感性が才能を遺憾無く発揮できる分野、いいかえると心情の純真、心の良さの実務領域である。詩才が生じる所には同様の観測事実がある。つまり凡庸の他者には見及び難い微妙な不調和への気づきと再修整の欲求が、言葉による利い注意力の喚起を要する。だから詩才あるいは感性の鋭さとは心理の繊細さと一体不可分の相対をなす。
分析哲学の意味について
日本語のなかで意味という語のいま占めている位置は決して高くなく、それはおよそmeansの訳として定着しだした半翻訳語に近しいが、語学の内で研究家の占める割合を込めて分析哲学の方法を定義にまつわる解釈論としてここへ適用すると、意味の内には意 と味 の、あるいは意 と味 の分断があると読み込むことはできる。さて一般に、哲学という営みの意義は科学者や知識人からは近現代の開発功績の少なさから疑い深い目でみられる。その学野としての重要性も次第に伝統芸能的な、時代遅れの古代の風儀としてしか顧みられる機会も減っている地域なり郷国もある。また道徳というその成果物の、効果の及ぶ遅ればせながらの時差的性質からこういう謗りはある程度やむを得ない。且つダーウィニズムを社会進化論へと応用したスペンサー理論を完全にのりこえる弁証法的手順を踏んだ批判たる社会哲学的反駁の焦点が絞り込まれて、社会思想内権威への劣勢を挽回しない限り、一貫した古代からの道徳論のいう弱きを助く正義というものが社会科学知識としての地政学的策謀のなりふり構わぬ採用よりも、再び高い地位を宛がわれる見込みとて考えにくい。だが同時に、経済活動の組織内規律づけへの援用に集中しがちなのだが、その手段としての意義は決してなおざりにされてはいない。かなり多重化した仁の規則、いいかえると二者以上の間の社会的慣習を複雑に合理化した倫理規律はもしそれが道具的知性か実用化された合理性を和らげるための緩衝材に使われるなら、おもとして言語の単位あたりの伝達内容に、完全に十分な分析哲学的でない語種と違うだけの意味、非対象語彙か若しくは純形式や半形式的分解語の重畳を可能とする。つまりもし道徳なる名で呼ばれている、集団が共有できる群生の効率的合理性のルールを集積するつもりならそこでは単なる理性の領分で、自然学の態度とは相異なる後学の為に定義の範畴を整理する事が大変能あるといえる。
人類という生態が集団行動の幅をもつ理由は、この共有できた道徳観という言語的重畳性への一連の特殊さに依る、従って、道徳観なる不文律込みの文化素をあまり共通の認識でみたせない集団との迅速な協力行動には度々差し障りが多いし、究極では不可能か反乱に至る。現生人類が掻き集めることに成功した科学知識の惨めな程の情報量からいまだそれを反省的に総合する哲学万能論に陥るつもりなら時期尚早でしかないし、現実は知識の道具的価値が実用主義のうえで確かに調律されつつあるのだが、かりにフィロソフィの一訳語としての智恵という単語を慣用に当て填めてとものめぐみと読み下すなら、この漢語圏によく通る名詞が意味する所はまさしく協力的精神の本質なのである。だから西欧圏では功利主義の系譜ある、冷たい経済学傾向あるイングランド学派の純系を除いてかなりの支配力をもっている分析哲学という現代の脱構造主義以来の思想潮流の本支は、その原点に於いて詞なる単位がもつ意と味の関係への単位伝達能力に関する議論であるということなのだし、更々その帰結は知識によって得られた普遍性の高い意いについての味わいのゆたかさへ向けた変換慣習を組み替える方法の、比較文化内的考察だと考えるのが順当だ。ここで比較文化内的という連鎖した詞の意図している内容の訳は、現実には分析哲学の結果は翻訳能率の問題へと還元されるからなのであり、もしもその裏であるただの単一文化外的それ、乃ち鎖国的輸出限定思想への定義で済むなら語儀分析論という生業は文学と呼ばれているたちの、有り体の文言でさえも充分だろう。なぜなら解釈界の肥沃さではなく系内秩序のみを理由とした論説や随想はすべて本質に関しては既得知識の羅列に留まるのだろうし(客体的脱構築を除く。つまり科学書の単一母語系列あるいは教科書という目的観)、かつ近代日本語のなかで文学という出自の複雑な半学半術の用語が例文づけるその定義は、漢文訓読を裏から貫いている母系の底流をおしつける魅力で説明できるのだから。
もし英米圏(正確なこの両者には独自の自由主義内変説の違いがあるが)での哲学の弱体化が理由づけられるなら訓読の魅了がその詩歌や会話調には文化内交易の手段として介在していないか、とてもしづらいからで、要するには征服か包容の土壌がなければ分析哲学によって言文間解釈界という豊饒な文語の世界を理性的領域へ営々と築き上げる定義者の道徳意志には、趣味の如何を語内で問う動機づけ迄とやらはまるでもしくはやがて存在しないのである。表音や表意ではなく表形の語学がありうる文化圏というのは書道やカリグラフィの文芸がはぐくまれうる基礎でもある。この幅や深みはどうしてある地方では文彩が多様に及び他方ではそうではないかを教える。それは構文の複合性が文士の知的修練に依存している以上、高い教養が定型語形の成熟には地政条件だからだ。絵画や音符と文字の制作可塑性の違いは文章制作に要求されてくる非感覚的な幾何哲学の教育か知識量に地域間か民族間偏差値があることの主要ではある一原因である。ところでよく知られた諺に、年長者と年少者がともに遊んでいた際に保護者によって彼らに掛けられる事の多い負けるが勝ちという逆説じみた対偶の数理様の教えがある。後輩は自制心や克己の達成にも自然遅れてきそうな訳合いから勝負事に遊びのルールを忘れて没頭し、つとに負けるのを嫌って劣等感の裏返しも手伝い強情を張りつづける傾向のあるものだ。当然強い立場にある主な年長者へこの際限ないしっぺ返しループの競争的負債増大を諌める本来の忠告を超えて、道理の面から特有の板挟みの事象を観察すれば、謙譲の道徳的深意とは実はそれによって相手の現に保有している道具立てを一旦開示させ、身の安全を先手を打った講和策で取り澄ましながら未詳文化の習得や奪還を拱くが為である。まず道を譲る方が観察入りの経験則面では数々の先例を集め易い。この手順がまるで無益なときは、換言すると率直の術数上最良なのは、実に手のうちを知り尽くしている身内に対してこそとなる。
ゆえ美徳という極東系の称号を超えて、少なくとも英米圏と西洋圏ではどちらがこの民族間深慮の意図に適うかを問うのなら相対的には人という人なら概そ容易に推定されえてしまうだろう。更にその各国中にでも、夫々礼儀の厳しさがその侭ほぼ環境条件も地政条件も含む道徳観の涵養平均度の変移なのを見渡せるだろう。最終的勝利という有終の美の合目的性を、人類学といまは呼ばれている社会性をもった生物学内政治的配慮寄り分業制へ託つけて予測するなら、あなたは謙譲語こそ本来の意図たる礼節の尊重を超えて、つとめて保全と建設とを強固に基盤づけるべき最も優れた解釈界であると認識するに格 るだろう。そしてその智恵のありかはできる限り多くの文化系統を、とりかえがたい優秀さの許すまで繰り入れようとする甚だしい理想的試合計画への深謀遠慮窮まる打つ先手に求まる。文化間連鎖が途切れ易い神経シナプス間隙の様な一時的通り道か吊橋であると悟れば悟るほど、全勝や逃走への単純素朴な意図を包み込みつつ、勝敗後の関係設計に巧妙至極な算段がより偉大な文明への布石には前提条件となると分かる様になる。そして西洋での分析哲学下のソシュールによる成果解体以来の語学的側面とは脱構造主義的考察の部分集合であり、全体像としての地球星内哲学の潮流は実際には批評の領域や範畴を野生の構造と関連づけながら拡大しようとする口語中心の表音文化への疑義、より過ぎはしない。それは普遍設計にとっては西欧側による布石の一手でしかないからだし、全く以て他の地域での課題とは類を異にしている。だから夏目漱石の考えた如く西洋文化中心主義は覇権思想の近代版でしかなく文明化の結論ではないし、いわんや現代風改変プラグマティズムに基づいた資本民主主義の単独勝利とやらの論拠、後退した西欧圏での混乱した言語学分類の遅れた使い勝手への裏付けではないと言える。要するにのち使い古される事も予想できる文化間多元思想か多声思想は、より複合型の度合いを強める異文明雑食界隈に則った次進歩段階への少々混雑しだしたがなお新しい地平線なのである。美徳とは計算高い礼儀作法。手段兼尊重を基礎とした当人格主義内社会では殆ど最もよいたちの常識が高貴な試合の、必ずしも連戦連勝をのみ意味しない勝負強さの競技規則と一致する。フェアプレイの精神、礼儀正しさは友情を勝敗とは決然と分かつもののふなる美徳によってのみより強くはっきりと見い出せる。そしてこれは騎士道と武士道とを道徳的共通観で暗黙に結び付けている洋の東西を問わない倫理の帯である。但し、聖戦思想を至上命令とみなす中洋諸士にとっては保証の限りでない。
つまるところ、社会秩序の内に計画された道徳法則の発見である意味を考えるということは、生まれ育ちきた文化の出来栄えを総合的な知識量の秤にかけることに等しい。結局、徹底的に意味深い究極の趣味の完成とはその生育のよさを美徳で満たすことの名義である。当然、他者の利点と欠点を批判的に、比較検討して打ち捨てつつ習い覚えようとする哲学の程度はこの完成度に裏打ちされる性格というものの焦点を意味している。これがどうしてmeansが智恵の道を通ってのみ修養されうるかの理由である。謙譲されざる勝負強さがありえない様に、郷士単独では単なる自然知識を越えたいわくは存在できず、する必要もない。
故に、意味を悟る者だけが、しがらみに囲われた社会という一筋縄では行き様が無い多数決を正統視したがる猿蟹合戦式でたえなるいがみ合いの場所でであっても誰もに納得くらいならされる公平な手順をも践むことができ、また時期如何に拘わらず神ながらの計画の連鎖を辿って目的の達成をいずれ決定的とするのだろう。そしてこの最もよく知られた一般方法は既に得られた知識の定義をそれ以上は理論上詳細化できないほど綿密に考え直すこと、英語ではreasoning、相当広く通用する日本語に直せば道理を弁えること乃至は弁理だろう。分析哲学の実質可能性の極北はこの弁理能の開発にあるのだ。それを法解釈に適用することは寧ろ哲学流路の支流又は応用編であり、只の純粋な解釈界整理及び積算よりは優先順位は低いと云えるだろう。人生経験を上手くやってのけるに唯単に自然科学的でありさえすればよい、とする現代風の軽快か軽率な考え方は個人主義的進歩観が最初に芽生えた英米圏発のあけすけな社会正義にとってまったくの基調だが、この無闇に利口ぶった不躾な性格というのは世代間および異文化接触を乗り切った多元的経験則からの意味深な某謙譲道徳なる文体論か様式論の修養不足によって、多かれ少なかれ止まざる協力が為には余りに先んじた個性派への恵まれざる多数派に端を発したいわゆる嫉妬羨望の罠が待ち構えていると想わねばならない。この心配点の正鵠を射る認識は分析哲学の限界である不完全性定理の数理的基礎を超えて、もし極東のオリエンタリズムに依拠した受動の論理だと揶踰されながらでも国際間倫理哲学復権の核心として、外交上で今後とも重用性を益々重ねて行く筈だ。
人類という生態が集団行動の幅をもつ理由は、この共有できた道徳観という言語的重畳性への一連の特殊さに依る、従って、道徳観なる不文律込みの文化素をあまり共通の認識でみたせない集団との迅速な協力行動には度々差し障りが多いし、究極では不可能か反乱に至る。現生人類が掻き集めることに成功した科学知識の惨めな程の情報量からいまだそれを反省的に総合する哲学万能論に陥るつもりなら時期尚早でしかないし、現実は知識の道具的価値が実用主義のうえで確かに調律されつつあるのだが、かりにフィロソフィの一訳語としての智恵という単語を慣用に当て填めてとものめぐみと読み下すなら、この漢語圏によく通る名詞が意味する所はまさしく協力的精神の本質なのである。だから西欧圏では功利主義の系譜ある、冷たい経済学傾向あるイングランド学派の純系を除いてかなりの支配力をもっている分析哲学という現代の脱構造主義以来の思想潮流の本支は、その原点に於いて詞なる単位がもつ意と味の関係への単位伝達能力に関する議論であるということなのだし、更々その帰結は知識によって得られた普遍性の高い意いについての味わいのゆたかさへ向けた変換慣習を組み替える方法の、比較文化内的考察だと考えるのが順当だ。ここで比較文化内的という連鎖した詞の意図している内容の訳は、現実には分析哲学の結果は翻訳能率の問題へと還元されるからなのであり、もしもその裏であるただの単一文化外的それ、乃ち鎖国的輸出限定思想への定義で済むなら語儀分析論という生業は文学と呼ばれているたちの、有り体の文言でさえも充分だろう。なぜなら解釈界の肥沃さではなく系内秩序のみを理由とした論説や随想はすべて本質に関しては既得知識の羅列に留まるのだろうし(客体的脱構築を除く。つまり科学書の単一母語系列あるいは教科書という目的観)、かつ近代日本語のなかで文学という出自の複雑な半学半術の用語が例文づけるその定義は、漢文訓読を裏から貫いている母系の底流をおしつける魅力で説明できるのだから。
もし英米圏(正確なこの両者には独自の自由主義内変説の違いがあるが)での哲学の弱体化が理由づけられるなら訓読の魅了がその詩歌や会話調には文化内交易の手段として介在していないか、とてもしづらいからで、要するには征服か包容の土壌がなければ分析哲学によって言文間解釈界という豊饒な文語の世界を理性的領域へ営々と築き上げる定義者の道徳意志には、趣味の如何を語内で問う動機づけ迄とやらはまるでもしくはやがて存在しないのである。表音や表意ではなく表形の語学がありうる文化圏というのは書道やカリグラフィの文芸がはぐくまれうる基礎でもある。この幅や深みはどうしてある地方では文彩が多様に及び他方ではそうではないかを教える。それは構文の複合性が文士の知的修練に依存している以上、高い教養が定型語形の成熟には地政条件だからだ。絵画や音符と文字の制作可塑性の違いは文章制作に要求されてくる非感覚的な幾何哲学の教育か知識量に地域間か民族間偏差値があることの主要ではある一原因である。ところでよく知られた諺に、年長者と年少者がともに遊んでいた際に保護者によって彼らに掛けられる事の多い負けるが勝ちという逆説じみた対偶の数理様の教えがある。後輩は自制心や克己の達成にも自然遅れてきそうな訳合いから勝負事に遊びのルールを忘れて没頭し、つとに負けるのを嫌って劣等感の裏返しも手伝い強情を張りつづける傾向のあるものだ。当然強い立場にある主な年長者へこの際限ないしっぺ返しループの競争的負債増大を諌める本来の忠告を超えて、道理の面から特有の板挟みの事象を観察すれば、謙譲の道徳的深意とは実はそれによって相手の現に保有している道具立てを一旦開示させ、身の安全を先手を打った講和策で取り澄ましながら未詳文化の習得や奪還を拱くが為である。まず道を譲る方が観察入りの経験則面では数々の先例を集め易い。この手順がまるで無益なときは、換言すると率直の術数上最良なのは、実に手のうちを知り尽くしている身内に対してこそとなる。
ゆえ美徳という極東系の称号を超えて、少なくとも英米圏と西洋圏ではどちらがこの民族間深慮の意図に適うかを問うのなら相対的には人という人なら概そ容易に推定されえてしまうだろう。更にその各国中にでも、夫々礼儀の厳しさがその侭ほぼ環境条件も地政条件も含む道徳観の涵養平均度の変移なのを見渡せるだろう。最終的勝利という有終の美の合目的性を、人類学といまは呼ばれている社会性をもった生物学内政治的配慮寄り分業制へ託つけて予測するなら、あなたは謙譲語こそ本来の意図たる礼節の尊重を超えて、つとめて保全と建設とを強固に基盤づけるべき最も優れた解釈界であると認識するに
つまるところ、社会秩序の内に計画された道徳法則の発見である意味を考えるということは、生まれ育ちきた文化の出来栄えを総合的な知識量の秤にかけることに等しい。結局、徹底的に意味深い究極の趣味の完成とはその生育のよさを美徳で満たすことの名義である。当然、他者の利点と欠点を批判的に、比較検討して打ち捨てつつ習い覚えようとする哲学の程度はこの完成度に裏打ちされる性格というものの焦点を意味している。これがどうしてmeansが智恵の道を通ってのみ修養されうるかの理由である。謙譲されざる勝負強さがありえない様に、郷士単独では単なる自然知識を越えたいわくは存在できず、する必要もない。
故に、意味を悟る者だけが、しがらみに囲われた社会という一筋縄では行き様が無い多数決を正統視したがる猿蟹合戦式でたえなるいがみ合いの場所でであっても誰もに納得くらいならされる公平な手順をも践むことができ、また時期如何に拘わらず神ながらの計画の連鎖を辿って目的の達成をいずれ決定的とするのだろう。そしてこの最もよく知られた一般方法は既に得られた知識の定義をそれ以上は理論上詳細化できないほど綿密に考え直すこと、英語ではreasoning、相当広く通用する日本語に直せば道理を弁えること乃至は弁理だろう。分析哲学の実質可能性の極北はこの弁理能の開発にあるのだ。それを法解釈に適用することは寧ろ哲学流路の支流又は応用編であり、只の純粋な解釈界整理及び積算よりは優先順位は低いと云えるだろう。人生経験を上手くやってのけるに唯単に自然科学的でありさえすればよい、とする現代風の軽快か軽率な考え方は個人主義的進歩観が最初に芽生えた英米圏発のあけすけな社会正義にとってまったくの基調だが、この無闇に利口ぶった不躾な性格というのは世代間および異文化接触を乗り切った多元的経験則からの意味深な某謙譲道徳なる文体論か様式論の修養不足によって、多かれ少なかれ止まざる協力が為には余りに先んじた個性派への恵まれざる多数派に端を発したいわゆる嫉妬羨望の罠が待ち構えていると想わねばならない。この心配点の正鵠を射る認識は分析哲学の限界である不完全性定理の数理的基礎を超えて、もし極東のオリエンタリズムに依拠した受動の論理だと揶踰されながらでも国際間倫理哲学復権の核心として、外交上で今後とも重用性を益々重ねて行く筈だ。
皿
朝起きると、お下劣なお笑い芸人が勝ち組だ、勝ち組だとテレビで吠えまくる。福祉よ福祉よと意味もしらんくせほざく女だてらの馬鹿がその下賎な子供を殖やしまくる気だって。子育てって、動物園ではタダだって。太宰治万歳! 大東亜万歳大阪人万歳! 品性下劣下等人種大阪人万歳!
で? と僕はおもう。だから? 生きててなにがたのしいの? ビオラでも宮廷で弾いてりゃすべてが解決しますか? 僕はたった独り、世界の隅で、今にも落ちそうな崖っぷちの端っこで着のみ着のまま、君らが汚い金儲けと下卑た繁殖劇場に励むのを見た。君ら俗物が、人間は最高だ、楽しんだもんがちやとほざくのを冷めた目でみつめる。
多摩川でホームレスが見る夕日でさえもお前らの目に見えないのか? クリスマスのバカップルが、映画館でハリウッドばりの演出に泣けましたよぉと言う。悪人仕立てたイスラム教徒を殺しまくる会社に泣ける泣けると言う。
人間はたのしい? 永遠のくりかえし。神道万歳! 神道万歳! 芸者ジャップの犯罪天国。自由だ、自由だとヤクザが言う。なにせ世界一ど偉い万物の聖霊ジャパニーズテンノー殿のご命令であーる。福祉だ、子供なら誰でもいい。なら豚を飼うがいい。
そして血みどろの首をちょん斬り、毎朝の食卓でベーコンに据えよ。僕は貴様らの繁殖劇場などには一銭の価値も認めないが、殺して喰らうくらいならそれで十分だ。殖えるしか能のない豚どもよ、食物連鎖の末に炙肉祭の贄 として因果応報の理を知るがいい。そして高い知性の栄養価となれ。僕は朝食を終えると、その皿を洗った。
で? と僕はおもう。だから? 生きててなにがたのしいの? ビオラでも宮廷で弾いてりゃすべてが解決しますか? 僕はたった独り、世界の隅で、今にも落ちそうな崖っぷちの端っこで着のみ着のまま、君らが汚い金儲けと下卑た繁殖劇場に励むのを見た。君ら俗物が、人間は最高だ、楽しんだもんがちやとほざくのを冷めた目でみつめる。
多摩川でホームレスが見る夕日でさえもお前らの目に見えないのか? クリスマスのバカップルが、映画館でハリウッドばりの演出に泣けましたよぉと言う。悪人仕立てたイスラム教徒を殺しまくる会社に泣ける泣けると言う。
人間はたのしい? 永遠のくりかえし。神道万歳! 神道万歳! 芸者ジャップの犯罪天国。自由だ、自由だとヤクザが言う。なにせ世界一ど偉い万物の聖霊ジャパニーズテンノー殿のご命令であーる。福祉だ、子供なら誰でもいい。なら豚を飼うがいい。
そして血みどろの首をちょん斬り、毎朝の食卓でベーコンに据えよ。僕は貴様らの繁殖劇場などには一銭の価値も認めないが、殺して喰らうくらいならそれで十分だ。殖えるしか能のない豚どもよ、食物連鎖の末に炙肉祭の
美徳の批評
私は脱構造主義の意味を適宜踏まえて、正義のみならず美徳は脱構築不能であると考える。その理由は、おそらく趣味の道理というものが我々には未だ十分には開示されていない普遍的で厳密な規則、言いかえればまなばれるべき宇宙性あるいは秩序を数え切れないほど隠し持っているからなのだろう。自然現象の後学としての形而上学、アリストテレス以来の哲学的伝統を最も理に適った手順で実践的社会生活と結ぶには芸術への注意深い批評というものが、意味の積算によって文化の様々に異なる地域毎に営まれる自由が必要だろう。これはいわば批評の自由と考えられ、自由権の一つに数え上げられる。古代ギリシアでの文芸の共同体、いいかえると仲間(パレーア)又は仲介(パレイサクトス)の権利は現代での集会と結社の自由に対応する。そしてそれらの間でつかうに適した共通券はこの批評の権利だと言える。先進国際的な表現規制への先例または常識としての所謂明白かつ現在の危険の原則とは、実際にはこの批評の自由の例外規則、つまり誤解に基づく非難の場合にのみあてはまる、刑法下の名誉毀損罪と一致する。事実の有無にかかわらずという現行法文言のありうべき正確な解釈は、確実な悪行への正当な批判ではなくていわれのない中傷、たとえば事実無根の偽装工作によって濡れ衣を着せられた様な場合、名誉にかかわる冤罪の原則にこそ当たる批評悪用への防止規範だった。
もしこの原則に反して道徳性の欠陥を公に批判された個人がつよすぎる自負心の反動からきた怒りにまかせてありえない訴訟をしたとすると、かれは世界中の笑い者になるばかりだろう。だから批評権とは表現の自由への監査的制動機として働く、正義の応報による社交美啓蒙の機能であり本性である。
悪徳がみな醜であるということは自業自得からの返答の遅さから小さなことなら見逃される機会も俗習では少なくはないが、悪徳だけが脱構築できる、つまり公的欠点を指摘し他の長所と引き比べて正当に内心か表現上で批判可能である。
もしこの原則に反して道徳性の欠陥を公に批判された個人がつよすぎる自負心の反動からきた怒りにまかせてありえない訴訟をしたとすると、かれは世界中の笑い者になるばかりだろう。だから批評権とは表現の自由への監査的制動機として働く、正義の応報による社交美啓蒙の機能であり本性である。
悪徳がみな醜であるということは自業自得からの返答の遅さから小さなことなら見逃される機会も俗習では少なくはないが、悪徳だけが脱構築できる、つまり公的欠点を指摘し他の長所と引き比べて正当に内心か表現上で批判可能である。
2009年10月21日
政府公報の資本経済内原則
何らかの緊急時に、政府広報の直轄機関というものを民営のテレビ局とはべつに確保しておくことは有徳だとも考えられる。もしこれがまったくないと、ほぼ損得勘定に左右されざるをえない‘民放集中の弊害’によって、確実に最重要情報が伝達できないおそれがある。
たとえば突如として国内にテロリズムが起きた場合、この政府による避難や勧告の精確無比な報道に民放をつかうことには限界がある。
当然、「公共情報の精確さ」より後先かえりみない話題性に曳かれてその場限りの誤報や速報へと内容はかたよりがちになり、世論や民心のムダなあおり立てと混乱状態がいやましに起こりそうだと言える。
かつてまずしい情報網しかなかった危急時にデマが起こした唯ならぬ悲劇を覚えておかねばならない(関東大震災時の在日朝鮮人虐殺事件)。
しかしまた同時に、官営状態だと各種の官僚主義の退化によって不経済や上意下達組織特有の悪習が堂々とまかり通る傾向も免れない。つまり平穏時には決して公報機関の‘純粋な’官営は、最善の手だてとはいえない。
――この利害両面を天秤にかけて将来をおもんばかると、おそらく公報機関としてもっとも賢い方法というのは今日において、まずいちど公共放送事業を民営化してその株式会社化をすすめてのち、『国営株主構想』によって政府がその税収からくる財産によって、公報機関の過半の株式を保有してしまっておくことだ。
こうすればいわゆる民間の投資家とおなじ立場にたって、株主総会という多かれ少なかれおおやけに経営へ口を出せる立場から普段は民営セクター同然の高効率の運用を施しうる一方で、いざというときは主要株主たる会社の支配権を援用して緊急の公共放送を流すことができる。
この結果、もし度々の小さな政府の段階にあって放送局の規模が一時的に縮小しようと株式の過半支配を超えないままに運用していくつもりなら、内容がどれだけ細々とでも最低1chの公共化は果たせるはずだ。
おそらくそのための新しい放送権の調整も要るかもしれない(放送の自由と、政府の税収経営機関としての立場のすりあわせがうまくいくよう、まだ民営局が乏しかった時代につくった反福祉的な法的摩擦力の調整)。
たとえば突如として国内にテロリズムが起きた場合、この政府による避難や勧告の精確無比な報道に民放をつかうことには限界がある。
当然、「公共情報の精確さ」より後先かえりみない話題性に曳かれてその場限りの誤報や速報へと内容はかたよりがちになり、世論や民心のムダなあおり立てと混乱状態がいやましに起こりそうだと言える。
かつてまずしい情報網しかなかった危急時にデマが起こした唯ならぬ悲劇を覚えておかねばならない(関東大震災時の在日朝鮮人虐殺事件)。
しかしまた同時に、官営状態だと各種の官僚主義の退化によって不経済や上意下達組織特有の悪習が堂々とまかり通る傾向も免れない。つまり平穏時には決して公報機関の‘純粋な’官営は、最善の手だてとはいえない。
――この利害両面を天秤にかけて将来をおもんばかると、おそらく公報機関としてもっとも賢い方法というのは今日において、まずいちど公共放送事業を民営化してその株式会社化をすすめてのち、『国営株主構想』によって政府がその税収からくる財産によって、公報機関の過半の株式を保有してしまっておくことだ。
こうすればいわゆる民間の投資家とおなじ立場にたって、株主総会という多かれ少なかれおおやけに経営へ口を出せる立場から普段は民営セクター同然の高効率の運用を施しうる一方で、いざというときは主要株主たる会社の支配権を援用して緊急の公共放送を流すことができる。
この結果、もし度々の小さな政府の段階にあって放送局の規模が一時的に縮小しようと株式の過半支配を超えないままに運用していくつもりなら、内容がどれだけ細々とでも最低1chの公共化は果たせるはずだ。
おそらくそのための新しい放送権の調整も要るかもしれない(放送の自由と、政府の税収経営機関としての立場のすりあわせがうまくいくよう、まだ民営局が乏しかった時代につくった反福祉的な法的摩擦力の調整)。
2009年10月20日
原罪の啓発効果について
なぜ人類が同類項について、死刑を正当視するのか。この極めつけに重い命題は数々の暗黒裁判の人類史が、裁判制度を持つ様になってからその極刑をも過ちで埋めてきた理由を原罪の観念で示し合わせる。絶対善の理解不能さが当段階に実在している同類項の法的理性の限界から超出する時、人類は競うが如くに自己正当化の恐怖に囚われて超善人を犠牲にする。だが総合して看返すと、この苛酷な判決をした集団は含まれた悪意の故に良心の呵責に襲われて自壊を速めるか、又は他の隣接か内蔵した相対して良識的な集団から強く敵視される事でいわば自業自得の結末、つまり終局での破滅に至る。無論、絶対善はそれが同代の総合知識、教養の池からの超出が過ぎるほど理解されるのが遅くなる。多くの諸子百家時代の理想論者がどうして同時代の行政権力に余り召し迎え入れられなかったかの理は、この善意の程度に是政者毎千差万別の現実状態との格差があるからだと言える。そして一般に歴史が教える所では聖者の程度が高ければ高いほど、その崇高な理想は現実に属している宗教団体の意向とから隔絶した教学をも意味し、結果いわゆるのちの世界宗教規模の道徳観を達成した個性は確実に、同世代の社会的裁判制度という法規遵守をのみ原理とした現世処理系依存派にとっては覆いきれるものではない。則ち政相互の主として党派的な啓蒙活動の余地が生まれる。語族間の変異を原型とする文化間競走の動機づけも又その了見間の知識総量を問う民族間の闘争か互恵を原理とする。
だが又同時に、どの道徳行動も決してその不合理性を合倫理性よりも重く視ることはないので、さもなくば偽善と呼ばれるが、殉教の故に若しくは殉教的であればあるほど、その死者の瓦礫の山は当該行動型を神聖化するのに一役買うことになる。絶対善の現世内実現不能さを省みると、また幕末志士一般がそうであった如く善意志を命拾いよりも高く見積もる傾向は、某道徳観を大袈裟な演技それそのものの悲劇的精神によって否が応にも強調し見物客や歴史家の眼差しへ誇示するのに十分なのだった。要するに極刑は不名誉の証でもない限り所謂志士の類へはその決死の覚悟を寧ろ強化こそすれ、決して極端な道徳行動、つまり極道の仁義遂行に抑止力をもつものではない。これがおよそ原罪なる法的負債の前提を、どうしてユダヤ教徒という砂漠周縁圏の流浪を余儀なくされた極めて先覚的な民族が工夫せねばならなかったかの訳あいである。そこではすでに道徳心について到達された高度の純血主義を保守するのに、この種の無謀な企ての一切を生来の臆病さ及び深慮を期した怜悧さで補うほかの手はみいだせなかったのだろう。もし原罪観念が刷り込まれていさえすれば、その個人は負債返還への潜在的畏れの為に自己犠牲を思い止まることが多かった筈で、結果としてこの観念は流浪の文化素としては最も価値の高い被保存形質を誘なったのだった。
我々が以上の道理を理解すれば次の事は合理的であると認めるに至るだろう。もし原罪観念を導入しさえすれば、その人間集団では生得的負債感情の芽生えによって自己犠牲を伴う数々の道徳行動は理性ある人格の間では、全生命の父祖への感謝と並々ならぬ畏怖の為に自動的に抑止され、結果として極刑を度々執行せずとも志士的な決死の抑圧者へはその思い詰める先にいちずな信仰への脱出口がおのずと啓けるだろうと。
これがどうしてキリスト教の広まった国では死刑廃止が妥当とされるほど文化段階に高級な倫理慣習上の寛容性が観られるかの一般理由であり、且つ反証ではあるが、論理的には納得できる冒頭の命題への便宜的解答だと思われる。神官階級の独占物として原理主義、原典合致至上思想が適法強制力をもっていた世界でその心理的緩和を謀ったこと、すなわち当時の学識を弁証法的に逆手にとって一選民の決定的な長への待望でしかなかった救世主概念を選ばれざるはず全民族への救済へと向け変えた決死の演技力こそがジーザスの志士的功績である。そしてその成果に本来の意図たる一宗独裁体制への批判を超えてみるべきものがあったことは、彼の福音信仰を欠かさない地域の人々が、元々の原典の神話性を検証し直した結果さらに強化されることになった原罪観念の延長にして生まれ持たされた負債感情の負い目から、極刑を不条理の設計として自主廃棄している、高度の道徳あるいは良心に結晶してもいる。こういう配慮の結果、暗黒裁判、致命的誤審の確率はきわめて低まり、その穏健派の地域では一切の極道じみた悲劇は程度の強い道徳的即ち知能行動の変異への同情からきたる保存欲求つまり正義漢の英雄主義とあわせて自然解消していく。命懸けで暴力よりも理屈に訴えるキリスト教精神極北の尊さがここにある。
がいいかえると、政宗一致の慣習のある我が国ではそのつくりっぱなしの原典が原罪の高度な道徳観をもたざるかぎり、永久に右翼と言えば必ずあしき手段に訴えるギャングやマフィア或いはヤクザの名義でありつづけるだろうし、その暴力団体の抱え込みに伴うあらゆる悪徳の渦というものは、元来保守派、つまり現状維持の擁護というにすぎないはず右派全員の倫理行動を自己否定の感情で襲い来るのだろう。なぜなら債権がないのに借金取りをする感情は必ず自己否定に、その最高段階でも悪意の誤魔化しに繋がるほかない。切腹という極端な慣習が、自殺率の極端な高さと共にこの長年大陸から隔離されてきた十分知られざる国でよく近代化された政治と素朴なままの宗教をいまだに混同している歪みの根底に横たわっている、その論拠はここにある。
だが又同時に、どの道徳行動も決してその不合理性を合倫理性よりも重く視ることはないので、さもなくば偽善と呼ばれるが、殉教の故に若しくは殉教的であればあるほど、その死者の瓦礫の山は当該行動型を神聖化するのに一役買うことになる。絶対善の現世内実現不能さを省みると、また幕末志士一般がそうであった如く善意志を命拾いよりも高く見積もる傾向は、某道徳観を大袈裟な演技それそのものの悲劇的精神によって否が応にも強調し見物客や歴史家の眼差しへ誇示するのに十分なのだった。要するに極刑は不名誉の証でもない限り所謂志士の類へはその決死の覚悟を寧ろ強化こそすれ、決して極端な道徳行動、つまり極道の仁義遂行に抑止力をもつものではない。これがおよそ原罪なる法的負債の前提を、どうしてユダヤ教徒という砂漠周縁圏の流浪を余儀なくされた極めて先覚的な民族が工夫せねばならなかったかの訳あいである。そこではすでに道徳心について到達された高度の純血主義を保守するのに、この種の無謀な企ての一切を生来の臆病さ及び深慮を期した怜悧さで補うほかの手はみいだせなかったのだろう。もし原罪観念が刷り込まれていさえすれば、その個人は負債返還への潜在的畏れの為に自己犠牲を思い止まることが多かった筈で、結果としてこの観念は流浪の文化素としては最も価値の高い被保存形質を誘なったのだった。
我々が以上の道理を理解すれば次の事は合理的であると認めるに至るだろう。もし原罪観念を導入しさえすれば、その人間集団では生得的負債感情の芽生えによって自己犠牲を伴う数々の道徳行動は理性ある人格の間では、全生命の父祖への感謝と並々ならぬ畏怖の為に自動的に抑止され、結果として極刑を度々執行せずとも志士的な決死の抑圧者へはその思い詰める先にいちずな信仰への脱出口がおのずと啓けるだろうと。
これがどうしてキリスト教の広まった国では死刑廃止が妥当とされるほど文化段階に高級な倫理慣習上の寛容性が観られるかの一般理由であり、且つ反証ではあるが、論理的には納得できる冒頭の命題への便宜的解答だと思われる。神官階級の独占物として原理主義、原典合致至上思想が適法強制力をもっていた世界でその心理的緩和を謀ったこと、すなわち当時の学識を弁証法的に逆手にとって一選民の決定的な長への待望でしかなかった救世主概念を選ばれざるはず全民族への救済へと向け変えた決死の演技力こそがジーザスの志士的功績である。そしてその成果に本来の意図たる一宗独裁体制への批判を超えてみるべきものがあったことは、彼の福音信仰を欠かさない地域の人々が、元々の原典の神話性を検証し直した結果さらに強化されることになった原罪観念の延長にして生まれ持たされた負債感情の負い目から、極刑を不条理の設計として自主廃棄している、高度の道徳あるいは良心に結晶してもいる。こういう配慮の結果、暗黒裁判、致命的誤審の確率はきわめて低まり、その穏健派の地域では一切の極道じみた悲劇は程度の強い道徳的即ち知能行動の変異への同情からきたる保存欲求つまり正義漢の英雄主義とあわせて自然解消していく。命懸けで暴力よりも理屈に訴えるキリスト教精神極北の尊さがここにある。
がいいかえると、政宗一致の慣習のある我が国ではそのつくりっぱなしの原典が原罪の高度な道徳観をもたざるかぎり、永久に右翼と言えば必ずあしき手段に訴えるギャングやマフィア或いはヤクザの名義でありつづけるだろうし、その暴力団体の抱え込みに伴うあらゆる悪徳の渦というものは、元来保守派、つまり現状維持の擁護というにすぎないはず右派全員の倫理行動を自己否定の感情で襲い来るのだろう。なぜなら債権がないのに借金取りをする感情は必ず自己否定に、その最高段階でも悪意の誤魔化しに繋がるほかない。切腹という極端な慣習が、自殺率の極端な高さと共にこの長年大陸から隔離されてきた十分知られざる国でよく近代化された政治と素朴なままの宗教をいまだに混同している歪みの根底に横たわっている、その論拠はここにある。
2009年10月18日
光
問ひ来るわが道ふりかえりて思ほふは只静かなりし浪
よに独り返す返すも漣のつらなる空にことわりを問ふ
うまれきて消えゆくいのちの声に似し浦波の音にとわの痛みよ
通り道なにごともなく咲き誇る糺の百合にも歌の調べよ
先駆けの志高く青空に一筋見ゆる晴れ間の光
よに独り返す返すも漣のつらなる空にことわりを問ふ
うまれきて消えゆくいのちの声に似し浦波の音にとわの痛みよ
通り道なにごともなく咲き誇る糺の百合にも歌の調べよ
先駆けの志高く青空に一筋見ゆる晴れ間の光
2009年10月17日
借用の現代
推敲される文字種が既存のものでなければならない根拠はなく、和語ないしヤマトコトバの音と声とが仮名文字の単音接化にともなってほぼ一致していった例は、複合および重畳という言葉の系統論に必然の消費的進化がその既存語彙池からの借用の慣れにとって経済的整理の順列の規則で一元化されつつある文化的段階のものであると示すにとどまる。ヤマトコトバが唯一の日本語成文法の凡例であると言うことは、もし充分に人類学とか比較文化論とか民俗学とかいわれる分野からの知識流入を免れないどこのアカデミズムでもいずれためらわれる様になるだろう。尤も国学か皇学専門の場所、その種の独自の適所では例外の余地もあるが。
つまるところヤマトコトバへの一語一句のあてはめという近代化の原典か原理主義はいずれ批判的に検証されきって、文芸思潮の上でも支配力をもたなくなるだろう。朝鮮語に於けるハングル文字の、或いは英語に対する発音記号の、もしくは中文へのピンインの夫々の表記的可塑をみよ。蓋し仮名と漢字読み下しの関係は、もしもこれらのどれもよりずっと高い可塑性、加之つよい借用の利便性を解釈界に確保できねば国際的な生き残り競争にその芸術面で遅れてしまうだけだ。
語学、特に漢字の使用に於ける経済的整理の法則はその最終段階で仮名という草体の採用に至った。だが文字そのものへの一体一対応の仮設性は決して最適でもなく不動でもあるべきでないし、その本質的意図として、発祥が助詞や助動詞の注釈であったことは仮名とは漢文への補佐語か補意語として有用さをもつべきであったと教える。これらの分析は、和文の将来がヤマトコトバへの依存から抜け出し、また仮名の本旨たる漢文注解という表音特性以外からの借用も当然に影響力を高めるべきなりと指導し教え諭している。
そのとき仮名使用法の変形にあわせて我々の、また日本人の言葉づかいもより自由度と推敲の品質について変わるだろう。漢語を全面的にとりいれることにした判断は、古代政治の初段の時点で開明的であったとこれで益々理解できるだろうし、全面英語化しなかった明治維新時の方針も和漢洋の語法が混在する独特の体系へ、それをつかいこなす国民的巧みさの比類なき雑食文化としたたかさへ溜め息をつかせるたぐいのそれだろう。あまつさえ、めくるめく文法交通網の地下鉄路線図的混雑加減の放置を解せない第二外国語学習者以上にとっていい意味かは不明だ。
日本語とは存在しないところにある、と考えられるべきだろう。そのことが純粋な日本語系統論のごく賢明なる血統主義なのだから。梵我一如を全論説の中央に引いた岡倉天心の慧眼は、その国粋主義的アジア盟主思想への転用という痛ましく悲しげな傷痕を美術と和睦を茶道と関連づけたこともなかった破廉恥きわまる邪悪な売国明治政府薩長同盟クーデター乗っ取り近視眼妄動的軍部独裁組からのいわれなき暴力事件がかったいわば時代モノな虚実被膜の濡れぎぬ紛いの沙汰として差し引けば、わが国の伝統文化上のまさに借用的な核心だったのだ。
つまるところヤマトコトバへの一語一句のあてはめという近代化の原典か原理主義はいずれ批判的に検証されきって、文芸思潮の上でも支配力をもたなくなるだろう。朝鮮語に於けるハングル文字の、或いは英語に対する発音記号の、もしくは中文へのピンインの夫々の表記的可塑をみよ。蓋し仮名と漢字読み下しの関係は、もしもこれらのどれもよりずっと高い可塑性、加之つよい借用の利便性を解釈界に確保できねば国際的な生き残り競争にその芸術面で遅れてしまうだけだ。
語学、特に漢字の使用に於ける経済的整理の法則はその最終段階で仮名という草体の採用に至った。だが文字そのものへの一体一対応の仮設性は決して最適でもなく不動でもあるべきでないし、その本質的意図として、発祥が助詞や助動詞の注釈であったことは仮名とは漢文への補佐語か補意語として有用さをもつべきであったと教える。これらの分析は、和文の将来がヤマトコトバへの依存から抜け出し、また仮名の本旨たる漢文注解という表音特性以外からの借用も当然に影響力を高めるべきなりと指導し教え諭している。
そのとき仮名使用法の変形にあわせて我々の、また日本人の言葉づかいもより自由度と推敲の品質について変わるだろう。漢語を全面的にとりいれることにした判断は、古代政治の初段の時点で開明的であったとこれで益々理解できるだろうし、全面英語化しなかった明治維新時の方針も和漢洋の語法が混在する独特の体系へ、それをつかいこなす国民的巧みさの比類なき雑食文化としたたかさへ溜め息をつかせるたぐいのそれだろう。あまつさえ、めくるめく文法交通網の地下鉄路線図的混雑加減の放置を解せない第二外国語学習者以上にとっていい意味かは不明だ。
日本語とは存在しないところにある、と考えられるべきだろう。そのことが純粋な日本語系統論のごく賢明なる血統主義なのだから。梵我一如を全論説の中央に引いた岡倉天心の慧眼は、その国粋主義的アジア盟主思想への転用という痛ましく悲しげな傷痕を美術と和睦を茶道と関連づけたこともなかった破廉恥きわまる邪悪な売国明治政府薩長同盟クーデター乗っ取り近視眼妄動的軍部独裁組からのいわれなき暴力事件がかったいわば時代モノな虚実被膜の濡れぎぬ紛いの沙汰として差し引けば、わが国の伝統文化上のまさに借用的な核心だったのだ。
借用の古典的基礎
既存人種がすでに作られたどれかの文字か音符を黙読か音読用の声に割り当てて使う慣習、いわば借用の慣れはその思考能力を大幅に削減や合理化してしまった。この借用の規則が語学と呼ばれる中間的学野の全領分であり外にない。そして分析哲学が試行錯誤している理性認識の限界は、言葉の借用法則の相当部分が創作行為による偶然性を含むというまた解釈のみならず執筆か講話も含める主観の論理をその伝統の帰結とする。カント哲学(純粋理性批判)に於ける主観の根拠は、時間についての直観がその格律であるという少なからぬ便宜上の立場を思索者の自己統一に与えてくれてきた。物理学者アインシュタインがこのカントの主観の立場を晩年の寄稿論文で批判できた私の知る唯一の哲学徒だが、彼の論拠は、空間や時間が巨視的物理系では説明の上で分離的かつ各々のパラメーターが可変であると業績上定めたことから、それら時空間の論理を理性認識という中世以来伝統の立場から少なくとも、若しくは多からずとも巨視観のもとでは分かち得るという言ってみれば神の理性の直観に由来している。
だが仮にこれが仮説できるところで、我々にとっての時間直観が唯一の主観の根拠だというカント的基礎は決して理性的な偽ではない。きのうの自分ときょうのそれとがおなじであるただ一つの訳は、庸視的な時間に単純な順列の規則が一貫して見いだせるからだと説明づけるのがいまなお妥当だ。さもないと時間旅行者は、一貫した自己同一性を証明するのにわざわざ遺伝情報を書き出すしかなくなってしまい、目覚める度日々大変に煩わしい。神の理性というものの正体は、終局の認識論拠として時空の間に不即不離性を見逃して考えた通俗科学趣味のあったアインシュタイン個人の仮想物ないし宗教的混同ではないだろうか。創造主というものを人格化または擬人化して考えることがなければ、理性認識を飽くまでも知能行動の自己組織的図式からはみ出して捉えようとする様な嘗て不可侵性の誇示である呪術信仰の対象としてあった神話段階への退行は、戒められる筈だ。
超理性的認識は存在しない。仮にそれが仮定されるとすれば、哲学の営みの停止による潜在化された知能行動の退化それそのものか宗教的唯一神の超越性を設ける必要のある倫理問題の前での方便としてだけである。たとえ物理的巨視系についてですら、宇宙の諸理性が夫々の営みを十全な最高目的への部品計画として、言ってみれば謙虚な道徳学徒として世界各地から集めた智恵を致すならその法則はすべて理性的である。合理化の規則は森羅万象を包み込む(汎神論の本質)という古代哲学以来の真理探求の信念が他のどの惑星系のもとで営まれた教養劇団の上でも真、なかんづく善ですらしばしあるならば、その究極の理由はやはり神慮とでも思われるもの、つまり創造論的摂理の中にある。
今更には、哲学可能な理性認識の拡張は各種の啓蒙の効き目によって超理性的認識の偽装による占いやまじない、いわゆる異端宗教の衣を着て卒なく大乗部から金銭や迷信を誘うといった悪意寄生の徒を一人のこらず峻然と暴き出す、積極的な科学知識度批判の公開された常識的正当化なる役名をその信教相互の倫理的系統論に関する知識の豊富さからあてがわれて然るべき立場に儘ある。要するに、専門用語に於いてのカント的な超越論的仮象なるものはその徹底した否定媒介性、いいかえれば登り詰めることの永久にできない梯子として理性的究極意図誘引の方法に関して有用なのである。そしてありうることだが、その有用性をか弱き人の為には特有の思考内抽象性を伝承向けに簡略化した信仰の助けを借りずにとも強壮に思索できる自己の歩みで確信させるに至る、一部に存在する決定力ある理性的変異大脳新皮質、特に前頭前野の一層の誇大傾向を導く教師とはのちに聖哲きわまり一大宗派を形成するにせよ、哲学者そのひと自身でなければならない。
分析哲学議論の概説である借用の慣れの批判や論理的ないし学的基礎付けとはこの信仰外有用性の絶えず回帰される理性認識の立場、すなわち直観の論拠を根本理由とする。因みに、日本語では感の字と観のそれとを使い分けて音声以外では使い分けもみられる。おもに生物学上は感覚器官への想起をよびやすいという利点から直感の語が好まれまたそれには合理性もあるが、ギリシア語テオーリアの訳語から観想と翻案されてきた経験から哲学語としては直観の語が好まれまたそこに必然性がある。なぜならただ観るという見物客の立場は、ただ感ける主体より自由人にとって純理論的考察の条件として好適なのだから。どうして感情が芸術家たちの才能なのか、ここから率直に理解できるだろう。度合いこそあれ手仕事に携わる場合は一所懸命その生業へかまけるに間違えない。
そして借用が重要であればあるほど、その直観認識は単に語学の知識だけでなく哲学的な深度をも的確に持っているであろう。古典を引けば記すまでもないが、書家を含めて言葉をつくりだす文芸の才能に於ける感情の良さはこの趣味についてのすぐれた判断のもとにこそ初めて推敲されることとなる。
だが仮にこれが仮説できるところで、我々にとっての時間直観が唯一の主観の根拠だというカント的基礎は決して理性的な偽ではない。きのうの自分ときょうのそれとがおなじであるただ一つの訳は、庸視的な時間に単純な順列の規則が一貫して見いだせるからだと説明づけるのがいまなお妥当だ。さもないと時間旅行者は、一貫した自己同一性を証明するのにわざわざ遺伝情報を書き出すしかなくなってしまい、目覚める度日々大変に煩わしい。神の理性というものの正体は、終局の認識論拠として時空の間に不即不離性を見逃して考えた通俗科学趣味のあったアインシュタイン個人の仮想物ないし宗教的混同ではないだろうか。創造主というものを人格化または擬人化して考えることがなければ、理性認識を飽くまでも知能行動の自己組織的図式からはみ出して捉えようとする様な嘗て不可侵性の誇示である呪術信仰の対象としてあった神話段階への退行は、戒められる筈だ。
超理性的認識は存在しない。仮にそれが仮定されるとすれば、哲学の営みの停止による潜在化された知能行動の退化それそのものか宗教的唯一神の超越性を設ける必要のある倫理問題の前での方便としてだけである。たとえ物理的巨視系についてですら、宇宙の諸理性が夫々の営みを十全な最高目的への部品計画として、言ってみれば謙虚な道徳学徒として世界各地から集めた智恵を致すならその法則はすべて理性的である。合理化の規則は森羅万象を包み込む(汎神論の本質)という古代哲学以来の真理探求の信念が他のどの惑星系のもとで営まれた教養劇団の上でも真、なかんづく善ですらしばしあるならば、その究極の理由はやはり神慮とでも思われるもの、つまり創造論的摂理の中にある。
今更には、哲学可能な理性認識の拡張は各種の啓蒙の効き目によって超理性的認識の偽装による占いやまじない、いわゆる異端宗教の衣を着て卒なく大乗部から金銭や迷信を誘うといった悪意寄生の徒を一人のこらず峻然と暴き出す、積極的な科学知識度批判の公開された常識的正当化なる役名をその信教相互の倫理的系統論に関する知識の豊富さからあてがわれて然るべき立場に儘ある。要するに、専門用語に於いてのカント的な超越論的仮象なるものはその徹底した否定媒介性、いいかえれば登り詰めることの永久にできない梯子として理性的究極意図誘引の方法に関して有用なのである。そしてありうることだが、その有用性をか弱き人の為には特有の思考内抽象性を伝承向けに簡略化した信仰の助けを借りずにとも強壮に思索できる自己の歩みで確信させるに至る、一部に存在する決定力ある理性的変異大脳新皮質、特に前頭前野の一層の誇大傾向を導く教師とはのちに聖哲きわまり一大宗派を形成するにせよ、哲学者そのひと自身でなければならない。
分析哲学議論の概説である借用の慣れの批判や論理的ないし学的基礎付けとはこの信仰外有用性の絶えず回帰される理性認識の立場、すなわち直観の論拠を根本理由とする。因みに、日本語では感の字と観のそれとを使い分けて音声以外では使い分けもみられる。おもに生物学上は感覚器官への想起をよびやすいという利点から直感の語が好まれまたそれには合理性もあるが、ギリシア語テオーリアの訳語から観想と翻案されてきた経験から哲学語としては直観の語が好まれまたそこに必然性がある。なぜならただ観るという見物客の立場は、ただ感ける主体より自由人にとって純理論的考察の条件として好適なのだから。どうして感情が芸術家たちの才能なのか、ここから率直に理解できるだろう。度合いこそあれ手仕事に携わる場合は一所懸命その生業へかまけるに間違えない。
そして借用が重要であればあるほど、その直観認識は単に語学の知識だけでなく哲学的な深度をも的確に持っているであろう。古典を引けば記すまでもないが、書家を含めて言葉をつくりだす文芸の才能に於ける感情の良さはこの趣味についてのすぐれた判断のもとにこそ初めて推敲されることとなる。
武蔵
くさるほどカネを余した卑猥な老人たちが
きみを見下して言う。ほら、結婚しろ
そして日本を繁栄させろ。ところが
きみには120円のジュースを買うカネもない。
それは猥褻物頒布罪極悪都知事に媚びをうった
女流の猥褻物頒布罪極悪小説屋の手の中だ。
そしてまた淫奔な極悪女をはべらせ
威張りくさった悪徳老人連合が言う。
これが東京なんだよ。悪の天皇家を敬え。ギャハハハ
気がくるったみたいな高学歴お笑い芸人だけが儲けまくる
派遣村で集団になって蟹工船をよみあさる漫画ジャップ
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
老人に死ぬ気はまるでない。証拠に、
日々の勤行はすべて金儲けだ、そして
まったく役立たない古臭い情報をはきだし、
全人間を学歴差別し、
若者からの搾取を自己正当化する。ただ吐き気がする。
日本という老廃物でうずまった糞づまりの大獄。
テンノーをうやまえ! テンノーをうやまえ!
なにもわからない黄色い帽子の小学生のときから
何億回怒鳴られてきたかわからないその文句の中身は、
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
ゲイシャジャップ京都土人の末裔が支配する
腐敗した地を洗うのだ!
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
代わりに、そこを一面に咲くゆりの花畑にしてみせよう。
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
黒塗りのベンツから様子を伺いうかがい
通うのは犯罪ゲイシャ屋だけの
腐敗したソドム人種に粛清を!
ところがそれは風のあいまにきこえた
いつかの戦のあとの草刈りの音だった。
のこされたのは、一面に広がる武蔵野だ。鴇の架かる
多摩川の合間でしずかに息をつく、名前のない
浜木綿の吐息を聞いた。
もしこの地に静穏が訪れるなら
そのとき僕はやっと東京を愛せるだろう。今は未だ
あまりにすべてがうるさすぎる。あふれきった
雑魚どものおかげで、大阪から随分遠いここにも
きがしれない損得勘定のみやびとがやってきて、僕の
大人しく寝ている街にサイレンを鳴らすのだ
きみを見下して言う。ほら、結婚しろ
そして日本を繁栄させろ。ところが
きみには120円のジュースを買うカネもない。
それは猥褻物頒布罪極悪都知事に媚びをうった
女流の猥褻物頒布罪極悪小説屋の手の中だ。
そしてまた淫奔な極悪女をはべらせ
威張りくさった悪徳老人連合が言う。
これが東京なんだよ。悪の天皇家を敬え。ギャハハハ
気がくるったみたいな高学歴お笑い芸人だけが儲けまくる
派遣村で集団になって蟹工船をよみあさる漫画ジャップ
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
老人に死ぬ気はまるでない。証拠に、
日々の勤行はすべて金儲けだ、そして
まったく役立たない古臭い情報をはきだし、
全人間を学歴差別し、
若者からの搾取を自己正当化する。ただ吐き気がする。
日本という老廃物でうずまった糞づまりの大獄。
テンノーをうやまえ! テンノーをうやまえ!
なにもわからない黄色い帽子の小学生のときから
何億回怒鳴られてきたかわからないその文句の中身は、
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
ゲイシャジャップ京都土人の末裔が支配する
腐敗した地を洗うのだ!
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
代わりに、そこを一面に咲くゆりの花畑にしてみせよう。
僕は東京人が全員自殺するのを望む。
黒塗りのベンツから様子を伺いうかがい
通うのは犯罪ゲイシャ屋だけの
腐敗したソドム人種に粛清を!
ところがそれは風のあいまにきこえた
いつかの戦のあとの草刈りの音だった。
のこされたのは、一面に広がる武蔵野だ。鴇の架かる
多摩川の合間でしずかに息をつく、名前のない
浜木綿の吐息を聞いた。
もしこの地に静穏が訪れるなら
そのとき僕はやっと東京を愛せるだろう。今は未だ
あまりにすべてがうるさすぎる。あふれきった
雑魚どものおかげで、大阪から随分遠いここにも
きがしれない損得勘定のみやびとがやってきて、僕の
大人しく寝ている街にサイレンを鳴らすのだ
東京の終わり
よに降るしじまの声のうちききとどける価の少なさよ
潰えゆく東京都の中核で税収をもとめる宮家の傲慢が信仰心をこぼつのみ
都知事の猥褻趣味なりとてわが観照せし東京の終わりよ
生きて行く意味のない暗黒世界の中心で皇室のみひとり財産にしがみつく
潰えゆく東京都の中核で税収をもとめる宮家の傲慢が信仰心をこぼつのみ
都知事の猥褻趣味なりとてわが観照せし東京の終わりよ
生きて行く意味のない暗黒世界の中心で皇室のみひとり財産にしがみつく
2009年10月16日
専門教育の道理
政権を奪った高揚感の所為か、宣言書に記した分を越えた政策を打ち出して国民からの公正な支持を無為に帰す傾向が民主党内に現れだしている。専修学校まで一律無料化を進めるという政策は、計略的な検討が十分なされないまま勢いに乗って考えついたその場のがれの方針だと言われていい。なぜなら、すべての教育機関を原則無償とするという大目的があるのではないなら、私立学校という発祥をその元来とする専修学校およびもと専門学校令に基づいて建学された各校を、国立大学という帝国大学系の施策と同列に論じることはできない。
そもそも現行専門学校のほとんどは、明治時点で矢継ぎ早に建設された帝大での講義が外国人のお雇い教師に頼って英語をおもとするものであった通弊をわたくしにかんがみ、当時の高等教育を受けた日本人教育者自身が日本語によって、国立大学におけるがごとき外交可能な精鋭層ではなくて、純朴な国内に便を持つ技研者的な中堅層を固める意図を以って創設した史的経緯がある。いくつかの専門学校は大学令と専修学校令の分接時点で名義を鞍替えするかどうかの選択を迫られ、かなりの規模を確保できた専門学校は私立大学へと転身し、そうではない元々の態度で甘んじることにしたものは専修学校という名分を保って現在に至る。つまり、およそ専修学校というもの本来の私学発の土壌を鑑みるかぎり、その国費や政策からの変わりやすい干渉を受けない自主訓練の部分にこそ、安定した業界需要という民生福利に密着した理由がある。それは急ぎ足で当時の先進文明からのつぎはぎの知識を、上位下達の輸入学問としてとりいれた各帝国大学とはまったくことなった意義と将来性とをもっているものだ。たとえば天下りの様なあしき慣習は、国立ならぬ専修学校では結局ついぞ根差しえない。成立の時点からすでにお上の世話にならずにやってきたのだから。ともあれ逆にいえば、政府が干渉を正当化できるのはよかれあしかれ帝国大学系の文部科学省管轄下にある国立教育機関に限る、とここに理解すべきである。
もしもこういう教育史の系統論を軽視していまの民主党の行き過ぎの政策をまま推進すればどうなるだろう。自然に咲いた私学でしかありえない専修学校という植木は無理な栄養分注入を強要されるべく、その大局最優先的政策干渉という暗愚な方針で根っこから一度ひきぬかれる結果、べつの肌の合わない土壌へなんだかんだと移植されるなかで根腐れを起こしてやがてはすべて枯れきってしまう。間もなく工業という根幹産業も同様の経過を辿るだろう。こういう不自然な改造による失政の例はすでに、エコール・デ・ポリテクニクスなどフランス教育界の一連の近代化改革において、一律の官僚主義的方法による国民活力の退化の中に実際しているのである。そこではほとんど民間人の自発的な創意工夫の発芽がみられなくなってしまった。我々は現代人のなかで圧倒的に優位な成果をみせているアメリカ教育界の方針、つまり教育権の独立と学園の自治つまり原則的な放任主義を、技術訓練面に関しても上級者にとっての私学にまつわる養生方針だと認めざるをえない。
さらにいうと、市立や県立ふくむ公立教育というものはいわゆる教育基本法で管理されるに留まり、現文部科学省ないしその時点での教育関連の省庁からそれをあきらかに越権したその場限りの干渉を受ける謂われはない。なぜならば、予算編成時点での配分如何は政権与党に任されたものなのだからどうあれ、教育の自由は憲法に明記されたわが国法の認める人権なのだから。そして地方の事情にかえりみて詳細は、各市町村議会の条令規則でこまやかに微分化される方が美しい。これを踏み越えた教育干渉は地方の人民相互の協和と自助の精神を東京人の恣意と強権でぶちこわし、おそるおそる軍隊じみた上官からの一方通行のおしつけがましい国粋主義の鼓吹をみたびふきこむ危険性がある訳だ。その実例は、教育の権限をあからさまに干犯してとち狂った天皇崇拝の現人神思想の狂信を全国全員一律に強要した、棍棒片手に幼弱男女を虐め尽くす軍部独裁の昭和中期の史上最悪の各公立教育状況へ照らせる。以上から結論できるのは、私学という発祥をもつ専修学校への政府からの寄附などはまったく有り難くないどころか迷惑千万であり、この裏の手を返せば内心見下した態度でもって、明治維新以来日本社会のうちで黙々と働いてきた中堅組の自活自習の権限を柔弱公家の策謀に過ぎぬ国立大学府によって飼い馴らされた身売り同然たる西洋思想寝返り組の権化どもといまさら同列化させて扱おうとするなど言語道断、かつ失礼きわまる。道理のない税金ばらまき政策などまことに余計なお世話であり、資本市場の一大壊乱騒ぎに過ぎず、またこの種の非エリートと揶揄された中でも与えられた身代に甘んじて国土再建へ寡黙な奉仕をつづけてきた中堅層の国民感情とわが国の教育史の複雑な経緯に無知な自称教育関係者は、新設ならぬ重用省庁の長となるにあいふさわしい人格や権威とは考えられない。教育とは国の要である。
民主主義を重く見る一国民として現政権与党におもわくば飽くまでも公約としてかかげた宣言書にしるされた内容を実直に遂行し、それをこえた内容は要々穏健に国民監視の意義へ透明な公開議論の末さっそくあらためるに粗相なきよう、上意下達による一方通行の大上段に構えた旧態幕権の通弊を一新し、おのが一身上の我意でなく現況民意からの公正な支持にこそ率直に則られることを暗黙にねがう次第だ。
そもそも現行専門学校のほとんどは、明治時点で矢継ぎ早に建設された帝大での講義が外国人のお雇い教師に頼って英語をおもとするものであった通弊をわたくしにかんがみ、当時の高等教育を受けた日本人教育者自身が日本語によって、国立大学におけるがごとき外交可能な精鋭層ではなくて、純朴な国内に便を持つ技研者的な中堅層を固める意図を以って創設した史的経緯がある。いくつかの専門学校は大学令と専修学校令の分接時点で名義を鞍替えするかどうかの選択を迫られ、かなりの規模を確保できた専門学校は私立大学へと転身し、そうではない元々の態度で甘んじることにしたものは専修学校という名分を保って現在に至る。つまり、およそ専修学校というもの本来の私学発の土壌を鑑みるかぎり、その国費や政策からの変わりやすい干渉を受けない自主訓練の部分にこそ、安定した業界需要という民生福利に密着した理由がある。それは急ぎ足で当時の先進文明からのつぎはぎの知識を、上位下達の輸入学問としてとりいれた各帝国大学とはまったくことなった意義と将来性とをもっているものだ。たとえば天下りの様なあしき慣習は、国立ならぬ専修学校では結局ついぞ根差しえない。成立の時点からすでにお上の世話にならずにやってきたのだから。ともあれ逆にいえば、政府が干渉を正当化できるのはよかれあしかれ帝国大学系の文部科学省管轄下にある国立教育機関に限る、とここに理解すべきである。
もしもこういう教育史の系統論を軽視していまの民主党の行き過ぎの政策をまま推進すればどうなるだろう。自然に咲いた私学でしかありえない専修学校という植木は無理な栄養分注入を強要されるべく、その大局最優先的政策干渉という暗愚な方針で根っこから一度ひきぬかれる結果、べつの肌の合わない土壌へなんだかんだと移植されるなかで根腐れを起こしてやがてはすべて枯れきってしまう。間もなく工業という根幹産業も同様の経過を辿るだろう。こういう不自然な改造による失政の例はすでに、エコール・デ・ポリテクニクスなどフランス教育界の一連の近代化改革において、一律の官僚主義的方法による国民活力の退化の中に実際しているのである。そこではほとんど民間人の自発的な創意工夫の発芽がみられなくなってしまった。我々は現代人のなかで圧倒的に優位な成果をみせているアメリカ教育界の方針、つまり教育権の独立と学園の自治つまり原則的な放任主義を、技術訓練面に関しても上級者にとっての私学にまつわる養生方針だと認めざるをえない。
さらにいうと、市立や県立ふくむ公立教育というものはいわゆる教育基本法で管理されるに留まり、現文部科学省ないしその時点での教育関連の省庁からそれをあきらかに越権したその場限りの干渉を受ける謂われはない。なぜならば、予算編成時点での配分如何は政権与党に任されたものなのだからどうあれ、教育の自由は憲法に明記されたわが国法の認める人権なのだから。そして地方の事情にかえりみて詳細は、各市町村議会の条令規則でこまやかに微分化される方が美しい。これを踏み越えた教育干渉は地方の人民相互の協和と自助の精神を東京人の恣意と強権でぶちこわし、おそるおそる軍隊じみた上官からの一方通行のおしつけがましい国粋主義の鼓吹をみたびふきこむ危険性がある訳だ。その実例は、教育の権限をあからさまに干犯してとち狂った天皇崇拝の現人神思想の狂信を全国全員一律に強要した、棍棒片手に幼弱男女を虐め尽くす軍部独裁の昭和中期の史上最悪の各公立教育状況へ照らせる。以上から結論できるのは、私学という発祥をもつ専修学校への政府からの寄附などはまったく有り難くないどころか迷惑千万であり、この裏の手を返せば内心見下した態度でもって、明治維新以来日本社会のうちで黙々と働いてきた中堅組の自活自習の権限を柔弱公家の策謀に過ぎぬ国立大学府によって飼い馴らされた身売り同然たる西洋思想寝返り組の権化どもといまさら同列化させて扱おうとするなど言語道断、かつ失礼きわまる。道理のない税金ばらまき政策などまことに余計なお世話であり、資本市場の一大壊乱騒ぎに過ぎず、またこの種の非エリートと揶揄された中でも与えられた身代に甘んじて国土再建へ寡黙な奉仕をつづけてきた中堅層の国民感情とわが国の教育史の複雑な経緯に無知な自称教育関係者は、新設ならぬ重用省庁の長となるにあいふさわしい人格や権威とは考えられない。教育とは国の要である。
民主主義を重く見る一国民として現政権与党におもわくば飽くまでも公約としてかかげた宣言書にしるされた内容を実直に遂行し、それをこえた内容は要々穏健に国民監視の意義へ透明な公開議論の末さっそくあらためるに粗相なきよう、上意下達による一方通行の大上段に構えた旧態幕権の通弊を一新し、おのが一身上の我意でなく現況民意からの公正な支持にこそ率直に則られることを暗黙にねがう次第だ。
2009年10月15日
詩歌
おのれの身かわいさにキリスト教をさんざん迫害し
貧民から搾り取った税金で贅沢を極めてつくった自分の
家は人身売買の店で囲って多妻を勧める人間の屑が
王座に座ってきみを見下す島国にあって僕は
うめき声すら上げられず、ただ息を殺す
ゴミの山だ
この社会という腐りきったゴミ老廃物ども
僕が一言でも発言すれば、奴らはあらゆる手管で潰してくる、マスゴミの渦の中でうめき声を押し殺すしかない
年功序列偏差値順位、ほら合理的だろ
豚とおなじで、繁殖数ごと統計され管理されている
カネあさりの為に生きている南蛮虫ジャップども
殺してもころしてもあとからあとから沸いて出るウジ虫
糞のような歪みきったゲイシャジャップが山ほど
大金を貪る。そんだけ。
漫画をよんで笑い転げる首相。
で? だから何なんだ?
まったく生きて行く価値のない、極東の理想郷
だったんだろ? ここが。
僕は静かに潜行し
ものごとが整うのを待ち続けるだろう。かならず、
そして状況がまるで揃えばその時は、
今まで見てきたあらゆる悪業に蹴りをつけるつもりだ。
邪悪なる人種よ、一匹のこらず滅ぶがいい。
世界の栄えの光の為に
貧民から搾り取った税金で贅沢を極めてつくった自分の
家は人身売買の店で囲って多妻を勧める人間の屑が
王座に座ってきみを見下す島国にあって僕は
うめき声すら上げられず、ただ息を殺す
ゴミの山だ
この社会という腐りきったゴミ老廃物ども
僕が一言でも発言すれば、奴らはあらゆる手管で潰してくる、マスゴミの渦の中でうめき声を押し殺すしかない
年功序列偏差値順位、ほら合理的だろ
豚とおなじで、繁殖数ごと統計され管理されている
カネあさりの為に生きている南蛮虫ジャップども
殺してもころしてもあとからあとから沸いて出るウジ虫
糞のような歪みきったゲイシャジャップが山ほど
大金を貪る。そんだけ。
漫画をよんで笑い転げる首相。
で? だから何なんだ?
まったく生きて行く価値のない、極東の理想郷
だったんだろ? ここが。
僕は静かに潜行し
ものごとが整うのを待ち続けるだろう。かならず、
そして状況がまるで揃えばその時は、
今まで見てきたあらゆる悪業に蹴りをつけるつもりだ。
邪悪なる人種よ、一匹のこらず滅ぶがいい。
世界の栄えの光の為に
2009年10月14日
服従
語られた物語のなかで、その王様はありとあらゆる悪徳をつみかさねた。人間は王様が偉いものだ、なにか彼らには悟りえない立派な理由をしっているものだとおもいこんでいた。現実には正反対だったし、王様は人間をただの奴隷だと考えていた。しかし、だれひとり知るよしはない。王様は生まれつき他人より恵まれているので、どんな努力もいらないしどんな競争もない。その先祖が地方の豪族を平定し、自身を唯一の権力としたことがうまくいった。
あるとき海外から突然敵がやってきた。そしてその威張っていた王様を取り殺し、万人に平等なるものを教えてくれた。王様は二度とこの世に復活しないだろう。その筈だった。
ところが王は島のすみに隠れていて、外人が出て行くのをいまかいまかと待ち構えていた。殺された親玉はダミーで、ほんとうの権力はかくれた岩蔭に秘められていたのだ。そして外人が言葉もわからず、島民の穏やかさに騙されて平和を確認して出港してすぐに、やっとすべてが穏やかになった島には今度こそ絶対支配者になろうとする以前とおなじ王座が設けられた。
この世ではなに一つ変わらない。あなたは秋の訪れとおなじ様に、王がのさばる光景をくりかえし見た。だがすべての暴力を支配したその王は、かならず地獄におち、またわるだくみを組んだ暴力団に再建される。
島のなかではその工程がくりかえされ、ほかになにも起きない。それを平和とよびたいならそうするがいい。人々は弱者を虐げる強者を見るだろう。そしてその強者がさらなる強者に虐げられ、一度きずいた秩序を崩壊させるつくりなおしの経過だけ目の前にある。無知なる野蛮人どもよ。貴様らにも世界の広さが知れたなら! 尤もそんな注意書きもムダになる。貴様らにはどんな世界でも服従の習慣があるだけなのだから。
あるとき海外から突然敵がやってきた。そしてその威張っていた王様を取り殺し、万人に平等なるものを教えてくれた。王様は二度とこの世に復活しないだろう。その筈だった。
ところが王は島のすみに隠れていて、外人が出て行くのをいまかいまかと待ち構えていた。殺された親玉はダミーで、ほんとうの権力はかくれた岩蔭に秘められていたのだ。そして外人が言葉もわからず、島民の穏やかさに騙されて平和を確認して出港してすぐに、やっとすべてが穏やかになった島には今度こそ絶対支配者になろうとする以前とおなじ王座が設けられた。
この世ではなに一つ変わらない。あなたは秋の訪れとおなじ様に、王がのさばる光景をくりかえし見た。だがすべての暴力を支配したその王は、かならず地獄におち、またわるだくみを組んだ暴力団に再建される。
島のなかではその工程がくりかえされ、ほかになにも起きない。それを平和とよびたいならそうするがいい。人々は弱者を虐げる強者を見るだろう。そしてその強者がさらなる強者に虐げられ、一度きずいた秩序を崩壊させるつくりなおしの経過だけ目の前にある。無知なる野蛮人どもよ。貴様らにも世界の広さが知れたなら! 尤もそんな注意書きもムダになる。貴様らにはどんな世界でも服従の習慣があるだけなのだから。
2009年10月13日
信仰
聖者に濡れ衣を着せる者は今度はおのれが悪魔から氷った衣を着せられる。これは輪廻といわれる。
神はただ一つたりとも間違いを起こさず、すべてを世界に真理の筆で記し賜れり。
業は矛盾を起こさない。誰もが一本道の上をゆく。
神はただ一つたりとも間違いを起こさず、すべてを世界に真理の筆で記し賜れり。
業は矛盾を起こさない。誰もが一本道の上をゆく。
2009年10月11日
中世美意識の批判
伝統的にみた場合、日本という国家の大きな特徴はおそらくその感性を研ぎ澄ませやすい季節風土の特殊さからくる「美への寛大さ」かもしれない。現代人の知る地球中でこれにもっとも近いフランスという国でも、それと同等付近の美的寛容性しか見当たらないらしい。
芸者という専用の接客業種、いわば阿婆擦れの性質者を迫害しもせず関西民族が認知していることそのものからも知れよう。だが殆どの国柄からいえば、この様な理性的に好ましくない職種は目の敵にされる。
一般に美観というものは非常に高い中庸性について当たり、さもなくばそれは奇観を呈するといわれる。だからつねに移り変わる社会情勢や時代の流行にあわせてそのちょうど中間色を穿つ必要性はものごとへの敏感さを望む。そしてこの種の敏捷性や機敏さはどちらかといえば機会主義的なので、決して不動さとか誤りなさとかなんらかの雄々しさ又は「理知」の痕跡をしらせしめない。いいかえると審美的な感情はいずれにあれ背後にあるだろう理知のちらつきをことさら教えないところにある。だが、同時にこの性格がおもとして京都という都市国家の世界ではぐくまれた、中世の倭人らしさであったなる批評の観点を失うべきではないだろう。原則として審美的な形質はそれが偶有の適所にあわなければ他の多数派を占めるより極端な形質に浸蝕される。京都が大変暑く多湿な盆地であるという現象こそ女々しい情緒をそうでない形質よりも被保存的とした特殊条件だった。なぜならその様な閉じられた世界へ外来種が侵入するのは比較的困難なので、もし変移が主要な競争状態で重要なものよりずっと異様で弱体化したそれでもいやおうなく保存されてしまうことになったろう。
日本人が、さらに成人男性でも幼児的である行動形質がみうけられるとすればこの女々しさなる中世の陋弊あるいは功罪をなんらかの具合で倭人が引きずっている証拠である。美への寛大さを倭がおのれの誇りとするのは自由だが、それを心底侮蔑し、むしろ貧相きわまる奇形への前兆として破棄する理知に長けた、勇ましい世界観を我々は東国の勝利の伝統的必然性の中に見通すのである。
万一この様な威厳に従う意思のない中世の情けない怠惰と頽廃の生活を愛顧する王権なるものが実在するとするならば、この根性の曲がった退廃京都人の末裔をすでに汚れきった弱体種として叩き直すか、それすら不可能なら尊崇すべき日本国の本旨に於いて不名誉の愚なる偽の長として本土から追い出す必要がある。
奴隷的芸者と遊びつつ退廃源氏物語しか読めないゴミの様な王族など存在するだけ邪魔であり、かくある社会は破壊した方が世界の威厳にとって有益であるのが間違いない。頽廃と害悪の巣ならその末裔ごと隔離し、かりそめにも我々がほかの剛健にして尊敬すべき諸部族と今後も先の世界へ歩みを進めるつもりなら全員を、腐敗した邪悪なる異教の徒なるものとして破滅させる使命を負う。
美への寛大さなるものは少しも褒められた性癖ではない。芸者に一度でもその一見した物珍しさから引き寄せられた者は、おのれの愚かしさ理性的自制心の欠落をあとから反省して恥ずかしく思うばかりであり、精々売春罪人にすぎないなよなよした人柄などなれ親しむべきでないばかりかこれを将来の品性没落の助長とし、尊崇すべき宗教心に背く犯罪者として文明国の王座が命じ人の名に於いて裁き極刑してなんら問題もない程である。そしてもしこの汚らわしい慣習を続けようとねがう女々しい王者とやらが存在するとするなら、我々は過ちに沈んだ東京人のあつまる城を徳川家の魂やどる勇猛たけだけしい豪族の営々と築きせし精神いまわす城に泥を塗る輩として実権ごと奪取するしかない。
従って厳格な侍の美意識は峻厳の感情に於いて、中世のいやしい女性化しきった麿の世界観よりはるかに尊重すべきであって、この趣旨を理解しない人物は我々の霊感あらたかな国土のかみながらの価値をひきさげる不邁の土民として侮蔑批判して何一つ問題はないのである。
一切の世間人間並の感情を超越した神格へ近づけばちかづくほど、その芸術はいかなる厳めしい学問とも並ぶ以上の尊敬すべき対象となる。もしイタリアというルネサンスの遺跡がバロックを擁したにすぎないイギリスの本国などよりも芸術の格に於いて圧倒的に上等なら、単なる市場競争を超越した神意への寄進という天才共を突き動かした歴史精神についてどう見ようとも勝っているからだろう。
芸者という専用の接客業種、いわば阿婆擦れの性質者を迫害しもせず関西民族が認知していることそのものからも知れよう。だが殆どの国柄からいえば、この様な理性的に好ましくない職種は目の敵にされる。
一般に美観というものは非常に高い中庸性について当たり、さもなくばそれは奇観を呈するといわれる。だからつねに移り変わる社会情勢や時代の流行にあわせてそのちょうど中間色を穿つ必要性はものごとへの敏感さを望む。そしてこの種の敏捷性や機敏さはどちらかといえば機会主義的なので、決して不動さとか誤りなさとかなんらかの雄々しさ又は「理知」の痕跡をしらせしめない。いいかえると審美的な感情はいずれにあれ背後にあるだろう理知のちらつきをことさら教えないところにある。だが、同時にこの性格がおもとして京都という都市国家の世界ではぐくまれた、中世の倭人らしさであったなる批評の観点を失うべきではないだろう。原則として審美的な形質はそれが偶有の適所にあわなければ他の多数派を占めるより極端な形質に浸蝕される。京都が大変暑く多湿な盆地であるという現象こそ女々しい情緒をそうでない形質よりも被保存的とした特殊条件だった。なぜならその様な閉じられた世界へ外来種が侵入するのは比較的困難なので、もし変移が主要な競争状態で重要なものよりずっと異様で弱体化したそれでもいやおうなく保存されてしまうことになったろう。
日本人が、さらに成人男性でも幼児的である行動形質がみうけられるとすればこの女々しさなる中世の陋弊あるいは功罪をなんらかの具合で倭人が引きずっている証拠である。美への寛大さを倭がおのれの誇りとするのは自由だが、それを心底侮蔑し、むしろ貧相きわまる奇形への前兆として破棄する理知に長けた、勇ましい世界観を我々は東国の勝利の伝統的必然性の中に見通すのである。
万一この様な威厳に従う意思のない中世の情けない怠惰と頽廃の生活を愛顧する王権なるものが実在するとするならば、この根性の曲がった退廃京都人の末裔をすでに汚れきった弱体種として叩き直すか、それすら不可能なら尊崇すべき日本国の本旨に於いて不名誉の愚なる偽の長として本土から追い出す必要がある。
奴隷的芸者と遊びつつ退廃源氏物語しか読めないゴミの様な王族など存在するだけ邪魔であり、かくある社会は破壊した方が世界の威厳にとって有益であるのが間違いない。頽廃と害悪の巣ならその末裔ごと隔離し、かりそめにも我々がほかの剛健にして尊敬すべき諸部族と今後も先の世界へ歩みを進めるつもりなら全員を、腐敗した邪悪なる異教の徒なるものとして破滅させる使命を負う。
美への寛大さなるものは少しも褒められた性癖ではない。芸者に一度でもその一見した物珍しさから引き寄せられた者は、おのれの愚かしさ理性的自制心の欠落をあとから反省して恥ずかしく思うばかりであり、精々売春罪人にすぎないなよなよした人柄などなれ親しむべきでないばかりかこれを将来の品性没落の助長とし、尊崇すべき宗教心に背く犯罪者として文明国の王座が命じ人の名に於いて裁き極刑してなんら問題もない程である。そしてもしこの汚らわしい慣習を続けようとねがう女々しい王者とやらが存在するとするなら、我々は過ちに沈んだ東京人のあつまる城を徳川家の魂やどる勇猛たけだけしい豪族の営々と築きせし精神いまわす城に泥を塗る輩として実権ごと奪取するしかない。
従って厳格な侍の美意識は峻厳の感情に於いて、中世のいやしい女性化しきった麿の世界観よりはるかに尊重すべきであって、この趣旨を理解しない人物は我々の霊感あらたかな国土のかみながらの価値をひきさげる不邁の土民として侮蔑批判して何一つ問題はないのである。
一切の世間人間並の感情を超越した神格へ近づけばちかづくほど、その芸術はいかなる厳めしい学問とも並ぶ以上の尊敬すべき対象となる。もしイタリアというルネサンスの遺跡がバロックを擁したにすぎないイギリスの本国などよりも芸術の格に於いて圧倒的に上等なら、単なる市場競争を超越した神意への寄進という天才共を突き動かした歴史精神についてどう見ようとも勝っているからだろう。
2009年10月9日
徳川の計略
守りを固めるのは国家経営の前提だが、いかんせん関東軍人の後腐れは日々芸者遊びなどの悪徳悪行悪業に暮らすうえ勉学を好まないので知力が乏しく、簡単な計算を見誤る機会がきわめつけに多い。
たとえば満州を策謀で侵攻した時、もしそれが軍人風情でなく真実の知慮に優れた文官参謀のもとに行われていれば、各種の軍隊式の下賎きわまる欺きや常道的悪行の罪によってではなく「講和と商策」という文人外交の王道によって、当時の国連からも正当な支配関係と黙認されたかもしれない。文民統制の決定的だったイギリスが一体いつまで植民した香港から利益と尊敬を受けつづけただろう?
これらをもし敗戦によって得た原爆ドームの慰霊碑の真上に立って真剣に反省し、自分どもより遥かに賢い国家が現実に存在していたと先見の明ある政治家が目覚めるなら、いつ転化して狐の皮を剥き出しに侵略戦争へと現地で暴走してもまったくおかしくない“防衛省”なる奇形な組織をかの二の舞を踏むものとして自主廃棄し、それを警察庁と一括して『警察省』と面目を改めるだろう。
もしそうすれば国内の武力がすべて内閣総覧のもとに運用されゆく習慣が自明となって、万一この元々防衛省と呼ばれていた悪魔の集団が戦場で以前と同じくあらゆる悪為を発狂したとしても我々は「警察権力」の行き過ぎだとしてその責任を、現職内閣総理大臣の失政へと求めることができる。すなわち最悪でも総辞職によって平和主義国民自身の責任ではなくなる。
そうなればいかなる命令外の暴力も、国外のどこで働いたにせよ単なる国賊行為でありテロリストの暴走なのである。公務執行妨害の国内法で裁けばよい。
仮にそうしないままで防衛省と名乗った悪人たちによる侵略行動が暴走すれば、日本政府は国連から当然その内政干渉や政治的不当行為の批難を受ける。そのとき責任を取る建前がいまの段階ですら存在しない以上、防衛省が警察庁あるいは警察権力と分離している現在の国家国防体制は策士からの‘揚げ足取り’をいざなっているのに等しい。
つまり、もし外国人がこの脆弱な理性を国際的に孤立させ潰そうとすればまず武力で挑発し、防衛省から出てきたいつもの馬鹿きわまる関東軍人をどこかの囮の内地へ引き込み、これを手玉に取るべく様々に裏をかくおちょくり威嚇で暴走させればよい。
武士道なる古代の陋弊を神武創業無敵復古などとあたまの狂った狂信状態で思い込んでいるこの以前のままで進歩のない武官の血筋は、いうまでもなく感情に激しやすい女々しい情緒的国民のことだからまちがいなくほぼ侵略行為同然の、政府からの命令無視の暴走をはじめる。
こうなればねずみ捕りと同様で、本土であたふた慌てふためく大王家周縁とやらを“ネオナチズムの巣”であるとして国際的なテロリストの親玉へと事情に薄い各国民営報道局を懐柔利用して仕立てあげればよい。
国連軍は世界的扇動状態で日本本土を即刻占領し、今度こそ某の在来宗教ごと解体し、大悪土民の汚れた血統書つきの過半数は生化学装置で安楽死させるか奴隷とし、王をそのための事後暗殺前提の傀儡とし、結果としてあふれる大馬鹿者の土地を連合国の総合的民意によるすぐれた外来新種の平和主義文明軍で支配完了できる。
もしもこういう貧相な算段知能しかもたない‘軍人幕府の末裔という劣った伝統’というおそるべく又あしき宿命を変更や改良、改心さえしたければ、守りとはべつにできるかぎり和平をもとに発展共栄への攻めの道を全力で考え尽くすような『計略省』を新設されるとよい。
仮にもその人員へは文官の命令に背く確率のたかい武官の分派ないし末裔を、きちんとした照査のすえ決して編入すべきでない。さもないと(秀吉の天下人時代のごとく、出自をわすれて)再び知恵の足りない無謀な侵略戦争方法としての計算式を考えだす危険もあるので。
一般に、ひとたび戦闘をおしえこむとその軍事階級は死ぬまでいやでも戦いつづけてしまう習性をもつ(西郷王国の自壊的滅亡をみよ。逆に、西南戦争の真っ最中の同時代から学問の習性をつづけた福沢王国あるいは義塾の先行きある展望をみよ)。
そして遠い将来にはこの理科を本旨とする省庁が、むしろ国連軍への形式や義理の参加を除いては後進地化して国際戦略的には失敗と見做されるようになった軍事演習や国費で雇う専門武官などなどへの悪評をまねく無駄な予算を充てるのに適当なだけ、国家経営方針決定の中枢となるだろう。
特に、帝大の血統を引く東京大学府が各地から科挙的に集めたアジア最高峰の勉学向き知性を蔵して身近にあるという好適な機会を活かして、一直線の高級官僚への道ではなく、内閣府の中の頭脳班出身をめざす道もことさらに空けておくならば、後のちの政権交代時に政策与党による大変に学理的な質の高い情報を民間の研究家へ普及させるといった「戦略開発」の民生福利へも、一石二鳥の功績が期待できる。
たとえば満州を策謀で侵攻した時、もしそれが軍人風情でなく真実の知慮に優れた文官参謀のもとに行われていれば、各種の軍隊式の下賎きわまる欺きや常道的悪行の罪によってではなく「講和と商策」という文人外交の王道によって、当時の国連からも正当な支配関係と黙認されたかもしれない。文民統制の決定的だったイギリスが一体いつまで植民した香港から利益と尊敬を受けつづけただろう?
これらをもし敗戦によって得た原爆ドームの慰霊碑の真上に立って真剣に反省し、自分どもより遥かに賢い国家が現実に存在していたと先見の明ある政治家が目覚めるなら、いつ転化して狐の皮を剥き出しに侵略戦争へと現地で暴走してもまったくおかしくない“防衛省”なる奇形な組織をかの二の舞を踏むものとして自主廃棄し、それを警察庁と一括して『警察省』と面目を改めるだろう。
もしそうすれば国内の武力がすべて内閣総覧のもとに運用されゆく習慣が自明となって、万一この元々防衛省と呼ばれていた悪魔の集団が戦場で以前と同じくあらゆる悪為を発狂したとしても我々は「警察権力」の行き過ぎだとしてその責任を、現職内閣総理大臣の失政へと求めることができる。すなわち最悪でも総辞職によって平和主義国民自身の責任ではなくなる。
そうなればいかなる命令外の暴力も、国外のどこで働いたにせよ単なる国賊行為でありテロリストの暴走なのである。公務執行妨害の国内法で裁けばよい。
仮にそうしないままで防衛省と名乗った悪人たちによる侵略行動が暴走すれば、日本政府は国連から当然その内政干渉や政治的不当行為の批難を受ける。そのとき責任を取る建前がいまの段階ですら存在しない以上、防衛省が警察庁あるいは警察権力と分離している現在の国家国防体制は策士からの‘揚げ足取り’をいざなっているのに等しい。
つまり、もし外国人がこの脆弱な理性を国際的に孤立させ潰そうとすればまず武力で挑発し、防衛省から出てきたいつもの馬鹿きわまる関東軍人をどこかの囮の内地へ引き込み、これを手玉に取るべく様々に裏をかくおちょくり威嚇で暴走させればよい。
武士道なる古代の陋弊を神武創業無敵復古などとあたまの狂った狂信状態で思い込んでいるこの以前のままで進歩のない武官の血筋は、いうまでもなく感情に激しやすい女々しい情緒的国民のことだからまちがいなくほぼ侵略行為同然の、政府からの命令無視の暴走をはじめる。
こうなればねずみ捕りと同様で、本土であたふた慌てふためく大王家周縁とやらを“ネオナチズムの巣”であるとして国際的なテロリストの親玉へと事情に薄い各国民営報道局を懐柔利用して仕立てあげればよい。
国連軍は世界的扇動状態で日本本土を即刻占領し、今度こそ某の在来宗教ごと解体し、大悪土民の汚れた血統書つきの過半数は生化学装置で安楽死させるか奴隷とし、王をそのための事後暗殺前提の傀儡とし、結果としてあふれる大馬鹿者の土地を連合国の総合的民意によるすぐれた外来新種の平和主義文明軍で支配完了できる。
もしもこういう貧相な算段知能しかもたない‘軍人幕府の末裔という劣った伝統’というおそるべく又あしき宿命を変更や改良、改心さえしたければ、守りとはべつにできるかぎり和平をもとに発展共栄への攻めの道を全力で考え尽くすような『計略省』を新設されるとよい。
仮にもその人員へは文官の命令に背く確率のたかい武官の分派ないし末裔を、きちんとした照査のすえ決して編入すべきでない。さもないと(秀吉の天下人時代のごとく、出自をわすれて)再び知恵の足りない無謀な侵略戦争方法としての計算式を考えだす危険もあるので。
一般に、ひとたび戦闘をおしえこむとその軍事階級は死ぬまでいやでも戦いつづけてしまう習性をもつ(西郷王国の自壊的滅亡をみよ。逆に、西南戦争の真っ最中の同時代から学問の習性をつづけた福沢王国あるいは義塾の先行きある展望をみよ)。
そして遠い将来にはこの理科を本旨とする省庁が、むしろ国連軍への形式や義理の参加を除いては後進地化して国際戦略的には失敗と見做されるようになった軍事演習や国費で雇う専門武官などなどへの悪評をまねく無駄な予算を充てるのに適当なだけ、国家経営方針決定の中枢となるだろう。
特に、帝大の血統を引く東京大学府が各地から科挙的に集めたアジア最高峰の勉学向き知性を蔵して身近にあるという好適な機会を活かして、一直線の高級官僚への道ではなく、内閣府の中の頭脳班出身をめざす道もことさらに空けておくならば、後のちの政権交代時に政策与党による大変に学理的な質の高い情報を民間の研究家へ普及させるといった「戦略開発」の民生福利へも、一石二鳥の功績が期待できる。
2009年10月8日
何もない都
なつかしき扇子のことも忘れつつあるのも過ぎる時のおと
おそろしきことかまことか台風の足音だけが世にも降るなり
沖縄の上を過ぎゆく足早な大風のあとに青空の色
忘れゆく昔の出来事もみな走り抜けてしまった風音
形だけ整うばかり何もない都のどこも洗い流す雨よ
おそろしきことかまことか台風の足音だけが世にも降るなり
沖縄の上を過ぎゆく足早な大風のあとに青空の色
忘れゆく昔の出来事もみな走り抜けてしまった風音
形だけ整うばかり何もない都のどこも洗い流す雨よ
神聖政治の敬遠
皇帝が王族と異なるのは、その世襲や世継ぎが前提となっているという神聖支配の正統化にある。だから皇族は、他のいかなる王や族とも権威の正統性に於いて比類がない。一般に、どの王侯もどれほど長く維持されてきたかという伝統の確かさによってのみその真価が問われるので、地球の帝という正統性を永年主義するに皇室ほど崇高なる権威は存在していない。
但し、政治の実務に皇帝権力の専制が最適かという疑問には世界史のあらゆる悲惨な実例が雄弁すぎる解答を出している。絶対権力の腐敗は絶対的。
この面で、至尊なる皇統を祭りごとの側面、いいかえれば大義名分論の範畴へ飽くまでも限定して国民奥深く内蔵することが、その宗教祖への唯一の敬意あるいは論語の意味での敬遠である。この祖先復礼という宗教形式を民族独自の祭りごととして保存することは、世界の中の季節風土に於ける希少な文化的系統を、発生初期の儀式の記憶毎ごく素朴な侭に保つ、ある種の伝統芸能の保全に値するだろう。
全宇宙の最高権威たる全知全能の神からの命令を自然崇拝からつづく一系統の上で実践する、この神聖支配の方式を少なくとも地球の上に於ける代表者として象徴する役割こそ、天皇が大義名分を貫き通す伝統的正統性である。
但し、政治の実務に皇帝権力の専制が最適かという疑問には世界史のあらゆる悲惨な実例が雄弁すぎる解答を出している。絶対権力の腐敗は絶対的。
この面で、至尊なる皇統を祭りごとの側面、いいかえれば大義名分論の範畴へ飽くまでも限定して国民奥深く内蔵することが、その宗教祖への唯一の敬意あるいは論語の意味での敬遠である。この祖先復礼という宗教形式を民族独自の祭りごととして保存することは、世界の中の季節風土に於ける希少な文化的系統を、発生初期の儀式の記憶毎ごく素朴な侭に保つ、ある種の伝統芸能の保全に値するだろう。
全宇宙の最高権威たる全知全能の神からの命令を自然崇拝からつづく一系統の上で実践する、この神聖支配の方式を少なくとも地球の上に於ける代表者として象徴する役割こそ、天皇が大義名分を貫き通す伝統的正統性である。
2009年10月6日
2009年10月4日
説話
理性の欠乏は教育によって補うのは困難です。
勲章をつけた知識集団の俗物根性は階級制度の現代版に過ぎません。
かつては武力が、いまでは金銭が物を言う様ですが、もし知性がそう働く様になってもタブン他人の上に立ちたいと思う自尊心の誇示は別のかたちで現れるでしょう。
人類である限り感情というものがつき纏ってくるのを適当に払いのける手間が必要でしょう。
私は多くの愚か者がおのれを賢者だと暗に誇るのを見たことがありますが、彼らは知識の量で、或いは理性を軽視する態度で結局は損な役回りへ納まっていきました。だから愚かしさが教育で補われるという考え方には反対です。
教育課程の中で理性的態度を尊重する習慣はとても少ないのですし、多くの学校生活は寧ろそれに反する悪習も副産物として教え込みます。輪を守れ、協調しろとおしえこむ人物が閉じた島国根性よりも普遍的な正義感を信じていないのですから。
人間はとても変わりやすい移り気なものなので、きのう信じていたものをあすに忘れるばかりか非難しさえします。たとえば小学校で、教師がきのう説教した内容を忘れるばかりかそれと反した行いをする絶対君主ぶりを見なかったひとは少ないかもしれない。おぼえているかどうかとは別にです。
けれど、もともと人間の程度はそういうものだと言えます。さもなければこれだけくりかえした戦争の記録があるなどと考えにくいのではないでしょうか。
人々はあさっても誰かが下らない喧嘩をするのを目撃するでしょう。それは、理性に恵まれなかった人がどんな教育を施そうと生まれつきのレベルで後を絶たないからです。そして、大脳に突然変異が起きた特別な理性の遺伝子が個体群全体にやがておきかわらない限り、状況改善の希望はないでしょう。
かれらは芸者が立派なものだと信じているのです。どうしてそんな血統がキリストの言われる色目の罪悪感を理解できるでしょうか。やはり残酷なようですが、育種のためには決して編入すべきではない人もいるのではないでしょうか。優生学的なアイデアに映るかもしれませんが。
この島でむかし王侯をしていた人の周りにはいつも頽廃が忍び寄った。権力の腐敗という歴史のつねがそうさせたのでしょうか、それとも山に囲まれたところで育ったご先祖が原因でしょうか。
そのご子孫のおひとりは、偉大な宗教を平気で迫害なさり、かわりに御自身一家のお社を狂ったようにご自愛なさっていたらしい。けれど神はすべてをご覧になり、まことの放蕩息子の末裔へいつか最終審判を下すでしょう。
どうして偉大なる父親が兄弟ゲンカを喜ぶと思われますか。つとめて相互いに敬われますよう。
私は神を敬うことがどうして他のお祭り屋さんをやっつけることにつながるのか理解に苦しみます。
多くの暴力と権力のありかたを世の中にみてきて思うのですが、それらを好むのはかならず悪い結果へ行き着くものです。反対に、知恵と工夫のありかたをみてみれば、一体だれが尊敬に足るのか簡単にわかるはずなのですが。演出好きな運命の紆余曲折あれ、のこるのはいつでも尊いものだけです。
いけとしいきるものの内に男女をべつにおつくりになった自然界のあるじは、果たして男勝りを褒らむでしょうか。それとも女々しさをお好みになるでしょうか。
女性は考えるほど過ちに陥ることが多い様です。
天分をこえた教育を授けすぎた女性は国の悪魔となって不名誉や転覆を企てる危険性がある。たとえ無意識であってもです。
多くの大国の最期は、その様なおかしな女性が支配権をふるいすべてを私用してしまうところにもとまるようです。だから、男らしさを尊敬なさい。もし貴女たちが当面は理解できないことであっても、大の男の考えたことへは素直に従っておきなさい。自然界では雌雄にべつの役割があり、さもないなら性別がちがうはずはないのですから。
勲章をつけた知識集団の俗物根性は階級制度の現代版に過ぎません。
かつては武力が、いまでは金銭が物を言う様ですが、もし知性がそう働く様になってもタブン他人の上に立ちたいと思う自尊心の誇示は別のかたちで現れるでしょう。
人類である限り感情というものがつき纏ってくるのを適当に払いのける手間が必要でしょう。
私は多くの愚か者がおのれを賢者だと暗に誇るのを見たことがありますが、彼らは知識の量で、或いは理性を軽視する態度で結局は損な役回りへ納まっていきました。だから愚かしさが教育で補われるという考え方には反対です。
教育課程の中で理性的態度を尊重する習慣はとても少ないのですし、多くの学校生活は寧ろそれに反する悪習も副産物として教え込みます。輪を守れ、協調しろとおしえこむ人物が閉じた島国根性よりも普遍的な正義感を信じていないのですから。
人間はとても変わりやすい移り気なものなので、きのう信じていたものをあすに忘れるばかりか非難しさえします。たとえば小学校で、教師がきのう説教した内容を忘れるばかりかそれと反した行いをする絶対君主ぶりを見なかったひとは少ないかもしれない。おぼえているかどうかとは別にです。
けれど、もともと人間の程度はそういうものだと言えます。さもなければこれだけくりかえした戦争の記録があるなどと考えにくいのではないでしょうか。
人々はあさっても誰かが下らない喧嘩をするのを目撃するでしょう。それは、理性に恵まれなかった人がどんな教育を施そうと生まれつきのレベルで後を絶たないからです。そして、大脳に突然変異が起きた特別な理性の遺伝子が個体群全体にやがておきかわらない限り、状況改善の希望はないでしょう。
かれらは芸者が立派なものだと信じているのです。どうしてそんな血統がキリストの言われる色目の罪悪感を理解できるでしょうか。やはり残酷なようですが、育種のためには決して編入すべきではない人もいるのではないでしょうか。優生学的なアイデアに映るかもしれませんが。
この島でむかし王侯をしていた人の周りにはいつも頽廃が忍び寄った。権力の腐敗という歴史のつねがそうさせたのでしょうか、それとも山に囲まれたところで育ったご先祖が原因でしょうか。
そのご子孫のおひとりは、偉大な宗教を平気で迫害なさり、かわりに御自身一家のお社を狂ったようにご自愛なさっていたらしい。けれど神はすべてをご覧になり、まことの放蕩息子の末裔へいつか最終審判を下すでしょう。
どうして偉大なる父親が兄弟ゲンカを喜ぶと思われますか。つとめて相互いに敬われますよう。
私は神を敬うことがどうして他のお祭り屋さんをやっつけることにつながるのか理解に苦しみます。
多くの暴力と権力のありかたを世の中にみてきて思うのですが、それらを好むのはかならず悪い結果へ行き着くものです。反対に、知恵と工夫のありかたをみてみれば、一体だれが尊敬に足るのか簡単にわかるはずなのですが。演出好きな運命の紆余曲折あれ、のこるのはいつでも尊いものだけです。
いけとしいきるものの内に男女をべつにおつくりになった自然界のあるじは、果たして男勝りを褒らむでしょうか。それとも女々しさをお好みになるでしょうか。
女性は考えるほど過ちに陥ることが多い様です。
天分をこえた教育を授けすぎた女性は国の悪魔となって不名誉や転覆を企てる危険性がある。たとえ無意識であってもです。
多くの大国の最期は、その様なおかしな女性が支配権をふるいすべてを私用してしまうところにもとまるようです。だから、男らしさを尊敬なさい。もし貴女たちが当面は理解できないことであっても、大の男の考えたことへは素直に従っておきなさい。自然界では雌雄にべつの役割があり、さもないなら性別がちがうはずはないのですから。
2009年10月3日
五輪招致結果の分析
計画の合目的性を主張する、という面から全体の説明効果別に分析すると、東京のそれはおそらく候補にのこった四都市のなかで最も高い質をもっていたと言える。そして紆余曲折という歴史の変転を予測すると、今回の評価の様な情熱に押された決定が必ずしも素晴らしい結果につながるとは限らない。
恐らく国際的有名というものは特に異民族や異人種への「みおぼえのない」表現にはきわめつけに重要であって、そこではある種の顔見知り度が安心感の信号として伝わざるをえない。だから改良要点をあげるなら西洋人が過半数を占める委員会を標的にして、西洋に於ける有名を顔にするべきだった。異人種はなお表情が硬く見えるものであるから。だれも知り合いのいない場所でどれだけすぐれた主張をしても、よほどの目利きでなければ変わり種の青眼視が当然の第一印象となるはずである。彼らが西洋人側に既に有名であるというむしろ日本人以外にとっての驚きならかれらの言葉でその切々と良識へ訴えかける心理作戦はより適切だったかもしれない。
冷静に場所代の面で勘案すると東京五輪は明らかに誰に向けてにせよ割安だったのだから、恐らくどこかの未来の時点に目利きの判断で、そこで祭典が再生される可能性が高い。内陸部にいる西洋人の感覚からいえば、環境問題への感受性のにぶさが呼び覚まされるにはある程度の時間待ち、いわゆる我慢が必要である。
恐らく国際的有名というものは特に異民族や異人種への「みおぼえのない」表現にはきわめつけに重要であって、そこではある種の顔見知り度が安心感の信号として伝わざるをえない。だから改良要点をあげるなら西洋人が過半数を占める委員会を標的にして、西洋に於ける有名を顔にするべきだった。異人種はなお表情が硬く見えるものであるから。だれも知り合いのいない場所でどれだけすぐれた主張をしても、よほどの目利きでなければ変わり種の青眼視が当然の第一印象となるはずである。彼らが西洋人側に既に有名であるというむしろ日本人以外にとっての驚きならかれらの言葉でその切々と良識へ訴えかける心理作戦はより適切だったかもしれない。
冷静に場所代の面で勘案すると東京五輪は明らかに誰に向けてにせよ割安だったのだから、恐らくどこかの未来の時点に目利きの判断で、そこで祭典が再生される可能性が高い。内陸部にいる西洋人の感覚からいえば、環境問題への感受性のにぶさが呼び覚まされるにはある程度の時間待ち、いわゆる我慢が必要である。
2009年10月1日
思考貯蔵庫の緊要
先日政府につくられた国家戦略室とやらは、戦時中なら分かる安直なネーミングだが、平和主義の上では言霊への配慮が十分とはおもえない。原子爆弾の悲劇で二度と戦争はしませんと誓ったはずなのだが。
もし先に防衛省などという極悪きわまる無礼者の高すぎるかしらをとりさげてからなら慰霊を兼ねた平和主義遵法への筋は通っただろうが。
Strategyの訳語だとしても「方略」「計略」「算段」など様々にもっと穏当な命名はある。
いうまでもなく天才官僚には余計なお世話の様だが、こういう非常に基礎的なケアレスミスに現れる様なブレインの質に勝利直後の民主党の名誉をおもいみれば、おそらくできるかぎり最短で、強力な背骨となる何らかの思考貯蔵庫あるいは頭脳集団を確保できねば遠い政権維持へはあやういだろう。それは助成はどうあれ現内閣の内外問わずにである。
おもうに、日本政府の伝統的な最大の欠陥は理論家あるいは頭脳の軽視にある。
武家政権の専制がいかにも例外的に長かったので、同一人種以外との抗争そのものが致命傷となる危険性を覚らず、結局甘えが許されると信じているようだが、世界では計略の不足で即刻解体されない国体の方がめずらしい。
もし同様の性格であったモンゴルに元寇時点で侵略完了されていればと仮想すれば判る。
また、ソフィスト(知恵者)と呼ばれる詭弁術の有料教師が跋扈した時期に民主政のギリシアがマケドニア王国に殲滅された歴史事実は、信用の置ける頭脳として民主政府が抜擢すべきなのは――命令に対して従順かつ判断力の確かな出来るかぎり実務に向いた質の者、いいかえると『科学技術者たち』の中に見出だされるだろう。
そういう中でさらに選良されたある種の職人気質、堅気とでもいうべき不粋なタチを保っている剛健な連中のうえにしか、実のある方略を掛値なしで教えてやまない、裏表なく実直な人格は(資本主義化した世知辛い世間では)多分みあたらないだろう。
決して自称文学者やら詭弁屋――しばしば真実の哲学者の中に紛れ込んで偽装し、本来の教養による知恵でなく、奇をてらったまやかしの虚言で人々をたぶらかす――やらに代表される‘巧言令色の輩’ではない。又きわめて虚飾しやすい‘肩書を誇る者’でもない。
かれらは政権外の在野での批評論ならまだしも、政権内部にとって決定的な危険分子であることもありうる。(科挙を通じてイエスマンばかりを集めてしまった中国大陸での歴代王朝の末路や、そのうち馬鹿の語源の一つである趙高による助長してしまった専制権力の弊害をみよ)
特に一見すると知識人あるいはインテリゲンチャといわれる風貌をまとっている者(もともとロシア語の翻訳である)は、相当の世事に通じた洞察ある者でもなければ真贋がとにかく見分けづらく、しかしながらまずもって専門ある理論科学者ではないのだから隠密でないかも怪しい。
純粋な理論科学者そのものは世事や現実問題にもともと疎い欠点がある。アインシュタインがナチスでなく日本へ投下される原爆開発同意書へ不本意にも署名してしまったことなどはその例である。(純粋理論の科学者は職業症でなかなか政治的正当性を認識できない)
共和政の末期ローマに於ける多くのゲルマン傭兵はゆるんだ市民権を利用して“肩書の援用”を政権奪取の担保としつつ、内側からシロアリのように大帝国を瓦解させたのだから、いわゆる知謀でも十分、はずかしげなく堂々掲げたどこかの戦略室(盗聴器がどこにあるか一目瞭然である)とやらが骨抜きにされる場合もあるとひそひそ議論事前に聡るべきだ。
アメリカが秘密警察幹部をどこに置いているか国外人に知られるほど安直でないなら、幼児じみた敗残日本人の文明僻地なりの軍人知性(神風攻撃をした奴らだ)を反省する機会を既にして与えている。下手に考えるなら優等生に習う方がはやい。
もし先に防衛省などという極悪きわまる無礼者の高すぎるかしらをとりさげてからなら慰霊を兼ねた平和主義遵法への筋は通っただろうが。
Strategyの訳語だとしても「方略」「計略」「算段」など様々にもっと穏当な命名はある。
いうまでもなく天才官僚には余計なお世話の様だが、こういう非常に基礎的なケアレスミスに現れる様なブレインの質に勝利直後の民主党の名誉をおもいみれば、おそらくできるかぎり最短で、強力な背骨となる何らかの思考貯蔵庫あるいは頭脳集団を確保できねば遠い政権維持へはあやういだろう。それは助成はどうあれ現内閣の内外問わずにである。
おもうに、日本政府の伝統的な最大の欠陥は理論家あるいは頭脳の軽視にある。
武家政権の専制がいかにも例外的に長かったので、同一人種以外との抗争そのものが致命傷となる危険性を覚らず、結局甘えが許されると信じているようだが、世界では計略の不足で即刻解体されない国体の方がめずらしい。
もし同様の性格であったモンゴルに元寇時点で侵略完了されていればと仮想すれば判る。
また、ソフィスト(知恵者)と呼ばれる詭弁術の有料教師が跋扈した時期に民主政のギリシアがマケドニア王国に殲滅された歴史事実は、信用の置ける頭脳として民主政府が抜擢すべきなのは――命令に対して従順かつ判断力の確かな出来るかぎり実務に向いた質の者、いいかえると『科学技術者たち』の中に見出だされるだろう。
そういう中でさらに選良されたある種の職人気質、堅気とでもいうべき不粋なタチを保っている剛健な連中のうえにしか、実のある方略を掛値なしで教えてやまない、裏表なく実直な人格は(資本主義化した世知辛い世間では)多分みあたらないだろう。
決して自称文学者やら詭弁屋――しばしば真実の哲学者の中に紛れ込んで偽装し、本来の教養による知恵でなく、奇をてらったまやかしの虚言で人々をたぶらかす――やらに代表される‘巧言令色の輩’ではない。又きわめて虚飾しやすい‘肩書を誇る者’でもない。
かれらは政権外の在野での批評論ならまだしも、政権内部にとって決定的な危険分子であることもありうる。(科挙を通じてイエスマンばかりを集めてしまった中国大陸での歴代王朝の末路や、そのうち馬鹿の語源の一つである趙高による助長してしまった専制権力の弊害をみよ)
特に一見すると知識人あるいはインテリゲンチャといわれる風貌をまとっている者(もともとロシア語の翻訳である)は、相当の世事に通じた洞察ある者でもなければ真贋がとにかく見分けづらく、しかしながらまずもって専門ある理論科学者ではないのだから隠密でないかも怪しい。
純粋な理論科学者そのものは世事や現実問題にもともと疎い欠点がある。アインシュタインがナチスでなく日本へ投下される原爆開発同意書へ不本意にも署名してしまったことなどはその例である。(純粋理論の科学者は職業症でなかなか政治的正当性を認識できない)
共和政の末期ローマに於ける多くのゲルマン傭兵はゆるんだ市民権を利用して“肩書の援用”を政権奪取の担保としつつ、内側からシロアリのように大帝国を瓦解させたのだから、いわゆる知謀でも十分、はずかしげなく堂々掲げたどこかの戦略室(盗聴器がどこにあるか一目瞭然である)とやらが骨抜きにされる場合もあるとひそひそ議論事前に聡るべきだ。
アメリカが秘密警察幹部をどこに置いているか国外人に知られるほど安直でないなら、幼児じみた敗残日本人の文明僻地なりの軍人知性(神風攻撃をした奴らだ)を反省する機会を既にして与えている。下手に考えるなら優等生に習う方がはやい。
2009年9月30日
2009年9月28日
猿
黒塗りのベンツから出てきたのはどこか、しらない遠い、世界のすみっこの奇妙なちっこい猿。そいつはどうやら島の猿の王だ。その猿は生れついたときから島に在来してるほかのおさるとは違う檻で飼われている。ベンツをもってきてもらって、自分だけは守りがつく。そのボス猿はひょろひょろしている。知能も満足ではない。証拠に、とてもはやく発情する。とても喧嘩で、議論でのしあがってきたタイプには見えない。その猿は生まれついてから一度もベンツで守られなかったことはない。いつでも大変な大金で匿われている。その飼糧はすべて島に在来する、小さな細々しい部屋に住む働き猿がもってくる。絶えることのない貢ぎ物。まるで工場生産の様に、運ばれる徴税の貴重な資源。だがそれが働き猿の手元にもどってくることはなく、威張りくさったボス周りへすべては分割されていく。その取り巻きは自分の取り分を誇り、ほかの働き猿をけちらし、つねに傲慢な態度でほかのお貰いに預かれなかった子サルを見下し見下し虐めている。なにしろあらゆる武器は取り巻きの手にあるのだから当然だ。逆らった猿は監獄で殺されていく。働きサルはとても貧弱でいつも敵対ばかりしているそれぞれ少数の勢力なので、ボスの大群を打つ軍団へ決して逆らわない。殺されるのが怖くて逆らえないのだ。しばらく観察しているとそのボス猿はとてもはやい時期に発情をし、あちこち旅行する。たまの任務は、珍しいメスでもさぐる気なのか、図鑑を読む。それしかしない猿が王様だ。すべての困難な仕事は働き猿がやる。街を築き、漁をし、田畑を耕し山菜を採る。歌って踊って小話を書き付け面白がらせる。天が登り日と沈む。そのくりかえし。何年も何年も、何千年も。だれも大昔のことは思い出せないがどう見ても比弱そうなちいさな猿の住む、世界の隅のその奇怪な島ではこの儀式が延々とくりかえされる。働き猿と発情王の社会関係。そしてその島では、ほかに何も起こらない
ジパング観察記、九月二十八日しるす。
ジパング観察記、九月二十八日しるす。
2009年9月27日
物見
己れの多くを語ろうとする者は好意を持たれる機会を失う。
直感の鋭い者は内心を見分け、鈍い者は見誤る。
直感の鈍い女はまず子孫を残さない。
理知の刃による傷は暴力によるそれより浅い。
性格によってではなく外見で結婚を決めると必ず後悔する。
愚か者は動物の生態論を人間へも直接あてはめてしまう。
引っ込み思案な者はその性質を愛していることが多い。
古色蒼然たる建物は人知よりも忘却を望む。
商人は臆病。
芸者は老獪。
知恵ある女性は献身によって逆に家政を摂る。
科学者はいざとなれば卑怯さを隠さない。
哲人と話すひとは自らも道理の衣を知らずしらず纏う。
運動選手は職業症を終生患う。
ひとは空っぽの箱でもありがたければ拝む。
見栄っ張りはつまらない死に方をする。
神社は悪を裁かず、因果応報に任せる。
都会には煩雑さよりほか何もない。
風景だけが記憶される。
共生を理想化する者はつけこまれる。
理屈より行動を信じる者が賢かった試しはない。
聖人をそしるのは砂つぶてを向かい風に向かって投げた様だ。
美を望むのなら夢見がちな感情を大切にするしかない。
美醜を見分ける者は必ずしも美人でない。
恋愛というものは成就されない方がよい。
綺麗な街は住みびとたちの神経質さに依存する。
肩書で人間を判断する者は自らもそうされる。
子供心を失わなかったひとだけがいつまでも感覚よい。
大衆に見習うと卑しさというオマケがつく。
品性は自己判断できない。
都会人が繊細であることは殆どない。
自然を理想視している者は野蛮にまみれる。
理論で説得されなかった者はいずれ暴力でそうされる。
取るに足らない者はすぐれた他人をもそう思う。
一般論と例外をすぐさま見分けるには天性に恵まれている必要がある。
自分を馬鹿だと言うひとはそう目されることを望んでいる。
利口ぶった女性は学問を誇るにすぎず頭脳をではない。
嫉妬深い女性は最終的に自己矛盾に陥る。
馬鹿な女は発情期以降は生きている意味がない。
男らしさを筋骨に求める者は決して出世大成しない。
母性によって養育されなかった幼児は可愛いげがない。
知性によって理性を駆逐したがる者は誰からも利用されるに過ぎない。
鈍重な性質の者は虐められた仕返しを地位肩書の自己満足で行う。
思慮の浅い者は生かじりの知識を筋金入りの道理よりも立派だと勘違いしている。
思慮の浅い老人は孝行心からの介護を期待できない。
道徳ある少年を軽視していた浅はかな成人は輝かしい将来を持てない。
俗物からの評価を絶対視すると流行に後れる。
つまらない家庭教師に習わせると試験成績と引き換えに勉強ぎらいになる。
不良教師を公に批判しない生徒は陰口の習慣をつける。
女性教師が幼児や年少以上の教育に向く可能性は殆どない。
浅はかな老人は死後語られること少ない。
若造を畏れなかった老人は必ず既にある名声をも剥奪される。
実力以上に評価されてきた有名人は偶然の風向きで涼んでいる旅人に似ている。
仲間から賢者を追い出すと自滅しやすい。
よい忠告は比喩を用いない。
諌められる上司は信望で勝る。
長い旅は世の中の変化を教える。
操作できない値頃は固定されている方がいい。
清浄な空気の期待できない街では健全な青少年が育てにくい。
山奥に閉じこもって暮らすと段々猿と似てくる。
性格のよさは欠点を隠す。
徒労は経験値、下調べはその省力。
よい面ばかりを語る商人は悪徳を見抜かれて店じまいすることになる。
異民族間で仕事をすると二倍以上の経験則が貯まる。
堅実な商売しか生き残らない。
子供に好かれない店は今より発展しない。
奥山育ちでぽっと出のど田舎者は恥をかくため都心でも粘る。
里山はつねに平和である。
言葉の伝染力は風邪より強く、同時に消え去りやすい。
素晴らしい商いはたとえ潰れても成長したおなさごによって復興されて甦る。
政治を特に好むのは悪人が多い。
学歴を職工の実経験がわりにすると基礎から失敗する。
以前よりわるくした環境の建設は自然現象と天才の両方によって覆される。
悪意は長続きしない。
駆け足で見て回った世界は栄枯盛衰を余韻する。
裏道に真実あり。
団体客は案内人のつくる目線で見る。
自由行動に品が出る。
普段の行いは神によって最もよく知られている。
言葉のあやは性格という糸を織る。
魅力の殆どはつくりものである。
興味でひとが判る。
夢は誤らない。
俗人は金という餌で養われる。
掲示板は地域色を写し取る。
無限につらなる理想郷はない。
王侯貴族は長さ以外の価値なし。
死を安らかに迎えられない人生では計画実行が頓挫している。
疑り深い人は自分自身へもそうである。
出世必ずしも善ならず。
あしき生まれは世に醜さをのこす。
ばれない嘘をつきがちな者はそれが特技だと考えている。
地位を得たがる俗物は必ずや悪魔である。
利益と友情を混同する者は孤独に亡くなる。
人格は治らない。
害ある友は誰へでも害をもちくる。
すべての肩書は消える。
すべての善意はのこる。
創意は知識量と多くは重ならない。
商業民族に倣うと袋小路に迷い込む。
学校に適応している者は社会へ適応しづらい。
社会に順応している者は学校へ通わせるがいい。
多くは理想通りになる。
よい学者であれば大学者の卵を察知しやすい。
肩書はそれを知る者にしか効かない。
何も知らないはずの幼児は真実を見失わない。
年寄りの冷や水は命を縮める。
政治家は長寿を望むべきではない。
教える者が責任を負う。
哲学者以外が教育してはならない。
直感の鋭い者は内心を見分け、鈍い者は見誤る。
直感の鈍い女はまず子孫を残さない。
理知の刃による傷は暴力によるそれより浅い。
性格によってではなく外見で結婚を決めると必ず後悔する。
愚か者は動物の生態論を人間へも直接あてはめてしまう。
引っ込み思案な者はその性質を愛していることが多い。
古色蒼然たる建物は人知よりも忘却を望む。
商人は臆病。
芸者は老獪。
知恵ある女性は献身によって逆に家政を摂る。
科学者はいざとなれば卑怯さを隠さない。
哲人と話すひとは自らも道理の衣を知らずしらず纏う。
運動選手は職業症を終生患う。
ひとは空っぽの箱でもありがたければ拝む。
見栄っ張りはつまらない死に方をする。
神社は悪を裁かず、因果応報に任せる。
都会には煩雑さよりほか何もない。
風景だけが記憶される。
共生を理想化する者はつけこまれる。
理屈より行動を信じる者が賢かった試しはない。
聖人をそしるのは砂つぶてを向かい風に向かって投げた様だ。
美を望むのなら夢見がちな感情を大切にするしかない。
美醜を見分ける者は必ずしも美人でない。
恋愛というものは成就されない方がよい。
綺麗な街は住みびとたちの神経質さに依存する。
肩書で人間を判断する者は自らもそうされる。
子供心を失わなかったひとだけがいつまでも感覚よい。
大衆に見習うと卑しさというオマケがつく。
品性は自己判断できない。
都会人が繊細であることは殆どない。
自然を理想視している者は野蛮にまみれる。
理論で説得されなかった者はいずれ暴力でそうされる。
取るに足らない者はすぐれた他人をもそう思う。
一般論と例外をすぐさま見分けるには天性に恵まれている必要がある。
自分を馬鹿だと言うひとはそう目されることを望んでいる。
利口ぶった女性は学問を誇るにすぎず頭脳をではない。
嫉妬深い女性は最終的に自己矛盾に陥る。
馬鹿な女は発情期以降は生きている意味がない。
男らしさを筋骨に求める者は決して出世大成しない。
母性によって養育されなかった幼児は可愛いげがない。
知性によって理性を駆逐したがる者は誰からも利用されるに過ぎない。
鈍重な性質の者は虐められた仕返しを地位肩書の自己満足で行う。
思慮の浅い者は生かじりの知識を筋金入りの道理よりも立派だと勘違いしている。
思慮の浅い老人は孝行心からの介護を期待できない。
道徳ある少年を軽視していた浅はかな成人は輝かしい将来を持てない。
俗物からの評価を絶対視すると流行に後れる。
つまらない家庭教師に習わせると試験成績と引き換えに勉強ぎらいになる。
不良教師を公に批判しない生徒は陰口の習慣をつける。
女性教師が幼児や年少以上の教育に向く可能性は殆どない。
浅はかな老人は死後語られること少ない。
若造を畏れなかった老人は必ず既にある名声をも剥奪される。
実力以上に評価されてきた有名人は偶然の風向きで涼んでいる旅人に似ている。
仲間から賢者を追い出すと自滅しやすい。
よい忠告は比喩を用いない。
諌められる上司は信望で勝る。
長い旅は世の中の変化を教える。
操作できない値頃は固定されている方がいい。
清浄な空気の期待できない街では健全な青少年が育てにくい。
山奥に閉じこもって暮らすと段々猿と似てくる。
性格のよさは欠点を隠す。
徒労は経験値、下調べはその省力。
よい面ばかりを語る商人は悪徳を見抜かれて店じまいすることになる。
異民族間で仕事をすると二倍以上の経験則が貯まる。
堅実な商売しか生き残らない。
子供に好かれない店は今より発展しない。
奥山育ちでぽっと出のど田舎者は恥をかくため都心でも粘る。
里山はつねに平和である。
言葉の伝染力は風邪より強く、同時に消え去りやすい。
素晴らしい商いはたとえ潰れても成長したおなさごによって復興されて甦る。
政治を特に好むのは悪人が多い。
学歴を職工の実経験がわりにすると基礎から失敗する。
以前よりわるくした環境の建設は自然現象と天才の両方によって覆される。
悪意は長続きしない。
駆け足で見て回った世界は栄枯盛衰を余韻する。
裏道に真実あり。
団体客は案内人のつくる目線で見る。
自由行動に品が出る。
普段の行いは神によって最もよく知られている。
言葉のあやは性格という糸を織る。
魅力の殆どはつくりものである。
興味でひとが判る。
夢は誤らない。
俗人は金という餌で養われる。
掲示板は地域色を写し取る。
無限につらなる理想郷はない。
王侯貴族は長さ以外の価値なし。
死を安らかに迎えられない人生では計画実行が頓挫している。
疑り深い人は自分自身へもそうである。
出世必ずしも善ならず。
あしき生まれは世に醜さをのこす。
ばれない嘘をつきがちな者はそれが特技だと考えている。
地位を得たがる俗物は必ずや悪魔である。
利益と友情を混同する者は孤独に亡くなる。
人格は治らない。
害ある友は誰へでも害をもちくる。
すべての肩書は消える。
すべての善意はのこる。
創意は知識量と多くは重ならない。
商業民族に倣うと袋小路に迷い込む。
学校に適応している者は社会へ適応しづらい。
社会に順応している者は学校へ通わせるがいい。
多くは理想通りになる。
よい学者であれば大学者の卵を察知しやすい。
肩書はそれを知る者にしか効かない。
何も知らないはずの幼児は真実を見失わない。
年寄りの冷や水は命を縮める。
政治家は長寿を望むべきではない。
教える者が責任を負う。
哲学者以外が教育してはならない。
道徳的批判の精神
無知と不徳とはしばし一致する。すると知識総量を倫理として体系化した規律というのが道徳と呼ばれている、かなり不確定な総体である。それは時代や地域によって何が倫理かそれすら変更が加えられうるからだし、またこの体系が礼儀として複合か重畳されているとき、家政の外部者から解読するのはよほど困難だからでもある。いいかえれば礼儀という倫理規則集は殆ど偶有的と呼べる。隙の多い知識体系とその習性が通用するのはやはり仲間内でだけだ。つまり、世界には礼儀の程度に関して詳細の偏差があるだけであり、それは環境収容についての密度効果にほぼ依存する。
だから究極に礼儀ある倫理規則を観察したければ、世界で最も人口密度の高い地域でその時代が煩瑣の極度を迎えた状態を想定すればいい。そこでは息をつくにも一定のおもんばかりが要請されるので、我々が想像できる最高度の細かな人事共存方式が発見されるだろう。ここからは道徳法則という偶有の城は、実際にはきわめつけにばらけて偏差している群生の徴なのであり、その中央が必ずしも確定的でないと理解できる。すなわち道徳とは場の観測的倫理法則であり、現実には結果論の範畴にある。
唯一絶対の道徳法則を発見しようとする努力は結局徒労である。もしそういう固定義務への使徒が出現しても、いずれは特定集団が共有した宗教規則となって全般の適応法則とは少しずつ差延を余儀なくもしよう。故現実に即して道徳観念を評定しようとする者は必ずそれが如何なる場面で想起された理念かを分析する必要がある。全く同じ行動や規則でも、ある場面では哀しくも礼儀知らずであり他の場面では奇しくも究極の正義ともなる。他方こういう超可塑化された道徳認識は多くの場合、それほど沢山の倫理上の概念を知らない人へは未知の事態への怖れを抱かせるだろう。戦争の英雄は平時では極悪の死刑犯へ転落する。
しかし、我々がつぎの予測を持てるならそれも杞憂に終わるだろう。もし道徳的な性格あるいは善良さを好む者が居れば、その人物は決して場面毎に異なる事象を見ないだろう。いいかえれば倫理は絶えざる批判精神の結果論なので、二者以上の成員が何らかの取組を図る際には必然に生ずる。そして如何なる人知の程度にあっても、選択可能な内より一歩でも慎み深い方向を選び取るのはかれに生まれ持った善意があれば十分。仮に如何なる事態に直面して懲悪や処罰あるいは報償や勧善の遅れがどれほどであろうともやはり行動のよさは最終結果論で裁決される。動機説は飽くまで批判する側の自己姿勢だから、如何なる善意も人事の判断についてのみ生ずるだろう。
また多くの一神教は全知全能の理念とこの批判の観点を絶えず照らし合わせる動機づけによって、定常的な倫理をなんらかの文化慣習の方法論とすりあわせることのできる道徳の教化方式だと述べうる。だが、我々が各一神教相互を批判できる見地をも現実に、とても辛抱づよい議論という最も和平へつらなるのが明らかな道のりを大きく逸れないままで継続できるとすれば、実践的な道徳生活の上でもまた各々の文化慣習からより良い場面ごとの規律も取捨選択できる一定の哲学をあまり遠くないやがて捻出できるだろう。
だから究極に礼儀ある倫理規則を観察したければ、世界で最も人口密度の高い地域でその時代が煩瑣の極度を迎えた状態を想定すればいい。そこでは息をつくにも一定のおもんばかりが要請されるので、我々が想像できる最高度の細かな人事共存方式が発見されるだろう。ここからは道徳法則という偶有の城は、実際にはきわめつけにばらけて偏差している群生の徴なのであり、その中央が必ずしも確定的でないと理解できる。すなわち道徳とは場の観測的倫理法則であり、現実には結果論の範畴にある。
唯一絶対の道徳法則を発見しようとする努力は結局徒労である。もしそういう固定義務への使徒が出現しても、いずれは特定集団が共有した宗教規則となって全般の適応法則とは少しずつ差延を余儀なくもしよう。故現実に即して道徳観念を評定しようとする者は必ずそれが如何なる場面で想起された理念かを分析する必要がある。全く同じ行動や規則でも、ある場面では哀しくも礼儀知らずであり他の場面では奇しくも究極の正義ともなる。他方こういう超可塑化された道徳認識は多くの場合、それほど沢山の倫理上の概念を知らない人へは未知の事態への怖れを抱かせるだろう。戦争の英雄は平時では極悪の死刑犯へ転落する。
しかし、我々がつぎの予測を持てるならそれも杞憂に終わるだろう。もし道徳的な性格あるいは善良さを好む者が居れば、その人物は決して場面毎に異なる事象を見ないだろう。いいかえれば倫理は絶えざる批判精神の結果論なので、二者以上の成員が何らかの取組を図る際には必然に生ずる。そして如何なる人知の程度にあっても、選択可能な内より一歩でも慎み深い方向を選び取るのはかれに生まれ持った善意があれば十分。仮に如何なる事態に直面して懲悪や処罰あるいは報償や勧善の遅れがどれほどであろうともやはり行動のよさは最終結果論で裁決される。動機説は飽くまで批判する側の自己姿勢だから、如何なる善意も人事の判断についてのみ生ずるだろう。
また多くの一神教は全知全能の理念とこの批判の観点を絶えず照らし合わせる動機づけによって、定常的な倫理をなんらかの文化慣習の方法論とすりあわせることのできる道徳の教化方式だと述べうる。だが、我々が各一神教相互を批判できる見地をも現実に、とても辛抱づよい議論という最も和平へつらなるのが明らかな道のりを大きく逸れないままで継続できるとすれば、実践的な道徳生活の上でもまた各々の文化慣習からより良い場面ごとの規律も取捨選択できる一定の哲学をあまり遠くないやがて捻出できるだろう。
2009年9月25日
五輪招致計画上の知的欠陥
会場間をむすぶ交通に焦って燃料電池自動車をつかうという提案があるらしいが(某大手新聞がソースなので真偽は疑わしいが)、この自動車そのものが市場化の最終結果では最悪のしろものであると認識していないとすればそれは東京都の、或いは計画に関係する都職員の科学知識が不足しているのである。
水素という物質はいわゆる水素爆鳴気と呼ばれる加熱による爆発性がある。瞬間的に酸素と化合して3500℃近くの炎火と同時に、非常に大きな爆鳴音を鳴らすところにその化学現象上の特徴がある。だから市場化する以前には、この欠点のありえない見逃しが事故による被害の致命傷となることをやっと認識した自動車会社の化学の常識にすら通じておらず技術畑出身でない幹部か、経済産業省関係者が、その一般商用開発の無用か害毒を悟ってひきかえすことになる。もし当計画通り燃料電池自動車を輸送手段としたまま簡単な事故を起こせば当然この五輪選手は死亡し、また事故地周辺への復旧困難な災害を引き起こすだろう。
その様な随所にみられる招致計画上の知的欠点を修正したければ、技術者、エンジニアという階層や集団からの撰良によって今のものよりはるかに現実味にあふれて将来像としても工学的十分に維持可能な、失敗率を極端にひきさげた知的な輝きのある計画案を抜本的な見直しのすえ提出しなおさねばならないだろう。
そしてややこしい衒学理論に構えた大上段の学者や、各種の理想論を吐くのをなりわいとする批評家との関連づけを気まぐれな世論に逆らってすらできるかぎり最小化し、真摯な土木技師の如くほとんど施工図レベルで実現直前の段階まで歩みを進めてなおも天命を待つ必要がある。こういう精根を傾けた努力の結果、すべてが惜敗という結果に終っても計画立案そのものの持続可能性は行政的文脈上に記憶されていくとも考えられる。たとえばどういう地点でどんな施工方法をとれば円滑に交通量の整理が計れるか、或いは二酸化炭素排出量をできるだけ逓減しながらどういう入札方式と学的根拠で建設形態を調えれば計画全域のリクリエーション値(愛顧される快適性)を増大できるか等の解決策は一つの再開発上のモデルとして、プレゼンテーション上のつよい波及効果を他都道府県や世界都市へも持つだろう。
水素という物質はいわゆる水素爆鳴気と呼ばれる加熱による爆発性がある。瞬間的に酸素と化合して3500℃近くの炎火と同時に、非常に大きな爆鳴音を鳴らすところにその化学現象上の特徴がある。だから市場化する以前には、この欠点のありえない見逃しが事故による被害の致命傷となることをやっと認識した自動車会社の化学の常識にすら通じておらず技術畑出身でない幹部か、経済産業省関係者が、その一般商用開発の無用か害毒を悟ってひきかえすことになる。もし当計画通り燃料電池自動車を輸送手段としたまま簡単な事故を起こせば当然この五輪選手は死亡し、また事故地周辺への復旧困難な災害を引き起こすだろう。
その様な随所にみられる招致計画上の知的欠点を修正したければ、技術者、エンジニアという階層や集団からの撰良によって今のものよりはるかに現実味にあふれて将来像としても工学的十分に維持可能な、失敗率を極端にひきさげた知的な輝きのある計画案を抜本的な見直しのすえ提出しなおさねばならないだろう。
そしてややこしい衒学理論に構えた大上段の学者や、各種の理想論を吐くのをなりわいとする批評家との関連づけを気まぐれな世論に逆らってすらできるかぎり最小化し、真摯な土木技師の如くほとんど施工図レベルで実現直前の段階まで歩みを進めてなおも天命を待つ必要がある。こういう精根を傾けた努力の結果、すべてが惜敗という結果に終っても計画立案そのものの持続可能性は行政的文脈上に記憶されていくとも考えられる。たとえばどういう地点でどんな施工方法をとれば円滑に交通量の整理が計れるか、或いは二酸化炭素排出量をできるだけ逓減しながらどういう入札方式と学的根拠で建設形態を調えれば計画全域のリクリエーション値(愛顧される快適性)を増大できるか等の解決策は一つの再開発上のモデルとして、プレゼンテーション上のつよい波及効果を他都道府県や世界都市へも持つだろう。
生物学
生態にとってある程度の可塑性が必須なのは偶然の変異に適応しない為である。ゆえ可塑性、或いは生態の柔らかさが増大する程その生態は必然への適応を遂げる。偶然的に変形された習性はつづく別の偶然で補われる。この維持した変更は学習行動と名付けられている。
生態構造が決定的に可塑化するにはこの学習されて変更の加えうる領域を徐々に拡充できねばならない。又は、その可能領域をできるだけ生態環境でありうる偶然の変異へ適合させなくばならない。必然性と偶然性が入り混じる条件を、偶有的とも呼ぶ。この偶有性は学習行動では捉えきれないので、半分は知能行動と呼ばれる予測知を生態適応へ繰り入れさせる。
もし必然性が知能行動で集束できる法則知のことなら、この予測知はそれなりの偶然による確率や運の可塑性をそこへ導き入れるものといえる。実際、偶有適応というものは予測知による、学習でも知能でもない第三の行動を喚起している。それはいわゆる可能性の変異を実現させる方向づけである。これは直感行動と述べることもできる。
我々は、もしくは主に自律神経系をもつ生物は偶有の事象への適性としてこの種の行動型をも普通とするものであって、決して単なる偶然へでもまた明らかな必然でもない様な環境変異へ向けてはこの確率的可能性へ適合しようとする行動様式が最適なのである。例えばある程度の試行錯誤をふくみつつ犬や猫が生まれ育った町へと帰り着く様な行動型は、決して必然性の法則の中には計測しきれるわけではないにも関わらず、ほぼ確かな率で正解を導き出すことができる。嗅覚その他の本能行動を幾らかの学習された風景や事物を手掛かりに、また少なくとも目的としての生還を事前に洞察して全体として一定の可能性たる予測知を発揮するとき、かれは直感に遵って帰り道を偶有的に発見したと述べられる。
生態構造が決定的に可塑化するにはこの学習されて変更の加えうる領域を徐々に拡充できねばならない。又は、その可能領域をできるだけ生態環境でありうる偶然の変異へ適合させなくばならない。必然性と偶然性が入り混じる条件を、偶有的とも呼ぶ。この偶有性は学習行動では捉えきれないので、半分は知能行動と呼ばれる予測知を生態適応へ繰り入れさせる。
もし必然性が知能行動で集束できる法則知のことなら、この予測知はそれなりの偶然による確率や運の可塑性をそこへ導き入れるものといえる。実際、偶有適応というものは予測知による、学習でも知能でもない第三の行動を喚起している。それはいわゆる可能性の変異を実現させる方向づけである。これは直感行動と述べることもできる。
我々は、もしくは主に自律神経系をもつ生物は偶有の事象への適性としてこの種の行動型をも普通とするものであって、決して単なる偶然へでもまた明らかな必然でもない様な環境変異へ向けてはこの確率的可能性へ適合しようとする行動様式が最適なのである。例えばある程度の試行錯誤をふくみつつ犬や猫が生まれ育った町へと帰り着く様な行動型は、決して必然性の法則の中には計測しきれるわけではないにも関わらず、ほぼ確かな率で正解を導き出すことができる。嗅覚その他の本能行動を幾らかの学習された風景や事物を手掛かりに、また少なくとも目的としての生還を事前に洞察して全体として一定の可能性たる予測知を発揮するとき、かれは直感に遵って帰り道を偶有的に発見したと述べられる。
本
もしもあなたが消えてしまった言葉を探すのなら
深い海の底で眠りこけている宝の石を
静かにたぐり寄せればいい
どれだけささやかな
言葉のあやでも
世の中がとても素早く目まぐるしくうつり変わる
少しでも振り返ればもう先はないかも
山奥の畦道でだれに向けてでもなく咲いた
立葵の花が時の流れと共に
夜に紛れて行く
もし夜空のどこへでも広がったこの星屑の群れが
隠してしまったまことのせりふであれ
気づかぬうちに失くしてしまった
どこかで習った言葉だったので
もし大人が
美しく着飾った多くの嘘で塗りかためた建前を守り
あなたのかつてみていた数え切れない夜の灯を
まるで吹き消してしまうのだとしてもそれは
本のつかの間の夢
深い海の底で眠りこけている宝の石を
静かにたぐり寄せればいい
どれだけささやかな
言葉のあやでも
世の中がとても素早く目まぐるしくうつり変わる
少しでも振り返ればもう先はないかも
山奥の畦道でだれに向けてでもなく咲いた
立葵の花が時の流れと共に
夜に紛れて行く
もし夜空のどこへでも広がったこの星屑の群れが
隠してしまったまことのせりふであれ
気づかぬうちに失くしてしまった
どこかで習った言葉だったので
もし大人が
美しく着飾った多くの嘘で塗りかためた建前を守り
あなたのかつてみていた数え切れない夜の灯を
まるで吹き消してしまうのだとしてもそれは
本のつかの間の夢
迎賓
いそがしい人々はそれをのぞんでいる
だれにであれただしく
降り注ぐお日様を仰ぐ子供の目には只
光が見える
つつましく暮らす一家が一体
よにも奇妙な王侯閣下の迎賓館でその
豪勢な夕食に紛れてよのはかなさを見るとして
月が回る
だがその表情を見分ける者は少ない
いつなんどきでも空で幾多の生き物を見守ってきたのだが
聖者と浮浪者が同じ晩餐会で恵まれた境遇を楽しむ日が
来るのを望んでいたのだ
人々は余りにもいそがしく
余分な儲けをしまいこんで貧乏人を見下す習性を捨て去らずにいた
休まず働いた挙げ句
もしすべてがお膳立てでも
だれにであれただしく
降り注ぐお日様を仰ぐ子供の目には只
光が見える
つつましく暮らす一家が一体
よにも奇妙な王侯閣下の迎賓館でその
豪勢な夕食に紛れてよのはかなさを見るとして
月が回る
だがその表情を見分ける者は少ない
いつなんどきでも空で幾多の生き物を見守ってきたのだが
聖者と浮浪者が同じ晩餐会で恵まれた境遇を楽しむ日が
来るのを望んでいたのだ
人々は余りにもいそがしく
余分な儲けをしまいこんで貧乏人を見下す習性を捨て去らずにいた
休まず働いた挙げ句
もしすべてがお膳立てでも
虫
情に流されるしか能のないへんてこな島国のちんけな虫
奴らの上にもし最高の知性が降り立ったとしても必ずや
理解しようともせずに村八分にするでしょう
そんな虫達はいまかいまかと絶滅の瞬間を祈りつづける
ただし群れの中に紛れ込んで
神はそんな虫けらでもやはり平等に褒らむのであるから
安心して繁殖活動をつづけるがいいなにひとつ
見分けることのできない情報のバグども
流星群がこのちんけな星屑を吹き飛ばすなら
全ての
とるにも足らぬ間抜けきわまる虫類の
必死の蠢きでも
何も無かったことになるであろうその方が望ましい
どうせ貴様らに考えられることと言って
虫類のうごめきだけ
ほかに目的のない
蠢きの生命体である貴様らごとき
偶然で死滅しようとなんの驚きもなかろうに
所詮は人類などその程度の物
なにをおもいあがって無神論にかぶれられたものだ
生きている理由すらみにくい性欲の他なにもない
踏み潰されようが情報のきたない汁をしぼりだすだけで
臭いは最悪繁殖速度は並の猿よりよほど速くとかく
薄汚れた風体で会合を開きペチャクチャペチャクチャ唾をとばす
人虫などその程度の能力しかないんだろうがな
白黒黄色どれも同じ様な生態でなんの変化もない
眺めていても面白みがない繁殖か巣作りしかできない
貴様らになにも成功した部分はない単に
連綿とつづく一連の計画のなかでたまたま生じてしまった
情報のバグだからね
奴らの上にもし最高の知性が降り立ったとしても必ずや
理解しようともせずに村八分にするでしょう
そんな虫達はいまかいまかと絶滅の瞬間を祈りつづける
ただし群れの中に紛れ込んで
神はそんな虫けらでもやはり平等に褒らむのであるから
安心して繁殖活動をつづけるがいいなにひとつ
見分けることのできない情報のバグども
流星群がこのちんけな星屑を吹き飛ばすなら
全ての
とるにも足らぬ間抜けきわまる虫類の
必死の蠢きでも
何も無かったことになるであろうその方が望ましい
どうせ貴様らに考えられることと言って
虫類のうごめきだけ
ほかに目的のない
蠢きの生命体である貴様らごとき
偶然で死滅しようとなんの驚きもなかろうに
所詮は人類などその程度の物
なにをおもいあがって無神論にかぶれられたものだ
生きている理由すらみにくい性欲の他なにもない
踏み潰されようが情報のきたない汁をしぼりだすだけで
臭いは最悪繁殖速度は並の猿よりよほど速くとかく
薄汚れた風体で会合を開きペチャクチャペチャクチャ唾をとばす
人虫などその程度の能力しかないんだろうがな
白黒黄色どれも同じ様な生態でなんの変化もない
眺めていても面白みがない繁殖か巣作りしかできない
貴様らになにも成功した部分はない単に
連綿とつづく一連の計画のなかでたまたま生じてしまった
情報のバグだからね
2009年9月21日
物見
忙殺に値するひとを神が見誤ることはない。
同情を買うためには自らが慈悲深くなくてはならない。
自然の出来栄えを賞賛する者は出来損なった芸術をつかまされるおそれがない。
心安らかに暮らしたくば都会を退くがいい。
暇人達だけうちとけて語る友を持つ。
学校は友情をはぐくむ。
恋愛はしないところにある。
親子は似て非なり。
かしこい者がかしこさを知る。
神の恩寵をさとらぬ者は世界に満足できない。
人間は育ちのよしあし。
心の美しいひとは孤独をもたない。
遅れてやってきた者は完成された庭を見る。
先人の業績を踏みにじる者はそうされる準備を欠かさない。
子供を軽く見る者は老いてから軽く見られる。
出来過ぎた花は最初に摘まれる。
みにくさは神の目には見えない。
命にしがみつくものは死にもそうする。
悪人は自滅する。
名前に欺かれる者は空き箱を崇めるのに等しい。
男女の違いを認めない者は男女と認めてもらえない。
劇に夢中な者は劇的に生活してしまう。
夢を見る者は夢の中で生きる。
すべての情報は業になる。
人の上に立とうとする者は最後にひきずりおろされる。
人は愛する物に似る。
香りは最もよく記憶される。
空気は場所をつくる。
判断の悪い者はすぐれた指導者を憎む。
善人は誇りを支払わない。
神を見習う者だけが真理に到る。
偉大な作品に感動しない者は煩悩により焼き尽くされる。
愚か者どもは早死にしていく。
言葉で動かない者は経験するまで気づかない。
理論の学校は気安く、体験の学校は苛酷である。
社会を学校がわりにすると苦労人に育てられる。
仕事人間は疎まれる。
芸術家を教育しようとする者は天才ではない。
地上の法律は仮の物、裁判官は天の法律で裁かれる。
勉強しない若者はやがて後悔の勉強に追われる。
大学卒を誇る者は無教養の才人に出し抜かれる。
大学院から出てしまった者は大抵何も貫けない。
女がでしゃばると必ず騙される。
軍人を信じる者は必ず戦死する。
人生経験を誇る者は知恵の不足を自慢しているのだ。
金銭で勝ったつもりの子供は虐められる。
やくざがやくざを呼ぶ。
忠告を留めおくひとは救われる。
師匠は出来の悪い弟子ほど贔屓しがちになる。
自然は心の鏡。
文明は精神を宿す。
通りすがりに神の目あり。
懺悔の習慣は教会の網の目を通り抜けることができる。
湿気は大敵。
田舎者に好かれるのは都会人からやくざに見える。
環境は人柄を育てる。
都会人の慣習は田舎者の純朴な目には馬鹿に見える。
だれも自らを超えては賢くなれない。
野心者が地位を得ると世間に迷惑をまきちらす。
若者を対象にした迫害はかならず身の破滅を招く。
芸能人は私生活を持てない。
子供心は海を越え山をも移す。
嫌われる老人は不足した生前の功徳を餞にもてない。
愛されて育った子供は先祖の功徳を身につけている。
いかなる努力も生前より死後のほうが高く見積もられる。
里耳に入らぬ高言の種子は風によって外国で花咲く。
神は天罰と褒美を長い目で見ることが多い。
同情を買うためには自らが慈悲深くなくてはならない。
自然の出来栄えを賞賛する者は出来損なった芸術をつかまされるおそれがない。
心安らかに暮らしたくば都会を退くがいい。
暇人達だけうちとけて語る友を持つ。
学校は友情をはぐくむ。
恋愛はしないところにある。
親子は似て非なり。
かしこい者がかしこさを知る。
神の恩寵をさとらぬ者は世界に満足できない。
人間は育ちのよしあし。
心の美しいひとは孤独をもたない。
遅れてやってきた者は完成された庭を見る。
先人の業績を踏みにじる者はそうされる準備を欠かさない。
子供を軽く見る者は老いてから軽く見られる。
出来過ぎた花は最初に摘まれる。
みにくさは神の目には見えない。
命にしがみつくものは死にもそうする。
悪人は自滅する。
名前に欺かれる者は空き箱を崇めるのに等しい。
男女の違いを認めない者は男女と認めてもらえない。
劇に夢中な者は劇的に生活してしまう。
夢を見る者は夢の中で生きる。
すべての情報は業になる。
人の上に立とうとする者は最後にひきずりおろされる。
人は愛する物に似る。
香りは最もよく記憶される。
空気は場所をつくる。
判断の悪い者はすぐれた指導者を憎む。
善人は誇りを支払わない。
神を見習う者だけが真理に到る。
偉大な作品に感動しない者は煩悩により焼き尽くされる。
愚か者どもは早死にしていく。
言葉で動かない者は経験するまで気づかない。
理論の学校は気安く、体験の学校は苛酷である。
社会を学校がわりにすると苦労人に育てられる。
仕事人間は疎まれる。
芸術家を教育しようとする者は天才ではない。
地上の法律は仮の物、裁判官は天の法律で裁かれる。
勉強しない若者はやがて後悔の勉強に追われる。
大学卒を誇る者は無教養の才人に出し抜かれる。
大学院から出てしまった者は大抵何も貫けない。
女がでしゃばると必ず騙される。
軍人を信じる者は必ず戦死する。
人生経験を誇る者は知恵の不足を自慢しているのだ。
金銭で勝ったつもりの子供は虐められる。
やくざがやくざを呼ぶ。
忠告を留めおくひとは救われる。
師匠は出来の悪い弟子ほど贔屓しがちになる。
自然は心の鏡。
文明は精神を宿す。
通りすがりに神の目あり。
懺悔の習慣は教会の網の目を通り抜けることができる。
湿気は大敵。
田舎者に好かれるのは都会人からやくざに見える。
環境は人柄を育てる。
都会人の慣習は田舎者の純朴な目には馬鹿に見える。
だれも自らを超えては賢くなれない。
野心者が地位を得ると世間に迷惑をまきちらす。
若者を対象にした迫害はかならず身の破滅を招く。
芸能人は私生活を持てない。
子供心は海を越え山をも移す。
嫌われる老人は不足した生前の功徳を餞にもてない。
愛されて育った子供は先祖の功徳を身につけている。
いかなる努力も生前より死後のほうが高く見積もられる。
里耳に入らぬ高言の種子は風によって外国で花咲く。
神は天罰と褒美を長い目で見ることが多い。
2009年9月20日
倭人種への望ましい社交的規則
人間を哺乳類の末裔として観察した場合、社会悪というものがその習性から生じているのは明らかである。特に、倭人種が広く悪習として認じているものは、彼らが生態上でもっているなんらかの不合理な習性からくる。
経済性の観点からのみ評価したとき、状況は朝鮮民族あるいは韓人種でも同じ様だが、これらの極東系の人種が感情の特殊性の為にいくつもの慰安の手段を要するのは僻地的習性を明らかにしたものだ。そしてもし彼らが総生産の面で他国より劣るとすれば、この文化的傾向は奇形と言われていい。なぜなら他の部族の有しているもっと能率よい習性を導き入れるなら当然、ほかの面のみならず経済性も向上するのだから。
倭人種の奇習は、彼らが長く極東の孤島で隔離的に自己進化してきたことからくる、情緒の過剰にある。そしてこの形質は最高潮の段階では自己経済化の抽象された姿として純粋な接客業をつくりだす。倭人種が古くは「芸者」という、専門化した接客業形質を広く保っていたのはこの文化の奇形さの極度である。朝鮮半島に在来した人種を除く、ほかのどの人類もこういう情緒の過剰から起こった奇習の助長を進めることはなかった。
現在のところ、他の国家でも若干みられる奇形化の傾向にこの接客業内容の映像販売という形式がある。しかし主に我々が「芸者」として知っている様な特殊な形質は、また文化的進歩の波から隔離された僻地でしか起こりえないだろう。
そして倭人種が、或いは朝鮮人種がこの地上の文明の中で位置どるところは、彼らの奇形化が形質の進みすぎた雌性化および幼型化からきた審美的極端さから生じているという事情より、やむをえない華美の結果、ほかのより理知の形質に勝った人種によって事実上合併される方向にもとづくだろう。
ライオンの群れに典型としてみられる様に、母系集団は現実的にはより選れた雄性形質を形式的受容によって吸収していく。だから「芸者」の性質はそれ自体が異様で、多くの欧米人がキリスト教思想のもとにかくの性向を野蛮な文化のものとして侮蔑するにせよ、最終的には接客という方法の華美の促進あるいは超合目的性のためにことなる文脈の中で逆にそれ以外の性格を編入してしまうだろう。いいかえれば、倭人種が華美のために持っている特徴は、その母集団性である。勿論そのために倭人種は理知的才覚に於いて一般に劣り、他のより進歩または旧態維持した人種に比べても中間的な能力しか持たないだろうが、にも関わらずもし在来種の処分という方針に至るほどこの理知の啓発が決定的に欠落していなければかなりの悪癖の実態にも関わらず保存的なのである。
これらの悪癖悪習はおそらく全体としての人種生態の中に形質の偏差を設けるための本能からの指令であり、仮にこういう奇習の根絶が古代の完全に隔離された山門的近親交配の危険性の内で行われた場合、その集団が一つ以上の環境変異で絶滅した可能性もある。
だから我々が現段階で望めるのは、情緒の過剰をみせる各種の異様な形質変異を排除するのではなく、それらを巧妙に分類化あるいは類型化して差別か区別しておくことだ。この類型化による異種視が情緒の過剰の微細な傾向ででも、多少なりとも理知のある部類が違和感をおぼえられる様に奇形化の罠を避けるきっかけを教える。真に個性的な変異は類型化できないので、一つ以上の情緒的同系がみられる場合はこのものを差別化するのが最低でも芸者的変形の速度を経済的に効率化するのを助けるであろう。なんらかの生態の類型化は、その形質が情緒的集合体に属するという倭人種の奇形さの性向を差別によって強調するので、少しでも理知のある者へはそのカテゴライズにあたる忌避感をもたらす効果を持っている点で個性または品格の高い群性を自主選択して維持させるに国風上は有益な仕掛けである。こういう奇形種を淘汰しようとする文化的能率(類型視の差別語彙量)が高ければ高いほど審美化すなわち中庸達成への煩瑣のため芸者的華美の極度を達することはますます困難になり又更新頻度も速まるので、結果としてはそれを見分ける理知の最低限度を国際平均以上へ保つ一つの内国的な社会機能になるだろう。
経済性の観点からのみ評価したとき、状況は朝鮮民族あるいは韓人種でも同じ様だが、これらの極東系の人種が感情の特殊性の為にいくつもの慰安の手段を要するのは僻地的習性を明らかにしたものだ。そしてもし彼らが総生産の面で他国より劣るとすれば、この文化的傾向は奇形と言われていい。なぜなら他の部族の有しているもっと能率よい習性を導き入れるなら当然、ほかの面のみならず経済性も向上するのだから。
倭人種の奇習は、彼らが長く極東の孤島で隔離的に自己進化してきたことからくる、情緒の過剰にある。そしてこの形質は最高潮の段階では自己経済化の抽象された姿として純粋な接客業をつくりだす。倭人種が古くは「芸者」という、専門化した接客業形質を広く保っていたのはこの文化の奇形さの極度である。朝鮮半島に在来した人種を除く、ほかのどの人類もこういう情緒の過剰から起こった奇習の助長を進めることはなかった。
現在のところ、他の国家でも若干みられる奇形化の傾向にこの接客業内容の映像販売という形式がある。しかし主に我々が「芸者」として知っている様な特殊な形質は、また文化的進歩の波から隔離された僻地でしか起こりえないだろう。
そして倭人種が、或いは朝鮮人種がこの地上の文明の中で位置どるところは、彼らの奇形化が形質の進みすぎた雌性化および幼型化からきた審美的極端さから生じているという事情より、やむをえない華美の結果、ほかのより理知の形質に勝った人種によって事実上合併される方向にもとづくだろう。
ライオンの群れに典型としてみられる様に、母系集団は現実的にはより選れた雄性形質を形式的受容によって吸収していく。だから「芸者」の性質はそれ自体が異様で、多くの欧米人がキリスト教思想のもとにかくの性向を野蛮な文化のものとして侮蔑するにせよ、最終的には接客という方法の華美の促進あるいは超合目的性のためにことなる文脈の中で逆にそれ以外の性格を編入してしまうだろう。いいかえれば、倭人種が華美のために持っている特徴は、その母集団性である。勿論そのために倭人種は理知的才覚に於いて一般に劣り、他のより進歩または旧態維持した人種に比べても中間的な能力しか持たないだろうが、にも関わらずもし在来種の処分という方針に至るほどこの理知の啓発が決定的に欠落していなければかなりの悪癖の実態にも関わらず保存的なのである。
これらの悪癖悪習はおそらく全体としての人種生態の中に形質の偏差を設けるための本能からの指令であり、仮にこういう奇習の根絶が古代の完全に隔離された山門的近親交配の危険性の内で行われた場合、その集団が一つ以上の環境変異で絶滅した可能性もある。
だから我々が現段階で望めるのは、情緒の過剰をみせる各種の異様な形質変異を排除するのではなく、それらを巧妙に分類化あるいは類型化して差別か区別しておくことだ。この類型化による異種視が情緒の過剰の微細な傾向ででも、多少なりとも理知のある部類が違和感をおぼえられる様に奇形化の罠を避けるきっかけを教える。真に個性的な変異は類型化できないので、一つ以上の情緒的同系がみられる場合はこのものを差別化するのが最低でも芸者的変形の速度を経済的に効率化するのを助けるであろう。なんらかの生態の類型化は、その形質が情緒的集合体に属するという倭人種の奇形さの性向を差別によって強調するので、少しでも理知のある者へはそのカテゴライズにあたる忌避感をもたらす効果を持っている点で個性または品格の高い群性を自主選択して維持させるに国風上は有益な仕掛けである。こういう奇形種を淘汰しようとする文化的能率(類型視の差別語彙量)が高ければ高いほど審美化すなわち中庸達成への煩瑣のため芸者的華美の極度を達することはますます困難になり又更新頻度も速まるので、結果としてはそれを見分ける理知の最低限度を国際平均以上へ保つ一つの内国的な社会機能になるだろう。
2009年9月18日
分析哲学の解釈界
辞は達する已という孔子の立場は、脱構築という現代フランス哲学の思想上のそれへの明白な逆理でありうるだろう。文の学についての言葉の用法の考察は、冒頭に引用した論語の一節で十分に解説できる。それは解釈可能性を差し引いてもまだ伝達の方法であるにとどまる。
日本語圏のいまのところ国語と言われている国家主義の教育方針に於いて、被啓発者とやらは作者の意図の推測などを宛がわれることになっているが、この解釈意図を多元化できるという点こそが実は言葉の本質なのである。多くの哲学上の分析論は、批評論と併せて道義の解釈、あるいは道徳の定義を文についても当て嵌める。そこではもとの作者の意図を大幅にこえた適解が得られることさえ期待できる。そして多くの聖書の形成とは、実にこの解釈者による工夫と定説のつみかさねであるのが殆どであった。
我々は言葉についての哲学、いわゆる分析哲学とよばれる大きな国際潮流を、西洋史が言語学を科学化する途中段階でうみだした派生的詳察であるとみなせる。しかしその意味は伝達についての言語学の定式にいずれ編入され、哲学にとっては主要命題ではなくなるのを確実視できる。分析哲学は言語学の科学知識化への批判的基礎づけだった。この事実は、物理学その他の自然科学上の記述や認知の方式そのものを寧ろ論理の限界をはっきりと文法の面から教えることで強化する。すでにかなりの規模の自然科学員といまだ姿もあらわではない言語学周辺の基礎工事員とを互いに牽制関係に置きつづけるのは賢明ではない。彼等は論理という修辞論に於ける数学的分野からの道具立てをともに用いるほぼ同値の建設員であって、どちらがより真理という計画遂行にとって本格的であるということは言えない。だが物理学そのものは言語を副次的にしか用いずにでもより数学化された法則性を記述可能な段階まで進んできたので、おそらく演繹方式を主義するたぐいの自然科学者が分析哲学の徒を無用視する事態そのものは多かれ少なかれ学問内ではおさまらないだろう。反対に、言語学者はそのかなり解釈に多元性を付与された知識が応用範囲では広いことを日々益々発見して、自然科学をふくむ知識の翻訳のためには決定的な働きをできることだろう。そしてこの面では、一切の物理学ふくむ数学的記号論はそれのみでは決して最善ではないと悟られる日が来るだろう。道具は複雑なほど、説明書が使用への手掛かりとなる。
辞は達するだけかもしれないが、この達せられる効率にはおもに母語間で千差万別ほどの違いができてくるとすれば、知識への解釈可能性を道徳心に欠けた自然科学の専門家かの誹謗を甘んじてきた彼等からの右の頬のさしかえしの様な厳密性のためにさえ、応報できた言語的多義の使い手の豊富な語彙に由来する。訳語も異義語も、異体字や同義語さえなんらかの差延が生ずるはず全口語(すなわち表音)および文語(すなわち表意)的な重畳性のもとで定義されえる。
だから我々は、あるいは最低でも哲学の考究をできるだけゆとりのある自由教養への執事集団では、将来の文化的摂取能力を解釈界の肥沃さとして哲学分野へ曳き入れておけばおくほど、その言語学を含めた全科学知識への分析論の浅瀬の養生には有徳であると考えていい。
日本語圏のいまのところ国語と言われている国家主義の教育方針に於いて、被啓発者とやらは作者の意図の推測などを宛がわれることになっているが、この解釈意図を多元化できるという点こそが実は言葉の本質なのである。多くの哲学上の分析論は、批評論と併せて道義の解釈、あるいは道徳の定義を文についても当て嵌める。そこではもとの作者の意図を大幅にこえた適解が得られることさえ期待できる。そして多くの聖書の形成とは、実にこの解釈者による工夫と定説のつみかさねであるのが殆どであった。
我々は言葉についての哲学、いわゆる分析哲学とよばれる大きな国際潮流を、西洋史が言語学を科学化する途中段階でうみだした派生的詳察であるとみなせる。しかしその意味は伝達についての言語学の定式にいずれ編入され、哲学にとっては主要命題ではなくなるのを確実視できる。分析哲学は言語学の科学知識化への批判的基礎づけだった。この事実は、物理学その他の自然科学上の記述や認知の方式そのものを寧ろ論理の限界をはっきりと文法の面から教えることで強化する。すでにかなりの規模の自然科学員といまだ姿もあらわではない言語学周辺の基礎工事員とを互いに牽制関係に置きつづけるのは賢明ではない。彼等は論理という修辞論に於ける数学的分野からの道具立てをともに用いるほぼ同値の建設員であって、どちらがより真理という計画遂行にとって本格的であるということは言えない。だが物理学そのものは言語を副次的にしか用いずにでもより数学化された法則性を記述可能な段階まで進んできたので、おそらく演繹方式を主義するたぐいの自然科学者が分析哲学の徒を無用視する事態そのものは多かれ少なかれ学問内ではおさまらないだろう。反対に、言語学者はそのかなり解釈に多元性を付与された知識が応用範囲では広いことを日々益々発見して、自然科学をふくむ知識の翻訳のためには決定的な働きをできることだろう。そしてこの面では、一切の物理学ふくむ数学的記号論はそれのみでは決して最善ではないと悟られる日が来るだろう。道具は複雑なほど、説明書が使用への手掛かりとなる。
辞は達するだけかもしれないが、この達せられる効率にはおもに母語間で千差万別ほどの違いができてくるとすれば、知識への解釈可能性を道徳心に欠けた自然科学の専門家かの誹謗を甘んじてきた彼等からの右の頬のさしかえしの様な厳密性のためにさえ、応報できた言語的多義の使い手の豊富な語彙に由来する。訳語も異義語も、異体字や同義語さえなんらかの差延が生ずるはず全口語(すなわち表音)および文語(すなわち表意)的な重畳性のもとで定義されえる。
だから我々は、あるいは最低でも哲学の考究をできるだけゆとりのある自由教養への執事集団では、将来の文化的摂取能力を解釈界の肥沃さとして哲学分野へ曳き入れておけばおくほど、その言語学を含めた全科学知識への分析論の浅瀬の養生には有徳であると考えていい。
2009年9月15日
生物学及び社会生物学
ある個性の情報量が多くの群生より高い時、その個人は審美的にか或いは衒奇的にかの変異を持っている。この仮定は珍しさが二辺の傾きを有する原理に思える。殆ど普通さをもたない形質は後者にあって、一つ以上の極端に異様化された組織を有する。対して前者は見つけ出すのが難しいほど、集団の全変異の調度中間点を穿っていることからそう目される。
性特徴は、異性誘惑の効用を持つ場合だけ審美を目的とし、(多くの有性生殖で主には雄間の)同性威嚇の効用を持つ場合は衒奇をそうする。…※①
このどちらかの誘因が環境条件で弱まるか強まると、進化か変種化いずれかが促進される。そして一般に臨機応変型戦略者の適所である島嶼的進化場に於いて進化が、環境収容力戦略者にとっての僻地的隔離場では変種化が進められる。
消費的進化の原則は、審美か衒奇に対する生態的上位種の可塑性の高さを十分説明づける。つまり変異は消費によって更に促される。ここで、※①より中間的形質はそうであればあるだけ、各種の量的乃至質的擬態による偶有な生存と結果たる当該種の保存の確率を上げるので、有性生殖の生物一般は原則としてかくの如き特徴をえり好む傾向下にある。そして雄性形質は彼等が妊娠の機能を担わないほど変異幅を拡大する方が理に叶う筈なので、弱まった同種間競争条件下(つまり同種の極端に少ない僻地)にないかぎり典型的な変異について審美を求められるのは一般に雌の方である。なぜ特殊な誇示の様式をもつ装飾化されたそれ自体は無機能な雄性形質がしばしば見つかるかの理由も、同然の僻地への適応という祖先の生態系統にある。∴審美化は安定した生殖能率を達する為の選好であり、衒奇化は選れて強壮な一種を炙り出す為のそれであると、少なくとも消費関係の応酬関係から演繹できる。∵この個性についての情報量は環境戦略の場所場所の偏差が、つづく世代の変形の中でどの方向性を適応的と見做すかを逆算によって時差の内に帰納したものだと述べられる。たとえば生き残るのは適応的な一種であって必ずしも強化された既存種ではない、この絶滅の現象を希とはいいきれない生態秩序の棚卸しの様な作用だと考えれば、未知の変異への期待なるものが結局は生存した種類によってのみよりよく合目的であるのを見よ。それはまた合法則性に於いてはより厳正に遺伝の選良を形質の経済化によって計ろうと企てる最小作用原因からの、未来永劫に渉る力学理論的命令を明かすのではないか。
以上の推論にもし疑問符がつく部分、論理的脆弱さを垣間見ることのできる展開部があるなら、時間差についての主としては地球という星内の地殻変動の頻度が世代交代の速度よりはるかに悠久な緩やかさである事実への急速な変形についての反省の跡なき通過だろう。…※②
仮に上述の理由、即ち選好の消費序列が仮説を越えてのち実証される真実ならば僻地適応の生態法則(つまり変種のしばしば示す装飾形質)がどうして地球全体に及ばないのかが唯一の例外の場合であると思える。だが、もしも※②で示した観測結果が、異常気象と今まででは呼び慣らされている様な生物からの環境操作についてもっと詳細に追跡されることがあれば、学者は地球自体が擬似開放系であるという地学上の新しい見解を、そこへのエネルギー流入が一定であるという粗雑な常識(地球の不変性への信仰)の撤回と等質に最低でも両立するのを許して措くしかなくなるかもしれない。そしてこの論証を倫理的にではなく単純な生物学上の現代的な地点だとかれらが認める段階を踏めば、そういう時代が万一我々の覚えている特定の文化でしか不可能な潮流にあるとしてもなお、曖昧な侭に差し置いてきた多くの不可解な自然現象――奇跡と言われる時もある超常的無機環境の異変――はどこかに生じた応酬の淀みへの有機生物自身からの警告か狼煙である場合に当て嵌めるのが妥当だ、と知性の上に考えられる者も現れるであろう。
自己目的化した知能という装飾形質の強調が唯一絶対の生態的限度ではない、と気づく者は又、その限界が地球の支配ではなく悲鳴をあげた生物濃縮に求められるとも段々の変動していく自然現象間の類推から悟るだろう。いいかえれば、自然界の自称支配者は知能が万能ではないことをどれかの進化した可塑的生態を持つ、より広域に亘る消費群から教えられるだろう。有性の有機物が選り好みを草刈り的な経済勘定にもとづいて行う所から、最も生き残り易いのは遷移の規則とこれらの消費順序を何らかの変異の抜け道によってみつけだした、いわば蓼食う種類の様な異種選好間の偏差であるとも分析できる。母集団の数量が生存数を維持できるだけ建設的なら、なぜ我々にとって異質な生態が、知性に大きな進歩はないにも関わらずしばし進化にすら値するかも、真面目な評定に類するのだろう。またそういう異種化の偏差をもたらす原因の一つとして、不完全か完全かを問わない変態(環境戦略間の通過による生態の自己変容)がいわゆる幼児期と成塾期との適応戦略の二律背反を高い次元の新たな習性へ導かないとも言えない。例をあげると、幼型化がもし独創的形質成長期の持続ならどうして既存の成熟化のそれよりも二つ以上の大きく異なる環境抵抗へ適合的とならないことだろう? 愛玩の為に淘汰と選種が行われた犬や猫というペットにとってこういう自然界にとっての異様さ、要するにきわめて奇異に映る習性を甘受している場合、水瓶の様に無尽蔵な生態系の宝庫はその珍しい変異をただの情報量の面でだけでもよく蓄積させる。
結果、我々が未来に見渡す如何なる文明人種もその末裔も、すでに現世人類とは基本的な類似を保たないとしても一考に困難な将来像ではないばかりか、それが自然階層の命じている消費順序に則った他ならぬ進化の法則から導かれた目安なのだから。
性特徴は、異性誘惑の効用を持つ場合だけ審美を目的とし、(多くの有性生殖で主には雄間の)同性威嚇の効用を持つ場合は衒奇をそうする。…※①
このどちらかの誘因が環境条件で弱まるか強まると、進化か変種化いずれかが促進される。そして一般に臨機応変型戦略者の適所である島嶼的進化場に於いて進化が、環境収容力戦略者にとっての僻地的隔離場では変種化が進められる。
消費的進化の原則は、審美か衒奇に対する生態的上位種の可塑性の高さを十分説明づける。つまり変異は消費によって更に促される。ここで、※①より中間的形質はそうであればあるだけ、各種の量的乃至質的擬態による偶有な生存と結果たる当該種の保存の確率を上げるので、有性生殖の生物一般は原則としてかくの如き特徴をえり好む傾向下にある。そして雄性形質は彼等が妊娠の機能を担わないほど変異幅を拡大する方が理に叶う筈なので、弱まった同種間競争条件下(つまり同種の極端に少ない僻地)にないかぎり典型的な変異について審美を求められるのは一般に雌の方である。なぜ特殊な誇示の様式をもつ装飾化されたそれ自体は無機能な雄性形質がしばしば見つかるかの理由も、同然の僻地への適応という祖先の生態系統にある。∴審美化は安定した生殖能率を達する為の選好であり、衒奇化は選れて強壮な一種を炙り出す為のそれであると、少なくとも消費関係の応酬関係から演繹できる。∵この個性についての情報量は環境戦略の場所場所の偏差が、つづく世代の変形の中でどの方向性を適応的と見做すかを逆算によって時差の内に帰納したものだと述べられる。たとえば生き残るのは適応的な一種であって必ずしも強化された既存種ではない、この絶滅の現象を希とはいいきれない生態秩序の棚卸しの様な作用だと考えれば、未知の変異への期待なるものが結局は生存した種類によってのみよりよく合目的であるのを見よ。それはまた合法則性に於いてはより厳正に遺伝の選良を形質の経済化によって計ろうと企てる最小作用原因からの、未来永劫に渉る力学理論的命令を明かすのではないか。
以上の推論にもし疑問符がつく部分、論理的脆弱さを垣間見ることのできる展開部があるなら、時間差についての主としては地球という星内の地殻変動の頻度が世代交代の速度よりはるかに悠久な緩やかさである事実への急速な変形についての反省の跡なき通過だろう。…※②
仮に上述の理由、即ち選好の消費序列が仮説を越えてのち実証される真実ならば僻地適応の生態法則(つまり変種のしばしば示す装飾形質)がどうして地球全体に及ばないのかが唯一の例外の場合であると思える。だが、もしも※②で示した観測結果が、異常気象と今まででは呼び慣らされている様な生物からの環境操作についてもっと詳細に追跡されることがあれば、学者は地球自体が擬似開放系であるという地学上の新しい見解を、そこへのエネルギー流入が一定であるという粗雑な常識(地球の不変性への信仰)の撤回と等質に最低でも両立するのを許して措くしかなくなるかもしれない。そしてこの論証を倫理的にではなく単純な生物学上の現代的な地点だとかれらが認める段階を踏めば、そういう時代が万一我々の覚えている特定の文化でしか不可能な潮流にあるとしてもなお、曖昧な侭に差し置いてきた多くの不可解な自然現象――奇跡と言われる時もある超常的無機環境の異変――はどこかに生じた応酬の淀みへの有機生物自身からの警告か狼煙である場合に当て嵌めるのが妥当だ、と知性の上に考えられる者も現れるであろう。
自己目的化した知能という装飾形質の強調が唯一絶対の生態的限度ではない、と気づく者は又、その限界が地球の支配ではなく悲鳴をあげた生物濃縮に求められるとも段々の変動していく自然現象間の類推から悟るだろう。いいかえれば、自然界の自称支配者は知能が万能ではないことをどれかの進化した可塑的生態を持つ、より広域に亘る消費群から教えられるだろう。有性の有機物が選り好みを草刈り的な経済勘定にもとづいて行う所から、最も生き残り易いのは遷移の規則とこれらの消費順序を何らかの変異の抜け道によってみつけだした、いわば蓼食う種類の様な異種選好間の偏差であるとも分析できる。母集団の数量が生存数を維持できるだけ建設的なら、なぜ我々にとって異質な生態が、知性に大きな進歩はないにも関わらずしばし進化にすら値するかも、真面目な評定に類するのだろう。またそういう異種化の偏差をもたらす原因の一つとして、不完全か完全かを問わない変態(環境戦略間の通過による生態の自己変容)がいわゆる幼児期と成塾期との適応戦略の二律背反を高い次元の新たな習性へ導かないとも言えない。例をあげると、幼型化がもし独創的形質成長期の持続ならどうして既存の成熟化のそれよりも二つ以上の大きく異なる環境抵抗へ適合的とならないことだろう? 愛玩の為に淘汰と選種が行われた犬や猫というペットにとってこういう自然界にとっての異様さ、要するにきわめて奇異に映る習性を甘受している場合、水瓶の様に無尽蔵な生態系の宝庫はその珍しい変異をただの情報量の面でだけでもよく蓄積させる。
結果、我々が未来に見渡す如何なる文明人種もその末裔も、すでに現世人類とは基本的な類似を保たないとしても一考に困難な将来像ではないばかりか、それが自然階層の命じている消費順序に則った他ならぬ進化の法則から導かれた目安なのだから。
大衆社会の考察
学歴制度による擬態の順位制度。だがいつかはこの隔離社会の歪んだ論理そのものが破綻する。
社会を、大衆一般を啓蒙する事の困難は益々高まっている。装いの擬態が大衆化された瞬間に、一切の知性をただ自主問題解決の能力だけで計測することは不可能になった。後には何億もの群れになった俗物が支配をはじめた。我々はその調度開始の時代に立ち会わせる因果に出くわした。人間の俗悪さは何一つ変容しなかった。しかし将来永劫に同様だろう。
人間という哺乳類を知的に啓蒙できるという、この地の失敗したイデオロギーは打ち捨てられねばならない。
人間は彼らが集団で生活するかぎり永遠に賢くならない、この悲惨な現実を受け入れて、その事実と適合する思想を採用し直さねばならない。大衆政治が愚劣の極度を更新する日に、人類は私の予言が単なる電網上の戯言であるとは諦めきれなくなるだろう。そしてそれは遠くない時期に完全な倫理崩壊として起こるだろう。
人間が宗教の代わりに経済を信仰した結果、その文化の一切は守銭奴と成金の人気稼業に切り替わったとここに記しておこう。勿論、本来の意味での知性、知識哲学者は非常に少ないながらも地上のどこかに偏在している。だが、彼らが一切の権威を持てなくなる時代が現れたのだ。この大衆社会では世俗性の中庸(商形質)が適応的となった。何百万部も刷られる悪寒のするばかりの風俗小説、読まれるべきではない日和見趣味の丁稚仕事読本(批判や提案なしのアメリカ欽定憲法のあきあきする解説)、自称政治家の筆を汚した殆ど俗説と井戸端会議レベルの青少年向け啓蒙書(むしろ痴呆書と呼ぶべきしろもの)、なにも人間を変えられず、その精神を高貴にしてくれる一切の文化を喪失した同次元の群生が生み出すゴミ情報の肥え溜め、女権拡張論の軽率なミームは一切の美しいもの、一切の繊細でそっと保護されておくべきだったもの、羞恥心、女性らしい心遣い、人間にとって善良さの指標だった数々の美徳を殺し尽くし、男勝りの奇形種、競争心に駆られた近視眼的蹴落とし、その他いかなる卑劣も辞さず後先を省みない繁殖なしの業苦に似た性的放逸(プラトニズムの逆理的頽廃。所謂獣類への退化)の全面的肯定と喧伝、我々を守ってくれるものはもはや何一つなく、一つ前の文化段階へ自然回帰するにはあまりにも情報化にはやった国土は汚染されきっていて狭すぎるので逃げ場すらない。隙間なく天皇家という伝統ある暴力団長の権威でけがしつくすためにアスファルト舗装の湯水の税金道路を無理にでも通し、かたやバブルに先んじた大IT企業は監視の自動車を走らせインターネット上で強制公開する、排気ガスにまみれ、空き地は消え、人事不要な生き物は絶え、すべては熱砂に似たコンクリートの塊で塞がれゆく。低炭素化をめざせと吠える新聞社自身が森の木々を切り倒し、地球中の光合成をせき止め、大量の二酸化炭素を発生させるパルプ工場で増産した無駄遣いのゴミ印刷物を燃やすところまでさらに二酸化炭素を倍増させる。自分自身が生み出す温室効果で発狂した気違いの会社があるとすればそれはどこだろう。子供は低俗な大人がつくった搾取用商業ゲームで妄想をたくましくし、標的どおり同級生だか低年齢だかなんでも構わないが試しに殺害する。復活の呪文などないのだが。そして刑務所はすでに定員を超え、浮浪者を襲っても生活費を稼ごうとする失業と無業のどこまでもつづく泥沼連鎖、一握りの一世代先も見えない豪奢で権力を好き放題振るう成金の甲高い高笑い声が都市を暗褐色で覆い尽くす。
至る所で待ち構える機械より反省能力を欠いた国製会社員の群れ。ほぼ同じイギリス人に似せた着物をつけ、名刺に恥知らずにも自尊心をみたすための取るに足らない肩書をべたべたごてごてかきつけ、満員電車で汗のふきさらす肌をこすりあう無神経な性質そのままの子孫を国の命令どおり機械的に量産する。経済成長。一体、それで誇りたかった国籍とやらが精神を少しでも高めたか問ういとまさえなく、あしたの食料にさえ苦しむ外人が収奪して同然の卑怯者の稼いだ卑猥な漫画持参金を余し、貧乏人を見下しながら俗物が堕落を堕落のために教え込む(社会人教育。内容は教師の知性の低さに応じた猥褻か和を重んじた低度への折衷か受験闘争用の国家主義右傾強要かのうちどれかもしくはそれらの重ね合いだ)、さても極東の意味不明な出世主義神道国教学校と会社で受験勉強を営々と強制するだけの倭人文明。日本政府の発祥からして卑怯者が貴族制へ媚びを入れた歪んだ非民主政権を拳銃片手に、道理を曲げてでも奪い取ったという情けない代物。
第一にこの劣悪文明を破滅させ、新しくもっと精神性に勝った社会を可能にする制度を望むのがどんな善人にも精一杯の考えだが、持っている手段は既存体制の固定化を批判するか進歩的な方向へ分かるかもわからない不特定多数の衆生へ論説するといったまるで無力で非効率な最低限度の反抗まがい(しかも豚の耳に念仏なので、視聴率は娯楽に集中する。悲鳴をあげる貧民からしぼりとった国営放送の税収で飾り立てまくったそれ)だけなので、結局は隠遁してなにか風変わりな個性じみた同時代人から遊離した趣味をみたすつまらない芸術かそのあたりの手慰みに耽るしかなくなる。
一切の知識人というもの、学位や賞歴や報道界での人気に目的を置かない本格的な知識の探求者が科学という生業によって現世的に手に入れるのはそれらの止むことなき不満と徹底的な人間への絶望だと教えるのが重要だ。知識人を現実の栄冠で飾ってはならない。彼らを社会的恩恵から隔絶し、孤軍奮闘させ、人間性を示す一切の指標から離脱させるに如くはない。それでも人間界に年功序列以外の尊敬に足る才能の顕著な差が示されると感じるなら、勉強家の内面にある理性の窓が他のどの擬態よりも明らかに真実を映す様磨かれるからだ。
彼らが比較的集まっている地域に注目するがいい。この世界では如何なる制度上の虚偽、偽装、うそいつわり、誤解を招く各種の階級差別の浅ましい慣習にも関わらず、極めて少数で微視的ながら生得的な、知性への萌芽そのものを尊ぶ環境が存在しうるのだから。そういう賢人の宿りは決して同時代に有名であったり富裕及び権力連盟の推挙にあてられる訳ではない。結論として、人間は啓蒙しきれるものではなく多くの場合はその努力は無益だが(教育や宗教の及ぶ範囲がいかに狭小で失われやすいだろう)、名士が自発的に集積する地域は存在する。理由とは世界で最も虚偽しづらい真実の在りかなので、もしも運よくそれを見つけ出せたならあらゆる現世的価値を放り出してさえも、必死でしがみついておくことだ。そうすればこの変化しつづける俗世の転回の中で文明にこだわらずに、なおも独立国の内治の様に幸福でありうるのだから。
すべての世俗的価値からきりはなして観照できるこの種の理由を多く所有すればするだけ、その個性は助言と処世の両面で世間の模範となる確率が高い。
社会を、大衆一般を啓蒙する事の困難は益々高まっている。装いの擬態が大衆化された瞬間に、一切の知性をただ自主問題解決の能力だけで計測することは不可能になった。後には何億もの群れになった俗物が支配をはじめた。我々はその調度開始の時代に立ち会わせる因果に出くわした。人間の俗悪さは何一つ変容しなかった。しかし将来永劫に同様だろう。
人間という哺乳類を知的に啓蒙できるという、この地の失敗したイデオロギーは打ち捨てられねばならない。
人間は彼らが集団で生活するかぎり永遠に賢くならない、この悲惨な現実を受け入れて、その事実と適合する思想を採用し直さねばならない。大衆政治が愚劣の極度を更新する日に、人類は私の予言が単なる電網上の戯言であるとは諦めきれなくなるだろう。そしてそれは遠くない時期に完全な倫理崩壊として起こるだろう。
人間が宗教の代わりに経済を信仰した結果、その文化の一切は守銭奴と成金の人気稼業に切り替わったとここに記しておこう。勿論、本来の意味での知性、知識哲学者は非常に少ないながらも地上のどこかに偏在している。だが、彼らが一切の権威を持てなくなる時代が現れたのだ。この大衆社会では世俗性の中庸(商形質)が適応的となった。何百万部も刷られる悪寒のするばかりの風俗小説、読まれるべきではない日和見趣味の丁稚仕事読本(批判や提案なしのアメリカ欽定憲法のあきあきする解説)、自称政治家の筆を汚した殆ど俗説と井戸端会議レベルの青少年向け啓蒙書(むしろ痴呆書と呼ぶべきしろもの)、なにも人間を変えられず、その精神を高貴にしてくれる一切の文化を喪失した同次元の群生が生み出すゴミ情報の肥え溜め、女権拡張論の軽率なミームは一切の美しいもの、一切の繊細でそっと保護されておくべきだったもの、羞恥心、女性らしい心遣い、人間にとって善良さの指標だった数々の美徳を殺し尽くし、男勝りの奇形種、競争心に駆られた近視眼的蹴落とし、その他いかなる卑劣も辞さず後先を省みない繁殖なしの業苦に似た性的放逸(プラトニズムの逆理的頽廃。所謂獣類への退化)の全面的肯定と喧伝、我々を守ってくれるものはもはや何一つなく、一つ前の文化段階へ自然回帰するにはあまりにも情報化にはやった国土は汚染されきっていて狭すぎるので逃げ場すらない。隙間なく天皇家という伝統ある暴力団長の権威でけがしつくすためにアスファルト舗装の湯水の税金道路を無理にでも通し、かたやバブルに先んじた大IT企業は監視の自動車を走らせインターネット上で強制公開する、排気ガスにまみれ、空き地は消え、人事不要な生き物は絶え、すべては熱砂に似たコンクリートの塊で塞がれゆく。低炭素化をめざせと吠える新聞社自身が森の木々を切り倒し、地球中の光合成をせき止め、大量の二酸化炭素を発生させるパルプ工場で増産した無駄遣いのゴミ印刷物を燃やすところまでさらに二酸化炭素を倍増させる。自分自身が生み出す温室効果で発狂した気違いの会社があるとすればそれはどこだろう。子供は低俗な大人がつくった搾取用商業ゲームで妄想をたくましくし、標的どおり同級生だか低年齢だかなんでも構わないが試しに殺害する。復活の呪文などないのだが。そして刑務所はすでに定員を超え、浮浪者を襲っても生活費を稼ごうとする失業と無業のどこまでもつづく泥沼連鎖、一握りの一世代先も見えない豪奢で権力を好き放題振るう成金の甲高い高笑い声が都市を暗褐色で覆い尽くす。
至る所で待ち構える機械より反省能力を欠いた国製会社員の群れ。ほぼ同じイギリス人に似せた着物をつけ、名刺に恥知らずにも自尊心をみたすための取るに足らない肩書をべたべたごてごてかきつけ、満員電車で汗のふきさらす肌をこすりあう無神経な性質そのままの子孫を国の命令どおり機械的に量産する。経済成長。一体、それで誇りたかった国籍とやらが精神を少しでも高めたか問ういとまさえなく、あしたの食料にさえ苦しむ外人が収奪して同然の卑怯者の稼いだ卑猥な漫画持参金を余し、貧乏人を見下しながら俗物が堕落を堕落のために教え込む(社会人教育。内容は教師の知性の低さに応じた猥褻か和を重んじた低度への折衷か受験闘争用の国家主義右傾強要かのうちどれかもしくはそれらの重ね合いだ)、さても極東の意味不明な出世主義神道国教学校と会社で受験勉強を営々と強制するだけの倭人文明。日本政府の発祥からして卑怯者が貴族制へ媚びを入れた歪んだ非民主政権を拳銃片手に、道理を曲げてでも奪い取ったという情けない代物。
第一にこの劣悪文明を破滅させ、新しくもっと精神性に勝った社会を可能にする制度を望むのがどんな善人にも精一杯の考えだが、持っている手段は既存体制の固定化を批判するか進歩的な方向へ分かるかもわからない不特定多数の衆生へ論説するといったまるで無力で非効率な最低限度の反抗まがい(しかも豚の耳に念仏なので、視聴率は娯楽に集中する。悲鳴をあげる貧民からしぼりとった国営放送の税収で飾り立てまくったそれ)だけなので、結局は隠遁してなにか風変わりな個性じみた同時代人から遊離した趣味をみたすつまらない芸術かそのあたりの手慰みに耽るしかなくなる。
一切の知識人というもの、学位や賞歴や報道界での人気に目的を置かない本格的な知識の探求者が科学という生業によって現世的に手に入れるのはそれらの止むことなき不満と徹底的な人間への絶望だと教えるのが重要だ。知識人を現実の栄冠で飾ってはならない。彼らを社会的恩恵から隔絶し、孤軍奮闘させ、人間性を示す一切の指標から離脱させるに如くはない。それでも人間界に年功序列以外の尊敬に足る才能の顕著な差が示されると感じるなら、勉強家の内面にある理性の窓が他のどの擬態よりも明らかに真実を映す様磨かれるからだ。
彼らが比較的集まっている地域に注目するがいい。この世界では如何なる制度上の虚偽、偽装、うそいつわり、誤解を招く各種の階級差別の浅ましい慣習にも関わらず、極めて少数で微視的ながら生得的な、知性への萌芽そのものを尊ぶ環境が存在しうるのだから。そういう賢人の宿りは決して同時代に有名であったり富裕及び権力連盟の推挙にあてられる訳ではない。結論として、人間は啓蒙しきれるものではなく多くの場合はその努力は無益だが(教育や宗教の及ぶ範囲がいかに狭小で失われやすいだろう)、名士が自発的に集積する地域は存在する。理由とは世界で最も虚偽しづらい真実の在りかなので、もしも運よくそれを見つけ出せたならあらゆる現世的価値を放り出してさえも、必死でしがみついておくことだ。そうすればこの変化しつづける俗世の転回の中で文明にこだわらずに、なおも独立国の内治の様に幸福でありうるのだから。
すべての世俗的価値からきりはなして観照できるこの種の理由を多く所有すればするだけ、その個性は助言と処世の両面で世間の模範となる確率が高い。
2009年9月13日
生物学
命÷御馳走仮説と呼ばれている、生物の適応戦略の論理的進化の速度について、現在の命を失う確率をより有利と見なす論者の観点は次の分析から矛盾があると言える。
第一に被食者と捕食者とは一般に数量が異なり、捕食者の方が生態維持に必要となる神経発達の複合性すなわち経済情報量の希少さから少ない。よって被食側がもし適応戦略上に優先しその量を半永久に増大するならば、これは矛盾である。逆にいえば適応戦略面では捕食側がつねに有利な為だけにその食うと食われるの関係が存在しうる。さらに、たまたま捕食されてしまう場合、この形質は性特徴の面で遺伝されないが非常によく捕食する場合は必ずそうなる。動機づけの面で偶有性のより少ないのは捕食側である。被食されやすい形質は浮動的でも捕食しやすいそれは固定化していく。より典型的な概念へ還元すれば天敵への防具より収穫への武器の方が誇示の効果を確実にする。
第二に、鼬ごっこの面で被食者が新しい抜け道の変異をえり好むとしよう。この場合、食を被る根拠は量的な多数性を維持するそれと矛盾する。つまりより単純な行動戦略型の故より捕食され易い形質はそうではない種よりも、量的に増産せざるをえない必然性を負う。生態系ピラミッドの秩序は下部構造の新規な変異がつねに極微であって、主に消費者と呼びならされている食物連鎖の上部表層に属するより少数の種類よりも大幅な形質遷移を持たない理論的証明となる。
仮説をこえて主張できること、追う側は量的に多数である追われる側を、日々益々より巧妙に捕らえる生態的経済状態につねに置かれている。さもなくば同種間競争の犠牲になるであろう。一般論に直すと、たとえばイソップの童話から比喩を借りて説明すればその兎と犬との優劣関係から、野原の競走で兎を取り逃がした犬にとってはそこで失われた労力が無駄遣いに過ぎないが、兎は亡命の間一髪で助かった事実を単に運の良さに帰してなにも損失はない。則ち生物量の評定というものは、命は多数派のもとにあって全か無かの閾値のみで計算へかかる情報量の上では安あがりになるが、御馳走は少数派の料理と調達のこまかで折り畳まれた懇ろの工夫の為に要する情報量の経済勘定的には、より高いと自然界の仕組みから決められている。
この一般的生態系秩序内現象法則の認識は競走的優位の進化速さ、いいかえれば消費的進化を原則的に論証するのに有効だ、と考えるのは今日では妥当である。そうすれば命にとって分母となる御馳走分の方がなぜ複雑に調理されていくのかを寓話の助けを借りずとも説明できる。それは材料そのものより料理あるいは加工する方がより多くの労力を引き受けるという自然生態系内での経済性にもとづく法則だからだ。もし命を犠牲にする側の方が優先して進化していけば、結果として生産過剰による滞留が起こって労力順序的捕食という今日かくも普通の地球内生態的多様性の原理は日の目を見ることがなかっただろう。たとえば赤潮の付近ではこういう順序がなんらかの誘因で崩れて、様々な在来種への草刈り効果は弱まっている。だからこういう例外を除けば一種類だけの再生産が過剰になるのを防いでいる安定感の重しとは、進化速度あるいは能動的習性展開に異種間および個体間偏差値を設けた自然の英知である。
第一に被食者と捕食者とは一般に数量が異なり、捕食者の方が生態維持に必要となる神経発達の複合性すなわち経済情報量の希少さから少ない。よって被食側がもし適応戦略上に優先しその量を半永久に増大するならば、これは矛盾である。逆にいえば適応戦略面では捕食側がつねに有利な為だけにその食うと食われるの関係が存在しうる。さらに、たまたま捕食されてしまう場合、この形質は性特徴の面で遺伝されないが非常によく捕食する場合は必ずそうなる。動機づけの面で偶有性のより少ないのは捕食側である。被食されやすい形質は浮動的でも捕食しやすいそれは固定化していく。より典型的な概念へ還元すれば天敵への防具より収穫への武器の方が誇示の効果を確実にする。
第二に、鼬ごっこの面で被食者が新しい抜け道の変異をえり好むとしよう。この場合、食を被る根拠は量的な多数性を維持するそれと矛盾する。つまりより単純な行動戦略型の故より捕食され易い形質はそうではない種よりも、量的に増産せざるをえない必然性を負う。生態系ピラミッドの秩序は下部構造の新規な変異がつねに極微であって、主に消費者と呼びならされている食物連鎖の上部表層に属するより少数の種類よりも大幅な形質遷移を持たない理論的証明となる。
仮説をこえて主張できること、追う側は量的に多数である追われる側を、日々益々より巧妙に捕らえる生態的経済状態につねに置かれている。さもなくば同種間競争の犠牲になるであろう。一般論に直すと、たとえばイソップの童話から比喩を借りて説明すればその兎と犬との優劣関係から、野原の競走で兎を取り逃がした犬にとってはそこで失われた労力が無駄遣いに過ぎないが、兎は亡命の間一髪で助かった事実を単に運の良さに帰してなにも損失はない。則ち生物量の評定というものは、命は多数派のもとにあって全か無かの閾値のみで計算へかかる情報量の上では安あがりになるが、御馳走は少数派の料理と調達のこまかで折り畳まれた懇ろの工夫の為に要する情報量の経済勘定的には、より高いと自然界の仕組みから決められている。
この一般的生態系秩序内現象法則の認識は競走的優位の進化速さ、いいかえれば消費的進化を原則的に論証するのに有効だ、と考えるのは今日では妥当である。そうすれば命にとって分母となる御馳走分の方がなぜ複雑に調理されていくのかを寓話の助けを借りずとも説明できる。それは材料そのものより料理あるいは加工する方がより多くの労力を引き受けるという自然生態系内での経済性にもとづく法則だからだ。もし命を犠牲にする側の方が優先して進化していけば、結果として生産過剰による滞留が起こって労力順序的捕食という今日かくも普通の地球内生態的多様性の原理は日の目を見ることがなかっただろう。たとえば赤潮の付近ではこういう順序がなんらかの誘因で崩れて、様々な在来種への草刈り効果は弱まっている。だからこういう例外を除けば一種類だけの再生産が過剰になるのを防いでいる安定感の重しとは、進化速度あるいは能動的習性展開に異種間および個体間偏差値を設けた自然の英知である。
2009年9月12日
建築論
都心部のヒートアイランド(過熱孤島)対策としてもっとも有効なのは、陸屋根ならば植栽した屋上庭園またはソーラーパネルを、傾斜屋根ならばソーラーパネルの設置を条例で義務づけること。これらの対策によって高層化したビルタイプのたてものがその構造上、コンクリート主体でつくられざるをえない現状から、夜間も熱を蓄積しやすい状態になるのを昼間の熱架橋時点で防ぐ効果がある。
路面が熱容量の大きなアスファルトでつくられている現状はまた、施工条例の規則によって、その表面塗装を白色にする義務付けによって相当程度、蓄熱を緩和できるという研究報告もある。陽射しの強烈な地中海地方で町を石灰の白で塗る慣習は、多くの人為的灼熱化を工夫でもかなり防げると経験上も教えている。
路面が熱容量の大きなアスファルトでつくられている現状はまた、施工条例の規則によって、その表面塗装を白色にする義務付けによって相当程度、蓄熱を緩和できるという研究報告もある。陽射しの強烈な地中海地方で町を石灰の白で塗る慣習は、多くの人為的灼熱化を工夫でもかなり防げると経験上も教えている。
現代経済学
商業民族に対する人類の典型的な侮蔑や嫌悪の感情、というものはその血筋の系列が人類の文明の中で果たす役割として決して有徳であったり福利的ではなかった時代成長についての一つの文化的痕跡になると思われる。イギリスの経済学が、特にスコットランド系のそれがイングランドとの(おそらく主に人口密度にもとづく)格差を改善する目的でつくられた場合、商業への忌避感情を緩和させる為に共感の原理をもちこもうとした作為によって資本主義そのものの成立初期立ち上げ段階を宗教観念ごとやり込めるのに流用されてしまったのかもしれない。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べられているウェーバーによる批判は、結局商業追求を自己正当化する方便に道徳観念の変形が加えられたというアダム・スミスの変節に当たる。それは現世的目的への奉仕に格下げされた宗教観念は所詮有限目的に縛られる分、元来のキリスト教倫理が持っていた博愛を社会福祉というもっと功利的で投機的でさえある段階まで退歩させてしまったと言うのである。
より現況に即して考えると、打算の性格を倫理上肯定させた誤り或いはすり替えは、スコットランド派経済学に於ける『道徳感情論』以来の実在するかも怪しい、曖昧な共感概念のもとにあって世界中へ資本主義の倫理的正当化を押し付けてきた。すべての国家状態で、現代、益々急速に進行している社会的病弊はこのスコットランド派経済学への無批判な態度に起因している様だ。しかし、共感と同調が異なる様にまた、『道徳感情論』を経済学史上の著述であると読み解く態度は辞められねばならない。多くの現先進国ではその封建段階にあって、階級制度の根底に商業形質への忌避感情を樹立させた。この理由は、政治学史としてかえりみれば権力と資本を便宜上分離させて権力世襲を確実化する道だった。
商売の状態は変わりやすいので、その税収だけを独占する方が自ら勘定に手をつけるよりはるかに権威の持続にとっては道徳的だった。
我々がこの史実から悟れるのは、商業民族というものへの一定の抑圧を被ることは寧ろ道徳的であり、決してゆえなき蔑視などではないということだ。もしこの慮りがなければ社会福祉と呼ばれる現世内の目的意志がすべての善意の焦点となり、人類が慈悲を保ったり損得を度外視した心理状態を保有することもなくなって、その国家は金銭の交換のみを最終的理由とするある種の無宗教世界へと低落するであろう。そこでは、あらゆる悪徳が単に社会福祉の増大という有限の快適さを現世内で取引するだけの結果を正当化するしかなくなって、やがて一切の行動は金銭づくでしか営めなくなる。その場合、生まれた時点で掛け値をつけて売り買いされることが常態化し、いつかは人身を家畜と同じ売却損失だけで評定することになる。くりかえすが、もし社会福祉という同時代価値観の民主的平均値だけが根拠づける現世内目的を如何なる道徳面へも適用すると、最終的には宗教面で大きな矛盾が発生する。これがスコットランド派経済学の根本認識に錯誤のあった理由である。だから、我々は生業の為に否応ない商業行為そのものはまだしも、商業民族同調への道徳観念上での嫌悪あるいは反感的批判精神を、その宗教面で維持すべきである。そして経済学を宗教化する弊害の後々計り知れない恐ろしさを十分予測して、一切の打算を超越した無償の奉仕というものが永久に持っている、貧者の一灯の様な博愛的価値を完全に崇高なものとして棚上げして置かねばならない。ジーザスという一聖人が身を以て教え諭したのは、有限の一命よりも神からの無私の博愛の方がはるかに永久的であるという信仰上の真理であった。よしやそれが現世的に補償のある観念ではなく、いまを生きる商売人からはまったく省みる価値のないたわ言あるいは狂言とされることあったとしても、この種の経済観念とは異質な無量性の示唆が、時代転換の終局に至っては如何なる損得勘定よりも強力な不屈国体の理念をかたちづくるのを我々は世界史実に観察可能である。
経済観念と道徳一般とを混同させないこと、それ自体が資本主義の本質的意図である社会福祉達成への円滑な流動資本財の投機を一切邪魔しないばかりか、あるかないかも定かではない共感や人情といった計測されざる不合理性を経済学へもちこむあしき慣習を戒める。市場心理の洞察は統計論の範囲で処理されるべきで、宗教観念とそれを一体化させたプラグマティズムという代物の犠牲者は最終的には個人的信念に依存した非効率と宗教生活に於ける道徳的荒廃とを二つながら意に反しても手中にすることになるに違いない。
我々が経済学の古典的思潮と考えてよいのは、数理化を基礎としたイングランド派の、純粋に功利的あるいは使用者思想的な経済学である。だからケインズ理論がスミスの曖昧にしてきた資本制度の巨視の動きを定式化しようとした、という科学者の観点は商用に誘惑されがちな経済学徒にとって、今で経営学などと呼ばれる技術論とは隔絶した冷たい視点にある面では最も原理的。そして我々は初期スミスやマルクス的な心理分析の温かさ、生ぬるさを一切断った純粋に統計論的な経済学をまったく数理化する中で、数理経済学というより微視的確実さにも耐えられる新しいはるかに冷静な理論を手にできるはずだ。
より現況に即して考えると、打算の性格を倫理上肯定させた誤り或いはすり替えは、スコットランド派経済学に於ける『道徳感情論』以来の実在するかも怪しい、曖昧な共感概念のもとにあって世界中へ資本主義の倫理的正当化を押し付けてきた。すべての国家状態で、現代、益々急速に進行している社会的病弊はこのスコットランド派経済学への無批判な態度に起因している様だ。しかし、共感と同調が異なる様にまた、『道徳感情論』を経済学史上の著述であると読み解く態度は辞められねばならない。多くの現先進国ではその封建段階にあって、階級制度の根底に商業形質への忌避感情を樹立させた。この理由は、政治学史としてかえりみれば権力と資本を便宜上分離させて権力世襲を確実化する道だった。
商売の状態は変わりやすいので、その税収だけを独占する方が自ら勘定に手をつけるよりはるかに権威の持続にとっては道徳的だった。
我々がこの史実から悟れるのは、商業民族というものへの一定の抑圧を被ることは寧ろ道徳的であり、決してゆえなき蔑視などではないということだ。もしこの慮りがなければ社会福祉と呼ばれる現世内の目的意志がすべての善意の焦点となり、人類が慈悲を保ったり損得を度外視した心理状態を保有することもなくなって、その国家は金銭の交換のみを最終的理由とするある種の無宗教世界へと低落するであろう。そこでは、あらゆる悪徳が単に社会福祉の増大という有限の快適さを現世内で取引するだけの結果を正当化するしかなくなって、やがて一切の行動は金銭づくでしか営めなくなる。その場合、生まれた時点で掛け値をつけて売り買いされることが常態化し、いつかは人身を家畜と同じ売却損失だけで評定することになる。くりかえすが、もし社会福祉という同時代価値観の民主的平均値だけが根拠づける現世内目的を如何なる道徳面へも適用すると、最終的には宗教面で大きな矛盾が発生する。これがスコットランド派経済学の根本認識に錯誤のあった理由である。だから、我々は生業の為に否応ない商業行為そのものはまだしも、商業民族同調への道徳観念上での嫌悪あるいは反感的批判精神を、その宗教面で維持すべきである。そして経済学を宗教化する弊害の後々計り知れない恐ろしさを十分予測して、一切の打算を超越した無償の奉仕というものが永久に持っている、貧者の一灯の様な博愛的価値を完全に崇高なものとして棚上げして置かねばならない。ジーザスという一聖人が身を以て教え諭したのは、有限の一命よりも神からの無私の博愛の方がはるかに永久的であるという信仰上の真理であった。よしやそれが現世的に補償のある観念ではなく、いまを生きる商売人からはまったく省みる価値のないたわ言あるいは狂言とされることあったとしても、この種の経済観念とは異質な無量性の示唆が、時代転換の終局に至っては如何なる損得勘定よりも強力な不屈国体の理念をかたちづくるのを我々は世界史実に観察可能である。
経済観念と道徳一般とを混同させないこと、それ自体が資本主義の本質的意図である社会福祉達成への円滑な流動資本財の投機を一切邪魔しないばかりか、あるかないかも定かではない共感や人情といった計測されざる不合理性を経済学へもちこむあしき慣習を戒める。市場心理の洞察は統計論の範囲で処理されるべきで、宗教観念とそれを一体化させたプラグマティズムという代物の犠牲者は最終的には個人的信念に依存した非効率と宗教生活に於ける道徳的荒廃とを二つながら意に反しても手中にすることになるに違いない。
我々が経済学の古典的思潮と考えてよいのは、数理化を基礎としたイングランド派の、純粋に功利的あるいは使用者思想的な経済学である。だからケインズ理論がスミスの曖昧にしてきた資本制度の巨視の動きを定式化しようとした、という科学者の観点は商用に誘惑されがちな経済学徒にとって、今で経営学などと呼ばれる技術論とは隔絶した冷たい視点にある面では最も原理的。そして我々は初期スミスやマルクス的な心理分析の温かさ、生ぬるさを一切断った純粋に統計論的な経済学をまったく数理化する中で、数理経済学というより微視的確実さにも耐えられる新しいはるかに冷静な理論を手にできるはずだ。
2009年9月11日
合理性の詳細
知性が理性の部分集合か、理性が逆のそれか。論理記号の非口語成分は除去されるべきで、結果、拡張された数学はいずれ全理性哲学(形而上学、後自然学)も支配するだろう。
つまり理性とは論理式を非数学的方法へ引用した様な知性の実践的側面で、もし知性がなければその理性は非論理的な侭だろう。古代に於いて人間が学問というものを単に説明づけられた倫理的洞察のみに用いていた例はこの典型。
我々は現状では理性という能力を独立した科学批判の才覚であるとして認めているが、もしそれが完全に数理的論理記号で支配できるほど厳格な学野へと昇格した暁には、というのも哲学本来の目的は普遍的知識すなわち真理なので、知性とほぼかわりなく扱われても構わなくなるだろう。そして人類の末裔が知覚する諸様相はより言葉の用義にとって最も親切な意味で知性的、すなわち「知っている」こととなるだろう。
つまり理性とは論理式を非数学的方法へ引用した様な知性の実践的側面で、もし知性がなければその理性は非論理的な侭だろう。古代に於いて人間が学問というものを単に説明づけられた倫理的洞察のみに用いていた例はこの典型。
我々は現状では理性という能力を独立した科学批判の才覚であるとして認めているが、もしそれが完全に数理的論理記号で支配できるほど厳格な学野へと昇格した暁には、というのも哲学本来の目的は普遍的知識すなわち真理なので、知性とほぼかわりなく扱われても構わなくなるだろう。そして人類の末裔が知覚する諸様相はより言葉の用義にとって最も親切な意味で知性的、すなわち「知っている」こととなるだろう。
2009年9月9日
低炭素プロパガンダについて
低炭素プロパガンダはまったく無意味であるばかりか、知的水準の低い人間らの喧しさからくる公的害毒である。炭素循環というものは一切の動植物ふくむ生物の原動力となっているしくみだから、それを破棄や抑制することは不可能なばかりか却って循環を促進することでのみ、生態系の平衡は取られている。特に炭素も主役級に媒介する光合成と各呼吸との共生関係がすべて、我々が目にする自然界および人間界の多彩さの起源である。
したがって、高技術化を「藝術」という造園手法をふくめて考察しなおす方向付けのみが結局は文明の進歩の先には生き残る。意味のない無知のもとづく低炭素社会プロパガンダに騙された民族は、やがて世界の主要国の座から自業自得で転落するだけである。
したがって、高技術化を「藝術」という造園手法をふくめて考察しなおす方向付けのみが結局は文明の進歩の先には生き残る。意味のない無知のもとづく低炭素社会プロパガンダに騙された民族は、やがて世界の主要国の座から自業自得で転落するだけである。
2009年9月8日
夏の夜雨
花の香は移りにけりな徒に斯く身代に降るながめせし間に
事もなく過ぎし日々なら徒に音もなく降るなつのよの夢
星屑も独り声なく降りしきる花火の合間にみしは世の中
ことごとくうつるいのちのただ中に一つかわらずうつす望月
街深く返す返すもしとやかに明けてきがつく夏の夜雨よ
事もなく過ぎし日々なら徒に音もなく降るなつのよの夢
星屑も独り声なく降りしきる花火の合間にみしは世の中
ことごとくうつるいのちのただ中に一つかわらずうつす望月
街深く返す返すもしとやかに明けてきがつく夏の夜雨よ
社会学
現世的人間達のもっている短期的利益志向の性質は、かえりみられるかぎりあまねきものだと考えられる。こういう観点が誰か、史上の有能な哲学者によってよく詳察された記録があるか博学の徒に質問する迄は分からない。しかし、特にプラトン的学園を根城にした集団に属した哲人はそうではないだろう。彼等は現世の人間を身近に観察する機会がなかったと考えられるからだ。
多少はそういう機会のある知恵を求める者の目には、だが、現世的人間つまり俗人というものが、極めて生活に於いて近視眼的であるのをよかれあしかれ知ることになるだろう。こういう生活は、忙事の生活からおのずと生まれている様に見える。元々、ビジネスを好む者は何らかの社会生物学的条件によって有閑や知恵の制度を怖れるところがある様に見える。かれらが閑暇を誹謗することはどこであれ非常のものがあって、いずれの時代でも同じだろうが、俗人は長期的な存亡よりもいまここで現実に直面している些細な問題で忙殺される側を正当化する。労働奴隷としての生活を愛惜する性格はそういう近視眼的行動、すなわち本能行動や反射の次元に己の形質が適合している由縁を、社会内で増大させようとする。
総合的に観察すると、結局この集団を最も原理的に表現して、政治集団と考えるのは妥当らしい。演劇的な実践の側面のみを抽出してみた場合に当たるのがその概念だからだ。劇的行動のみを自己目的視する集団が独りでに集積すると、この特定イデオロギーを装備した党派をつくる。
だが、かなしむべきかあわれむべきか、普通の世俗的生活者ともみなせる中産階級層に信じられている思想の程度でいえば、こういう集団は驚くべき忌避や伝統芸能視の対象ではない。いいかえれば政治集団は他のもっと柔軟な連中よりはるかに現実に即して胡散臭いというよりは、なにか信用の置ける安泰な道徳的行動形態であると考えられている節がある。
もしもジーザスやソクラテスがそうした様に、政治行動の正当性を真正面から批判した直情剛毅の人が現れれば、人々は目が覚めるどころか古代制の名残を牽く従来の社会秩序への反抗者としてなかんづく司法の援用で、その勢力を現世的に処理したがるだろう。これが、すぐれた道徳に至った当時の大学者を俗世の警察的人間、アリストテレス式に表現したポリス的人間がまっとうに評価できないばかりか、しばしば真逆の評価をしても反省しない、文化史上有数の宗教祖殉教創始の実例にまつわる歴史であった。そして状況は、政治行動を常識と考える非理知的人間層が多数を占める社交界では一切今後とも変わらずじまいであるだろう。
この見識が仮にいずれの文明場でも順当ならば、おそらく次のことは確かである。人間というものは、政治集団に囲い込まれている限りその忙殺から逃れられないだろう。と同時に、かれらは名目はどうあれ、実質的には税収を賄う奴隷として扱われつづけるであろう。だから、驚くべき見解に感じられるだろうが、やはり我々の知性の究極の進歩の段階では国家というものは消滅すべき当為にある。マルクス史観の終局への認識は、途中経過への多くの勘違いとはべつに正当的だった筈だ。さもなくば人類が政治的上位者への奴隷の地位から脱し、真の自由を享受できる日は決して来ないだろう。ある首長が人民から暴力的に搾取する意図で国家という囲い込みを設けて保護と家畜的法支配と貢納の儀式を行うところは、王家という伝統の権威を廃棄できたどの民主主義国でも同等なのを看るがいい。単純に、歴史の段階は政治集団内覇権種のいれかわりを激しくする権力闘争の微分化によって配分の偏りという自由の弊害を取り除く過程であった。短期的損得勘定を原型とする生活者は、かれらがこの入れ代わりをみちびく仕手であると説明するに足る。つまり権威は財産の支配可能性に依存するので、かなり大規模となった富家は劣勢に立った政治集団を圧迫してその覇権を徐々に取り除く働きをする。ケインズがその主著で解説する様に資本主義は流動資本の収穫率を次第に低減させながら有効需要を最大の効用係数のもとで満たす過途的社会形態だと仮定すれば、国家の消滅はまた、全政治集団が社会的不平等性の面で実権を持たなくなる有効需要の限界と一致する。
社会が主として技術開発の面で進歩を止める未来はまだ見渡せない。よって、少なくとも我々が現代の時点で、共産主義者がつねづね行いたがる様な一気呵成での国家政治体制の唾棄を行うことは危険でも無謀でもあり、また歴史が資本主義に託した有効需要の限界を十分に満足させる技術的産業の完成した視野に至るまでは、国家という想像物を便宜上採用しておくのは生活の具体的開発について最低機能面から便利である。幾分の摩擦抵抗として失業問題が不可避でも、福祉国家への誘惑の道を目的なく辿り続ける無作為よりはまだ勤労の習性を社会環境そのものが、そこへ参画する人民全体数を無償教育していける分だけ有徳ではないか。さてこの伝統的想像物は支配側と被支配側とを同一の名義へと縛り付け、その仮設想像物へ従属的な立場を標榜させることによって政治集団を複数林立させるものだ。つまり政党と国家の分離は、我々が現有している中では最も資本主義の本質的意図を満たすのに重要な歴史的達成。そして政党と国家とがほぼ同一視される集団は、かれらが異なる思想形態への反省を疑わなくなるという点で、狂信を誘う宗教化の弊害によって結局進歩した人類へ好ましい社交場となることはできない。そういう国は遅かれ早かれ市場のやまざる動的均衡によって自主的にか受動的にか世界史主導の舞台からおしのけられる。我々が既に政治能力を担わなくなった特定宗教を持つ理由がこの思想と行動の非分割による時代思潮適応能率上の敗退にあると言える。
更には、我々は確定事項として政党の便宜的相互批判の応報から、やがては国家そのものが自己矛盾を来たし結果的にはその解散が単なる資本の回転率への実利的慣習の面からすら導かれる将来を見通せる。だからそれは現自由圏に属したどこかの先進国内から始まる。だがこの中途段階に於いては、土着の信念固い頑固な抵抗勢力を政党政治という方便で飽くまでも同士討ちさせつづけることこそ、我々人類が国家という自然状態への囲い込みの社会力学を用いて発見した今生までに到達された最善の制度であると認識しなければならない。平和的革命を断続的改革の民主議決という建前で処理し尽くせることほど、その内部での権力闘争を非武力的で人知に想像できるかぎり和平的に継続させる動機づけはありえまい。だから、ある歴史段階では国際政党や国連主義政党、乃至は国家間包括的地域連合政党の樹立がその付近や生協提携された友好国間で成立することを、いままででいう王家というある種の土俗民の長が否定できる訳ではない。実際に見よ、多数の出自をもつ複合民族国家からの漸進的政治思想哲学によってこの必然の流れは先導されるであろう。そしてその統合指揮の世界観によって、旧来の意味でのナショナリズムは多国籍化した非土着的複数国籍間生活者共同体自身の意向に準じ解体されゆくであろう。我々はその経過によって、現在よりも流動可能性の高い異国生活圏間の各社会基盤の共通化を手に入れるだろう。けれども、また王家そのものと同じく、宗教という形でのみ嘗て人類が住んでいた国家という土臭い穴蔵を保存や適宜補修するであろう。そして子孫は、そこを知恵も連絡も貧しかった古代の殿堂として、調度遺跡を眺める様に如何なる公共施設や文化としてだけ残った国民政治という伝統芸能の催しも趣分の観光地がわりにさえするだろう。
多少はそういう機会のある知恵を求める者の目には、だが、現世的人間つまり俗人というものが、極めて生活に於いて近視眼的であるのをよかれあしかれ知ることになるだろう。こういう生活は、忙事の生活からおのずと生まれている様に見える。元々、ビジネスを好む者は何らかの社会生物学的条件によって有閑や知恵の制度を怖れるところがある様に見える。かれらが閑暇を誹謗することはどこであれ非常のものがあって、いずれの時代でも同じだろうが、俗人は長期的な存亡よりもいまここで現実に直面している些細な問題で忙殺される側を正当化する。労働奴隷としての生活を愛惜する性格はそういう近視眼的行動、すなわち本能行動や反射の次元に己の形質が適合している由縁を、社会内で増大させようとする。
総合的に観察すると、結局この集団を最も原理的に表現して、政治集団と考えるのは妥当らしい。演劇的な実践の側面のみを抽出してみた場合に当たるのがその概念だからだ。劇的行動のみを自己目的視する集団が独りでに集積すると、この特定イデオロギーを装備した党派をつくる。
だが、かなしむべきかあわれむべきか、普通の世俗的生活者ともみなせる中産階級層に信じられている思想の程度でいえば、こういう集団は驚くべき忌避や伝統芸能視の対象ではない。いいかえれば政治集団は他のもっと柔軟な連中よりはるかに現実に即して胡散臭いというよりは、なにか信用の置ける安泰な道徳的行動形態であると考えられている節がある。
もしもジーザスやソクラテスがそうした様に、政治行動の正当性を真正面から批判した直情剛毅の人が現れれば、人々は目が覚めるどころか古代制の名残を牽く従来の社会秩序への反抗者としてなかんづく司法の援用で、その勢力を現世的に処理したがるだろう。これが、すぐれた道徳に至った当時の大学者を俗世の警察的人間、アリストテレス式に表現したポリス的人間がまっとうに評価できないばかりか、しばしば真逆の評価をしても反省しない、文化史上有数の宗教祖殉教創始の実例にまつわる歴史であった。そして状況は、政治行動を常識と考える非理知的人間層が多数を占める社交界では一切今後とも変わらずじまいであるだろう。
この見識が仮にいずれの文明場でも順当ならば、おそらく次のことは確かである。人間というものは、政治集団に囲い込まれている限りその忙殺から逃れられないだろう。と同時に、かれらは名目はどうあれ、実質的には税収を賄う奴隷として扱われつづけるであろう。だから、驚くべき見解に感じられるだろうが、やはり我々の知性の究極の進歩の段階では国家というものは消滅すべき当為にある。マルクス史観の終局への認識は、途中経過への多くの勘違いとはべつに正当的だった筈だ。さもなくば人類が政治的上位者への奴隷の地位から脱し、真の自由を享受できる日は決して来ないだろう。ある首長が人民から暴力的に搾取する意図で国家という囲い込みを設けて保護と家畜的法支配と貢納の儀式を行うところは、王家という伝統の権威を廃棄できたどの民主主義国でも同等なのを看るがいい。単純に、歴史の段階は政治集団内覇権種のいれかわりを激しくする権力闘争の微分化によって配分の偏りという自由の弊害を取り除く過程であった。短期的損得勘定を原型とする生活者は、かれらがこの入れ代わりをみちびく仕手であると説明するに足る。つまり権威は財産の支配可能性に依存するので、かなり大規模となった富家は劣勢に立った政治集団を圧迫してその覇権を徐々に取り除く働きをする。ケインズがその主著で解説する様に資本主義は流動資本の収穫率を次第に低減させながら有効需要を最大の効用係数のもとで満たす過途的社会形態だと仮定すれば、国家の消滅はまた、全政治集団が社会的不平等性の面で実権を持たなくなる有効需要の限界と一致する。
社会が主として技術開発の面で進歩を止める未来はまだ見渡せない。よって、少なくとも我々が現代の時点で、共産主義者がつねづね行いたがる様な一気呵成での国家政治体制の唾棄を行うことは危険でも無謀でもあり、また歴史が資本主義に託した有効需要の限界を十分に満足させる技術的産業の完成した視野に至るまでは、国家という想像物を便宜上採用しておくのは生活の具体的開発について最低機能面から便利である。幾分の摩擦抵抗として失業問題が不可避でも、福祉国家への誘惑の道を目的なく辿り続ける無作為よりはまだ勤労の習性を社会環境そのものが、そこへ参画する人民全体数を無償教育していける分だけ有徳ではないか。さてこの伝統的想像物は支配側と被支配側とを同一の名義へと縛り付け、その仮設想像物へ従属的な立場を標榜させることによって政治集団を複数林立させるものだ。つまり政党と国家の分離は、我々が現有している中では最も資本主義の本質的意図を満たすのに重要な歴史的達成。そして政党と国家とがほぼ同一視される集団は、かれらが異なる思想形態への反省を疑わなくなるという点で、狂信を誘う宗教化の弊害によって結局進歩した人類へ好ましい社交場となることはできない。そういう国は遅かれ早かれ市場のやまざる動的均衡によって自主的にか受動的にか世界史主導の舞台からおしのけられる。我々が既に政治能力を担わなくなった特定宗教を持つ理由がこの思想と行動の非分割による時代思潮適応能率上の敗退にあると言える。
更には、我々は確定事項として政党の便宜的相互批判の応報から、やがては国家そのものが自己矛盾を来たし結果的にはその解散が単なる資本の回転率への実利的慣習の面からすら導かれる将来を見通せる。だからそれは現自由圏に属したどこかの先進国内から始まる。だがこの中途段階に於いては、土着の信念固い頑固な抵抗勢力を政党政治という方便で飽くまでも同士討ちさせつづけることこそ、我々人類が国家という自然状態への囲い込みの社会力学を用いて発見した今生までに到達された最善の制度であると認識しなければならない。平和的革命を断続的改革の民主議決という建前で処理し尽くせることほど、その内部での権力闘争を非武力的で人知に想像できるかぎり和平的に継続させる動機づけはありえまい。だから、ある歴史段階では国際政党や国連主義政党、乃至は国家間包括的地域連合政党の樹立がその付近や生協提携された友好国間で成立することを、いままででいう王家というある種の土俗民の長が否定できる訳ではない。実際に見よ、多数の出自をもつ複合民族国家からの漸進的政治思想哲学によってこの必然の流れは先導されるであろう。そしてその統合指揮の世界観によって、旧来の意味でのナショナリズムは多国籍化した非土着的複数国籍間生活者共同体自身の意向に準じ解体されゆくであろう。我々はその経過によって、現在よりも流動可能性の高い異国生活圏間の各社会基盤の共通化を手に入れるだろう。けれども、また王家そのものと同じく、宗教という形でのみ嘗て人類が住んでいた国家という土臭い穴蔵を保存や適宜補修するであろう。そして子孫は、そこを知恵も連絡も貧しかった古代の殿堂として、調度遺跡を眺める様に如何なる公共施設や文化としてだけ残った国民政治という伝統芸能の催しも趣分の観光地がわりにさえするだろう。
2009年9月6日
地政学
都市文明の現象。ある見識によれば、高速道路を地方にいきなり通すと、その周辺の郷土が都市化現象を引き起こし、在来の文化は移民と人口流出で破壊される。だが私の社会学上の考えでは、文化と文明のどちらを択ぶか人民が突き付けられたとき、一般にえらばれるのは文明の方である。そして土着文化を信奉する側はつねに劣勢に立つことになるので、ある程度の反抗のあと侵略者の権力に伏せざるを得ない。ゆえ都市文明の伝播そのものは決して騒がれるほど希な例ではない。これは地方の活性というアイデアが半面、旧態の破壊をも不可避にもたらすという都市文明化への道であると教えるに留まる。それは当然ながら、土着風俗の適応的変異をも代償に求める。
そして特有の文化人がふるめかしい在来の旧態のなかへある程度以上の徳性を見つけるとして、そういう人のナショナルトラストの様な積極的保護を前提としてのみ国家の地方政策は実質的に進められるといえる。
政府がおおざっぱに引いた代官線路をどうあつかうかは郷土付近の長らくの文化的展開に詳しい、こういう現地の有識者に任せられたほうがいい。たとえばイギリスがインディアンを追い払う中でポカホンタスの様な有能な首長あるいは郷原を逆に抜擢したことは、スペインのコルテスやピサロがやった野趣あふれる徹底的破壊とゼロからの再建設よりはるかに効率的である。こういう大袈裟な例がある程度敏感な地方人の神経に与える危機的な旧態保守の感情は、にもかかわらずいざとなれば何を真に護るべきかといった文化遺産のありかを啓蒙するものだ。身を挺しても維持したいそういう少数のものしか完全に以前のままの姿ではのこされない、という事実が地方への中央統制的発展のある面で残酷な本性でもある。更には、この都市伝播の流れ自体が国際的な主流である期間、いいかえれば覇権の存在している時代、全くの僻地を除き程度としてどの国家へでも同様の、超大国からの中央資産分配の経過が起こってしまう。
そして特有の文化人がふるめかしい在来の旧態のなかへある程度以上の徳性を見つけるとして、そういう人のナショナルトラストの様な積極的保護を前提としてのみ国家の地方政策は実質的に進められるといえる。
政府がおおざっぱに引いた代官線路をどうあつかうかは郷土付近の長らくの文化的展開に詳しい、こういう現地の有識者に任せられたほうがいい。たとえばイギリスがインディアンを追い払う中でポカホンタスの様な有能な首長あるいは郷原を逆に抜擢したことは、スペインのコルテスやピサロがやった野趣あふれる徹底的破壊とゼロからの再建設よりはるかに効率的である。こういう大袈裟な例がある程度敏感な地方人の神経に与える危機的な旧態保守の感情は、にもかかわらずいざとなれば何を真に護るべきかといった文化遺産のありかを啓蒙するものだ。身を挺しても維持したいそういう少数のものしか完全に以前のままの姿ではのこされない、という事実が地方への中央統制的発展のある面で残酷な本性でもある。更には、この都市伝播の流れ自体が国際的な主流である期間、いいかえれば覇権の存在している時代、全くの僻地を除き程度としてどの国家へでも同様の、超大国からの中央資産分配の経過が起こってしまう。
理性の意図
人類が神の似姿だ、という祖先崇拝の偶像化の観点は現実的に疑わしいばかりか、その自尊心を満たす為の生態系独占支配の口実である様に見える。他の生物の視点で考えれば人類はあくどい僭主にすぎないし、たとえかれらがその進化内地位を不動だと傲るとしてもなおそう。
客観視すれば人類の生物の分類論的特徴はほぼ哺乳類から辿れる猿と似たもので、結論づけてしまうと猿の一種である。もしそれが疑わしいと述べる者があれば、自らが生殖する為にどの様な手段を持っているかを省みれば済む。神話はいざ知らず、人類は知能や大脳の比較的誇大化しつつあった猿あるいは類人猿の末裔。こういう性質しか付与されていない生命体を、神話の延長を以て自己神格化しようとする者はなんらかの私小説的境遇のため哀れむべき自己陶酔の中にいるか、より単純に言えば無知である。
神道の知能はしばし致命的であって、そしてそれは暴力の正当な行使を生業とした以上相対的には解消不能だろうが、神代という概念を本気で信じ込んでいる時点でその人類としての地位すら疑わしいものだ。神という理念を偶像化して捉えようとしている間は、いずれの政治行動も究極的に失敗する。なぜなら冷静に見做して、猿たちが権力闘争をしているのにすぎないところでその一匹を崇拝してみても影響力は所詮有限なのである。民族主義あるいはnationalismが危険なのはこの有限責任性の陥り易い利己の為に、だ。
神という理念を是非とも人類の諸影響から分離させて考えるがよい。創造主というユダヤ教以来の定式的神話もまた、この理念を人類形相化することを徹底的に忌避させる所には倫理の正当性がある。もし偶像化の弊害が君主制度と結び付けば、そのとき当民族集団はきわめて危険な絶対王政下の退化に陥るのだから。
究極的には、神が全人類を絶滅させることも可能である。そしてそういう判断が行われる場合、人類の中に神の計画にとって有用な性格の者が結局いなかった証拠となる。今日までの人類の歩みを省みれば、神の名をそれぞれ別々に、しかもいたずらに掲げて同士討ちを行うばかりか、もともと神の設計した驚くべき調和の意図を読み取ろうともせず、他の繊細きわまる生物間の共生関係を踏みにじる自然破壊の常套手段だけは捨てきれなかった様に見える。人類が嘉されるに値するかどうかは、我々の総意やら考えなどではなく、神の意志に委ねられている。ごく簡潔に言って、大隕石を衝突させるだけで地球生態系ごと破滅させられる能力にとってそこで戯れる制作物がおのれの本来の意図を十分に満たすだけ従順かは只、理性的判断を遂行できるかという大脳誇大のよりどころに懸かっていると思われる。さもなくば生物間にかくも異なる個性、あるいは性特徴を増大させたがった自然の設計意図をよみちがえることになるだろう。
客観視すれば人類の生物の分類論的特徴はほぼ哺乳類から辿れる猿と似たもので、結論づけてしまうと猿の一種である。もしそれが疑わしいと述べる者があれば、自らが生殖する為にどの様な手段を持っているかを省みれば済む。神話はいざ知らず、人類は知能や大脳の比較的誇大化しつつあった猿あるいは類人猿の末裔。こういう性質しか付与されていない生命体を、神話の延長を以て自己神格化しようとする者はなんらかの私小説的境遇のため哀れむべき自己陶酔の中にいるか、より単純に言えば無知である。
神道の知能はしばし致命的であって、そしてそれは暴力の正当な行使を生業とした以上相対的には解消不能だろうが、神代という概念を本気で信じ込んでいる時点でその人類としての地位すら疑わしいものだ。神という理念を偶像化して捉えようとしている間は、いずれの政治行動も究極的に失敗する。なぜなら冷静に見做して、猿たちが権力闘争をしているのにすぎないところでその一匹を崇拝してみても影響力は所詮有限なのである。民族主義あるいはnationalismが危険なのはこの有限責任性の陥り易い利己の為に、だ。
神という理念を是非とも人類の諸影響から分離させて考えるがよい。創造主というユダヤ教以来の定式的神話もまた、この理念を人類形相化することを徹底的に忌避させる所には倫理の正当性がある。もし偶像化の弊害が君主制度と結び付けば、そのとき当民族集団はきわめて危険な絶対王政下の退化に陥るのだから。
究極的には、神が全人類を絶滅させることも可能である。そしてそういう判断が行われる場合、人類の中に神の計画にとって有用な性格の者が結局いなかった証拠となる。今日までの人類の歩みを省みれば、神の名をそれぞれ別々に、しかもいたずらに掲げて同士討ちを行うばかりか、もともと神の設計した驚くべき調和の意図を読み取ろうともせず、他の繊細きわまる生物間の共生関係を踏みにじる自然破壊の常套手段だけは捨てきれなかった様に見える。人類が嘉されるに値するかどうかは、我々の総意やら考えなどではなく、神の意志に委ねられている。ごく簡潔に言って、大隕石を衝突させるだけで地球生態系ごと破滅させられる能力にとってそこで戯れる制作物がおのれの本来の意図を十分に満たすだけ従順かは只、理性的判断を遂行できるかという大脳誇大のよりどころに懸かっていると思われる。さもなくば生物間にかくも異なる個性、あるいは性特徴を増大させたがった自然の設計意図をよみちがえることになるだろう。
2009年9月5日
しずかに
かなしみのおとは風のまにまに
ながれ流されきえゆくのでしょう
かもめのなきごえもきこえるでしょうか
だれもいない海のしたで
しずんでいるダイヤモンドのつぶが
もしガラスでつくられたにせものだって
もしあらゆるゆめがさめたあとで
のこされるのは波のおとだけ
かなしみのおとも波のおとだけ
しずかに
しずかに
ながれ流されきえゆくのでしょう
かもめのなきごえもきこえるでしょうか
だれもいない海のしたで
しずんでいるダイヤモンドのつぶが
もしガラスでつくられたにせものだって
もしあらゆるゆめがさめたあとで
のこされるのは波のおとだけ
かなしみのおとも波のおとだけ
しずかに
しずかに
2009年9月3日
世直しの一手
食料自給率論の本質は、必需品を海外へ頼っていると喫緊の事態にあからさまな内政干渉を免れないという致命的欠陥批判にある。
商人気質は長期的視野に欠けるので、この本質をなおざりにして金さえ儲かればいざとなってからでも受給率向上は間に合うと高を踏む。
だが、こういう性格のひとが最後に笑うことはほとんどない。浅慮とは道徳の欠落に由来するので、人々はそういう成金趣味の顛末をざまあみろと思うのである。
たとえば、いますぐイラクで第三次世界大戦勃発級の異常なテロリズムが起こったとしよう。
米軍は当然アジア自由圏からの世界平和維持への参戦として日本へも出兵を要請してくる。だがこの第一手の時点ですでに日本という浅はかな理性しかもともと持てなかった国は負けているのである。
なぜならば、もしここで反米と取られてしかたない自己本位の裏切りの姿勢をみせれば、この陣営は当然自由圏では孤立する。よって国家単位でいとなまれる経済力学のためにあきらかに戦地優先である食料供給は、‘いくらカネを出そうとも’断ち切られて省みないだろう。
つまり、いくど知識人諸氏から忠告を受けていたにもかかわらず餓死者を出すのか、といった理の当然の国内批判をおそれて政府は100%米国(乃至そもそも考え方も違った中国と豪州の連携)追随に依拠せざるをえない。
普段から災害に備える心がけを怠って、本来は文人優先に考えて然るべき知識集団からさえ再三叱られていたにも関わらずに、この警察的安全を司るはず政治集団はいざというときみずからの意思で行動できないのだ。そこで米国がはじめから敗戦すると決まっていたとしてさえそうなのだから、食料のような必需品を海外依存している国は基本的に独立国ではない。
最低限、完全に外国から孤立しても餓えないだけの備えとして、栄養素別に分類した食料自給の質だけは事前に確保しておかねばならない。ここで生ずる必要栄養価余分の量だけを普段にも輸入すればいい。
特に蛋白源である「大豆」、あるいはそれに代わるカタクチイワシなど原始的素材をほぼ自給できていない現状は深刻であって、これらの栽培または養殖ふくむ漁獲の航路を人為的工夫を用いても栄養価として全国民の必要摂取量を保てる以上へみちびくこと、民をいたずらに混乱させないよう、きっちり事前対策を考じておくのが道徳哲学にもとづき先憂後楽を任じる是政者第一の勉めである。
商人気質は長期的視野に欠けるので、この本質をなおざりにして金さえ儲かればいざとなってからでも受給率向上は間に合うと高を踏む。
だが、こういう性格のひとが最後に笑うことはほとんどない。浅慮とは道徳の欠落に由来するので、人々はそういう成金趣味の顛末をざまあみろと思うのである。
たとえば、いますぐイラクで第三次世界大戦勃発級の異常なテロリズムが起こったとしよう。
米軍は当然アジア自由圏からの世界平和維持への参戦として日本へも出兵を要請してくる。だがこの第一手の時点ですでに日本という浅はかな理性しかもともと持てなかった国は負けているのである。
なぜならば、もしここで反米と取られてしかたない自己本位の裏切りの姿勢をみせれば、この陣営は当然自由圏では孤立する。よって国家単位でいとなまれる経済力学のためにあきらかに戦地優先である食料供給は、‘いくらカネを出そうとも’断ち切られて省みないだろう。
つまり、いくど知識人諸氏から忠告を受けていたにもかかわらず餓死者を出すのか、といった理の当然の国内批判をおそれて政府は100%米国(乃至そもそも考え方も違った中国と豪州の連携)追随に依拠せざるをえない。
普段から災害に備える心がけを怠って、本来は文人優先に考えて然るべき知識集団からさえ再三叱られていたにも関わらずに、この警察的安全を司るはず政治集団はいざというときみずからの意思で行動できないのだ。そこで米国がはじめから敗戦すると決まっていたとしてさえそうなのだから、食料のような必需品を海外依存している国は基本的に独立国ではない。
最低限、完全に外国から孤立しても餓えないだけの備えとして、栄養素別に分類した食料自給の質だけは事前に確保しておかねばならない。ここで生ずる必要栄養価余分の量だけを普段にも輸入すればいい。
特に蛋白源である「大豆」、あるいはそれに代わるカタクチイワシなど原始的素材をほぼ自給できていない現状は深刻であって、これらの栽培または養殖ふくむ漁獲の航路を人為的工夫を用いても栄養価として全国民の必要摂取量を保てる以上へみちびくこと、民をいたずらに混乱させないよう、きっちり事前対策を考じておくのが道徳哲学にもとづき先憂後楽を任じる是政者第一の勉めである。
2009年9月2日
神格判断への漸次な理性的根拠
神が屡々人間心理を裏切る様な宿命的暴威をも退けない、という訳は、畏らく、神を慕う者が必ずしも神によって嘉されるとは限らないからではないか。たとえ彼らなりの誠で彼らの民族神を奉っていたとしても、唯一絶対神なるものはインカ王朝の末裔を除去させた。人間側による神話の形成とか、哲学的解釈とか、そういう世俗の見地を超越した判断を宿命はする。そしてこの業の及ぶ循環の期間は、殆ど確定しきれない。司馬遷が天道是非を問うた絶唱はまた多くの歴史を学ぶ者にとっては日常的であり、いわゆるヘーゲル的世界精神は我々の恣意を一切赦さないまでに見える。
我々がジーザスの死を最大級の悲劇として伝説しつづける理由はそれが、当時の良識から診てさえあまりに苛酷な魂への試練だったからである。もし復活劇という救世主願望が宗教的恍惚によって再生されるとしても、紀元節の根っこにあるのは神と人、あるいは父なる神とその子との徹底的な非対称性らしい。
しかし、人類自身はどの運命の流れも結局は、神による創作の台本通りと見做す他ないのである。その筋書きは生き残った側によって史記へ印されるが故に、彼らの信仰する最終的権威を行われた演劇計画の原因存在として立てるほかの解釈の仕様がない。我々が信仰、もし近代的個人の用語へこれを仕立て直すなら信念、を持ち続ける本心の動機づけとはこの偉大なる作者への絶対帰依の確信ではないか。その崇高な戯曲への感心が一人生という有限経験によるかみながらの確信を世代間へおのずと伝承させる。どの時代の子孫へも、かの魂あるいは意識へのある程度以上の共鳴と理解を期待するのなら、その時点での我々の知識にとって最高次元の存在を行動の根拠へ奉ることが精々最善である。さもなくば我々の悟ったところは、互いに信じる宗教も異なる個々の家系間のどこかで限定され断絶するかもしれない。
イスラムの戦士がもし無謀な蛮勇と現代先進金融国からは目されるとしても、またもし手段を択ばぬかのごとき誤解を与え兼ねない恐怖政治が国際犯罪へ仕立てあげられるとしても、かれらの志向している本来の動機づけの面では、正義の実現をつよく望む上でその頑迷な原理主義への一帯の土着的信念は、道徳行動の上では正しい志向だと目されざるをえない。我々は生物の理由すら十二分に解明したとは言い難い幼稚な科学しか持っていない文化段階にあるのだから、その少数派の見解が神との立場の絶対的対比によって以前の考えごと完全に否定されてしまっても、単純に無知に帰すしかない程だ。
神の意思を推し量るという近代人なり責めてもの後学の為に、我々が持っている次善の手立ては哲学である。わずかながら得られる知識へ根気と辛抱強さによって絶えず実践的反省を加えるこの道理屋の狭い門と長い道を通ってしか、我々の倫理が特徴的に持てる理性を今よりはっきりと認識することはいずれの文明にもできないだろう。
我々がジーザスの死を最大級の悲劇として伝説しつづける理由はそれが、当時の良識から診てさえあまりに苛酷な魂への試練だったからである。もし復活劇という救世主願望が宗教的恍惚によって再生されるとしても、紀元節の根っこにあるのは神と人、あるいは父なる神とその子との徹底的な非対称性らしい。
しかし、人類自身はどの運命の流れも結局は、神による創作の台本通りと見做す他ないのである。その筋書きは生き残った側によって史記へ印されるが故に、彼らの信仰する最終的権威を行われた演劇計画の原因存在として立てるほかの解釈の仕様がない。我々が信仰、もし近代的個人の用語へこれを仕立て直すなら信念、を持ち続ける本心の動機づけとはこの偉大なる作者への絶対帰依の確信ではないか。その崇高な戯曲への感心が一人生という有限経験によるかみながらの確信を世代間へおのずと伝承させる。どの時代の子孫へも、かの魂あるいは意識へのある程度以上の共鳴と理解を期待するのなら、その時点での我々の知識にとって最高次元の存在を行動の根拠へ奉ることが精々最善である。さもなくば我々の悟ったところは、互いに信じる宗教も異なる個々の家系間のどこかで限定され断絶するかもしれない。
イスラムの戦士がもし無謀な蛮勇と現代先進金融国からは目されるとしても、またもし手段を択ばぬかのごとき誤解を与え兼ねない恐怖政治が国際犯罪へ仕立てあげられるとしても、かれらの志向している本来の動機づけの面では、正義の実現をつよく望む上でその頑迷な原理主義への一帯の土着的信念は、道徳行動の上では正しい志向だと目されざるをえない。我々は生物の理由すら十二分に解明したとは言い難い幼稚な科学しか持っていない文化段階にあるのだから、その少数派の見解が神との立場の絶対的対比によって以前の考えごと完全に否定されてしまっても、単純に無知に帰すしかない程だ。
神の意思を推し量るという近代人なり責めてもの後学の為に、我々が持っている次善の手立ては哲学である。わずかながら得られる知識へ根気と辛抱強さによって絶えず実践的反省を加えるこの道理屋の狭い門と長い道を通ってしか、我々の倫理が特徴的に持てる理性を今よりはっきりと認識することはいずれの文明にもできないだろう。
奇跡
この世で唯一人の美しいひとよ
もし私に両手一杯の花束があったならあなたにあげよう
すでに終わってしまった花火ならもう一度みせよう
だがあなたは知らない
もしあなたがこの世から消えてしまえばもう二度と
素晴らしいそのかなしい花が咲くことはないのだ
だから比べるものなく美しいあなたは
宇宙全体に広がった光の粒をあつめて
幸運の女神がもう一度みずからの祈りを
聞き届けてくれるのを待ちつづけるがいい
アフリカの隅々まで探検してサバンナの猛獣と争い
インディアンの勇気に抗いながらウェスタンと決闘する
そうやって手に入れた誰も見たことのない宝石でも
あなたが夜の星屑一つと比べるなら打ち捨ててしまえ
無限大の夜空があなたより愛しいものを遺さないのなら
すべてを爆破してでもそれを手に入れなければならない
だけどこの大海原が流れ続ける天の川が
あなたとの距離を引き裂くのなら
どれほど遠くなるか分からない頂上の見えない山道を
僕は一人の修業者になってどこまでも登りつめてやる
もしそうしたあかつきになにもかも見えなくなって
奈落の底へ沈んでいった数多くの競争者が消えてしまってから
もう何一つ持たないとしても僕はこの想いを届けるでしょう
世界で唯一人だけの美しいひとあなたは
奇跡だ
もし私に両手一杯の花束があったならあなたにあげよう
すでに終わってしまった花火ならもう一度みせよう
だがあなたは知らない
もしあなたがこの世から消えてしまえばもう二度と
素晴らしいそのかなしい花が咲くことはないのだ
だから比べるものなく美しいあなたは
宇宙全体に広がった光の粒をあつめて
幸運の女神がもう一度みずからの祈りを
聞き届けてくれるのを待ちつづけるがいい
アフリカの隅々まで探検してサバンナの猛獣と争い
インディアンの勇気に抗いながらウェスタンと決闘する
そうやって手に入れた誰も見たことのない宝石でも
あなたが夜の星屑一つと比べるなら打ち捨ててしまえ
無限大の夜空があなたより愛しいものを遺さないのなら
すべてを爆破してでもそれを手に入れなければならない
だけどこの大海原が流れ続ける天の川が
あなたとの距離を引き裂くのなら
どれほど遠くなるか分からない頂上の見えない山道を
僕は一人の修業者になってどこまでも登りつめてやる
もしそうしたあかつきになにもかも見えなくなって
奈落の底へ沈んでいった数多くの競争者が消えてしまってから
もう何一つ持たないとしても僕はこの想いを届けるでしょう
世界で唯一人だけの美しいひとあなたは
奇跡だ