2009年9月3日

世直しの一手

食料自給率論の本質は、必需品を海外へ頼っていると喫緊の事態にあからさまな内政干渉を免れないという致命的欠陥批判にある。

商人気質は長期的視野に欠けるので、この本質をなおざりにして金さえ儲かればいざとなってからでも受給率向上は間に合うと高を踏む。
だが、こういう性格のひとが最後に笑うことはほとんどない。浅慮とは道徳の欠落に由来するので、人々はそういう成金趣味の顛末をざまあみろと思うのである。

 たとえば、いますぐイラクで第三次世界大戦勃発級の異常なテロリズムが起こったとしよう。
米軍は当然アジア自由圏からの世界平和維持への参戦として日本へも出兵を要請してくる。だがこの第一手の時点ですでに日本という浅はかな理性しかもともと持てなかった国は負けているのである。
なぜならば、もしここで反米と取られてしかたない自己本位の裏切りの姿勢をみせれば、この陣営は当然自由圏では孤立する。よって国家単位でいとなまれる経済力学のためにあきらかに戦地優先である食料供給は、‘いくらカネを出そうとも’断ち切られて省みないだろう。
 つまり、いくど知識人諸氏から忠告を受けていたにもかかわらず餓死者を出すのか、といった理の当然の国内批判をおそれて政府は100%米国(乃至そもそも考え方も違った中国と豪州の連携)追随に依拠せざるをえない。
普段から災害に備える心がけを怠って、本来は文人優先に考えて然るべき知識集団からさえ再三叱られていたにも関わらずに、この警察的安全を司るはず政治集団はいざというときみずからの意思で行動できないのだ。そこで米国がはじめから敗戦すると決まっていたとしてさえそうなのだから、食料のような必需品を海外依存している国は基本的に独立国ではない。

 最低限、完全に外国から孤立しても餓えないだけの備えとして、栄養素別に分類した食料自給の質だけは事前に確保しておかねばならない。ここで生ずる必要栄養価余分の量だけを普段にも輸入すればいい。
特に蛋白源である「大豆」、あるいはそれに代わるカタクチイワシなど原始的素材をほぼ自給できていない現状は深刻であって、これらの栽培または養殖ふくむ漁獲の航路を人為的工夫を用いても栄養価として全国民の必要摂取量を保てる以上へみちびくこと、民をいたずらに混乱させないよう、きっちり事前対策を考じておくのが道徳哲学にもとづき先憂後楽を任じる是政者第一の勉めである。