神が屡々人間心理を裏切る様な宿命的暴威をも退けない、という訳は、畏らく、神を慕う者が必ずしも神によって嘉されるとは限らないからではないか。たとえ彼らなりの誠で彼らの民族神を奉っていたとしても、唯一絶対神なるものはインカ王朝の末裔を除去させた。人間側による神話の形成とか、哲学的解釈とか、そういう世俗の見地を超越した判断を宿命はする。そしてこの業の及ぶ循環の期間は、殆ど確定しきれない。司馬遷が天道是非を問うた絶唱はまた多くの歴史を学ぶ者にとっては日常的であり、いわゆるヘーゲル的世界精神は我々の恣意を一切赦さないまでに見える。
我々がジーザスの死を最大級の悲劇として伝説しつづける理由はそれが、当時の良識から診てさえあまりに苛酷な魂への試練だったからである。もし復活劇という救世主願望が宗教的恍惚によって再生されるとしても、紀元節の根っこにあるのは神と人、あるいは父なる神とその子との徹底的な非対称性らしい。
しかし、人類自身はどの運命の流れも結局は、神による創作の台本通りと見做す他ないのである。その筋書きは生き残った側によって史記へ印されるが故に、彼らの信仰する最終的権威を行われた演劇計画の原因存在として立てるほかの解釈の仕様がない。我々が信仰、もし近代的個人の用語へこれを仕立て直すなら信念、を持ち続ける本心の動機づけとはこの偉大なる作者への絶対帰依の確信ではないか。その崇高な戯曲への感心が一人生という有限経験によるかみながらの確信を世代間へおのずと伝承させる。どの時代の子孫へも、かの魂あるいは意識へのある程度以上の共鳴と理解を期待するのなら、その時点での我々の知識にとって最高次元の存在を行動の根拠へ奉ることが精々最善である。さもなくば我々の悟ったところは、互いに信じる宗教も異なる個々の家系間のどこかで限定され断絶するかもしれない。
イスラムの戦士がもし無謀な蛮勇と現代先進金融国からは目されるとしても、またもし手段を択ばぬかのごとき誤解を与え兼ねない恐怖政治が国際犯罪へ仕立てあげられるとしても、かれらの志向している本来の動機づけの面では、正義の実現をつよく望む上でその頑迷な原理主義への一帯の土着的信念は、道徳行動の上では正しい志向だと目されざるをえない。我々は生物の理由すら十二分に解明したとは言い難い幼稚な科学しか持っていない文化段階にあるのだから、その少数派の見解が神との立場の絶対的対比によって以前の考えごと完全に否定されてしまっても、単純に無知に帰すしかない程だ。
神の意思を推し量るという近代人なり責めてもの後学の為に、我々が持っている次善の手立ては哲学である。わずかながら得られる知識へ根気と辛抱強さによって絶えず実践的反省を加えるこの道理屋の狭い門と長い道を通ってしか、我々の倫理が特徴的に持てる理性を今よりはっきりと認識することはいずれの文明にもできないだろう。