2009年9月20日

倭人種への望ましい社交的規則

人間を哺乳類の末裔として観察した場合、社会悪というものがその習性から生じているのは明らかである。特に、倭人種が広く悪習として認じているものは、彼らが生態上でもっているなんらかの不合理な習性からくる。
 経済性の観点からのみ評価したとき、状況は朝鮮民族あるいは韓人種でも同じ様だが、これらの極東系の人種が感情の特殊性の為にいくつもの慰安の手段を要するのは僻地的習性を明らかにしたものだ。そしてもし彼らが総生産の面で他国より劣るとすれば、この文化的傾向は奇形と言われていい。なぜなら他の部族の有しているもっと能率よい習性を導き入れるなら当然、ほかの面のみならず経済性も向上するのだから。

 倭人種の奇習は、彼らが長く極東の孤島で隔離的に自己進化してきたことからくる、情緒の過剰にある。そしてこの形質は最高潮の段階では自己経済化の抽象された姿として純粋な接客業をつくりだす。倭人種が古くは「芸者」という、専門化した接客業形質を広く保っていたのはこの文化の奇形さの極度である。朝鮮半島に在来した人種を除く、ほかのどの人類もこういう情緒の過剰から起こった奇習の助長を進めることはなかった。
 現在のところ、他の国家でも若干みられる奇形化の傾向にこの接客業内容の映像販売という形式がある。しかし主に我々が「芸者」として知っている様な特殊な形質は、また文化的進歩の波から隔離された僻地でしか起こりえないだろう。
 そして倭人種が、或いは朝鮮人種がこの地上の文明の中で位置どるところは、彼らの奇形化が形質の進みすぎた雌性化および幼型化からきた審美的極端さから生じているという事情より、やむをえない華美の結果、ほかのより理知の形質に勝った人種によって事実上合併される方向にもとづくだろう。

 ライオンの群れに典型としてみられる様に、母系集団は現実的にはより選れた雄性形質を形式的受容によって吸収していく。だから「芸者」の性質はそれ自体が異様で、多くの欧米人がキリスト教思想のもとにかくの性向を野蛮な文化のものとして侮蔑するにせよ、最終的には接客という方法の華美の促進あるいは超合目的性のためにことなる文脈の中で逆にそれ以外の性格を編入してしまうだろう。いいかえれば、倭人種が華美のために持っている特徴は、その母集団性である。勿論そのために倭人種は理知的才覚に於いて一般に劣り、他のより進歩または旧態維持した人種に比べても中間的な能力しか持たないだろうが、にも関わらずもし在来種の処分という方針に至るほどこの理知の啓発が決定的に欠落していなければかなりの悪癖の実態にも関わらず保存的なのである。

 これらの悪癖悪習はおそらく全体としての人種生態の中に形質の偏差を設けるための本能からの指令であり、仮にこういう奇習の根絶が古代の完全に隔離された山門的近親交配の危険性の内で行われた場合、その集団が一つ以上の環境変異で絶滅した可能性もある。

 だから我々が現段階で望めるのは、情緒の過剰をみせる各種の異様な形質変異を排除するのではなく、それらを巧妙に分類化あるいは類型化して差別か区別しておくことだ。この類型化による異種視が情緒の過剰の微細な傾向ででも、多少なりとも理知のある部類が違和感をおぼえられる様に奇形化の罠を避けるきっかけを教える。真に個性的な変異は類型化できないので、一つ以上の情緒的同系がみられる場合はこのものを差別化するのが最低でも芸者的変形の速度を経済的に効率化するのを助けるであろう。なんらかの生態の類型化は、その形質が情緒的集合体に属するという倭人種の奇形さの性向を差別によって強調するので、少しでも理知のある者へはそのカテゴライズにあたる忌避感をもたらす効果を持っている点で個性または品格の高い群性を自主選択して維持させるに国風上は有益な仕掛けである。こういう奇形種を淘汰しようとする文化的能率(類型視の差別語彙量)が高ければ高いほど審美化すなわち中庸達成への煩瑣のため芸者的華美の極度を達することはますます困難になり又更新頻度も速まるので、結果としてはそれを見分ける理知の最低限度を国際平均以上へ保つ一つの内国的な社会機能になるだろう。