2009年9月18日

分析哲学の解釈界

辞は達する已という孔子の立場は、脱構築という現代フランス哲学の思想上のそれへの明白な逆理でありうるだろう。文の学についての言葉の用法の考察は、冒頭に引用した論語の一節で十分に解説できる。それは解釈可能性を差し引いてもまだ伝達の方法であるにとどまる。
 日本語圏のいまのところ国語と言われている国家主義の教育方針に於いて、被啓発者とやらは作者の意図の推測などを宛がわれることになっているが、この解釈意図を多元化できるという点こそが実は言葉の本質なのである。多くの哲学上の分析論は、批評論と併せて道義の解釈、あるいは道徳の定義を文についても当て嵌める。そこではもとの作者の意図を大幅にこえた適解が得られることさえ期待できる。そして多くの聖書の形成とは、実にこの解釈者による工夫と定説のつみかさねであるのが殆どであった。

 我々は言葉についての哲学、いわゆる分析哲学とよばれる大きな国際潮流を、西洋史が言語学を科学化する途中段階でうみだした派生的詳察であるとみなせる。しかしその意味は伝達についての言語学の定式にいずれ編入され、哲学にとっては主要命題ではなくなるのを確実視できる。分析哲学は言語学の科学知識化への批判的基礎づけだった。この事実は、物理学その他の自然科学上の記述や認知の方式そのものを寧ろ論理の限界をはっきりと文法の面から教えることで強化する。すでにかなりの規模の自然科学員といまだ姿もあらわではない言語学周辺の基礎工事員とを互いに牽制関係に置きつづけるのは賢明ではない。彼等は論理という修辞論に於ける数学的分野からの道具立てをともに用いるほぼ同値の建設員であって、どちらがより真理という計画遂行にとって本格的であるということは言えない。だが物理学そのものは言語を副次的にしか用いずにでもより数学化された法則性を記述可能な段階まで進んできたので、おそらく演繹方式を主義するたぐいの自然科学者が分析哲学の徒を無用視する事態そのものは多かれ少なかれ学問内ではおさまらないだろう。反対に、言語学者はそのかなり解釈に多元性を付与された知識が応用範囲では広いことを日々益々発見して、自然科学をふくむ知識の翻訳のためには決定的な働きをできることだろう。そしてこの面では、一切の物理学ふくむ数学的記号論はそれのみでは決して最善ではないと悟られる日が来るだろう。道具は複雑なほど、説明書が使用への手掛かりとなる。
 辞は達するだけかもしれないが、この達せられる効率にはおもに母語間で千差万別ほどの違いができてくるとすれば、知識への解釈可能性を道徳心に欠けた自然科学の専門家かの誹謗を甘んじてきた彼等からの右の頬のさしかえしの様な厳密性のためにさえ、応報できた言語的多義の使い手の豊富な語彙に由来する。訳語も異義語も、異体字や同義語さえなんらかの差延が生ずるはず全口語(すなわち表音)および文語(すなわち表意)的な重畳性のもとで定義されえる。
 だから我々は、あるいは最低でも哲学の考究をできるだけゆとりのある自由教養への執事集団では、将来の文化的摂取能力を解釈界の肥沃さとして哲学分野へ曳き入れておけばおくほど、その言語学を含めた全科学知識への分析論の浅瀬の養生には有徳であると考えていい。