2009年9月27日

道徳的批判の精神

無知と不徳とはしばし一致する。すると知識総量を倫理として体系化した規律というのが道徳と呼ばれている、かなり不確定な総体である。それは時代や地域によって何が倫理かそれすら変更が加えられうるからだし、またこの体系が礼儀として複合か重畳されているとき、家政の外部者から解読するのはよほど困難だからでもある。いいかえれば礼儀という倫理規則集は殆ど偶有的と呼べる。隙の多い知識体系とその習性が通用するのはやはり仲間内でだけだ。つまり、世界には礼儀の程度に関して詳細の偏差があるだけであり、それは環境収容についての密度効果にほぼ依存する。
 だから究極に礼儀ある倫理規則を観察したければ、世界で最も人口密度の高い地域でその時代が煩瑣の極度を迎えた状態を想定すればいい。そこでは息をつくにも一定のおもんばかりが要請されるので、我々が想像できる最高度の細かな人事共存方式が発見されるだろう。ここからは道徳法則という偶有の城は、実際にはきわめつけにばらけて偏差している群生の徴なのであり、その中央が必ずしも確定的でないと理解できる。すなわち道徳とは場の観測的倫理法則であり、現実には結果論の範畴にある。
 唯一絶対の道徳法則を発見しようとする努力は結局徒労である。もしそういう固定義務への使徒が出現しても、いずれは特定集団が共有した宗教規則となって全般の適応法則とは少しずつ差延を余儀なくもしよう。故現実に即して道徳観念を評定しようとする者は必ずそれが如何なる場面で想起された理念かを分析する必要がある。全く同じ行動や規則でも、ある場面では哀しくも礼儀知らずであり他の場面では奇しくも究極の正義ともなる。他方こういう超可塑化された道徳認識は多くの場合、それほど沢山の倫理上の概念を知らない人へは未知の事態への怖れを抱かせるだろう。戦争の英雄は平時では極悪の死刑犯へ転落する。
 しかし、我々がつぎの予測を持てるならそれも杞憂に終わるだろう。もし道徳的な性格あるいは善良さを好む者が居れば、その人物は決して場面毎に異なる事象を見ないだろう。いいかえれば倫理は絶えざる批判精神の結果論なので、二者以上の成員が何らかの取組を図る際には必然に生ずる。そして如何なる人知の程度にあっても、選択可能な内より一歩でも慎み深い方向を選び取るのはかれに生まれ持った善意があれば十分。仮に如何なる事態に直面して懲悪や処罰あるいは報償や勧善の遅れがどれほどであろうともやはり行動のよさは最終結果論で裁決される。動機説は飽くまで批判する側の自己姿勢だから、如何なる善意も人事の判断についてのみ生ずるだろう。
 また多くの一神教は全知全能の理念とこの批判の観点を絶えず照らし合わせる動機づけによって、定常的な倫理をなんらかの文化慣習の方法論とすりあわせることのできる道徳の教化方式だと述べうる。だが、我々が各一神教相互を批判できる見地をも現実に、とても辛抱づよい議論という最も和平へつらなるのが明らかな道のりを大きく逸れないままで継続できるとすれば、実践的な道徳生活の上でもまた各々の文化慣習からより良い場面ごとの規律も取捨選択できる一定の哲学をあまり遠くないやがて捻出できるだろう。