2009年10月17日

借用の古典的基礎

既存人種がすでに作られたどれかの文字か音符を黙読か音読用の声に割り当てて使う慣習、いわば借用の慣れはその思考能力を大幅に削減や合理化してしまった。この借用の規則が語学と呼ばれる中間的学野の全領分であり外にない。そして分析哲学が試行錯誤している理性認識の限界は、言葉の借用法則の相当部分が創作行為による偶然性を含むというまた解釈のみならず執筆か講話も含める主観の論理をその伝統の帰結とする。カント哲学(純粋理性批判)に於ける主観の根拠は、時間についての直観がその格律であるという少なからぬ便宜上の立場を思索者の自己統一に与えてくれてきた。物理学者アインシュタインがこのカントの主観の立場を晩年の寄稿論文で批判できた私の知る唯一の哲学徒だが、彼の論拠は、空間や時間が巨視的物理系では説明の上で分離的かつ各々のパラメーターが可変であると業績上定めたことから、それら時空間の論理を理性認識という中世以来伝統の立場から少なくとも、若しくは多からずとも巨視観のもとでは分かち得るという言ってみれば神の理性の直観に由来している。
 だが仮にこれが仮説できるところで、我々にとっての時間直観が唯一の主観の根拠だというカント的基礎は決して理性的な偽ではない。きのうの自分ときょうのそれとがおなじであるただ一つの訳は、庸視的な時間に単純な順列の規則が一貫して見いだせるからだと説明づけるのがいまなお妥当だ。さもないと時間旅行者は、一貫した自己同一性を証明するのにわざわざ遺伝情報を書き出すしかなくなってしまい、目覚める度日々大変に煩わしい。神の理性というものの正体は、終局の認識論拠として時空の間に不即不離性を見逃して考えた通俗科学趣味のあったアインシュタイン個人の仮想物ないし宗教的混同ではないだろうか。創造主というものを人格化または擬人化して考えることがなければ、理性認識を飽くまでも知能行動の自己組織的図式からはみ出して捉えようとする様な嘗て不可侵性の誇示である呪術信仰の対象としてあった神話段階への退行は、戒められる筈だ。
 超理性的認識は存在しない。仮にそれが仮定されるとすれば、哲学の営みの停止による潜在化された知能行動の退化それそのものか宗教的唯一神の超越性を設ける必要のある倫理問題の前での方便としてだけである。たとえ物理的巨視系についてですら、宇宙の諸理性が夫々の営みを十全な最高目的への部品計画として、言ってみれば謙虚な道徳学徒として世界各地から集めた智恵を致すならその法則はすべて理性的である。合理化の規則は森羅万象を包み込む(汎神論の本質)という古代哲学以来の真理探求の信念が他のどの惑星系のもとで営まれた教養劇団の上でも真、なかんづく善ですらしばしあるならば、その究極の理由はやはり神慮とでも思われるもの、つまり創造論的摂理の中にある。
 今更には、哲学可能な理性認識の拡張は各種の啓蒙の効き目によって超理性的認識の偽装による占いやまじない、いわゆる異端宗教の衣を着て卒なく大乗部から金銭や迷信を誘うといった悪意寄生の徒を一人のこらず峻然と暴き出す、積極的な科学知識度批判の公開された常識的正当化なる役名をその信教相互の倫理的系統論に関する知識の豊富さからあてがわれて然るべき立場に儘ある。要するに、専門用語に於いてのカント的な超越論的仮象なるものはその徹底した否定媒介性、いいかえれば登り詰めることの永久にできない梯子として理性的究極意図誘引の方法に関して有用なのである。そしてありうることだが、その有用性をか弱き人の為には特有の思考内抽象性を伝承向けに簡略化した信仰の助けを借りずにとも強壮に思索できる自己の歩みで確信させるに至る、一部に存在する決定力ある理性的変異大脳新皮質、特に前頭前野の一層の誇大傾向を導く教師とはのちに聖哲きわまり一大宗派を形成するにせよ、哲学者そのひと自身でなければならない。
 分析哲学議論の概説である借用の慣れの批判や論理的ないし学的基礎付けとはこの信仰外有用性の絶えず回帰される理性認識の立場、すなわち直観の論拠を根本理由とする。因みに、日本語では感の字と観のそれとを使い分けて音声以外では使い分けもみられる。おもに生物学上は感覚器官への想起をよびやすいという利点から直感の語が好まれまたそれには合理性もあるが、ギリシア語テオーリアの訳語から観想と翻案されてきた経験から哲学語としては直観の語が好まれまたそこに必然性がある。なぜならただ観るという見物客の立場は、ただ感ける主体より自由人にとって純理論的考察の条件として好適なのだから。どうして感情が芸術家たちの才能なのか、ここから率直に理解できるだろう。度合いこそあれ手仕事に携わる場合は一所懸命その生業へかまけるに間違えない。
 そして借用が重要であればあるほど、その直観認識は単に語学の知識だけでなく哲学的な深度をも的確に持っているであろう。古典を引けば記すまでもないが、書家を含めて言葉をつくりだす文芸の才能に於ける感情の良さはこの趣味についてのすぐれた判断のもとにこそ初めて推敲されることとなる。