推敲される文字種が既存のものでなければならない根拠はなく、和語ないしヤマトコトバの音と声とが仮名文字の単音接化にともなってほぼ一致していった例は、複合および重畳という言葉の系統論に必然の消費的進化がその既存語彙池からの借用の慣れにとって経済的整理の順列の規則で一元化されつつある文化的段階のものであると示すにとどまる。ヤマトコトバが唯一の日本語成文法の凡例であると言うことは、もし充分に人類学とか比較文化論とか民俗学とかいわれる分野からの知識流入を免れないどこのアカデミズムでもいずれためらわれる様になるだろう。尤も国学か皇学専門の場所、その種の独自の適所では例外の余地もあるが。
つまるところヤマトコトバへの一語一句のあてはめという近代化の原典か原理主義はいずれ批判的に検証されきって、文芸思潮の上でも支配力をもたなくなるだろう。朝鮮語に於けるハングル文字の、或いは英語に対する発音記号の、もしくは中文へのピンインの夫々の表記的可塑をみよ。蓋し仮名と漢字読み下しの関係は、もしもこれらのどれもよりずっと高い可塑性、加之つよい借用の利便性を解釈界に確保できねば国際的な生き残り競争にその芸術面で遅れてしまうだけだ。
語学、特に漢字の使用に於ける経済的整理の法則はその最終段階で仮名という草体の採用に至った。だが文字そのものへの一体一対応の仮設性は決して最適でもなく不動でもあるべきでないし、その本質的意図として、発祥が助詞や助動詞の注釈であったことは仮名とは漢文への補佐語か補意語として有用さをもつべきであったと教える。これらの分析は、和文の将来がヤマトコトバへの依存から抜け出し、また仮名の本旨たる漢文注解という表音特性以外からの借用も当然に影響力を高めるべきなりと指導し教え諭している。
そのとき仮名使用法の変形にあわせて我々の、また日本人の言葉づかいもより自由度と推敲の品質について変わるだろう。漢語を全面的にとりいれることにした判断は、古代政治の初段の時点で開明的であったとこれで益々理解できるだろうし、全面英語化しなかった明治維新時の方針も和漢洋の語法が混在する独特の体系へ、それをつかいこなす国民的巧みさの比類なき雑食文化としたたかさへ溜め息をつかせるたぐいのそれだろう。あまつさえ、めくるめく文法交通網の地下鉄路線図的混雑加減の放置を解せない第二外国語学習者以上にとっていい意味かは不明だ。
日本語とは存在しないところにある、と考えられるべきだろう。そのことが純粋な日本語系統論のごく賢明なる血統主義なのだから。梵我一如を全論説の中央に引いた岡倉天心の慧眼は、その国粋主義的アジア盟主思想への転用という痛ましく悲しげな傷痕を美術と和睦を茶道と関連づけたこともなかった破廉恥きわまる邪悪な売国明治政府薩長同盟クーデター乗っ取り近視眼妄動的軍部独裁組からのいわれなき暴力事件がかったいわば時代モノな虚実被膜の濡れぎぬ紛いの沙汰として差し引けば、わが国の伝統文化上のまさに借用的な核心だったのだ。