2009年10月24日

美徳の批評

私は脱構造主義の意味を適宜踏まえて、正義のみならず美徳は脱構築不能であると考える。その理由は、おそらく趣味の道理というものが我々には未だ十分には開示されていない普遍的で厳密な規則、言いかえればまなばれるべき宇宙性あるいは秩序を数え切れないほど隠し持っているからなのだろう。自然現象の後学としての形而上学、アリストテレス以来の哲学的伝統を最も理に適った手順で実践的社会生活と結ぶには芸術への注意深い批評というものが、意味の積算によって文化の様々に異なる地域毎に営まれる自由が必要だろう。これはいわば批評の自由と考えられ、自由権の一つに数え上げられる。古代ギリシアでの文芸の共同体、いいかえると仲間(パレーア)又は仲介(パレイサクトス)の権利は現代での集会と結社の自由に対応する。そしてそれらの間でつかうに適した共通券はこの批評の権利だと言える。先進国際的な表現規制への先例または常識としての所謂明白かつ現在の危険の原則とは、実際にはこの批評の自由の例外規則、つまり誤解に基づく非難の場合にのみあてはまる、刑法下の名誉毀損罪と一致する。事実の有無にかかわらずという現行法文言のありうべき正確な解釈は、確実な悪行への正当な批判ではなくていわれのない中傷、たとえば事実無根の偽装工作によって濡れ衣を着せられた様な場合、名誉にかかわる冤罪の原則にこそ当たる批評悪用への防止規範だった。
 もしこの原則に反して道徳性の欠陥を公に批判された個人がつよすぎる自負心の反動からきた怒りにまかせてありえない訴訟をしたとすると、かれは世界中の笑い者になるばかりだろう。だから批評権とは表現の自由への監査的制動機として働く、正義の応報による社交美啓蒙の機能であり本性である。
 悪徳がみな醜であるということは自業自得からの返答の遅さから小さなことなら見逃される機会も俗習では少なくはないが、悪徳だけが脱構築できる、つまり公的欠点を指摘し他の長所と引き比べて正当に内心か表現上で批判可能である。