商業民族に対する人類の典型的な侮蔑や嫌悪の感情、というものはその血筋の系列が人類の文明の中で果たす役割として決して有徳であったり福利的ではなかった時代成長についての一つの文化的痕跡になると思われる。イギリスの経済学が、特にスコットランド系のそれがイングランドとの(おそらく主に人口密度にもとづく)格差を改善する目的でつくられた場合、商業への忌避感情を緩和させる為に共感の原理をもちこもうとした作為によって資本主義そのものの成立初期立ち上げ段階を宗教観念ごとやり込めるのに流用されてしまったのかもしれない。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べられているウェーバーによる批判は、結局商業追求を自己正当化する方便に道徳観念の変形が加えられたというアダム・スミスの変節に当たる。それは現世的目的への奉仕に格下げされた宗教観念は所詮有限目的に縛られる分、元来のキリスト教倫理が持っていた博愛を社会福祉というもっと功利的で投機的でさえある段階まで退歩させてしまったと言うのである。
より現況に即して考えると、打算の性格を倫理上肯定させた誤り或いはすり替えは、スコットランド派経済学に於ける『道徳感情論』以来の実在するかも怪しい、曖昧な共感概念のもとにあって世界中へ資本主義の倫理的正当化を押し付けてきた。すべての国家状態で、現代、益々急速に進行している社会的病弊はこのスコットランド派経済学への無批判な態度に起因している様だ。しかし、共感と同調が異なる様にまた、『道徳感情論』を経済学史上の著述であると読み解く態度は辞められねばならない。多くの現先進国ではその封建段階にあって、階級制度の根底に商業形質への忌避感情を樹立させた。この理由は、政治学史としてかえりみれば権力と資本を便宜上分離させて権力世襲を確実化する道だった。
商売の状態は変わりやすいので、その税収だけを独占する方が自ら勘定に手をつけるよりはるかに権威の持続にとっては道徳的だった。
我々がこの史実から悟れるのは、商業民族というものへの一定の抑圧を被ることは寧ろ道徳的であり、決してゆえなき蔑視などではないということだ。もしこの慮りがなければ社会福祉と呼ばれる現世内の目的意志がすべての善意の焦点となり、人類が慈悲を保ったり損得を度外視した心理状態を保有することもなくなって、その国家は金銭の交換のみを最終的理由とするある種の無宗教世界へと低落するであろう。そこでは、あらゆる悪徳が単に社会福祉の増大という有限の快適さを現世内で取引するだけの結果を正当化するしかなくなって、やがて一切の行動は金銭づくでしか営めなくなる。その場合、生まれた時点で掛け値をつけて売り買いされることが常態化し、いつかは人身を家畜と同じ売却損失だけで評定することになる。くりかえすが、もし社会福祉という同時代価値観の民主的平均値だけが根拠づける現世内目的を如何なる道徳面へも適用すると、最終的には宗教面で大きな矛盾が発生する。これがスコットランド派経済学の根本認識に錯誤のあった理由である。だから、我々は生業の為に否応ない商業行為そのものはまだしも、商業民族同調への道徳観念上での嫌悪あるいは反感的批判精神を、その宗教面で維持すべきである。そして経済学を宗教化する弊害の後々計り知れない恐ろしさを十分予測して、一切の打算を超越した無償の奉仕というものが永久に持っている、貧者の一灯の様な博愛的価値を完全に崇高なものとして棚上げして置かねばならない。ジーザスという一聖人が身を以て教え諭したのは、有限の一命よりも神からの無私の博愛の方がはるかに永久的であるという信仰上の真理であった。よしやそれが現世的に補償のある観念ではなく、いまを生きる商売人からはまったく省みる価値のないたわ言あるいは狂言とされることあったとしても、この種の経済観念とは異質な無量性の示唆が、時代転換の終局に至っては如何なる損得勘定よりも強力な不屈国体の理念をかたちづくるのを我々は世界史実に観察可能である。
経済観念と道徳一般とを混同させないこと、それ自体が資本主義の本質的意図である社会福祉達成への円滑な流動資本財の投機を一切邪魔しないばかりか、あるかないかも定かではない共感や人情といった計測されざる不合理性を経済学へもちこむあしき慣習を戒める。市場心理の洞察は統計論の範囲で処理されるべきで、宗教観念とそれを一体化させたプラグマティズムという代物の犠牲者は最終的には個人的信念に依存した非効率と宗教生活に於ける道徳的荒廃とを二つながら意に反しても手中にすることになるに違いない。
我々が経済学の古典的思潮と考えてよいのは、数理化を基礎としたイングランド派の、純粋に功利的あるいは使用者思想的な経済学である。だからケインズ理論がスミスの曖昧にしてきた資本制度の巨視の動きを定式化しようとした、という科学者の観点は商用に誘惑されがちな経済学徒にとって、今で経営学などと呼ばれる技術論とは隔絶した冷たい視点にある面では最も原理的。そして我々は初期スミスやマルクス的な心理分析の温かさ、生ぬるさを一切断った純粋に統計論的な経済学をまったく数理化する中で、数理経済学というより微視的確実さにも耐えられる新しいはるかに冷静な理論を手にできるはずだ。