2009年9月13日

生物学

命÷御馳走仮説と呼ばれている、生物の適応戦略の論理的進化の速度について、現在の命を失う確率をより有利と見なす論者の観点は次の分析から矛盾があると言える。
 第一に被食者と捕食者とは一般に数量が異なり、捕食者の方が生態維持に必要となる神経発達の複合性すなわち経済情報量の希少さから少ない。よって被食側がもし適応戦略上に優先しその量を半永久に増大するならば、これは矛盾である。逆にいえば適応戦略面では捕食側がつねに有利な為だけにその食うと食われるの関係が存在しうる。さらに、たまたま捕食されてしまう場合、この形質は性特徴の面で遺伝されないが非常によく捕食する場合は必ずそうなる。動機づけの面で偶有性のより少ないのは捕食側である。被食されやすい形質は浮動的でも捕食しやすいそれは固定化していく。より典型的な概念へ還元すれば天敵への防具より収穫への武器の方が誇示の効果を確実にする。
 第二に、鼬ごっこの面で被食者が新しい抜け道の変異をえり好むとしよう。この場合、食を被る根拠は量的な多数性を維持するそれと矛盾する。つまりより単純な行動戦略型の故より捕食され易い形質はそうではない種よりも、量的に増産せざるをえない必然性を負う。生態系ピラミッドの秩序は下部構造の新規な変異がつねに極微であって、主に消費者と呼びならされている食物連鎖の上部表層に属するより少数の種類よりも大幅な形質遷移を持たない理論的証明となる。
 仮説をこえて主張できること、追う側は量的に多数である追われる側を、日々益々より巧妙に捕らえる生態的経済状態につねに置かれている。さもなくば同種間競争の犠牲になるであろう。一般論に直すと、たとえばイソップの童話から比喩を借りて説明すればその兎と犬との優劣関係から、野原の競走で兎を取り逃がした犬にとってはそこで失われた労力が無駄遣いに過ぎないが、兎は亡命の間一髪で助かった事実を単に運の良さに帰してなにも損失はない。則ち生物量の評定というものは、命は多数派のもとにあって全か無かの閾値のみで計算へかかる情報量の上では安あがりになるが、御馳走は少数派の料理と調達のこまかで折り畳まれた懇ろの工夫の為に要する情報量の経済勘定的には、より高いと自然界の仕組みから決められている。
 この一般的生態系秩序内現象法則の認識は競走的優位の進化速さ、いいかえれば消費的進化を原則的に論証するのに有効だ、と考えるのは今日では妥当である。そうすれば命にとって分母となる御馳走分の方がなぜ複雑に調理されていくのかを寓話の助けを借りずとも説明できる。それは材料そのものより料理あるいは加工する方がより多くの労力を引き受けるという自然生態系内での経済性にもとづく法則だからだ。もし命を犠牲にする側の方が優先して進化していけば、結果として生産過剰による滞留が起こって労力順序的捕食という今日かくも普通の地球内生態的多様性の原理は日の目を見ることがなかっただろう。たとえば赤潮の付近ではこういう順序がなんらかの誘因で崩れて、様々な在来種への草刈り効果は弱まっている。だからこういう例外を除けば一種類だけの再生産が過剰になるのを防いでいる安定感の重しとは、進化速度あるいは能動的習性展開に異種間および個体間偏差値を設けた自然の英知である。