現世的人間達のもっている短期的利益志向の性質は、かえりみられるかぎりあまねきものだと考えられる。こういう観点が誰か、史上の有能な哲学者によってよく詳察された記録があるか博学の徒に質問する迄は分からない。しかし、特にプラトン的学園を根城にした集団に属した哲人はそうではないだろう。彼等は現世の人間を身近に観察する機会がなかったと考えられるからだ。
多少はそういう機会のある知恵を求める者の目には、だが、現世的人間つまり俗人というものが、極めて生活に於いて近視眼的であるのをよかれあしかれ知ることになるだろう。こういう生活は、忙事の生活からおのずと生まれている様に見える。元々、ビジネスを好む者は何らかの社会生物学的条件によって有閑や知恵の制度を怖れるところがある様に見える。かれらが閑暇を誹謗することはどこであれ非常のものがあって、いずれの時代でも同じだろうが、俗人は長期的な存亡よりもいまここで現実に直面している些細な問題で忙殺される側を正当化する。労働奴隷としての生活を愛惜する性格はそういう近視眼的行動、すなわち本能行動や反射の次元に己の形質が適合している由縁を、社会内で増大させようとする。
総合的に観察すると、結局この集団を最も原理的に表現して、政治集団と考えるのは妥当らしい。演劇的な実践の側面のみを抽出してみた場合に当たるのがその概念だからだ。劇的行動のみを自己目的視する集団が独りでに集積すると、この特定イデオロギーを装備した党派をつくる。
だが、かなしむべきかあわれむべきか、普通の世俗的生活者ともみなせる中産階級層に信じられている思想の程度でいえば、こういう集団は驚くべき忌避や伝統芸能視の対象ではない。いいかえれば政治集団は他のもっと柔軟な連中よりはるかに現実に即して胡散臭いというよりは、なにか信用の置ける安泰な道徳的行動形態であると考えられている節がある。
もしもジーザスやソクラテスがそうした様に、政治行動の正当性を真正面から批判した直情剛毅の人が現れれば、人々は目が覚めるどころか古代制の名残を牽く従来の社会秩序への反抗者としてなかんづく司法の援用で、その勢力を現世的に処理したがるだろう。これが、すぐれた道徳に至った当時の大学者を俗世の警察的人間、アリストテレス式に表現したポリス的人間がまっとうに評価できないばかりか、しばしば真逆の評価をしても反省しない、文化史上有数の宗教祖殉教創始の実例にまつわる歴史であった。そして状況は、政治行動を常識と考える非理知的人間層が多数を占める社交界では一切今後とも変わらずじまいであるだろう。
この見識が仮にいずれの文明場でも順当ならば、おそらく次のことは確かである。人間というものは、政治集団に囲い込まれている限りその忙殺から逃れられないだろう。と同時に、かれらは名目はどうあれ、実質的には税収を賄う奴隷として扱われつづけるであろう。だから、驚くべき見解に感じられるだろうが、やはり我々の知性の究極の進歩の段階では国家というものは消滅すべき当為にある。マルクス史観の終局への認識は、途中経過への多くの勘違いとはべつに正当的だった筈だ。さもなくば人類が政治的上位者への奴隷の地位から脱し、真の自由を享受できる日は決して来ないだろう。ある首長が人民から暴力的に搾取する意図で国家という囲い込みを設けて保護と家畜的法支配と貢納の儀式を行うところは、王家という伝統の権威を廃棄できたどの民主主義国でも同等なのを看るがいい。単純に、歴史の段階は政治集団内覇権種のいれかわりを激しくする権力闘争の微分化によって配分の偏りという自由の弊害を取り除く過程であった。短期的損得勘定を原型とする生活者は、かれらがこの入れ代わりをみちびく仕手であると説明するに足る。つまり権威は財産の支配可能性に依存するので、かなり大規模となった富家は劣勢に立った政治集団を圧迫してその覇権を徐々に取り除く働きをする。ケインズがその主著で解説する様に資本主義は流動資本の収穫率を次第に低減させながら有効需要を最大の効用係数のもとで満たす過途的社会形態だと仮定すれば、国家の消滅はまた、全政治集団が社会的不平等性の面で実権を持たなくなる有効需要の限界と一致する。
社会が主として技術開発の面で進歩を止める未来はまだ見渡せない。よって、少なくとも我々が現代の時点で、共産主義者がつねづね行いたがる様な一気呵成での国家政治体制の唾棄を行うことは危険でも無謀でもあり、また歴史が資本主義に託した有効需要の限界を十分に満足させる技術的産業の完成した視野に至るまでは、国家という想像物を便宜上採用しておくのは生活の具体的開発について最低機能面から便利である。幾分の摩擦抵抗として失業問題が不可避でも、福祉国家への誘惑の道を目的なく辿り続ける無作為よりはまだ勤労の習性を社会環境そのものが、そこへ参画する人民全体数を無償教育していける分だけ有徳ではないか。さてこの伝統的想像物は支配側と被支配側とを同一の名義へと縛り付け、その仮設想像物へ従属的な立場を標榜させることによって政治集団を複数林立させるものだ。つまり政党と国家の分離は、我々が現有している中では最も資本主義の本質的意図を満たすのに重要な歴史的達成。そして政党と国家とがほぼ同一視される集団は、かれらが異なる思想形態への反省を疑わなくなるという点で、狂信を誘う宗教化の弊害によって結局進歩した人類へ好ましい社交場となることはできない。そういう国は遅かれ早かれ市場のやまざる動的均衡によって自主的にか受動的にか世界史主導の舞台からおしのけられる。我々が既に政治能力を担わなくなった特定宗教を持つ理由がこの思想と行動の非分割による時代思潮適応能率上の敗退にあると言える。
更には、我々は確定事項として政党の便宜的相互批判の応報から、やがては国家そのものが自己矛盾を来たし結果的にはその解散が単なる資本の回転率への実利的慣習の面からすら導かれる将来を見通せる。だからそれは現自由圏に属したどこかの先進国内から始まる。だがこの中途段階に於いては、土着の信念固い頑固な抵抗勢力を政党政治という方便で飽くまでも同士討ちさせつづけることこそ、我々人類が国家という自然状態への囲い込みの社会力学を用いて発見した今生までに到達された最善の制度であると認識しなければならない。平和的革命を断続的改革の民主議決という建前で処理し尽くせることほど、その内部での権力闘争を非武力的で人知に想像できるかぎり和平的に継続させる動機づけはありえまい。だから、ある歴史段階では国際政党や国連主義政党、乃至は国家間包括的地域連合政党の樹立がその付近や生協提携された友好国間で成立することを、いままででいう王家というある種の土俗民の長が否定できる訳ではない。実際に見よ、多数の出自をもつ複合民族国家からの漸進的政治思想哲学によってこの必然の流れは先導されるであろう。そしてその統合指揮の世界観によって、旧来の意味でのナショナリズムは多国籍化した非土着的複数国籍間生活者共同体自身の意向に準じ解体されゆくであろう。我々はその経過によって、現在よりも流動可能性の高い異国生活圏間の各社会基盤の共通化を手に入れるだろう。けれども、また王家そのものと同じく、宗教という形でのみ嘗て人類が住んでいた国家という土臭い穴蔵を保存や適宜補修するであろう。そして子孫は、そこを知恵も連絡も貧しかった古代の殿堂として、調度遺跡を眺める様に如何なる公共施設や文化としてだけ残った国民政治という伝統芸能の催しも趣分の観光地がわりにさえするだろう。