2009年9月6日

理性の意図

人類が神の似姿だ、という祖先崇拝の偶像化の観点は現実的に疑わしいばかりか、その自尊心を満たす為の生態系独占支配の口実である様に見える。他の生物の視点で考えれば人類はあくどい僭主にすぎないし、たとえかれらがその進化内地位を不動だと傲るとしてもなおそう。
 客観視すれば人類の生物の分類論的特徴はほぼ哺乳類から辿れる猿と似たもので、結論づけてしまうと猿の一種である。もしそれが疑わしいと述べる者があれば、自らが生殖する為にどの様な手段を持っているかを省みれば済む。神話はいざ知らず、人類は知能や大脳の比較的誇大化しつつあった猿あるいは類人猿の末裔。こういう性質しか付与されていない生命体を、神話の延長を以て自己神格化しようとする者はなんらかの私小説的境遇のため哀れむべき自己陶酔の中にいるか、より単純に言えば無知である。
 神道の知能はしばし致命的であって、そしてそれは暴力の正当な行使を生業とした以上相対的には解消不能だろうが、神代という概念を本気で信じ込んでいる時点でその人類としての地位すら疑わしいものだ。神という理念を偶像化して捉えようとしている間は、いずれの政治行動も究極的に失敗する。なぜなら冷静に見做して、猿たちが権力闘争をしているのにすぎないところでその一匹を崇拝してみても影響力は所詮有限なのである。民族主義あるいはnationalismが危険なのはこの有限責任性の陥り易い利己の為に、だ。
 神という理念を是非とも人類の諸影響から分離させて考えるがよい。創造主というユダヤ教以来の定式的神話もまた、この理念を人類形相化することを徹底的に忌避させる所には倫理の正当性がある。もし偶像化の弊害が君主制度と結び付けば、そのとき当民族集団はきわめて危険な絶対王政下の退化に陥るのだから。
 究極的には、神が全人類を絶滅させることも可能である。そしてそういう判断が行われる場合、人類の中に神の計画にとって有用な性格の者が結局いなかった証拠となる。今日までの人類の歩みを省みれば、神の名をそれぞれ別々に、しかもいたずらに掲げて同士討ちを行うばかりか、もともと神の設計した驚くべき調和の意図を読み取ろうともせず、他の繊細きわまる生物間の共生関係を踏みにじる自然破壊の常套手段だけは捨てきれなかった様に見える。人類が嘉されるに値するかどうかは、我々の総意やら考えなどではなく、神の意志に委ねられている。ごく簡潔に言って、大隕石を衝突させるだけで地球生態系ごと破滅させられる能力にとってそこで戯れる制作物がおのれの本来の意図を十分に満たすだけ従順かは只、理性的判断を遂行できるかという大脳誇大のよりどころに懸かっていると思われる。さもなくば生物間にかくも異なる個性、あるいは性特徴を増大させたがった自然の設計意図をよみちがえることになるだろう。