2009年10月20日

原罪の啓発効果について

なぜ人類が同類項について、死刑を正当視するのか。この極めつけに重い命題は数々の暗黒裁判の人類史が、裁判制度を持つ様になってからその極刑をも過ちで埋めてきた理由を原罪の観念で示し合わせる。絶対善の理解不能さが当段階に実在している同類項の法的理性の限界から超出する時、人類は競うが如くに自己正当化の恐怖に囚われて超善人を犠牲にする。だが総合して看返すと、この苛酷な判決をした集団は含まれた悪意の故に良心の呵責に襲われて自壊を速めるか、又は他の隣接か内蔵した相対して良識的な集団から強く敵視される事でいわば自業自得の結末、つまり終局での破滅に至る。無論、絶対善はそれが同代の総合知識、教養の池からの超出が過ぎるほど理解されるのが遅くなる。多くの諸子百家時代の理想論者がどうして同時代の行政権力に余り召し迎え入れられなかったかの理は、この善意の程度に是政者毎千差万別の現実状態との格差があるからだと言える。そして一般に歴史が教える所では聖者の程度が高ければ高いほど、その崇高な理想は現実に属している宗教団体の意向とから隔絶した教学をも意味し、結果いわゆるのちの世界宗教規模の道徳観を達成した個性は確実に、同世代の社会的裁判制度という法規遵守をのみ原理とした現世処理系依存派にとっては覆いきれるものではない。則ち政相互の主として党派的な啓蒙活動の余地が生まれる。語族間の変異を原型とする文化間競走の動機づけも又その了見間の知識総量を問う民族間の闘争か互恵を原理とする。
 だが又同時に、どの道徳行動も決してその不合理性を合倫理性よりも重く視ることはないので、さもなくば偽善と呼ばれるが、殉教の故に若しくは殉教的であればあるほど、その死者の瓦礫の山は当該行動型を神聖化するのに一役買うことになる。絶対善の現世内実現不能さを省みると、また幕末志士一般がそうであった如く善意志を命拾いよりも高く見積もる傾向は、某道徳観を大袈裟な演技それそのものの悲劇的精神によって否が応にも強調し見物客や歴史家の眼差しへ誇示するのに十分なのだった。要するに極刑は不名誉の証でもない限り所謂志士の類へはその決死の覚悟を寧ろ強化こそすれ、決して極端な道徳行動、つまり極道の仁義遂行に抑止力をもつものではない。これがおよそ原罪なる法的負債の前提を、どうしてユダヤ教徒という砂漠周縁圏の流浪を余儀なくされた極めて先覚的な民族が工夫せねばならなかったかの訳あいである。そこではすでに道徳心について到達された高度の純血主義を保守するのに、この種の無謀な企ての一切を生来の臆病さ及び深慮を期した怜悧さで補うほかの手はみいだせなかったのだろう。もし原罪観念が刷り込まれていさえすれば、その個人は負債返還への潜在的畏れの為に自己犠牲を思い止まることが多かった筈で、結果としてこの観念は流浪の文化素としては最も価値の高い被保存形質を誘なったのだった。
 我々が以上の道理を理解すれば次の事は合理的であると認めるに至るだろう。もし原罪観念を導入しさえすれば、その人間集団では生得的負債感情の芽生えによって自己犠牲を伴う数々の道徳行動は理性ある人格の間では、全生命の父祖への感謝と並々ならぬ畏怖の為に自動的に抑止され、結果として極刑を度々執行せずとも志士的な決死の抑圧者へはその思い詰める先にいちずな信仰への脱出口がおのずと啓けるだろうと。
 これがどうしてキリスト教の広まった国では死刑廃止が妥当とされるほど文化段階に高級な倫理慣習上の寛容性が観られるかの一般理由であり、且つ反証ではあるが、論理的には納得できる冒頭の命題への便宜的解答だと思われる。神官階級の独占物として原理主義、原典合致至上思想が適法強制力をもっていた世界でその心理的緩和を謀ったこと、すなわち当時の学識を弁証法的に逆手にとって一選民の決定的な長への待望でしかなかった救世主概念を選ばれざるはず全民族への救済へと向け変えた決死の演技力こそがジーザスの志士的功績である。そしてその成果に本来の意図たる一宗独裁体制への批判を超えてみるべきものがあったことは、彼の福音信仰を欠かさない地域の人々が、元々の原典の神話性を検証し直した結果さらに強化されることになった原罪観念の延長にして生まれ持たされた負債感情の負い目から、極刑を不条理の設計として自主廃棄している、高度の道徳あるいは良心に結晶してもいる。こういう配慮の結果、暗黒裁判、致命的誤審の確率はきわめて低まり、その穏健派の地域では一切の極道じみた悲劇は程度の強い道徳的即ち知能行動の変異への同情からきたる保存欲求つまり正義漢の英雄主義とあわせて自然解消していく。命懸けで暴力よりも理屈に訴えるキリスト教精神極北の尊さがここにある。
 がいいかえると、政宗一致の慣習のある我が国ではそのつくりっぱなしの原典が原罪の高度な道徳観をもたざるかぎり、永久に右翼と言えば必ずあしき手段に訴えるギャングやマフィア或いはヤクザの名義でありつづけるだろうし、その暴力団体の抱え込みに伴うあらゆる悪徳の渦というものは、元来保守派、つまり現状維持の擁護というにすぎないはず右派全員の倫理行動を自己否定の感情で襲い来るのだろう。なぜなら債権がないのに借金取りをする感情は必ず自己否定に、その最高段階でも悪意の誤魔化しに繋がるほかない。切腹という極端な慣習が、自殺率の極端な高さと共にこの長年大陸から隔離されてきた十分知られざる国でよく近代化された政治と素朴なままの宗教をいまだに混同している歪みの根底に横たわっている、その論拠はここにある。