救いのない社会で
僕は獣類に囲まれている
なんの感覚もない
貪欲なけものが
搾取せよ搾取せよと
教え込む世界に居る
生まれてすぐに
学校という檻に放り込まれ
朝早く叩かれて
愚鈍な仲間らと
頭の悪い校長の前に整列
貧血で倒れ込めば
すぐに手当されまた立たされる
金儲けできなければ家畜ではない
必修科目を詰め込まれ
分厚い眼鏡を何度も交換されながら
意味不明な自称講師の書いた
受験内容を丸暗記させられる
大学まで入れられたら
獣類同士繁殖の機会だ
下劣な仲間が性欲の話だけをする
下心を適当に隠さず
変な会合のあと性交しろと無言で煽られる
こんな豚小屋へ君を産んだのは誰だ
豚の両親がにこにこしながら
君を次の量産計画の為に
また早慶畜舎へ送り込む
僕は地獄の光景を目の当たりにし
単に目の当たりにするばかりか
嫌というほど何年も何十年も
豚どもと協力させられ
臭く気分が悪く不快な思いしかせず
協調性と服従性で身分を分けられ
また豚のやしろへ貢がされただけだった
神様は僕の遥かな頭上から
さるの末裔の末路を
冷たく見下していた
結論からいえば
生まれてくるだけ無駄な畜舎なのだった
あるのは永遠の業苦だけなので
君は鈍感でなんの知能もない
飢えたけものの一員として
学問の暇も剥奪され
好きな芸術も破壊し尽くされ
豚の糞に塗れた偶像の王様の足下へ
平伏す
もし逆らえば牢獄に容れられて毎朝
あの学校であったのと同じ苦役を背負わされる
この畜豚舎へ適応する為には
金儲けしかしてはいけないのだ
なにもない
世の中で僕は
真っ暗な場所を一人
捜し続ける
そこで静かに息をつき
誰からもどんなけものからも
邪魔されることなく世界について考え直さねばならない
神の計画を
2009年6月6日
2009年6月1日
種内進化
超急進的な突然変異が長く存続する確率の低さは、それが普及していないことから来る文化場の未整理と未熟とに求まる。適所さえあればどの変異もつとめて保たれるだろう。淘汰圧の解除が実質的な進化の要因として最も重要なきっかけといえよう。これらの理由は人類間で相対的に優る性能を持った種集団が彼らの内に存在した形質の性特徴の促進を、分業の為の囲い込みでどれだけ計り得たかに依存していると教える。階級制度に利点があるならこの点である。もしも最大の平等が主目的となった社会集団があったとして、そこでは内的増加率からの抑制要因がつねに、形質の特殊化に対する枷として働くこととなる。より人倫風の表現をとれば経済性の必要から、利己を量るこずるさがなければ決して生き残れないだけその場は形質の完成された均しさを変わり者より急速に淘汰しやすくなる。
臨機応変型の社会集団は、おそらく全ての面で最も生き残りに勝るだろう。なぜならば形質の可塑性が最も高いのは、他のどの集団よりもこの個性派揃いの種集合だからだ。それゆえにこの集団が環境変異にまつわる適応力に最も富む。
一般に、固定化した保存形質はその数に於いてのみ意義を有する。群れが持っている利点はどの個体もほぼ等価なので、本質的に交換可能であるところにある。頻繁に勢力関係の代わる群れの原理は又、そこがとこしえの模擬の舞台であり、他個体との鏡合わせの方法で自らの被保存率を上げようとする一つの生態戦略の必然的帰結であった。環境収容力はまさにこの正当な原動力である。単に数に関して進化が起こるという事例は見出だされなかったし、保存率を除けば決して群れそのものに意味内容がある訳ではないのは周知の事実だ。模擬するのは個体の変異が後進的で且つ改良に遅れているという事情から、多数派の偶然の生存に託して自己のどうにもならない形質をなんとか紛れ込ませようとする言わば便乗の手段である。仮に生まれながら優れている種であればかならずや個性を誇示するであろう。群性の強調はほぼ常に便乗を狙った後続者の最後の一手である。しかし窮鼠が猫よりも生存率が低いかは確定できないので、この行動形も社会型生物の中にはおおよそいつも一定数以上の獲得的プールとして残されて行くと思われる。
人類にとって決定的な勝利につながる鍵は、こうして非社会集団の適所を如何にして多数かつ多様につくりだすか、という形質の進化の意図された促進の工夫次第に求まる。社会集団、とここで記述している内容は、少なくともこれまでに世の中に見いだされた在り来りな行動形のあつまりを指す。これの模擬は当然連鎖し、群れに墮するので結局は獲得的となりその生態的可塑性は固定化され、便乗以外の価値を持たなくなる。たとえば繰り返された流行歌にはもはやなんの内容もない。この鏡合わせは保存的で、代替可能である以上、なんの個別の価値もない。失われても構わないものは相対的に情報量が低い。
これまでの人類史が示している様に、群れの勢力からの抑圧措置としての統制主義がはびこった社会集団は常に、殆ど法則的に敗退して行く。逆に自由主義が擁護されていた社会集団は上述の原則、つまり個性派の自己進化が保障されている分だけ綜合した協働効率の面で圧倒的だった。急進的な形質についての転化の解除が自然淘汰の命令に逆らってうまく行われるほど、その種集団の中で決定的に有意性を持った個性派が確立される場合も多くなる。家を成す、ということはこういう原因で実際には極めて効用ある社会進化の手段である。
臨機応変型の社会集団は、おそらく全ての面で最も生き残りに勝るだろう。なぜならば形質の可塑性が最も高いのは、他のどの集団よりもこの個性派揃いの種集合だからだ。それゆえにこの集団が環境変異にまつわる適応力に最も富む。
一般に、固定化した保存形質はその数に於いてのみ意義を有する。群れが持っている利点はどの個体もほぼ等価なので、本質的に交換可能であるところにある。頻繁に勢力関係の代わる群れの原理は又、そこがとこしえの模擬の舞台であり、他個体との鏡合わせの方法で自らの被保存率を上げようとする一つの生態戦略の必然的帰結であった。環境収容力はまさにこの正当な原動力である。単に数に関して進化が起こるという事例は見出だされなかったし、保存率を除けば決して群れそのものに意味内容がある訳ではないのは周知の事実だ。模擬するのは個体の変異が後進的で且つ改良に遅れているという事情から、多数派の偶然の生存に託して自己のどうにもならない形質をなんとか紛れ込ませようとする言わば便乗の手段である。仮に生まれながら優れている種であればかならずや個性を誇示するであろう。群性の強調はほぼ常に便乗を狙った後続者の最後の一手である。しかし窮鼠が猫よりも生存率が低いかは確定できないので、この行動形も社会型生物の中にはおおよそいつも一定数以上の獲得的プールとして残されて行くと思われる。
人類にとって決定的な勝利につながる鍵は、こうして非社会集団の適所を如何にして多数かつ多様につくりだすか、という形質の進化の意図された促進の工夫次第に求まる。社会集団、とここで記述している内容は、少なくともこれまでに世の中に見いだされた在り来りな行動形のあつまりを指す。これの模擬は当然連鎖し、群れに墮するので結局は獲得的となりその生態的可塑性は固定化され、便乗以外の価値を持たなくなる。たとえば繰り返された流行歌にはもはやなんの内容もない。この鏡合わせは保存的で、代替可能である以上、なんの個別の価値もない。失われても構わないものは相対的に情報量が低い。
これまでの人類史が示している様に、群れの勢力からの抑圧措置としての統制主義がはびこった社会集団は常に、殆ど法則的に敗退して行く。逆に自由主義が擁護されていた社会集団は上述の原則、つまり個性派の自己進化が保障されている分だけ綜合した協働効率の面で圧倒的だった。急進的な形質についての転化の解除が自然淘汰の命令に逆らってうまく行われるほど、その種集団の中で決定的に有意性を持った個性派が確立される場合も多くなる。家を成す、ということはこういう原因で実際には極めて効用ある社会進化の手段である。
2009年5月30日
趣味主義の思想史的経路
知性的集団の勝利という現実は、個性の多様さが保障された群れの方が形質の均質なそれより勝負強い、という経済的分業の法則と根本で一致していると言えるだろう。もし個性を尊ぶ一群と、和を貴ぶかれらが勝負すれば、どちらも協力行動上では一定の規則を持つとすれば既に結果が出ている。単純な機械は複雑なそれよりもたくみであることは殆どない。キリスト教の抗議派倫理は、普遍派のそれに比べて個人主義を徹底させたところに勝因があった。信仰を信念と合わせた時に先ず功利主義が、次に実用主義がそれぞれ英米からあらわれた。
こういう道理で、もしも趣味主義に必然性があるならそれは個性を和よりも尊ぶ本音の領域へと、協力的ではないながらも求道的な生業を持つところに見出だされるだろう。趣味の領分ならば大勢の方針と和する必要はない。
こういう道理で、もしも趣味主義に必然性があるならそれは個性を和よりも尊ぶ本音の領域へと、協力的ではないながらも求道的な生業を持つところに見出だされるだろう。趣味の領分ならば大勢の方針と和する必要はない。
漢文学と倭文化
悉く書を信ずれば書なきに如かず、孟子。尚更、批判的に吟味するとか真理を目指して議論を重ねるといった習慣はごく最近まで目立たなかった。これは十七条の憲法時代に和の精神を優先し、民衆を馭しやすい農奴としてみち引いた一つの弊害でもあるらしい。
特に漢学を経路として自らの文学を発展させざるをえなかった倭文化では支配階級や公家が古く文物を独占していた、といった有職故実の政治学がほとんどの漢語文化圏で学問の王道とされる理由をも、また己の偏りとして身に着けるしかなかった。つまり「漢学」はものめずらしい外来文物としてのおもむきとは別に、実質上、支配者のみの文学だったのだ。
朝鮮民族では儒学が国教としてつよく寡占されていた。世宗大王がハングルを制作させたのは民間人を無文無学のままにしながら必要なコミュニケーションだけはさせるための手段であった。そこでは科挙の遣り手である文人君子を崇めるところはまるきり現代へ引き継がれ、文を信じる傾向はいまだ途轍もなく強い。朝鮮語学会が日本の植民統治時代でも最後まで抵抗を試みたのも文士を貴ぶところの漢学の余波なのである。
宗教原理主義という思想潮流はこういう文の魔力へ巧妙に付け入って勢力を広げだした支配者文学の魔法である。
単純に文を読むのを奨励すればいい、という質朴すぎる段階はとうに追い越して識字率になんの問題もない幾つかの近代文明圏では、こういう訳で、なにを読むか或いはどう批評できるか、といった評論の奨励の方が民度にずっと適っていると考えられる。一般に、自営農民や小売商人は勤勉を妨げるといった意味で考える事を良しとしない。考え過ぎだよ、とかつべこべ言わず働かんかいと彼らは述べてつくられたまことへも盲目に従う。ほとんど誰でも文章を書ける時代にあれば取るに足りず、まったく価値というもののない文もいくらなりとも氾濫してくる。はっきりとしていること、こういう時代に読書の奨励などはなんら不要。
なにもかもを頭から鵜呑みにしがちな発達段階の初期にある子供にとって有害としか言いようがない図書を支配者文学崇拝の余弊から推奨して誉めるなどという異様な現実、も未熟な文明社会の負のありさまだろう。文人無行、文人相軽んずという。すべて批評の精神が欠如した無議論社会の融和反応として、なんの尊重も要らない自称文化人の跋扈がもたらす弊害である。評論の重視は全くこの片寄った趨勢へ対して、絶え間なく考え方の冷静さを導くための趣味平衡の原理として、民衆の努力義務へあてがうべき今様の憲政か。くだらない大巻の書物よりは遥かに聞いて為になる一言の方がすぐれている。
特に漢学を経路として自らの文学を発展させざるをえなかった倭文化では支配階級や公家が古く文物を独占していた、といった有職故実の政治学がほとんどの漢語文化圏で学問の王道とされる理由をも、また己の偏りとして身に着けるしかなかった。つまり「漢学」はものめずらしい外来文物としてのおもむきとは別に、実質上、支配者のみの文学だったのだ。
朝鮮民族では儒学が国教としてつよく寡占されていた。世宗大王がハングルを制作させたのは民間人を無文無学のままにしながら必要なコミュニケーションだけはさせるための手段であった。そこでは科挙の遣り手である文人君子を崇めるところはまるきり現代へ引き継がれ、文を信じる傾向はいまだ途轍もなく強い。朝鮮語学会が日本の植民統治時代でも最後まで抵抗を試みたのも文士を貴ぶところの漢学の余波なのである。
宗教原理主義という思想潮流はこういう文の魔力へ巧妙に付け入って勢力を広げだした支配者文学の魔法である。
単純に文を読むのを奨励すればいい、という質朴すぎる段階はとうに追い越して識字率になんの問題もない幾つかの近代文明圏では、こういう訳で、なにを読むか或いはどう批評できるか、といった評論の奨励の方が民度にずっと適っていると考えられる。一般に、自営農民や小売商人は勤勉を妨げるといった意味で考える事を良しとしない。考え過ぎだよ、とかつべこべ言わず働かんかいと彼らは述べてつくられたまことへも盲目に従う。ほとんど誰でも文章を書ける時代にあれば取るに足りず、まったく価値というもののない文もいくらなりとも氾濫してくる。はっきりとしていること、こういう時代に読書の奨励などはなんら不要。
なにもかもを頭から鵜呑みにしがちな発達段階の初期にある子供にとって有害としか言いようがない図書を支配者文学崇拝の余弊から推奨して誉めるなどという異様な現実、も未熟な文明社会の負のありさまだろう。文人無行、文人相軽んずという。すべて批評の精神が欠如した無議論社会の融和反応として、なんの尊重も要らない自称文化人の跋扈がもたらす弊害である。評論の重視は全くこの片寄った趨勢へ対して、絶え間なく考え方の冷静さを導くための趣味平衡の原理として、民衆の努力義務へあてがうべき今様の憲政か。くだらない大巻の書物よりは遥かに聞いて為になる一言の方がすぐれている。
2009年5月28日
炭素循環の藝術的本質
低炭素社会なる意味不明の筋が通らないプロパガンダは罠でもあり、我々が彼らより相対的に高い科学民度を保っている限り本気にする必要はないだろう。
マスコミは売上を伸ばしたいが為に扇情の手段に墮し勝ちであったし、正反両面からの批評を載せて良識ある市民への参考に書すといった常識誌は総中流と呼ばれる文化幅の狭まった現況では生き残るのがよほど困難なので、おもとしては個人主体のインターネットだろうがやはりこの異常な喧伝術に向けては殆ど機会費用のかからないメディアを通じて政策通側からの啓蒙活動も折節必要となってくるだろう。
教養において中流以下の大衆がこの用語をまともに受けとって、たとえば我々の今の主要燃料源である石油の節制などを下手な市民運動じたてにでも仕出せば、これは世論の大勢について当然後退を余儀なくしよう。
低炭素社会など絶対にありえない。それは全生物が絶命すれば成功するとしても、むしろ重要なのは循環型社会のとりあえずの効用、つまり過剰温暖化への適切なブレーキ効果の方にあるので、その中途ではどれほど大量豊満な炭素転化がよのなかにあっても一向に困る生命体はない筈である。
もし二酸化炭素が酸素よりも化石エネルギーの燃焼で割合として高くなりすぎると批判したいなら、如何にして温室効果を打破できるか、と積極論から高技術文明を擁護できる。それは地球全域で見た呼吸商を適正な比率へ保ちながら皆が発展する、といった動植物共生の観点から植生の栄養源であるCO2をも巧く消費させるべきと、説得すればよいことに過ぎない。
マスコミは売上を伸ばしたいが為に扇情の手段に墮し勝ちであったし、正反両面からの批評を載せて良識ある市民への参考に書すといった常識誌は総中流と呼ばれる文化幅の狭まった現況では生き残るのがよほど困難なので、おもとしては個人主体のインターネットだろうがやはりこの異常な喧伝術に向けては殆ど機会費用のかからないメディアを通じて政策通側からの啓蒙活動も折節必要となってくるだろう。
教養において中流以下の大衆がこの用語をまともに受けとって、たとえば我々の今の主要燃料源である石油の節制などを下手な市民運動じたてにでも仕出せば、これは世論の大勢について当然後退を余儀なくしよう。
低炭素社会など絶対にありえない。それは全生物が絶命すれば成功するとしても、むしろ重要なのは循環型社会のとりあえずの効用、つまり過剰温暖化への適切なブレーキ効果の方にあるので、その中途ではどれほど大量豊満な炭素転化がよのなかにあっても一向に困る生命体はない筈である。
もし二酸化炭素が酸素よりも化石エネルギーの燃焼で割合として高くなりすぎると批判したいなら、如何にして温室効果を打破できるか、と積極論から高技術文明を擁護できる。それは地球全域で見た呼吸商を適正な比率へ保ちながら皆が発展する、といった動植物共生の観点から植生の栄養源であるCO2をも巧く消費させるべきと、説得すればよいことに過ぎない。
2009年5月23日
天皇制の水戸学からの擁護
実質的に、天皇の権威は飽くまでも報本反始の実践に基づく政の象徴に限られるべきで、彼の実在自体を決して神格化すべきではない。水戸学の実質的帰結は天地祖先の恩に報いるというまつりごとの根本が貫かれている限りで直系の皇孫を仰いでも何の異論もない、という大義名分にあるとする。その系統論の意義はやはり政治哲学の上にあるのであって、必ずしも或いは多くの場合は、古代からの自然崇拝をも引き継ぐ神道の思想を国教化させようとするものではない。
一神教の教義は偶像を厳禁か又は極力回避するので、生けとし人間としての天皇を直接崇拝せよ、と教えることはいわゆる偶像崇拝にあたる。神という全知全能の理念に比べれば如何なる被造物もはるかに卑小かつ無力なので、その結論は神を擬態した末孫が人間と堕する他ないだけに邪教信者ら最高の徳律も彼と同程度に限定させられざるをえない。皇族を宗教的に神格化して崇拝する、という連中は生き身を持たされた人間でしかありえない彼らと同程度の現世的道徳観しか身に着かない以上は常に、他の全知全能の神の理念へ信仰を捧げる集団よりは卑しく、悪辣な暮らし方の侭だろう。この様に唯一絶対神としての理念以外に向けた偶像崇拝が、天皇制を宗教化することのつねなる比較的な頽廃の理由なのだ。抑、神道の原理は自然崇拝にある。聖典から正統づけられた日本列島の創造主としての神やそれに類する集団の一末孫としての天皇という思想はその本質も大和王族の系統論にあるのであって、結局は偶像としての生き身ではなくて擬人化された造物神への忠孝という人間自身の祖先復礼を、祭りの上で古来からの自然畏怖と一致させる為だけに、神道は道徳的正当性を持っている。
連綿たる国民政権の代表としての天皇の権威は、それが全体意志の象徴である限りに於いて担がれるべき御輿の上の世襲権威であり、よって日本民族の先祖代々を祭るという根本原理の為にのみ彼をその活ける犠牲として仰ぐのは正当化されてよい伝統の手段なのである。こういう經緯のゆえに、天皇を行政的に排斥する、ということは倫理として言えばありえない。ただ必ず許されねばならないのは、政治以外の領域へと一歩なりとも天皇家の権威を濫用すべからず、という名分と実質のけじめである。学術や経済の領域へと天皇家の権威を悪用することは報本反始を行政上で象徴化するための大義名分の手段としてのみ許可されるべき世襲特権の越権であって、独裁者は絶対に悪さを免れないので腐敗した自民族中心主義としてのこの兆候を見出だし次第、国民は主権在民の元で堕落した皇統を即座に解体する義務を要するのである。そしてより緻密に考え詰めると、政治に於いて三権分立を鑑みれば天皇家が保障されるのは飽くまでも「行政」のみの上であって、立法や司法の上ではない。例えば万が一にも皇族の一種が民間へ犯罪行為に及んだとか、国民を害する不合理な立法へ働きかけたとあればこれは行政権威の行き過ぎであって、飽くまでも厳格に裁かれねばならない。
こうしてはっきりと示されるのは、象徴天皇制度は謂わば憲法の枷を行政権力の直接の長へ科する為の上位者通告制度である、ということだ。だから天皇へ直に行政の腕を振るわせる訳には歴史の恒を念えば行かないが、比べてこの直接の長がなんらかの巧妙な抜け道を通じて憲法の根本目的をすり抜けた合憲の悪行に及んだ場合、天皇は憲法最後の信託者としてそれを誡め、時に及んでは国事行為を己の義務感に基づいて拒否できねばならない。これは国民の総意に則る天皇の権威が行政府の最終的長であるという象徴制度の真実の定義であって、その世襲の擁護が国内での無償生存を保証する事と引き替えに大義名分に基づく最終的犠牲心の責務を負う事の帰結であると説明するものだ。生まれつき最高の行政権威を保障された者は彼を養う国民永年に渡る全労役の血潮の為に、即ち一切の衆目と全生命の国民依存という条件の為に絶対に彼ら国民の総意を裏切ることはできないから。
一神教の教義は偶像を厳禁か又は極力回避するので、生けとし人間としての天皇を直接崇拝せよ、と教えることはいわゆる偶像崇拝にあたる。神という全知全能の理念に比べれば如何なる被造物もはるかに卑小かつ無力なので、その結論は神を擬態した末孫が人間と堕する他ないだけに邪教信者ら最高の徳律も彼と同程度に限定させられざるをえない。皇族を宗教的に神格化して崇拝する、という連中は生き身を持たされた人間でしかありえない彼らと同程度の現世的道徳観しか身に着かない以上は常に、他の全知全能の神の理念へ信仰を捧げる集団よりは卑しく、悪辣な暮らし方の侭だろう。この様に唯一絶対神としての理念以外に向けた偶像崇拝が、天皇制を宗教化することのつねなる比較的な頽廃の理由なのだ。抑、神道の原理は自然崇拝にある。聖典から正統づけられた日本列島の創造主としての神やそれに類する集団の一末孫としての天皇という思想はその本質も大和王族の系統論にあるのであって、結局は偶像としての生き身ではなくて擬人化された造物神への忠孝という人間自身の祖先復礼を、祭りの上で古来からの自然畏怖と一致させる為だけに、神道は道徳的正当性を持っている。
連綿たる国民政権の代表としての天皇の権威は、それが全体意志の象徴である限りに於いて担がれるべき御輿の上の世襲権威であり、よって日本民族の先祖代々を祭るという根本原理の為にのみ彼をその活ける犠牲として仰ぐのは正当化されてよい伝統の手段なのである。こういう經緯のゆえに、天皇を行政的に排斥する、ということは倫理として言えばありえない。ただ必ず許されねばならないのは、政治以外の領域へと一歩なりとも天皇家の権威を濫用すべからず、という名分と実質のけじめである。学術や経済の領域へと天皇家の権威を悪用することは報本反始を行政上で象徴化するための大義名分の手段としてのみ許可されるべき世襲特権の越権であって、独裁者は絶対に悪さを免れないので腐敗した自民族中心主義としてのこの兆候を見出だし次第、国民は主権在民の元で堕落した皇統を即座に解体する義務を要するのである。そしてより緻密に考え詰めると、政治に於いて三権分立を鑑みれば天皇家が保障されるのは飽くまでも「行政」のみの上であって、立法や司法の上ではない。例えば万が一にも皇族の一種が民間へ犯罪行為に及んだとか、国民を害する不合理な立法へ働きかけたとあればこれは行政権威の行き過ぎであって、飽くまでも厳格に裁かれねばならない。
こうしてはっきりと示されるのは、象徴天皇制度は謂わば憲法の枷を行政権力の直接の長へ科する為の上位者通告制度である、ということだ。だから天皇へ直に行政の腕を振るわせる訳には歴史の恒を念えば行かないが、比べてこの直接の長がなんらかの巧妙な抜け道を通じて憲法の根本目的をすり抜けた合憲の悪行に及んだ場合、天皇は憲法最後の信託者としてそれを誡め、時に及んでは国事行為を己の義務感に基づいて拒否できねばならない。これは国民の総意に則る天皇の権威が行政府の最終的長であるという象徴制度の真実の定義であって、その世襲の擁護が国内での無償生存を保証する事と引き替えに大義名分に基づく最終的犠牲心の責務を負う事の帰結であると説明するものだ。生まれつき最高の行政権威を保障された者は彼を養う国民永年に渡る全労役の血潮の為に、即ち一切の衆目と全生命の国民依存という条件の為に絶対に彼ら国民の総意を裏切ることはできないから。
2009年5月20日
公共事業体の民営化上の経験談
JR東日本では、改札口の自動化を勘違いするあまり途中下車をできなくしてしまった。
その駅員は、機械と同じ口調で「昔はできたのだけれど今はできません」と繰り返して、当人の意思とは無関係に不当に得た差額を平気でポケットへ入れたのだった。
だが、よくプログラムされた機械よりも劣る人情の機敏すらない人間は労働力としても極めて悪辣なのだから、彼は彼の属する集団のシステムによっていずれ再構築されるだろう。
我々は資本主義の合理的な性格を人員整理を含むサービス競争についても当然期待していい。消費者の利益よりもそのための手段にすぎない機械的設計を優先するような不良な会社組織は、かならず他の優良な鉄道事業体によって最後には駆逐されるだろう。それは時間の問題でしかない。
“JR東日本の倒産”という今の時点では想像しづらいように思える将来でさえ、我々は組織風土の荒廃といった資本主義秩序の厳格な淘汰圧の許で十分に勘案できるのである。
事実上の独占市場はこれほどまで早期に腐敗しやすいものなのだ。ならば、当面の間では他の民間経営体には追い着けそうにないほど‘寡占状態にある公共事業’については、なんらかの投融資を優先して民間の競争力を底上げするなどしてやはりよっぽど慎重に民営化を図らねば、結局は国民自身が資本主義システムという両刃のやいばに傷つけられることとなるらしい。
のどかな農村地帯をぶらり旅で渡ることさえ「ムカシハデキタノダケドイマハデキマセン」という情緒のない無意味な勧告で不可能にさせるのは、観光利便を目的とした公共性の大変に高い鉄道事業をただの人畜運輸装置へはるかに低落させるものであり、Japanese Railwayという堂々たる名称の上である限り日本文化そのものの健全さ、また人間らしい余裕のある商道徳の養生の面からも憂慮すべき奉仕の公害で後退だ。
切符を鉄製のハサミで一つ一つ切ってくれていたころ、駅員さんは子供用の切符の赤い印を正確に打ち抜いて渡してくれた。その同じ人が機械よりも冷たく、人間らしい過ちを手銭欲しさに跳ね退けてなんの済まなさも覚えないということが鉄道会社の進歩であるとは誰にも思われまい。
その経営哲学の退歩は回り回って彼ら自身の首を絞める。我々はもう二度と発声する機械としての駅員を感情ある人間だとは考えないだろう。
その駅員は、機械と同じ口調で「昔はできたのだけれど今はできません」と繰り返して、当人の意思とは無関係に不当に得た差額を平気でポケットへ入れたのだった。
だが、よくプログラムされた機械よりも劣る人情の機敏すらない人間は労働力としても極めて悪辣なのだから、彼は彼の属する集団のシステムによっていずれ再構築されるだろう。
我々は資本主義の合理的な性格を人員整理を含むサービス競争についても当然期待していい。消費者の利益よりもそのための手段にすぎない機械的設計を優先するような不良な会社組織は、かならず他の優良な鉄道事業体によって最後には駆逐されるだろう。それは時間の問題でしかない。
“JR東日本の倒産”という今の時点では想像しづらいように思える将来でさえ、我々は組織風土の荒廃といった資本主義秩序の厳格な淘汰圧の許で十分に勘案できるのである。
事実上の独占市場はこれほどまで早期に腐敗しやすいものなのだ。ならば、当面の間では他の民間経営体には追い着けそうにないほど‘寡占状態にある公共事業’については、なんらかの投融資を優先して民間の競争力を底上げするなどしてやはりよっぽど慎重に民営化を図らねば、結局は国民自身が資本主義システムという両刃のやいばに傷つけられることとなるらしい。
のどかな農村地帯をぶらり旅で渡ることさえ「ムカシハデキタノダケドイマハデキマセン」という情緒のない無意味な勧告で不可能にさせるのは、観光利便を目的とした公共性の大変に高い鉄道事業をただの人畜運輸装置へはるかに低落させるものであり、Japanese Railwayという堂々たる名称の上である限り日本文化そのものの健全さ、また人間らしい余裕のある商道徳の養生の面からも憂慮すべき奉仕の公害で後退だ。
切符を鉄製のハサミで一つ一つ切ってくれていたころ、駅員さんは子供用の切符の赤い印を正確に打ち抜いて渡してくれた。その同じ人が機械よりも冷たく、人間らしい過ちを手銭欲しさに跳ね退けてなんの済まなさも覚えないということが鉄道会社の進歩であるとは誰にも思われまい。
その経営哲学の退歩は回り回って彼ら自身の首を絞める。我々はもう二度と発声する機械としての駅員を感情ある人間だとは考えないだろう。
2009年5月19日
あつまり
個性の桎梏へ向けて最大の憂さを晴らすという東洋的な反逆は、にも関わらず必ずしも合目的な形質ではない。結局は團性とでもいうべきもの、群性と個性の中庸にある様な適度な集団適応形質が最終的には優勢となる一族を形成する。形質を保存するのにあるまとまりを持った単位が保証されていなければならない、と生物から学ぶ者がかんがえたのにも一定の真理がある。余りに広いので遺伝子順列の煩雑な交代はある特有の配列を弾き出すのには十分な荒野ではなく、袋小路でなくとも最低、隠れがが用意されねばならない。その隠れがの大きさが適度なほど、選好のよい側面は集積され易くなる。
だから当面の戦闘によって被捕食者が増減させる数量よりは、進化自体の決定的な条件は隠れがの性質を問う事で測れる。隙間やnicheと云われているものの種類が本質であり、経済的浮沈は形質の特徴を選好するという進化の法則よりはずっと重要度の低い場の在り方である。
専ら進化それ自体が自然の命ずる生物本性の目的であると考える根拠は見つからない様に思う。もしそうならこれほどまでに多彩を極めた生物群集のだれかれがなぜ他の経済化された形態に侵略されていかないのか。あまりに軽視されてきたダーウィン思想の側面は、共生的秩序の部分にある。適者生存の強調は生物学上の分野を為すに過ぎず、おもうに環境抵抗による種内遷移を除けば如何なる生物群にとっても生態上での主眼ではないのである。東洋圏でよく信じられているところに、生物は無駄な殺生をしない。もしそうする特徴のある形質なら警戒を喚ぶか、自らへ恵まれる生々流転の内で余裕ある飼料の絶対量をおのずと減らすのは疑いない真実なので、淘汰されなければ最低でも希な適所を除けばこの寛大さの少ない恐れられる生物種は他の生物からの多くの場合は相互的に予想外の公益を受けづらくもなる。インドでヒンズー教徒が牝牛を貴ぶところは、蚊を通じたマラリアの感染から人への被害を相対的に避け易くするという生態的相互依存の関係が、共存共生の思想としてその習性の殆ど土着本能化の経過へ、見出だせるかもしれない。或いはイスラム教徒やユダヤ教徒が砂漠の中で廃物利用を兼ねていた豚を飼い馴らす事は水の希少なところの衛生的にずっと不利になる結果にも、逆内容ではあるが同等の住み分け関係史が、その不浄感の理由へ仮説からややも帰納できるか分からない。
いわば適者生存の規則は限定的真であって、この場合の適者はいつも場の性格へ依存している。弱肉強食の場も、共生共栄の場もある。
何が進化にとって有益なのかという観点のみが形質の特徴からさえも、無機環境の物理的遷移も生物の有機連鎖と無関係でないばかりか却って進んで隠れがの微積や集散の経過史を通じての系統分析、いいかえれば変化の規則を抽出させるのに選れて雄弁である。展開やevolutionは唯一の生物目標ではないのだ。それは種と場の変化を一定の着眼点に基づいて順序立てて紐解こうとしたときに導かれる人間理性にとっての道具的規則でしかなくて、自然の有している莫大な知性を網羅できるほど全能の概念ではない。何匹も産まれきては漁師に捌かれる蟹の子は、人々の舌やその美食眼を充たす目的を意図して磯や沢を戯れるのではないとしても、我々の注意深い観察力がその甲殻類に特異な形態や個別の種が夫々に微妙な生育条件の違いから形質の変異を伴うという事実を捉えるなら、どうして美味を好まない民族集団ではその一々の活きのよさを一目で見分けられるだろう。ズワイガニとタラバガニを異ならせている深因は又、観察力にも変異を設けた自然の互恵性に依る。要するに一般に信じられているより遥かに、自然の合目的性は変化に対して寛容なのである。この素晴らしい変化の法則がなければ、化学的組成であれ単純な幾つかの原理を基にした宇宙の隅々までを、更に相異ならせる多様化の仕組みは築けない。多様性に対する信頼は自由という理念の法則からさえ個別的な変異としての個性を保存か擁護させる人間なりの変化の法として盛んに取り立たされる近代固有の概念であるけれど、同時にその奥行きは汎神論というときどき宗教段階に現れる思想上の溜まりを唯一回性の概念との対比によって修正させるだけ果てしない。山奥で誰からも省みられることなく神々しい荘厳な落水を打ち続けている大きな大きな滝壺は、観察者の有無にも係わらずやはり極めて厳かな住みかとしてそこに生じている。人が住まずとも深い清流に潜むヤマメや岩蔭でじっと瀧の音を聴いて座すイワナが、草蕨の生え揃う霧たちこめた渓谷を飛び交うキジや吹き荒ぶ冷ややかな風に揺れ仕切る蓑虫がその冷気を供えていく。では、都市という固有の適所のみに住み着いている限り人が俗物さより峻厳さを身につけるのにはおそらく彼らよりも環境誘因に不足するであろう。人間的美はその世間単位の淘汰では決して、人間らしさの強調以外の変化を辿り得ないだろう。
同様に、團 りは新規な隠れがを見つけ出すのに必要最小の単位であって、このあつまりが群れや個 りよりも有利なのは日々生じている自然界の数限りない場所柄を変化を通じた習性と選好の世代間集積によって占め治すといった適応放散について、今までのどの血統よりも気高い生態を羽含む為の最適者の条件たることに等しいと思える。
だから当面の戦闘によって被捕食者が増減させる数量よりは、進化自体の決定的な条件は隠れがの性質を問う事で測れる。隙間やnicheと云われているものの種類が本質であり、経済的浮沈は形質の特徴を選好するという進化の法則よりはずっと重要度の低い場の在り方である。
専ら進化それ自体が自然の命ずる生物本性の目的であると考える根拠は見つからない様に思う。もしそうならこれほどまでに多彩を極めた生物群集のだれかれがなぜ他の経済化された形態に侵略されていかないのか。あまりに軽視されてきたダーウィン思想の側面は、共生的秩序の部分にある。適者生存の強調は生物学上の分野を為すに過ぎず、おもうに環境抵抗による種内遷移を除けば如何なる生物群にとっても生態上での主眼ではないのである。東洋圏でよく信じられているところに、生物は無駄な殺生をしない。もしそうする特徴のある形質なら警戒を喚ぶか、自らへ恵まれる生々流転の内で余裕ある飼料の絶対量をおのずと減らすのは疑いない真実なので、淘汰されなければ最低でも希な適所を除けばこの寛大さの少ない恐れられる生物種は他の生物からの多くの場合は相互的に予想外の公益を受けづらくもなる。インドでヒンズー教徒が牝牛を貴ぶところは、蚊を通じたマラリアの感染から人への被害を相対的に避け易くするという生態的相互依存の関係が、共存共生の思想としてその習性の殆ど土着本能化の経過へ、見出だせるかもしれない。或いはイスラム教徒やユダヤ教徒が砂漠の中で廃物利用を兼ねていた豚を飼い馴らす事は水の希少なところの衛生的にずっと不利になる結果にも、逆内容ではあるが同等の住み分け関係史が、その不浄感の理由へ仮説からややも帰納できるか分からない。
いわば適者生存の規則は限定的真であって、この場合の適者はいつも場の性格へ依存している。弱肉強食の場も、共生共栄の場もある。
何が進化にとって有益なのかという観点のみが形質の特徴からさえも、無機環境の物理的遷移も生物の有機連鎖と無関係でないばかりか却って進んで隠れがの微積や集散の経過史を通じての系統分析、いいかえれば変化の規則を抽出させるのに選れて雄弁である。展開やevolutionは唯一の生物目標ではないのだ。それは種と場の変化を一定の着眼点に基づいて順序立てて紐解こうとしたときに導かれる人間理性にとっての道具的規則でしかなくて、自然の有している莫大な知性を網羅できるほど全能の概念ではない。何匹も産まれきては漁師に捌かれる蟹の子は、人々の舌やその美食眼を充たす目的を意図して磯や沢を戯れるのではないとしても、我々の注意深い観察力がその甲殻類に特異な形態や個別の種が夫々に微妙な生育条件の違いから形質の変異を伴うという事実を捉えるなら、どうして美味を好まない民族集団ではその一々の活きのよさを一目で見分けられるだろう。ズワイガニとタラバガニを異ならせている深因は又、観察力にも変異を設けた自然の互恵性に依る。要するに一般に信じられているより遥かに、自然の合目的性は変化に対して寛容なのである。この素晴らしい変化の法則がなければ、化学的組成であれ単純な幾つかの原理を基にした宇宙の隅々までを、更に相異ならせる多様化の仕組みは築けない。多様性に対する信頼は自由という理念の法則からさえ個別的な変異としての個性を保存か擁護させる人間なりの変化の法として盛んに取り立たされる近代固有の概念であるけれど、同時にその奥行きは汎神論というときどき宗教段階に現れる思想上の溜まりを唯一回性の概念との対比によって修正させるだけ果てしない。山奥で誰からも省みられることなく神々しい荘厳な落水を打ち続けている大きな大きな滝壺は、観察者の有無にも係わらずやはり極めて厳かな住みかとしてそこに生じている。人が住まずとも深い清流に潜むヤマメや岩蔭でじっと瀧の音を聴いて座すイワナが、草蕨の生え揃う霧たちこめた渓谷を飛び交うキジや吹き荒ぶ冷ややかな風に揺れ仕切る蓑虫がその冷気を供えていく。では、都市という固有の適所のみに住み着いている限り人が俗物さより峻厳さを身につけるのにはおそらく彼らよりも環境誘因に不足するであろう。人間的美はその世間単位の淘汰では決して、人間らしさの強調以外の変化を辿り得ないだろう。
同様に、
因果応報の物哀しさ
世界は呆れる程広いので、優れた賢人を活かさずに劣悪な境遇に押し込めておき、代わりに醜悪窮まる娼婦を溢れる大金と共に厚遇している本性の歪んだ民族がどこかに居たとしても笑い事にすらなりえまい。
優れた判断で次々に賢者の血統を選良している紳士集団は当然、これらを同一の遺伝子を含む人類の末路とも感じない。
この様な奇形民族に属する場合、人は進んで殉死するか、又は亡命する以外では宿世の救済ということも決してありえないであろう。
辛抱強い説得と啓蒙が民族の本性をいつかは叩き直すと信じる者は自然淘汰の法則が如何に広域に渡って奇種変種を絶滅させて来たか、至誠なる神がごく僅かな隙間を除けば、なんら跡を残さないほどいかに厳密に遺伝的系統上でそれらの変形を切り捨て、全体の進化を整理整頓させて来たかを省みよ。
我々にとり確実な真実として、浅ましき東京および京都人種へは少なくとも「淘汰する」という積極的な社会還元が相応しいのである。これには倫理学上の根拠として、血統の剪定という名目が与えられるであろう。
――海外から渡航してきた正しい血筋の若き旅人へ聖書ならぬ“源氏物語”などという皇族猥談集を市長が臆面もなく勧む。トルコ風呂などと銘打った異様な頽廃の風俗を気違いじみた理性の変性にかえりみて護っておきたいが為にソープランド等と名を代えさせた中央政府ありし。
キリストが色目の在りかすら不徳とした真っ当な理由を永久に、この劣悪な奇形人種は理解も共感もできないに違いない。民族全体の実践的な理性状態を任じるべき政府の程度がそうなので、生れつき文明人と同等の理性という特徴を持つには不足する人種も、この地表にはやはり悲しくも存在しうるのではないかとまで思わせる。
それら野蛮品種の血統を繁殖禁止のため徐々に隔離する以外の方法では永遠に、生まれながら良心に劣った種集団の汚れた血が地球内、どこそこへ感染するのも避けられまい。まるで治癒不能な伝染病の様に。
――或いはこれが危険思想だ、狂信だ熱狂だ、ナチズムだと批判する者も(理性に悖る奇形人種の実質的集合である京都か東京の特定一族には)あろう。だが私としても容易に肯首し難い檄論なのだが、今日まで至る人類学上の冷徹な理性的反省力で今後の人類間風俗の改良をおもいみる限りでは、その様なほとんど『物哀しい結論』を引き出すしかなかったのである。
業というものは厳密に宿命を支配するのだから、我々には全滅待望の志だけでも十分すぎるほどと思われもしようが、寧ろそれらの穢多人種が一刻も早く地表から消滅する方が美観の面からも、倫理風紀の面からもやはりより望ましいものではある筈だから、東京および京都人種という野蛮な血統への具体的な聖戦は人道の正義にきっと叶うと思えるのだ。
いうまでもなく常識的法律や国連憲章の人権宣言はこの聖戦を「和平的な闘争」以外の領域では許可しない。
我々は性根の歪んだ野蛮人、東京人らと京都人らを最大の悪徳を地球中にばら撒く悪魔血族であると専ら任意に見なして、それら国民にとって獅子身中の虫なるものどもを可能な限り巧妙な殲滅戦争で文明の高徳と高潔を信じるこの惑星の人間界から退治、亡ぼさねばなるまい。
もし、それは徹底した人格批判によって東京人種と京都人種とを人類内の穢多品種として定義する工夫次第であろう。実際「小子、鼓を鳴らして之を攻めて可なり」と孔子が云う様に、悪行の憶えがある人間にとってはどれほどの被迫害でも絶対に反論する事ができない。その因果は自業自得なのである。(唯一の改心はこころの底から反省の意を述べて神の前で懺悔することで果たされる。)
そしてこの試みが人類内のどこでもあまねく成功すれば、社会淘汰の当然の流れに従って、罪悪感や羞恥心の存在しない退化した理性の持ち主である特有の東京・京都人種というものは各種の文化圏から駆除ないし排除される事で、漸次にそれらの汚れた繁殖流路を立ち消えさせる事も可能だろう。
――正統の世界宗教はどれも姦淫を生業とする悪人を一度も擁護していない。「なぜ日本の首都に限ってはいつも退廃風俗が蔓延するのであろうか」。ならば必ずその中心に鎮座しながら堕落の連綿をのみ絶好の適所として悠々と生き延びている悪魔の王もひとりでに地表から居場所をなくしてしまうだろう。
この最果ての地にさえも清教徒精神の尊さが根付くというならその結末は当然の応報として、民族の良心を税金搾取の為おおやけへかこつけた利己心から永年痛ましめてきた傀儡的偶像、悪魔の親玉を合法的かつ冷静に追放か改宗させる議決征圧的な名誉革命に至る筈である。
優れた判断で次々に賢者の血統を選良している紳士集団は当然、これらを同一の遺伝子を含む人類の末路とも感じない。
この様な奇形民族に属する場合、人は進んで殉死するか、又は亡命する以外では宿世の救済ということも決してありえないであろう。
辛抱強い説得と啓蒙が民族の本性をいつかは叩き直すと信じる者は自然淘汰の法則が如何に広域に渡って奇種変種を絶滅させて来たか、至誠なる神がごく僅かな隙間を除けば、なんら跡を残さないほどいかに厳密に遺伝的系統上でそれらの変形を切り捨て、全体の進化を整理整頓させて来たかを省みよ。
我々にとり確実な真実として、浅ましき東京および京都人種へは少なくとも「淘汰する」という積極的な社会還元が相応しいのである。これには倫理学上の根拠として、血統の剪定という名目が与えられるであろう。
――海外から渡航してきた正しい血筋の若き旅人へ聖書ならぬ“源氏物語”などという皇族猥談集を市長が臆面もなく勧む。トルコ風呂などと銘打った異様な頽廃の風俗を気違いじみた理性の変性にかえりみて護っておきたいが為にソープランド等と名を代えさせた中央政府ありし。
キリストが色目の在りかすら不徳とした真っ当な理由を永久に、この劣悪な奇形人種は理解も共感もできないに違いない。民族全体の実践的な理性状態を任じるべき政府の程度がそうなので、生れつき文明人と同等の理性という特徴を持つには不足する人種も、この地表にはやはり悲しくも存在しうるのではないかとまで思わせる。
それら野蛮品種の血統を繁殖禁止のため徐々に隔離する以外の方法では永遠に、生まれながら良心に劣った種集団の汚れた血が地球内、どこそこへ感染するのも避けられまい。まるで治癒不能な伝染病の様に。
――或いはこれが危険思想だ、狂信だ熱狂だ、ナチズムだと批判する者も(理性に悖る奇形人種の実質的集合である京都か東京の特定一族には)あろう。だが私としても容易に肯首し難い檄論なのだが、今日まで至る人類学上の冷徹な理性的反省力で今後の人類間風俗の改良をおもいみる限りでは、その様なほとんど『物哀しい結論』を引き出すしかなかったのである。
業というものは厳密に宿命を支配するのだから、我々には全滅待望の志だけでも十分すぎるほどと思われもしようが、寧ろそれらの穢多人種が一刻も早く地表から消滅する方が美観の面からも、倫理風紀の面からもやはりより望ましいものではある筈だから、東京および京都人種という野蛮な血統への具体的な聖戦は人道の正義にきっと叶うと思えるのだ。
いうまでもなく常識的法律や国連憲章の人権宣言はこの聖戦を「和平的な闘争」以外の領域では許可しない。
我々は性根の歪んだ野蛮人、東京人らと京都人らを最大の悪徳を地球中にばら撒く悪魔血族であると専ら任意に見なして、それら国民にとって獅子身中の虫なるものどもを可能な限り巧妙な殲滅戦争で文明の高徳と高潔を信じるこの惑星の人間界から退治、亡ぼさねばなるまい。
もし、それは徹底した人格批判によって東京人種と京都人種とを人類内の穢多品種として定義する工夫次第であろう。実際「小子、鼓を鳴らして之を攻めて可なり」と孔子が云う様に、悪行の憶えがある人間にとってはどれほどの被迫害でも絶対に反論する事ができない。その因果は自業自得なのである。(唯一の改心はこころの底から反省の意を述べて神の前で懺悔することで果たされる。)
そしてこの試みが人類内のどこでもあまねく成功すれば、社会淘汰の当然の流れに従って、罪悪感や羞恥心の存在しない退化した理性の持ち主である特有の東京・京都人種というものは各種の文化圏から駆除ないし排除される事で、漸次にそれらの汚れた繁殖流路を立ち消えさせる事も可能だろう。
――正統の世界宗教はどれも姦淫を生業とする悪人を一度も擁護していない。「なぜ日本の首都に限ってはいつも退廃風俗が蔓延するのであろうか」。ならば必ずその中心に鎮座しながら堕落の連綿をのみ絶好の適所として悠々と生き延びている悪魔の王もひとりでに地表から居場所をなくしてしまうだろう。
この最果ての地にさえも清教徒精神の尊さが根付くというならその結末は当然の応報として、民族の良心を税金搾取の為おおやけへかこつけた利己心から永年痛ましめてきた傀儡的偶像、悪魔の親玉を合法的かつ冷静に追放か改宗させる議決征圧的な名誉革命に至る筈である。
不健全サイトの是正啓蒙
猥褻漫画広告のケータイサイトとして有名な出会い系サイトの最大手であるmixiという会社は、行政指導が入り込まなければ決してみずからの‘猥褻物陳列罪’という法外悪行を改めようとしないほど経営陣の愚劣さ、下品さ、下等人格ぶりが際立つ新興ネット業者であって、この様な社会的責任感に薄い不良商社へ投資する愚株主の末路もおなじ倒産を迎えるに違いない。
見つからなければ悪が蓄積しないとでも考える経営者は外部不経済の意味から、教科書に復習するがいい。
猥褻漫画サイトへ健全な青年、青少年を誘導して稼ぎだした悪銭は絶対に身に着かないと断言できる。それは善良な市民への“たかり商法”を無料のサービスを装って繰り返した体質から、行政の目の届きにくいケータイサイトのみに猥褻物陳列罪の裏の手を限った悪徳からも、また当事者であるやくざ社長周縁の来るべき逮捕からも。
見つからなければ悪が蓄積しないとでも考える経営者は外部不経済の意味から、教科書に復習するがいい。
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2009年5月18日
社会学
抑、社会が持っている知識の総量が実質上はその民族集団の相対的秩序だとすれば、道徳もこの総量の一つだと考えるのが穏当だろう。文明、とはこの社会秩序の単位なのである。
文明度が比較相対比でしか量れない訳はその社会学概念の本質が常に偏差値に基づくからだと言える。文明の概念には市民化を意味するcivilizationの訳語としての発祥が込められている。ふみあきらか、という呼び声には知性の度合いがおもとして文の、literatureの修養に於いて測られてきた史脈がみいだせる。
市民開化の度合いをこの面から、社会集団の持っている知識の総量から計測するのはやはり妥当な分類法になると思える。偏差値である限りその上下動は自然だし、尚且つ当面の成果型が理解できる範囲では経済力の各種の指数よりも長期間に及ぶ社会変化の法則を見つけ出すのにこの指標は有効である。文明度を関数として定義すると、
Civilization Level=(Literacy class/Population)×50%
の数値間比較で与えられる。すなわち
CL=0.5L/P% の値が相対的に五十からどれほど推移しているかが実質的な文明度の値である。
流率で示すと、tを各系に共通の時間と置いて
ΔL/ΔP∫[0→t]d(0.5f)%=ΔCL
よって、このΔCLつまり文明流率が高ければ高い程、その社会集団は相対的に進歩している国民なのである。
かつ、更に詳細に計測する為に読書層を微分し、
ΔMathematical Literacy Class/ΔLiteracy Class Population∫[0→t]d(0.5f)%=Mathematical Literacy
は、数理読書流率を示す二重積分演算で計算できる。
∴ ΔML/ΔP∬[0→t]d(0.5f)%=MCL
の関数に於いてMathematical Class Literacyは、実質上の文民偏差値を示すものと言っていいだろう。
我々はこの数値を比較検討して、どの社会集団が将来的には進歩に秀でるかを予想できる。この変数は当面の産業情勢の移り変わりに左右されない分だけ、ある国民の中に潜在する国力の長期的指標として各種の経済偏差値より有効だと考えていいだろう。
文明度が比較相対比でしか量れない訳はその社会学概念の本質が常に偏差値に基づくからだと言える。文明の概念には市民化を意味するcivilizationの訳語としての発祥が込められている。ふみあきらか、という呼び声には知性の度合いがおもとして文の、literatureの修養に於いて測られてきた史脈がみいだせる。
市民開化の度合いをこの面から、社会集団の持っている知識の総量から計測するのはやはり妥当な分類法になると思える。偏差値である限りその上下動は自然だし、尚且つ当面の成果型が理解できる範囲では経済力の各種の指数よりも長期間に及ぶ社会変化の法則を見つけ出すのにこの指標は有効である。文明度を関数として定義すると、
Civilization Level=(Literacy class/Population)×50%
の数値間比較で与えられる。すなわち
CL=0.5L/P% の値が相対的に五十からどれほど推移しているかが実質的な文明度の値である。
流率で示すと、tを各系に共通の時間と置いて
ΔL/ΔP∫[0→t]d(0.5f)%=ΔCL
よって、このΔCLつまり文明流率が高ければ高い程、その社会集団は相対的に進歩している国民なのである。
かつ、更に詳細に計測する為に読書層を微分し、
ΔMathematical Literacy Class/ΔLiteracy Class Population∫[0→t]d(0.5f)%=Mathematical Literacy
は、数理読書流率を示す二重積分演算で計算できる。
∴ ΔML/ΔP∬[0→t]d(0.5f)%=MCL
の関数に於いてMathematical Class Literacyは、実質上の文民偏差値を示すものと言っていいだろう。
我々はこの数値を比較検討して、どの社会集団が将来的には進歩に秀でるかを予想できる。この変数は当面の産業情勢の移り変わりに左右されない分だけ、ある国民の中に潜在する国力の長期的指標として各種の経済偏差値より有効だと考えていいだろう。
2009年5月16日
2009年5月15日
信教権の自由化命題
希少でないもの、有り余るほど豊富なものはその場では貴ばれないので、どうして熱帯や亜熱帯に属する東アジア諸圏ではキリスト教の厳格な教義が根付きづらいのかという道理にもその面から幾つかの仮説が立てられる。
第一に彼らには道徳感に強固な偏見があって、それには既にキリストの説く徳目を超える部分すらあるので敢えてあらたな信教に頼る必要を覚えないという可能性。
第二には、極めて希少な形質がキリスト教の人格者像とは異なるという可能性である。
危険ある寄生虫への未然対策として熱帯圏では小数の高免疫力形質への集中投資が行われやすく、この点で厳格な一妻制を妥協点とする世俗的キリスト教信者がその場へ多数派の勢力を確保するのが難しいという意見には、医療の発展が免疫負荷軽減からやはりその必然性を次第に蓋然化するのを当然視させるものだと説得できることとなる。
だから、世界宗教としての権利を瞥見して徳律間の倫理性が比較的に劣る思想は他の一派が改良された習性をもちこむ限りで場を譲るのを義理とも義務とも任じざるを得ず、またつとめてそうすべきですらあるのだ。
その時点での政府が国教化の偏りをみせるのは長期の道徳観にたてばすべて、人倫弱体につながりその国勢をも衰亡させる深因となるだろう。さらに短期間で眺めても特有に凝り固まった宗派はほかの総合的な思想潮流に比べればつねに何らかの盲点を有する筈であるから、かれらの勢力は他国との習慣的善意に関する違和感を増幅させずに置かない。たとえば普遍的見地からすれば世界観の歪んでいた独裁者倭一族の長年のすみかであった京都の市民はジーザスが艶のある目を蔑む意識もその恥ずべき柔弱すぎる習慣上には理解できず、旅の若いキリスト教徒へ平気で姦淫罪の源氏物語とやらを奨めても文化のやむべからざる相違からくる悼ましき羞汚の念を恬として感じない。誠に憐れむべきことだ。斯くが如く二重の意味で国教には不純さがある。執着と偏りと。
日本にかぎれば争点は既得政権に深くかかわりあいをもつ新興宗派が現に存在するという事実、及び王権神授説を未だに信奉する土着の信教説が原理的に批判検討されていない事情へ専ら還元されるだろう。君臨すれども統治せず、と自ら獲得した清教徒以来の節度ある権威を誇る知的民族の長は、神とおのれを混同した幼稚な議論で国統自慢に終始する賎しい政治操業屋の自己充足感とは永久に同列に唱えられはすまい。政教癒着の内憂をなんらかの工夫で唾棄できれば、我々の国土は大方の迷信的錯誤から少なくとも文化上での欧米からの遅れという面では、いくらか回復もできることになるだろう。江戸時代の鎖国を最大の基点として一気に坂を転げ落ちたらしき、特有の思想を国家政府が恣意的に排除した傷痕はこれほどまでに長く、民族人倫の障害として残ってしまうものだ。そうはっきり過去のあやまちを反省できるなら、致命的戦敗の悲惨を幾度もくりかえすおろかしさだけは、文民について、暴力団と一体化してつるむ悪徳政治家の空威張りを意に介さぬ啓蒙の及ぶ範囲ではやがて回避できる筈と信念させる。
然るにもとより殉教の覚悟ある聖人君子はさておき、人々に亡命権がなければならないのは特に可塑的に完成された共和制とは言い兼ねる構造を残すいずれの政体でも、そこでの権力濫用が狂信から生じる余地をも意味するかぎり、どの文化圏においてですら希少な才能は保存すべきという不偏不党の人道の見地からして真ではある。そして信教の自由が徹底して遵守された国家へ宗教革命下の亡命者をその既往の利害を越えて受け入れるのは、教派闘争よりずっと博愛と慈悲の理想を尊ぶ一つの寛大な宿屋主の規範に違いない。自由の女神に刻まれた文言は決して特有の神へ限定さるべきでない、自由圏の人間宣言であると思える。
第一に彼らには道徳感に強固な偏見があって、それには既にキリストの説く徳目を超える部分すらあるので敢えてあらたな信教に頼る必要を覚えないという可能性。
第二には、極めて希少な形質がキリスト教の人格者像とは異なるという可能性である。
危険ある寄生虫への未然対策として熱帯圏では小数の高免疫力形質への集中投資が行われやすく、この点で厳格な一妻制を妥協点とする世俗的キリスト教信者がその場へ多数派の勢力を確保するのが難しいという意見には、医療の発展が免疫負荷軽減からやはりその必然性を次第に蓋然化するのを当然視させるものだと説得できることとなる。
だから、世界宗教としての権利を瞥見して徳律間の倫理性が比較的に劣る思想は他の一派が改良された習性をもちこむ限りで場を譲るのを義理とも義務とも任じざるを得ず、またつとめてそうすべきですらあるのだ。
その時点での政府が国教化の偏りをみせるのは長期の道徳観にたてばすべて、人倫弱体につながりその国勢をも衰亡させる深因となるだろう。さらに短期間で眺めても特有に凝り固まった宗派はほかの総合的な思想潮流に比べればつねに何らかの盲点を有する筈であるから、かれらの勢力は他国との習慣的善意に関する違和感を増幅させずに置かない。たとえば普遍的見地からすれば世界観の歪んでいた独裁者倭一族の長年のすみかであった京都の市民はジーザスが艶のある目を蔑む意識もその恥ずべき柔弱すぎる習慣上には理解できず、旅の若いキリスト教徒へ平気で姦淫罪の源氏物語とやらを奨めても文化のやむべからざる相違からくる悼ましき羞汚の念を恬として感じない。誠に憐れむべきことだ。斯くが如く二重の意味で国教には不純さがある。執着と偏りと。
日本にかぎれば争点は既得政権に深くかかわりあいをもつ新興宗派が現に存在するという事実、及び王権神授説を未だに信奉する土着の信教説が原理的に批判検討されていない事情へ専ら還元されるだろう。君臨すれども統治せず、と自ら獲得した清教徒以来の節度ある権威を誇る知的民族の長は、神とおのれを混同した幼稚な議論で国統自慢に終始する賎しい政治操業屋の自己充足感とは永久に同列に唱えられはすまい。政教癒着の内憂をなんらかの工夫で唾棄できれば、我々の国土は大方の迷信的錯誤から少なくとも文化上での欧米からの遅れという面では、いくらか回復もできることになるだろう。江戸時代の鎖国を最大の基点として一気に坂を転げ落ちたらしき、特有の思想を国家政府が恣意的に排除した傷痕はこれほどまでに長く、民族人倫の障害として残ってしまうものだ。そうはっきり過去のあやまちを反省できるなら、致命的戦敗の悲惨を幾度もくりかえすおろかしさだけは、文民について、暴力団と一体化してつるむ悪徳政治家の空威張りを意に介さぬ啓蒙の及ぶ範囲ではやがて回避できる筈と信念させる。
然るにもとより殉教の覚悟ある聖人君子はさておき、人々に亡命権がなければならないのは特に可塑的に完成された共和制とは言い兼ねる構造を残すいずれの政体でも、そこでの権力濫用が狂信から生じる余地をも意味するかぎり、どの文化圏においてですら希少な才能は保存すべきという不偏不党の人道の見地からして真ではある。そして信教の自由が徹底して遵守された国家へ宗教革命下の亡命者をその既往の利害を越えて受け入れるのは、教派闘争よりずっと博愛と慈悲の理想を尊ぶ一つの寛大な宿屋主の規範に違いない。自由の女神に刻まれた文言は決して特有の神へ限定さるべきでない、自由圏の人間宣言であると思える。
経済学
人類内ででさえ、ある地域はその気候から来たる特徴ある形質を過剰価値という暴落作用によって省略する傾向がある。殆ど自明の事柄として、差額は小売商が意を得る利益の法則であり目の付け所といえる。
こうして、国際貿易にとっては資本投機の最終目的が特産品を通じた円滑な価格平衡を達成すること、更にはその自己目的な作用から及ぼされる分業率の完成にある、と論を結んだとして新古典派経済学者もよすがなしに構うまい。より安いところに豊富にある資材を別の加工場へ移転する、というのが差額分を寡占する骨なのである。消費が又、自然全域にとっては一つの秩序形態の生産である事を鑑みるべきだろう。
だから、人類の誰かがある文化場で生産や生成される過剰価値の物事を、それを時空間的に異なった地域へ運輸させる間に生じる小売差額から邪魔にならない程の利潤を受け取ったとしても、なんらかの多数派のたくらみから敵意を抱いたり堰き止めたりしない方がずっと賢い。いわゆる道義感の観点、共感的優位を傍観者の立場からみて必須の行為是認条件と考えていたスミス的徳律は結果としては、最大多数への貿易をより有効に進めようとした場合に限っての、限定的真であると言える。この種の小売競争は至る所で示されざるをえない一つの経済的普遍場面であるが、その際に被供給者にとってより優先度の高いのは急速に価格平衡の原理にしたがって資材が現に多く易く手に入る事の方であり、決して彼ら商人の同業組合内での同士討ちや足の引っ張り合いで無駄な費用を損失させられることではないので、この点のみで和平的な競争者の側を、結果的には選好するに過ぎない。道義感は小売競走をしている側の得失点差に関わる有効さであり、必ずしも享受する被奉仕側の要求ではない。我々はスミスの古典派経済学の根本に対して主客の混同を指摘し、その理論的修正を要求できる。結局、同業組合を出し抜くまで狡猾な生業者は単に法的な制限を差延する先見の分だけ他の篤実な古典的経営より実用的に有利なのである。傍観者が明白な事業観察者と違うところは、彼ら商務同業組合が演ずる一挙手一投足が生産と消費者にとってすれば近所で通り掛かったサッカー場で縁もゆかりもない草プレイヤーが七転八倒しているのを面白おかしく見て自身にはなんの痛痒をも覚えないのに等しく、外部不経済のごときはた迷惑な乱闘騒ぎをその演ずるフィールド外へと持ち出さないかぎりでどんな商業上の荒業偉業が出たところで、公式法規と突き合わせて審査する政府や一喜一憂のスポンサーでもなければ関係がない。どうせ負ける正義感ぶったチームへ同情はしても共感しないことができるのだ、それは応援するか否かともかかわりないゲーム視の客体法則である。
この様にしてリカードの主張する国際分業仮説について、文化が気候や民度に関する特殊な資材生産能率を持つという文化間価格差額がその根本的なよりどころであったと知れる。実質上、生産や消費者には分業の微積分がもたらす情勢浮沈は関係がないのである。寧ろあらゆる観点からみて安価で容易に需要が満ちるのは経済体制上の望ましい変化でもある。そして特産品というものが流通業を盛んにするほどそれらを交換する双方の利益である事はやはり職人間の専門性が高まるほど効率化する製作合理化の要になにも変わりがない。貿易制限は最終的には完全に崩壊する好きずきな仮囲いに過ぎず、どの郷国でさえ人類間文明を理由とする上では絶えず迫り来る飢饉と気候変動の台風を前にそのお気に入りのやわな藁屋に居座って痩せ我慢し続けるのはいずれ不可能であると知れる。
こうして、国際貿易にとっては資本投機の最終目的が特産品を通じた円滑な価格平衡を達成すること、更にはその自己目的な作用から及ぼされる分業率の完成にある、と論を結んだとして新古典派経済学者もよすがなしに構うまい。より安いところに豊富にある資材を別の加工場へ移転する、というのが差額分を寡占する骨なのである。消費が又、自然全域にとっては一つの秩序形態の生産である事を鑑みるべきだろう。
だから、人類の誰かがある文化場で生産や生成される過剰価値の物事を、それを時空間的に異なった地域へ運輸させる間に生じる小売差額から邪魔にならない程の利潤を受け取ったとしても、なんらかの多数派のたくらみから敵意を抱いたり堰き止めたりしない方がずっと賢い。いわゆる道義感の観点、共感的優位を傍観者の立場からみて必須の行為是認条件と考えていたスミス的徳律は結果としては、最大多数への貿易をより有効に進めようとした場合に限っての、限定的真であると言える。この種の小売競争は至る所で示されざるをえない一つの経済的普遍場面であるが、その際に被供給者にとってより優先度の高いのは急速に価格平衡の原理にしたがって資材が現に多く易く手に入る事の方であり、決して彼ら商人の同業組合内での同士討ちや足の引っ張り合いで無駄な費用を損失させられることではないので、この点のみで和平的な競争者の側を、結果的には選好するに過ぎない。道義感は小売競走をしている側の得失点差に関わる有効さであり、必ずしも享受する被奉仕側の要求ではない。我々はスミスの古典派経済学の根本に対して主客の混同を指摘し、その理論的修正を要求できる。結局、同業組合を出し抜くまで狡猾な生業者は単に法的な制限を差延する先見の分だけ他の篤実な古典的経営より実用的に有利なのである。傍観者が明白な事業観察者と違うところは、彼ら商務同業組合が演ずる一挙手一投足が生産と消費者にとってすれば近所で通り掛かったサッカー場で縁もゆかりもない草プレイヤーが七転八倒しているのを面白おかしく見て自身にはなんの痛痒をも覚えないのに等しく、外部不経済のごときはた迷惑な乱闘騒ぎをその演ずるフィールド外へと持ち出さないかぎりでどんな商業上の荒業偉業が出たところで、公式法規と突き合わせて審査する政府や一喜一憂のスポンサーでもなければ関係がない。どうせ負ける正義感ぶったチームへ同情はしても共感しないことができるのだ、それは応援するか否かともかかわりないゲーム視の客体法則である。
この様にしてリカードの主張する国際分業仮説について、文化が気候や民度に関する特殊な資材生産能率を持つという文化間価格差額がその根本的なよりどころであったと知れる。実質上、生産や消費者には分業の微積分がもたらす情勢浮沈は関係がないのである。寧ろあらゆる観点からみて安価で容易に需要が満ちるのは経済体制上の望ましい変化でもある。そして特産品というものが流通業を盛んにするほどそれらを交換する双方の利益である事はやはり職人間の専門性が高まるほど効率化する製作合理化の要になにも変わりがない。貿易制限は最終的には完全に崩壊する好きずきな仮囲いに過ぎず、どの郷国でさえ人類間文明を理由とする上では絶えず迫り来る飢饉と気候変動の台風を前にそのお気に入りのやわな藁屋に居座って痩せ我慢し続けるのはいずれ不可能であると知れる。
2009年5月13日
科学の理解
自然界から数理的な比例を抽出し、且つその法則を社会学と矛盾しない様にまとめるという学問上の更新は、古代宗教が持っていた計画と根本的に異なる営みではおそらくない。法則知に対する信仰は近代文明という一つの宗教段階の、民族間思想基盤の特徴を為す。だがそれを終局の思想状態だと述べるのは根拠薄弱であると言わねばならない。近代化は文化であり、文明の完成そのものとも限らない。
この方針から客観すると、科学信仰もある倫理段階の経過であったと知れる。知識に向けての非常な期待感は明治以来の人が科学技術と呼ぶもの、いわゆる工学の発展が極めて急速であったという一種の歴史的真空での慣れに基づく偏見である。つねに、ガウダマの昔から「あるものは知れてもほかのものは知れない」のであるから、いいかえれば知識は相対的でありつづける星の下にあるので、知識信仰がすべてを隈なく解決し尽くすという結果は多分に漏れずないのだろう。科学は科学に止どまり、それはいくら合理化を推し進めてみても芸術は芸術であり続けるのに同じく、結局は科学知識が人類へもたらした恩恵とは理由ある比例を法則知として思想乃至文芸の手本に示したことであった。
聖書と呼ばれる詞書きが存在する。そして注釈が成立するのはそれを先代の模範として更に滋味深く要領よくまとめられた文章へと清書する事、つまり書き直すことがさらに選れた聖書を書き上げる場合に限ると云える。そうでない文書類は捨てられなければ整理整頓されて蠹た古書庫へ至る。
科学にとって本質的なのは、今までよりもすぐれて比例が尽くされた合理的建築型応用への転用なのではなくて、この聖書の注釈を根気よく続けるという文学的かつ思想的な意図の方だ、と考えることができる。転用は一過性かもしれないが注解のほうはとても長く世代間に伝承されるから。こういう広域に亙る歴史学上の思想史脈を夫々緻密になぞると、西洋地域で運よく発酵した科学という果実は、真にはキリスト教(ヘブライズム)、古代ギリシアの哲人思想(ヘレニズム)、そして古代エジプト文明周縁のユークリッドやピタゴラスから中世に至るアル・フワーリズミら中東思想家の流れを汲むような測量術的な数学を西洋化して昇華したものであったと確認できる。この成果はのちに地球中へ伝播され役立つことになる、主としてガリレイ、デカルト、ニュートンらを起爆とした一つの文化的酵母であった。だがその果実が上述の理論支流を利用して、さらに古代ユダヤ思想の批判というジーザス的個性の思想の鋳型を換骨奪胎示されたという部分に、西洋風の根本原則と理論上の欠陥も内在されている。知恵の実の摂取に対する原罪観念の抑制を、西洋文化圏の学者たちは栄養の原材料としてそれら科学的な急進をやってのけた。
しかしながら、もし神の国がありうるのならなぜ我々は選民を自称する者をも引き入れてはならないというのだろうか。移民の商圏に向けての潜在的脅威観からのキリスト教の博愛の強調とその理論化の徹底を事とする道義心の底には、一抹の邪心が忍び込んでいる。要するにユダヤ教の教義は決して無力化されるべきではない、人類間に於ける文化史上での記念すべき路程標である。汝の敵を愛せと述べる者は、たとえ裏切り者へでさえも慈悲の面目を改めなかったと見るべきだろう。ここから、科学的探検にかかわらず道徳哲学の上では、我々は決してユダヤ教の信仰を単に押し潰したり断章取義の上、抹消しようとしてはならない。どの弁証法上に於いてさえ、以前の未だ不十分だった理性の見解は否定媒介としてであれどもそれ相応の存在意義を有している。たとえば世界の果てにある孤絶された島国に土着した一族の王がもし彼らの自然崇拝の帰結から万が一にもその神格を擬装する偶像性によってすでに大きく啓蒙された海外国民の誹謗の的になった暁にさえ、なんらかの熱狂に駈られた革命の事情から裸で鞭打たれる彼を磔刑へ処した裁判官や周囲の人間の煽情行為はやはり、土着の民にとっての主人公を否定するという比較的な悪業の先例によって、かれらの野蛮さなりの人格度を汚名で塗り固めたという自然本来の制裁意図を十分満たしているに違いない。勿論最低の判定から鑑みて凡その民族で非難の的だった偶像崇拝の民俗因習化の結末は、それ相応の因果関係によって、神理念そのものへの純粋無垢な信仰を維持発展なしえた高等民族に較べれば当然ながら、彼ら土着民の道徳的な劣位程度にありうべき不遇を用意して待っている筈ではあるとしてもだ。
同様に、科学の否定は将来、場合によっては十二分にありうる、又はなければならない思想及び文学上の転回となるであろう。その後におよんで原罪観念を引き合いに出し、知恵の実を食さざる以前の理想郷へ回帰する信念を主張する一派が機に乗じて勢力拡大の目論見に出たとしてもなんらかかわりなく、世の中に自由権の擁護を高貴な者の義務感から責任する賢明な人が最も多い知識階級の統治権が立派に確立している文明圏に於いてのみ、脱科学的思想への進歩は見られることになるだろう。煩雑で入り組んだ科学史を考究するのに十分な意欲のあって、しかも既存の思想潮流へ特別な考慮を払う必要をば極力少ない有閑層的な社会集団にとってのみ、その先見の明は不安定な政治的事情からも独立した私権を保ち得るであろう。且つ予想されるだけでも、この科学史家を兼ねた学究の士についてしか、当面の重要度に大幅な相違がある移り気な発明発見の連続した投機市場じみた思想変容情勢から、冷静で批判的でありつづける距離感を保った位置取りを期待も希望もできないだろう。実際、ノーベル賞などという地方商事による私家版の罪滅ぼし的な栄典授与が最高の達成なり誉れなりと俗に囁かれる学問情勢はまったく常軌を逸した、比類なき真理探求精神にとっての低俗化、子供染みた陳腐なお遊戯化と述べられねばならない。仮に科学史の立場から指導権をおのずと任じるべき英国立科学協会の最高権威でさえ通俗書の書き手と同列に並ぶに羞恥や自尊の心を失くしたのだとすればその有様たるや、人気や売上以外で信頼に足る導きの糸は権威ある本来有り難い号や肩書よりもずっと、科学知識売買の非道で長期化した氾濫戦場からどれだけ批判的な優越感を痩せ我慢式に保っていられるかという逆理的な認識領域へ集中せざるを得ない程だ。
現代人が批判的な言論をなんとなく説教臭くて真面目なこころみをがっかりさせるものとして嫌悪し、安価かつ案外で簡単に答えを与えてくれそうな口先のうまい通俗書へ頼る傾向は余りに過度であって、いうまでもなく批判それ自体は矢面に立つ演技派そのひとにとってすれば一般に不快でしかも耳に逆らう苦い薬ではあるけれども、確かに、過剰情報社会という未経験の事態にとって未然に対策できる自己免疫あるいは言論検疫の機能としてこれより有効な既存の製薬はどこにも見いだせない。真理と呼ぶに値するほど確実な知識は的外れな批判を寄せ付けないという汎用的な能動性を、すなわち実験によってくりかえし検証できる実証性を持つものであるのだから、我々は宗教と今は名のつく生まれ育ちのよい真理を意味もなく非難して科学と呼ばれる仮装の擬態をけばけばしい化粧にも関わらず世界最高の自然な整形なのであると見なす近代的偏見だけは戒めねばなるまい。イスラム教圏で女性へのベールを義務づけている事を浅薄な興味で迫害する者は、己が如何に科学的真実をのみ凝視し道徳感を置き去りにしていたかを、その明晰な知見に基づき不幸で不穏な家庭生活という人間生活にとっての最も根源に近い足元から崩壊するバベルの塔へも科学の狂信という思想上の壊乱騒ぎの兆候から、必然に演繹できることだろう。
この方針から客観すると、科学信仰もある倫理段階の経過であったと知れる。知識に向けての非常な期待感は明治以来の人が科学技術と呼ぶもの、いわゆる工学の発展が極めて急速であったという一種の歴史的真空での慣れに基づく偏見である。つねに、ガウダマの昔から「あるものは知れてもほかのものは知れない」のであるから、いいかえれば知識は相対的でありつづける星の下にあるので、知識信仰がすべてを隈なく解決し尽くすという結果は多分に漏れずないのだろう。科学は科学に止どまり、それはいくら合理化を推し進めてみても芸術は芸術であり続けるのに同じく、結局は科学知識が人類へもたらした恩恵とは理由ある比例を法則知として思想乃至文芸の手本に示したことであった。
聖書と呼ばれる詞書きが存在する。そして注釈が成立するのはそれを先代の模範として更に滋味深く要領よくまとめられた文章へと清書する事、つまり書き直すことがさらに選れた聖書を書き上げる場合に限ると云える。そうでない文書類は捨てられなければ整理整頓されて蠹た古書庫へ至る。
科学にとって本質的なのは、今までよりもすぐれて比例が尽くされた合理的建築型応用への転用なのではなくて、この聖書の注釈を根気よく続けるという文学的かつ思想的な意図の方だ、と考えることができる。転用は一過性かもしれないが注解のほうはとても長く世代間に伝承されるから。こういう広域に亙る歴史学上の思想史脈を夫々緻密になぞると、西洋地域で運よく発酵した科学という果実は、真にはキリスト教(ヘブライズム)、古代ギリシアの哲人思想(ヘレニズム)、そして古代エジプト文明周縁のユークリッドやピタゴラスから中世に至るアル・フワーリズミら中東思想家の流れを汲むような測量術的な数学を西洋化して昇華したものであったと確認できる。この成果はのちに地球中へ伝播され役立つことになる、主としてガリレイ、デカルト、ニュートンらを起爆とした一つの文化的酵母であった。だがその果実が上述の理論支流を利用して、さらに古代ユダヤ思想の批判というジーザス的個性の思想の鋳型を換骨奪胎示されたという部分に、西洋風の根本原則と理論上の欠陥も内在されている。知恵の実の摂取に対する原罪観念の抑制を、西洋文化圏の学者たちは栄養の原材料としてそれら科学的な急進をやってのけた。
しかしながら、もし神の国がありうるのならなぜ我々は選民を自称する者をも引き入れてはならないというのだろうか。移民の商圏に向けての潜在的脅威観からのキリスト教の博愛の強調とその理論化の徹底を事とする道義心の底には、一抹の邪心が忍び込んでいる。要するにユダヤ教の教義は決して無力化されるべきではない、人類間に於ける文化史上での記念すべき路程標である。汝の敵を愛せと述べる者は、たとえ裏切り者へでさえも慈悲の面目を改めなかったと見るべきだろう。ここから、科学的探検にかかわらず道徳哲学の上では、我々は決してユダヤ教の信仰を単に押し潰したり断章取義の上、抹消しようとしてはならない。どの弁証法上に於いてさえ、以前の未だ不十分だった理性の見解は否定媒介としてであれどもそれ相応の存在意義を有している。たとえば世界の果てにある孤絶された島国に土着した一族の王がもし彼らの自然崇拝の帰結から万が一にもその神格を擬装する偶像性によってすでに大きく啓蒙された海外国民の誹謗の的になった暁にさえ、なんらかの熱狂に駈られた革命の事情から裸で鞭打たれる彼を磔刑へ処した裁判官や周囲の人間の煽情行為はやはり、土着の民にとっての主人公を否定するという比較的な悪業の先例によって、かれらの野蛮さなりの人格度を汚名で塗り固めたという自然本来の制裁意図を十分満たしているに違いない。勿論最低の判定から鑑みて凡その民族で非難の的だった偶像崇拝の民俗因習化の結末は、それ相応の因果関係によって、神理念そのものへの純粋無垢な信仰を維持発展なしえた高等民族に較べれば当然ながら、彼ら土着民の道徳的な劣位程度にありうべき不遇を用意して待っている筈ではあるとしてもだ。
同様に、科学の否定は将来、場合によっては十二分にありうる、又はなければならない思想及び文学上の転回となるであろう。その後におよんで原罪観念を引き合いに出し、知恵の実を食さざる以前の理想郷へ回帰する信念を主張する一派が機に乗じて勢力拡大の目論見に出たとしてもなんらかかわりなく、世の中に自由権の擁護を高貴な者の義務感から責任する賢明な人が最も多い知識階級の統治権が立派に確立している文明圏に於いてのみ、脱科学的思想への進歩は見られることになるだろう。煩雑で入り組んだ科学史を考究するのに十分な意欲のあって、しかも既存の思想潮流へ特別な考慮を払う必要をば極力少ない有閑層的な社会集団にとってのみ、その先見の明は不安定な政治的事情からも独立した私権を保ち得るであろう。且つ予想されるだけでも、この科学史家を兼ねた学究の士についてしか、当面の重要度に大幅な相違がある移り気な発明発見の連続した投機市場じみた思想変容情勢から、冷静で批判的でありつづける距離感を保った位置取りを期待も希望もできないだろう。実際、ノーベル賞などという地方商事による私家版の罪滅ぼし的な栄典授与が最高の達成なり誉れなりと俗に囁かれる学問情勢はまったく常軌を逸した、比類なき真理探求精神にとっての低俗化、子供染みた陳腐なお遊戯化と述べられねばならない。仮に科学史の立場から指導権をおのずと任じるべき英国立科学協会の最高権威でさえ通俗書の書き手と同列に並ぶに羞恥や自尊の心を失くしたのだとすればその有様たるや、人気や売上以外で信頼に足る導きの糸は権威ある本来有り難い号や肩書よりもずっと、科学知識売買の非道で長期化した氾濫戦場からどれだけ批判的な優越感を痩せ我慢式に保っていられるかという逆理的な認識領域へ集中せざるを得ない程だ。
現代人が批判的な言論をなんとなく説教臭くて真面目なこころみをがっかりさせるものとして嫌悪し、安価かつ案外で簡単に答えを与えてくれそうな口先のうまい通俗書へ頼る傾向は余りに過度であって、いうまでもなく批判それ自体は矢面に立つ演技派そのひとにとってすれば一般に不快でしかも耳に逆らう苦い薬ではあるけれども、確かに、過剰情報社会という未経験の事態にとって未然に対策できる自己免疫あるいは言論検疫の機能としてこれより有効な既存の製薬はどこにも見いだせない。真理と呼ぶに値するほど確実な知識は的外れな批判を寄せ付けないという汎用的な能動性を、すなわち実験によってくりかえし検証できる実証性を持つものであるのだから、我々は宗教と今は名のつく生まれ育ちのよい真理を意味もなく非難して科学と呼ばれる仮装の擬態をけばけばしい化粧にも関わらず世界最高の自然な整形なのであると見なす近代的偏見だけは戒めねばなるまい。イスラム教圏で女性へのベールを義務づけている事を浅薄な興味で迫害する者は、己が如何に科学的真実をのみ凝視し道徳感を置き去りにしていたかを、その明晰な知見に基づき不幸で不穏な家庭生活という人間生活にとっての最も根源に近い足元から崩壊するバベルの塔へも科学の狂信という思想上の壊乱騒ぎの兆候から、必然に演繹できることだろう。
2009年5月12日
仏教の知性
仏教思想が縁起説を通じて、また古代インド哲学に斯くある如く神の仮定を巧妙に回避したことには選れた慧眼が見いだせる。梵我一如と呼ばれるインド哲学の伝統的真似は特に、他の諸文明圏で神という唯一絶対の理念をもちだす以外では畏怖の念を生じさせがたかったのに比べれば際立って、知性的な側面を有している。
特に信仰よりも解脱を目指す、という面でインド哲学の宗教化には西洋および中東圏での思想的伝統とは異なった個性があると云えるだろう。
悟った者としての仏陀は、ガウダマの遍歴初期の素朴な口説を通して孤立人の理想を追い求めるところに特徴がある。そして説き伏せる相手を要する布教に比べれば、解脱を目的とした修行はずっと神理念を前提とはしなくて済む。理解不能な出来事にであえばこれを縁起説に則って解釈し、因果律上の答えを見つけ出せばいい。この点で、他のどの信教よりも仏教思想は知性啓発の面では先んじている。進化論と創造説の衝突の様なできごとも神理念を主眼として自然解釈する慣習があるかぎりは決して癒えないだろう。
特に信仰よりも解脱を目指す、という面でインド哲学の宗教化には西洋および中東圏での思想的伝統とは異なった個性があると云えるだろう。
悟った者としての仏陀は、ガウダマの遍歴初期の素朴な口説を通して孤立人の理想を追い求めるところに特徴がある。そして説き伏せる相手を要する布教に比べれば、解脱を目的とした修行はずっと神理念を前提とはしなくて済む。理解不能な出来事にであえばこれを縁起説に則って解釈し、因果律上の答えを見つけ出せばいい。この点で、他のどの信教よりも仏教思想は知性啓発の面では先んじている。進化論と創造説の衝突の様なできごとも神理念を主眼として自然解釈する慣習があるかぎりは決して癒えないだろう。
神の分析
神と呼ばれる文化的まねごとは様々な地域で伝えられており、凡そ言葉を有する以上の民族では殆どつねに存在する思考様態の一つらしい。神という理念には様々な内容が宛がわれるが、普遍なのはそれが唯一絶対の真似であることだ。
この言語模倣は世代間の伝達を初期化し直す意図に最もよく適合するが故に、最小の摩擦内で保存的だった。神理念の現実的根拠はその時点で理解不能な出来事を棚上げして世代間伝達系を延長できる思想上の効用にある。つまり究極の暗箱性が神の真似の本質。
人知が知能容積に依存する未熟な獲得形質に過ぎない限り、人類はまた神理念を保存せざるを得ないだろう。
この言語模倣は世代間の伝達を初期化し直す意図に最もよく適合するが故に、最小の摩擦内で保存的だった。神理念の現実的根拠はその時点で理解不能な出来事を棚上げして世代間伝達系を延長できる思想上の効用にある。つまり究極の暗箱性が神の真似の本質。
人知が知能容積に依存する未熟な獲得形質に過ぎない限り、人類はまた神理念を保存せざるを得ないだろう。
神の回復
世間が愚か者を厚遇し、聖を不遇で処する様に見えても怨むな。
もし真に劣悪な所なら生き延びる価値がないからそうして聖者を遠ざけるのだし、万が一それらの愚か者どもが生き延びたにせよ、地獄での来世は絶えず悪くなりゆく以上だれも困りはすまい。
――田舎の僻地で育てられた奇形的人間が、血縁を権威化する方便にみずからを神に仕立てたところで決してその能力は全知全能にはるか及ばぬ。
偶像崇拝する狂信者らがおろかな戦争で大量死したり、神の喪失から普段に野蛮窮まりない不幸を多く経験したにせよ、それらの地獄巡りはやはり自然の英知の観点からすれば堕落相応の報いなのである。
もし真に劣悪な所なら生き延びる価値がないからそうして聖者を遠ざけるのだし、万が一それらの愚か者どもが生き延びたにせよ、地獄での来世は絶えず悪くなりゆく以上だれも困りはすまい。
――田舎の僻地で育てられた奇形的人間が、血縁を権威化する方便にみずからを神に仕立てたところで決してその能力は全知全能にはるか及ばぬ。
偶像崇拝する狂信者らがおろかな戦争で大量死したり、神の喪失から普段に野蛮窮まりない不幸を多く経験したにせよ、それらの地獄巡りはやはり自然の英知の観点からすれば堕落相応の報いなのである。
2009年5月10日
法哲学
中国故事にある如く、法律の条文が煩瑣になると人々は安心して行動できなくなる。このために法三章は本来の理想的法秩序である。悪法もまた法なりと俗に言われることもある。空文になりつつある条文を維持する為の社会的損失がその慣習から来る期待できる善意を上回ったとき、法律は様変わりした現実へ再適合させられるという文脈を背景に持つ意見だろう。普段には法律を思案する時、社会秩序をできるかぎり合理化しようと試みることになる。従って社会が理想状態と異なる部分に対してその慣習の是正を促す方便としてのみ、法案は正当性を持つ。
もし誰かが新しい法律で空文化した現実社会への妥協を謀ろうとしても、それはこれらの道理を省みれば結局すべて失策に終わるだろう。例えば実際の訴訟で裁かれるには申告によってのみ罪とされるという場合での親告罪という概念は、元々守るべき法文の内容が空疎で、かなり現実に犯され易いことから生じる誤って借りられた法的負債の症状であり、その罪が人倫の間で許容されるに足るだけ社会秩序が堕落した事を誇るなど以っての外である。人口過剰の地域に存立した江戸幕府の後釜にありがちな東京政府の現況を分析するにつけ、特殊な公的意図を持たない猥褻物頒布の罪、公務に関する善悪の批評を除けば一般人に対する誹謗中傷の罪は看過されることならない退廃の兆候あるいは現実であり、それらの自由の退潮に併せて烏合衆議に迎合した判決を事とする裁判官には職権の濫用以下いかなる仁徳の尊厳も見いだせない。告げられなければ罪とはならない領域が存在するなどと信じるのは古典的宗教以前、禽獣の性質であると言わざるを得ないだろう。即ち、親告罪は法的にも存在すべきではない。その様な空理空論と化した劣悪な条文に関しては更に厳しい罰則規定が、警察官の現行犯逮捕の権利と共あらたに設けられるべきなのである。総じていえば法律はより体系的に整理されていればいるほど望ましい。だから法文が煩瑣また繁雑で、一般衆議の直接の対象にならないほど専門的で回りくどいというのは法律家および立法議員の能力不足に帰着さるべき奇癖かつ害毒であり、これをつねづね批判吟味に於いてその倫理的欠陥や論理の綻び、過剰装飾、いわゆる巧言令色のありかを是々非々堂々と指摘するのは文民としての、民間や社団の法学徒に託されたいやましに尊い使命なのである。
脱構築と呼ばれる華奢なフランス哲学の概念が流行するのを世間並みに見聞きするのに及んでは、言語に関する分析の哲学が自律と反省の心を失った穏やかならぬ知恵の徒にふりまわされた揚げ句、デリダリアンと述べたてる奴らと来るなり法律を空疎な名分に過ぎないものとする暴利暴論を意中の我が物としてなおも傲るおもむきがある。その中には最高法規としての憲法をプログラム規定に過ぎない等と御託を並べ立てた上、第一の実践を努力義務の範疇に閉じ込めて措いてはかの人類恒久普遍の理想を解釈のうえならと日々貶めながら口先喋々、浅ましき政権闘争の道具に明日は改正が必要だなどと述べる無知蒙昧のお世継ぎ売名政治屋先生さえ混じっている有様だ。しかし「正義は脱構築不可能である」という当該哲人の一語を差し引いても、数式ならぬ法文がいやおうなしに持っている曖昧さを人倫の至上命令である義務の理念の前に悪用するなる狂気の沙汰は、決して世の法学者の努めではないと知れる。
我々はやはりふるきをたずね、法三章を述べて作らず、理想の法律状態であると見做さねばならない。そしてこの為には絶えず厳格な理念から隙あらば逃れようとこころみて現し実をどうせ仕方のないもの、もはや諦めるべきものへ退行させようとするあの詭弁屋どもの誘惑から飽くまで狷介なまで身を引き、良心の根底を堅く保ちては至善に止まり、怜巖に事態を客観視した万古知新なる法整備をこそ生業とせねばならない。だからこの当然が、古来長続きした試しがなく政治学をかじったアリストクラティックな少年輩には天使の政体とまで不当に低く呼ばわれてきた民主政治にあってさえ遵守されゆくのなら、新しく改良される法律は絶対常にそれ以前の文面より簡明でも厳しい内容になるはずである。無論そうでない条文は、甘言で民衆を愚鈍化へたぶらかそうとする海千山千の悪魔によってつくられたまやかしものに決まっているから。
もし誰かが新しい法律で空文化した現実社会への妥協を謀ろうとしても、それはこれらの道理を省みれば結局すべて失策に終わるだろう。例えば実際の訴訟で裁かれるには申告によってのみ罪とされるという場合での親告罪という概念は、元々守るべき法文の内容が空疎で、かなり現実に犯され易いことから生じる誤って借りられた法的負債の症状であり、その罪が人倫の間で許容されるに足るだけ社会秩序が堕落した事を誇るなど以っての外である。人口過剰の地域に存立した江戸幕府の後釜にありがちな東京政府の現況を分析するにつけ、特殊な公的意図を持たない猥褻物頒布の罪、公務に関する善悪の批評を除けば一般人に対する誹謗中傷の罪は看過されることならない退廃の兆候あるいは現実であり、それらの自由の退潮に併せて烏合衆議に迎合した判決を事とする裁判官には職権の濫用以下いかなる仁徳の尊厳も見いだせない。告げられなければ罪とはならない領域が存在するなどと信じるのは古典的宗教以前、禽獣の性質であると言わざるを得ないだろう。即ち、親告罪は法的にも存在すべきではない。その様な空理空論と化した劣悪な条文に関しては更に厳しい罰則規定が、警察官の現行犯逮捕の権利と共あらたに設けられるべきなのである。総じていえば法律はより体系的に整理されていればいるほど望ましい。だから法文が煩瑣また繁雑で、一般衆議の直接の対象にならないほど専門的で回りくどいというのは法律家および立法議員の能力不足に帰着さるべき奇癖かつ害毒であり、これをつねづね批判吟味に於いてその倫理的欠陥や論理の綻び、過剰装飾、いわゆる巧言令色のありかを是々非々堂々と指摘するのは文民としての、民間や社団の法学徒に託されたいやましに尊い使命なのである。
脱構築と呼ばれる華奢なフランス哲学の概念が流行するのを世間並みに見聞きするのに及んでは、言語に関する分析の哲学が自律と反省の心を失った穏やかならぬ知恵の徒にふりまわされた揚げ句、デリダリアンと述べたてる奴らと来るなり法律を空疎な名分に過ぎないものとする暴利暴論を意中の我が物としてなおも傲るおもむきがある。その中には最高法規としての憲法をプログラム規定に過ぎない等と御託を並べ立てた上、第一の実践を努力義務の範疇に閉じ込めて措いてはかの人類恒久普遍の理想を解釈のうえならと日々貶めながら口先喋々、浅ましき政権闘争の道具に明日は改正が必要だなどと述べる無知蒙昧のお世継ぎ売名政治屋先生さえ混じっている有様だ。しかし「正義は脱構築不可能である」という当該哲人の一語を差し引いても、数式ならぬ法文がいやおうなしに持っている曖昧さを人倫の至上命令である義務の理念の前に悪用するなる狂気の沙汰は、決して世の法学者の努めではないと知れる。
我々はやはりふるきをたずね、法三章を述べて作らず、理想の法律状態であると見做さねばならない。そしてこの為には絶えず厳格な理念から隙あらば逃れようとこころみて現し実をどうせ仕方のないもの、もはや諦めるべきものへ退行させようとするあの詭弁屋どもの誘惑から飽くまで狷介なまで身を引き、良心の根底を堅く保ちては至善に止まり、怜巖に事態を客観視した万古知新なる法整備をこそ生業とせねばならない。だからこの当然が、古来長続きした試しがなく政治学をかじったアリストクラティックな少年輩には天使の政体とまで不当に低く呼ばわれてきた民主政治にあってさえ遵守されゆくのなら、新しく改良される法律は絶対常にそれ以前の文面より簡明でも厳しい内容になるはずである。無論そうでない条文は、甘言で民衆を愚鈍化へたぶらかそうとする海千山千の悪魔によってつくられたまやかしものに決まっているから。
建築哲学
古い建築物が我々を屡々極度に落ち着かせ、深く感心させるのは経年優化という作庭手法の上手さに関わらずそれらが時代の淘汰を承けてなお生き残ってきた希少性の起源が、絶妙さにあるからだろう。実際、経済学の理論は新しさを器の用件として当然視する。『書経』(盤庚の上)にある様に、古人も道具は新しい方が良いとみとめていた。先端工学は日々更新されるので設備と機能の面はほぼ絶対に新品の方が良い。そうならなければ製作者がモデルチェンジする筈がないのだから。
骨董収集は老子でいう「無用の用」を日常の器へまで応用か越権した習性であって、旧体字を趣味とするのは自由だが便利さの前では実用主義の側に勝利を認めざるを得ない。汚いという言葉が未整理の事物の前で思い浮かぶとすれば、その理想は恒に使いづらさの自覚の上に、したがって改良可塑性の中にある。建築物に限っては他の容器とは別格の美術性が古風のなかに見つけられるとして、その本質は用途を超越した理念の表象にあると思える。そこにある絶妙さは風土または風景のなかにあるもので、単独の意図としての個別的土地定着物の建設を超えて自然の形を作りかえて漸く露にされた構造形態らしい。もし古典建築と称される建造物に特別な審美性が存在するのなら、既に風化してしまった用途の為にではなく、それが有する歴史的構造が我々の想像力を励起するが為にだろう。つまり、建造物の史的本質は構造形態の側が持つのであって、機能設備がではない。
建築物の絶妙さはたくみさそのものの中にあって、時の経過にも変わりなく人造基盤を保っている建築者の設計意図の的確さを第三の自然へ投影できる為に生じる。我々が道具視できる用器は代替可能な人工物の趣を免れないが、既に文化へ定着したこの種の建造物は絶対唯一な風景の一部となっており、万が一崩れるようなことがあれば急いで後生の人間たちはできるかぎり元通りに建て直すのである。建築する者の誠心誠意さ、有する精神の高貴が際立つ程その意図する理念は時代をのりこえる趣を取る。掛け替えの効かなさは総合美術としての完成度に由来しているので、芸術作品一般がそうであるように近似的模倣つまり複製はできても完璧な再現はできない。唯一個であるという性質は極めて微妙な判断の隅々まで染め切った天才的独創性に基づいている。だから建築家ないし棟梁、建主の名義が科せられるという作品性は、頻繁にスクラップ&ビルドされる仮設の上ならいざ知らず、人目を引かずには置かないまことに珍しい歴史的建造物に限っては相応に適当なのである。
そして工学的な芸術を創造神学の結果であると定義すれば、神の建築計画が第三の自然を貫いている根拠はこの唯一回性にあると云える。故にその本質は比類なき崇高と一致するだろう。
骨董収集は老子でいう「無用の用」を日常の器へまで応用か越権した習性であって、旧体字を趣味とするのは自由だが便利さの前では実用主義の側に勝利を認めざるを得ない。汚いという言葉が未整理の事物の前で思い浮かぶとすれば、その理想は恒に使いづらさの自覚の上に、したがって改良可塑性の中にある。建築物に限っては他の容器とは別格の美術性が古風のなかに見つけられるとして、その本質は用途を超越した理念の表象にあると思える。そこにある絶妙さは風土または風景のなかにあるもので、単独の意図としての個別的土地定着物の建設を超えて自然の形を作りかえて漸く露にされた構造形態らしい。もし古典建築と称される建造物に特別な審美性が存在するのなら、既に風化してしまった用途の為にではなく、それが有する歴史的構造が我々の想像力を励起するが為にだろう。つまり、建造物の史的本質は構造形態の側が持つのであって、機能設備がではない。
建築物の絶妙さはたくみさそのものの中にあって、時の経過にも変わりなく人造基盤を保っている建築者の設計意図の的確さを第三の自然へ投影できる為に生じる。我々が道具視できる用器は代替可能な人工物の趣を免れないが、既に文化へ定着したこの種の建造物は絶対唯一な風景の一部となっており、万が一崩れるようなことがあれば急いで後生の人間たちはできるかぎり元通りに建て直すのである。建築する者の誠心誠意さ、有する精神の高貴が際立つ程その意図する理念は時代をのりこえる趣を取る。掛け替えの効かなさは総合美術としての完成度に由来しているので、芸術作品一般がそうであるように近似的模倣つまり複製はできても完璧な再現はできない。唯一個であるという性質は極めて微妙な判断の隅々まで染め切った天才的独創性に基づいている。だから建築家ないし棟梁、建主の名義が科せられるという作品性は、頻繁にスクラップ&ビルドされる仮設の上ならいざ知らず、人目を引かずには置かないまことに珍しい歴史的建造物に限っては相応に適当なのである。
そして工学的な芸術を創造神学の結果であると定義すれば、神の建築計画が第三の自然を貫いている根拠はこの唯一回性にあると云える。故にその本質は比類なき崇高と一致するだろう。
2009年5月9日
2009年5月8日
数学
基本演算記号は四つの対へ整理できる。
+-×÷は、それぞれ加減乗除(カ ゲン ジョウ ジョ)。
→¬∧∨は、それぞれ是非且又(ゼ ヒ ショ ユウ)。
おもな和文に訳し、たやすい英語と適宜その日本語読みを付け加えると
+ 加える、足す plus;プラス
- 減らす、引く minus;マイナス
× 乗せる、掛ける times;タイムス
÷ 除く、割る by;バイ
→ 是は、なので because;ビコーズ
¬ 非ず、でない no;ノー、not;ノット
∧ 且つ、と and;アンド
∨ 又は、か or;オア
これらを用いて計算式を進行させるのが理にかなう。特に解析的操作にとってはこの八個が最も基本的である。加減乗除は数式にとって、是非且又は論理式にとっての規則化に有効である。
+-×÷は、それぞれ加減乗除(カ ゲン ジョウ ジョ)。
→¬∧∨は、それぞれ是非且又(ゼ ヒ ショ ユウ)。
おもな和文に訳し、たやすい英語と適宜その日本語読みを付け加えると
+ 加える、足す plus;プラス
- 減らす、引く minus;マイナス
× 乗せる、掛ける times;タイムス
÷ 除く、割る by;バイ
→ 是は、なので because;ビコーズ
¬ 非ず、でない no;ノー、not;ノット
∧ 且つ、と and;アンド
∨ 又は、か or;オア
これらを用いて計算式を進行させるのが理にかなう。特に解析的操作にとってはこの八個が最も基本的である。加減乗除は数式にとって、是非且又は論理式にとっての規則化に有効である。
あの虹
湿り気を帯びた空気が
私を子供の記憶に返す
だれであれ消えてしまうだろう
どこそこへうがたれた雨と
なにもなくなる前に
なにもなくなる
すべては昔そこにあった
昔そこで遊んだ
それだけの場所が消えてしまう
ただ漣 の前には
山奥で見つけた巻き貝
今では野菊が咲く岡の上
見渡せば海だ
もう居なくなってしまった転校生
つぎの世代へ引き継がれてく机
だが代わらない音楽もいまは
ただ心の底をかなでる海のおと
私はその為にかわりゆくでしょう
水芭蕉の咲く夕べに
すこしずつ流れゆく小川に
生ぬるい風がまちを
一色の絵の具で浸して行くよ
どこか遠い都会で
知らない人達が悪さをしていたって未だ
世界は一つ残らず夜を
壊してしまったのではない
すでに忘れられたよぞらの星屑
待っている私はだれもいない校庭で
真っ暗な夜空の中にいる
一粒の流星が
地球の底で空を切るのを聞く
だがそれを語ることばでさえ
誰のものでもないや
雨が上がれば街が動きだすだけで
真っ青になったあじさいのそばを
這うかたつむりが
時を止めている間に
コーヒーを炊く
雨は窓の向こう
降るままになっている
あの虹が昔の歌をうたうのに
どうだろう
かれらにしたところで梅雨の
合図を捕らえ損ねたなんて
言わねばならないなんて
あっという間に過ぎ去ってしまえる
この世の思い出が隠された
宝箱の隅で眠ったお姫様をいつも
私を子供の記憶に返す
だれであれ消えてしまうだろう
どこそこへうがたれた雨と
なにもなくなる前に
なにもなくなる
すべては昔そこにあった
昔そこで遊んだ
それだけの場所が消えてしまう
ただ
山奥で見つけた巻き貝
今では野菊が咲く岡の上
見渡せば海だ
もう居なくなってしまった転校生
つぎの世代へ引き継がれてく机
だが代わらない音楽もいまは
ただ心の底をかなでる海のおと
私はその為にかわりゆくでしょう
水芭蕉の咲く夕べに
すこしずつ流れゆく小川に
生ぬるい風がまちを
一色の絵の具で浸して行くよ
どこか遠い都会で
知らない人達が悪さをしていたって未だ
世界は一つ残らず夜を
壊してしまったのではない
すでに忘れられたよぞらの星屑
待っている私はだれもいない校庭で
真っ暗な夜空の中にいる
一粒の流星が
地球の底で空を切るのを聞く
だがそれを語ることばでさえ
誰のものでもないや
雨が上がれば街が動きだすだけで
真っ青になったあじさいのそばを
這うかたつむりが
時を止めている間に
コーヒーを炊く
雨は窓の向こう
降るままになっている
あの虹が昔の歌をうたうのに
どうだろう
かれらにしたところで梅雨の
合図を捕らえ損ねたなんて
言わねばならないなんて
あっという間に過ぎ去ってしまえる
この世の思い出が隠された
宝箱の隅で眠ったお姫様をいつも
自然の原理
直観的な把握は無用ではない。又それは論理と齟齬するとも限らない。世界と呼ぶ体制が直観的にのみ第一に現れるのは偶然ではなく、人知は感覚を使ってしか環境情報を認識できない。蝶は触覚を用いて蜜を求め、犬は聴覚や嗅覚を通じて仲間と群れ集い或いは餌を探り当て環境を自己秩序化へ使う。自然概念を含む理念的世界は直観から得られた素材を加工してなりたつ。もしこれらが真なら、直観を研ぎ澄ます為に尚更、理念界は役立つ。 芸術の巧妙さが季節風土にあって最たる特産形質であるのなら、感覚を冴え渡らせることは他の気候にあってよりずっと、かれら国風の焦点と成り易い。えりすぐりの感性はもし最大の理知を背景に持てば、その感情表象をほかの如何なる気候風土にあってよりも更に微妙な趣を採らせるだろう。
かれらにとってすれば学問の強調や政治経済的保護はいわばこの感覚の芸術化の養生にとっての親切さなのである。たしかに芸術性の過剰評価は決してそれ自体が普遍化への唯一の道ではない。そして学問と政経の状況がわるければ、季節人の写す作風はかならずしも最美ともいえなくなるだろう。だが特徴の強調はつねに自然界が命じている適応放散の、散乱と淘汰との原理であって、花散る効果は一層のこと精選された世界を生じさせるのには欠かせぬ生物観の総体である筈だ。紫陽花は向日葵より劣る華なのではなく、単に適した時や土壌が違うのである。地方文化も斯くの如くだろう。
かれらにとってすれば学問の強調や政治経済的保護はいわばこの感覚の芸術化の養生にとっての親切さなのである。たしかに芸術性の過剰評価は決してそれ自体が普遍化への唯一の道ではない。そして学問と政経の状況がわるければ、季節人の写す作風はかならずしも最美ともいえなくなるだろう。だが特徴の強調はつねに自然界が命じている適応放散の、散乱と淘汰との原理であって、花散る効果は一層のこと精選された世界を生じさせるのには欠かせぬ生物観の総体である筈だ。紫陽花は向日葵より劣る華なのではなく、単に適した時や土壌が違うのである。地方文化も斯くの如くだろう。
狂言
人類の本性にとって、原因のない事はない。人は夢にさえ因果律のテンカイを見る。回っては戻る大鷲の羽ばたきにも。
第一、説明づけられない事柄さえ見つけられないのなら何が不能だろうか? 巻き戻し、再生されゆくいのちの映画へ擲たれたリアリティを飼い馴らして人生を合理化していく様に、だれであれ驚きのない経験をこの世と思う中で。
第一、説明づけられない事柄さえ見つけられないのなら何が不能だろうか? 巻き戻し、再生されゆくいのちの映画へ擲たれたリアリティを飼い馴らして人生を合理化していく様に、だれであれ驚きのない経験をこの世と思う中で。
2009年5月6日
資本主義論
商いが経済感情の合目的質であると考える事に客観した矛盾は覚えられない。商は経済活動そのものを目的視した場合、群生の最も活発な調和を奏でるのに適した理念だとおもえる。だから、昔ながらの農本思想であれ、いわゆる近代化のための重工業思想であれそれらを媒介するのに適宜な商の基礎付けがない限り、どちらも自体として完成の域へは載せられない。
道徳の立場からは、けれども、商務の有する独占支配の側面を合理化できないのである。流通の円滑というそのなりわいには決して肯首しきれない卑劣さの芽生えがつねに付き纏う。掠め取る能率へと取引差額の効用は還元され易く、したがって一般に、商業集団へは何らかの政治的調整がなければその上前が他の生産者が斉す実質の価値容量に較べて不利を被る例がない。非生産的仲介者という商人蔑視の根底にある考え方には社会集団が生産的であればあるほど、その売買をつかさどる群がぶら下がるほかない、というあきらめの空気が欠かされない。実際に、純粋な取引商は希少と豊富との時場価格差をのみ利用して、財貨の流通経路を資本流動性の増大という大目的に逸ることを最も得意とした形質の持ち主である。そして彼らにとっては群生の過不足を見分けてそれを仕事へと援用するのが返礼を省く盛業の骨なのだ。経済感情、或いは経済感覚の発達という面から観察すれば、人は取引商より鋭敏な群生の長者を見つけ出せないだろう。彼は情報の調和以外には何も生産方法を持たないが、代わりに最大の利益を享受することにかけては如何なる欠点も見出だしえない能力を維持している。長期的な文明史の潮流は、にも係わらずこの集合または場合によればその階級を最も先に不幸な運命で処する筈である。社会学の教えるところに基づくなら人は、群生にあって中間的な形質というものはその極度の完成度という一部例外を除けば、普通には保存されないのだと経験的に帰納できる。中庸は淘汰の規則にとっては希である、というが為だけに真、乃至もっとも完全な意味で美なのであって、もし中庸が多数派になればそれば凡庸に堕するのだ。
だから、仮に現代という形がどうそのあからさまな差別化や不平等を装飾の華美として誇示していてあれ、経済的合目的性は必ず被淘汰をへるべき、絶滅する未然の前兆なのである。というにも、群的中庸の最たる特徴は社会集団が商取引を盛んに行っているという仲介層の自己欺瞞を派手派手しい看板で宣伝するに過ぎないのである。かれらの目立ちかたは多くの観衆を、通り過ぎゆく旅人の足をしばし止めずには置かない。だがそれも束の間だ。住む為には困難を極める非生産的仲介者の街は、十分な才能を持った特殊な形質の持ち主をかれらなりの価値意識に則り、役立たずの穀潰しと銘打ち排除するだろう。資本主義はこの長期の見解に立てば、固定資本となりがちな幾つかの共通財を物好きの忙事に委せて効率よく処理させる為に工夫された過渡期のシステムだったと見なせる。かれら資本家は取引商、小売商、卸売商、という生産者の上に乗りかかる媒酌員を流動資本の装飾業者として雇い殖やす牧場主であって、その終局の方針は組織だった活動を効用の面から功利化すること(使用者思想、utilitarianism)であった。
学究的な個性にだけは先に啓かれる風景は、社会の福祉全般という審美的群生の増大が射利か名声を求める卑屈な社会階層の犠牲者の心情を以て巧妙に、大幅に過剰評価させた利益を示して特有の価値観を持たない社交的集団を極度な合同労働ディスプレイへと尋常に導き、忙殺という極めて安寧で非・革命的なルートを辿って徐ろにその野育ちらしい余分な精力を削ぎ落とす知恵の産物である。この点でも資本制はかんがえうる限り流血を見ないで済む維持された漸進的社会変革の思想であり、他のどの社会思想、共産主義、社会主義、自由主義、原理主義、福祉主義すらよりも優れて、ということは他の群生に先んじて、公共の福利厚生を助けるのに有効だろう。
商権の擁護、商務の倫理性は正にこの観点から今日主張されるのであって、必ずしも万世に全面的な肯定ではない。現実には邪心のかけらを含まない商いということは決して見当たらないであろう。もし誰かが善意からあきないを営むなら、彼は嘗ての聖者の言を入れて慈善を業としただろうから。
道徳の立場からは、けれども、商務の有する独占支配の側面を合理化できないのである。流通の円滑というそのなりわいには決して肯首しきれない卑劣さの芽生えがつねに付き纏う。掠め取る能率へと取引差額の効用は還元され易く、したがって一般に、商業集団へは何らかの政治的調整がなければその上前が他の生産者が斉す実質の価値容量に較べて不利を被る例がない。非生産的仲介者という商人蔑視の根底にある考え方には社会集団が生産的であればあるほど、その売買をつかさどる群がぶら下がるほかない、というあきらめの空気が欠かされない。実際に、純粋な取引商は希少と豊富との時場価格差をのみ利用して、財貨の流通経路を資本流動性の増大という大目的に逸ることを最も得意とした形質の持ち主である。そして彼らにとっては群生の過不足を見分けてそれを仕事へと援用するのが返礼を省く盛業の骨なのだ。経済感情、或いは経済感覚の発達という面から観察すれば、人は取引商より鋭敏な群生の長者を見つけ出せないだろう。彼は情報の調和以外には何も生産方法を持たないが、代わりに最大の利益を享受することにかけては如何なる欠点も見出だしえない能力を維持している。長期的な文明史の潮流は、にも係わらずこの集合または場合によればその階級を最も先に不幸な運命で処する筈である。社会学の教えるところに基づくなら人は、群生にあって中間的な形質というものはその極度の完成度という一部例外を除けば、普通には保存されないのだと経験的に帰納できる。中庸は淘汰の規則にとっては希である、というが為だけに真、乃至もっとも完全な意味で美なのであって、もし中庸が多数派になればそれば凡庸に堕するのだ。
だから、仮に現代という形がどうそのあからさまな差別化や不平等を装飾の華美として誇示していてあれ、経済的合目的性は必ず被淘汰をへるべき、絶滅する未然の前兆なのである。というにも、群的中庸の最たる特徴は社会集団が商取引を盛んに行っているという仲介層の自己欺瞞を派手派手しい看板で宣伝するに過ぎないのである。かれらの目立ちかたは多くの観衆を、通り過ぎゆく旅人の足をしばし止めずには置かない。だがそれも束の間だ。住む為には困難を極める非生産的仲介者の街は、十分な才能を持った特殊な形質の持ち主をかれらなりの価値意識に則り、役立たずの穀潰しと銘打ち排除するだろう。資本主義はこの長期の見解に立てば、固定資本となりがちな幾つかの共通財を物好きの忙事に委せて効率よく処理させる為に工夫された過渡期のシステムだったと見なせる。かれら資本家は取引商、小売商、卸売商、という生産者の上に乗りかかる媒酌員を流動資本の装飾業者として雇い殖やす牧場主であって、その終局の方針は組織だった活動を効用の面から功利化すること(使用者思想、utilitarianism)であった。
学究的な個性にだけは先に啓かれる風景は、社会の福祉全般という審美的群生の増大が射利か名声を求める卑屈な社会階層の犠牲者の心情を以て巧妙に、大幅に過剰評価させた利益を示して特有の価値観を持たない社交的集団を極度な合同労働ディスプレイへと尋常に導き、忙殺という極めて安寧で非・革命的なルートを辿って徐ろにその野育ちらしい余分な精力を削ぎ落とす知恵の産物である。この点でも資本制はかんがえうる限り流血を見ないで済む維持された漸進的社会変革の思想であり、他のどの社会思想、共産主義、社会主義、自由主義、原理主義、福祉主義すらよりも優れて、ということは他の群生に先んじて、公共の福利厚生を助けるのに有効だろう。
商権の擁護、商務の倫理性は正にこの観点から今日主張されるのであって、必ずしも万世に全面的な肯定ではない。現実には邪心のかけらを含まない商いということは決して見当たらないであろう。もし誰かが善意からあきないを営むなら、彼は嘗ての聖者の言を入れて慈善を業としただろうから。
2009年5月4日
経済学
情報に対して低い値段しか付けない習性のある国民は、それに如何なる制限も設けない民に比べれば次第に、情報産業化の上で遅れを取るだろう。資本主義の建設は生活の為の便宜品を人々の射利心に頼んで円滑に浸透させることにかなり成功した他方で、主たる需要を物質に限定させるという一時の習慣をほとんど自明の理とする作為を否定しきれていない。いいかえると、物質文明の迅速な建設作業には役立った資本財の効き目は、第三次産業以降の社会的福利厚生にはどの程度有効か、いまだ未確定なままだ。
実際、人々はもし暮らしに十分な便宜品を取得すれば、装飾のための奢侈品を求めなければならない。情報という概念はむしろこの為に有効なものであって、たとえば料亭での店員のもてなしのこころ、態度、物腰といった奉仕産業としての側面は専らこの情報の度合いとしてのみ数量的に測定できる。ケインズがかれの経済学体系の実質的な結論として主張する様に、一国の資本財がすべての流動的需要を円滑に満たす方法として十分潤沢となった暁にその期待収益が徐々に低減し、福祉の理念にとって、という意味で準定常的社会があらわれるとすると、こういう経済文明にもっとも先に到達できるのは、従って最も富裕な厚生設備を社会資本へ蓄積できるのは資本主義の理念を生活財のすべての面へ価値化できた様な文明系となるだろう。つまり、価値尺度としての資本を我々が現在知っている限り最高の社会資本概念である情報の全体集合へさえ適用しきれた系、ということだ。
この斟酌が妥当なら、情報への課金は極めてゆっくりとしかその価格化が進まない様な出遅れた物質主義の社会でよりも、いち早く精神文明の側面をも一定の定量的価値尺度で売買しうるシステムを構築できた系での方が遥かに有利な経路を辿って福祉もろとも増大する筈である。
物質にしか価格を宛てない習慣は既に廃れ出した過渡期の陋弊であり、モノを売買する商業がコトのそれよりも次第に産業的地位をおちぶれてしまうのにも決して理由がないのではない。物質交換に実体があったとすれば、それが古代人の物々交換の際に巨大な石を以て替えたのと同じ価値尺度の偏差が共通需要の考えに関して真だったという近代化の象徴に過ぎないのだから。我々は純粋に感覚的ではない理念価格を認めている。同様のことは寄付財とか銘柄とか多くの物質文明的側面にも知らずしらず忍び込んでいた産業価格の転換だった。よって、一方で工業適応を至上命題としてきた物質文明的近代化はそのままの推移は不可能と見るべきだ。株を守っていくら兎を待ったところで、途上国への投資を除けば一切の便宜品需要が完済されてしまえば先進国内の産業形態上は、工業社会は消えてなくなるに違いない。我々は炭鉱跡を探検する情報にいまなお価値を認めるがすでに石炭を主要な財源とは目さない。では工場に関しても、果てはオフィスワークに際してもそうなるだろう。
工業文化はひとりでその担い手に回収される費用の低減とともに衰微するであろう。代わりに、第三次産業以上の流動性は増大し、社会の多くの場面もその資本投機を主業として営まれるだろう。無駄の制度化という概念はよって、工業文化の側面のみへ資本財が集中されるという偏見にもとづいて勘違いされた誤解である。装飾品は実用性をもたないところに特徴があるのだから。
実際、人々はもし暮らしに十分な便宜品を取得すれば、装飾のための奢侈品を求めなければならない。情報という概念はむしろこの為に有効なものであって、たとえば料亭での店員のもてなしのこころ、態度、物腰といった奉仕産業としての側面は専らこの情報の度合いとしてのみ数量的に測定できる。ケインズがかれの経済学体系の実質的な結論として主張する様に、一国の資本財がすべての流動的需要を円滑に満たす方法として十分潤沢となった暁にその期待収益が徐々に低減し、福祉の理念にとって、という意味で準定常的社会があらわれるとすると、こういう経済文明にもっとも先に到達できるのは、従って最も富裕な厚生設備を社会資本へ蓄積できるのは資本主義の理念を生活財のすべての面へ価値化できた様な文明系となるだろう。つまり、価値尺度としての資本を我々が現在知っている限り最高の社会資本概念である情報の全体集合へさえ適用しきれた系、ということだ。
この斟酌が妥当なら、情報への課金は極めてゆっくりとしかその価格化が進まない様な出遅れた物質主義の社会でよりも、いち早く精神文明の側面をも一定の定量的価値尺度で売買しうるシステムを構築できた系での方が遥かに有利な経路を辿って福祉もろとも増大する筈である。
物質にしか価格を宛てない習慣は既に廃れ出した過渡期の陋弊であり、モノを売買する商業がコトのそれよりも次第に産業的地位をおちぶれてしまうのにも決して理由がないのではない。物質交換に実体があったとすれば、それが古代人の物々交換の際に巨大な石を以て替えたのと同じ価値尺度の偏差が共通需要の考えに関して真だったという近代化の象徴に過ぎないのだから。我々は純粋に感覚的ではない理念価格を認めている。同様のことは寄付財とか銘柄とか多くの物質文明的側面にも知らずしらず忍び込んでいた産業価格の転換だった。よって、一方で工業適応を至上命題としてきた物質文明的近代化はそのままの推移は不可能と見るべきだ。株を守っていくら兎を待ったところで、途上国への投資を除けば一切の便宜品需要が完済されてしまえば先進国内の産業形態上は、工業社会は消えてなくなるに違いない。我々は炭鉱跡を探検する情報にいまなお価値を認めるがすでに石炭を主要な財源とは目さない。では工場に関しても、果てはオフィスワークに際してもそうなるだろう。
工業文化はひとりでその担い手に回収される費用の低減とともに衰微するであろう。代わりに、第三次産業以上の流動性は増大し、社会の多くの場面もその資本投機を主業として営まれるだろう。無駄の制度化という概念はよって、工業文化の側面のみへ資本財が集中されるという偏見にもとづいて勘違いされた誤解である。装飾品は実用性をもたないところに特徴があるのだから。
2009年4月30日
政策綱領
われおもわくば、“天下りという一方通行”が官尊民卑の陋習と相俟って或る種の弊害――愚民政策を自慢するという民主主義にあるまじき中華趣味的態度表明――をともなっているのが、儒学の国教化のくびきを背負い込んだ日本政府の一大欠陥だと。
なるほど階級制のつよいイギリスの場合に散見されるように、専門官僚が非常に緻密な細部の知識をともなって中央管理を容易にするということも、ないわけではない。中国の急激な経済発展には果断な統制がよい面を示しているらしい節もある。
問題は、日本人の大衆一般が政治に無知であるということ、さらには儒教的愚民観が後を引いて、あしきことにはその奇妙な無関心に馴れてしまっているということではないだろうか。
ちょうど異常に高圧的な親のもとで育った息子が反抗期には無目的の非行に走りやすいのを悟るのなら、国民を見下ろし日々おろかにするのではなしに、たとえ少しずつでも啓発していく政策案が族議員のはびこる現状の国会でもそろそろ、真剣に考えられるべきではないか。
この点で参考に足るのはジェファソンの挑戦の後を継いでジャクソン大統領が行った官僚制脱構築の工夫で、和風に云うと、少なくとも内閣官房以上にはみずからの信頼する民間人を抜擢するという習慣づけであった。
――日本の国政の実態は、衆目が一致するところ官僚制度の最たるものでいつもの‘大蔵族’ののけ反り加減といい、首相は選挙に気を取られがちなその勉強時間の不足もあいまって殆ど、強権をうばわれがちであった。また、アメリカのようなテレビ劇場は世論をわがままに扇動する衆愚政への兆しが感じられないではない。
ここから、飽くまでも奇襲なのでつねにうまくいくとは限らないが、『民上(たみのぼ)り』というまったく目新しい方途を用いて、並み居る高級官僚の出鼻をくじく伊達な天才が一度は出現してもいいのではないかと思われる。
――指先の一任でクビをすげ替えるという抜擢人事の効果は、お雇い外国人をつかった大企業経営の場合にあるように、情実人事の馴れ合いを破壊する威力がある。日本的な和の精神にとっては神経を逆なでするが如き強権発動の実証だからだ。
(このアイデアには二つの徳がある。
第一に民をのぼらすという日本史に類例のない奇襲は千尋の谷底へクビにした高級官僚を突き落とすライオン式教育の側面によって、在野へ政治知識を逆説的に普及させるということだ。
第二に、これを多少の反抗勢力をかえりみず幾度かくりかえせば、省庁へは内閣総理大臣の実権への畏怖が染み渡ると同時に、民間人のなかでは青雲の志が沸き立ち、普段の公共国家への奉仕が活気づく筈である。
もしそのヘッドハントが単なる人気取りだけの芸能タレント向けでなく、ある程度より若々しくてごく賢い政策通へのものであったのなら、結果的には確実なマスコミ騒動により容易に政治的関心度を啓蒙する役に立つだろう。)
(害があるとすれば、地方政治では既に現実となりつつあるように、下手な人事で大衆の人気にこびる行政的実力が何等ない扇動政治化、テレビタレント化の腐敗をすすめてしまう危険。もう一方ではあまりに急激なリストラで官僚へ過剰な心理的不安をあたえ、官庁内部で無駄な競争意識や仲間割れを起こさせてしまう潜在的可能性だろう。
この欠点については、西郷隆盛の訓戒にあるように「功労には賞を、見識には位を与えよ」という人事哲学がよき批判を加えてくれるだろう。つまり、たまたま功名をたてただけの燕雀を鴻鵠へ仕立てるのはまず無理というべきだ。それはいくら果敢であっても、ジャンヌダルクにはルイ14世の帝王学がまなばれる環境条件がなかったからである。)
なるほど階級制のつよいイギリスの場合に散見されるように、専門官僚が非常に緻密な細部の知識をともなって中央管理を容易にするということも、ないわけではない。中国の急激な経済発展には果断な統制がよい面を示しているらしい節もある。
問題は、日本人の大衆一般が政治に無知であるということ、さらには儒教的愚民観が後を引いて、あしきことにはその奇妙な無関心に馴れてしまっているということではないだろうか。
ちょうど異常に高圧的な親のもとで育った息子が反抗期には無目的の非行に走りやすいのを悟るのなら、国民を見下ろし日々おろかにするのではなしに、たとえ少しずつでも啓発していく政策案が族議員のはびこる現状の国会でもそろそろ、真剣に考えられるべきではないか。
この点で参考に足るのはジェファソンの挑戦の後を継いでジャクソン大統領が行った官僚制脱構築の工夫で、和風に云うと、少なくとも内閣官房以上にはみずからの信頼する民間人を抜擢するという習慣づけであった。
――日本の国政の実態は、衆目が一致するところ官僚制度の最たるものでいつもの‘大蔵族’ののけ反り加減といい、首相は選挙に気を取られがちなその勉強時間の不足もあいまって殆ど、強権をうばわれがちであった。また、アメリカのようなテレビ劇場は世論をわがままに扇動する衆愚政への兆しが感じられないではない。
ここから、飽くまでも奇襲なのでつねにうまくいくとは限らないが、『民上(たみのぼ)り』というまったく目新しい方途を用いて、並み居る高級官僚の出鼻をくじく伊達な天才が一度は出現してもいいのではないかと思われる。
――指先の一任でクビをすげ替えるという抜擢人事の効果は、お雇い外国人をつかった大企業経営の場合にあるように、情実人事の馴れ合いを破壊する威力がある。日本的な和の精神にとっては神経を逆なでするが如き強権発動の実証だからだ。
(このアイデアには二つの徳がある。
第一に民をのぼらすという日本史に類例のない奇襲は千尋の谷底へクビにした高級官僚を突き落とすライオン式教育の側面によって、在野へ政治知識を逆説的に普及させるということだ。
第二に、これを多少の反抗勢力をかえりみず幾度かくりかえせば、省庁へは内閣総理大臣の実権への畏怖が染み渡ると同時に、民間人のなかでは青雲の志が沸き立ち、普段の公共国家への奉仕が活気づく筈である。
もしそのヘッドハントが単なる人気取りだけの芸能タレント向けでなく、ある程度より若々しくてごく賢い政策通へのものであったのなら、結果的には確実なマスコミ騒動により容易に政治的関心度を啓蒙する役に立つだろう。)
(害があるとすれば、地方政治では既に現実となりつつあるように、下手な人事で大衆の人気にこびる行政的実力が何等ない扇動政治化、テレビタレント化の腐敗をすすめてしまう危険。もう一方ではあまりに急激なリストラで官僚へ過剰な心理的不安をあたえ、官庁内部で無駄な競争意識や仲間割れを起こさせてしまう潜在的可能性だろう。
この欠点については、西郷隆盛の訓戒にあるように「功労には賞を、見識には位を与えよ」という人事哲学がよき批判を加えてくれるだろう。つまり、たまたま功名をたてただけの燕雀を鴻鵠へ仕立てるのはまず無理というべきだ。それはいくら果敢であっても、ジャンヌダルクにはルイ14世の帝王学がまなばれる環境条件がなかったからである。)
2009年4月29日
経営訓
チューブ状の食糧品で、昔ながらの形に拘る余りに貴重な天恵を無駄遣いさせるものがある。
歯磨き粉はほとんど換わったが、マヨネーズなどにはまだ「逆さ置き」で最後の一滴まで自然に使い切るようになっていないものが多い。
不況不況と騒ぐ前に、生産者の命綱を預けられた経営をもって任じるものは、その自己責任で灯台もとから毎朝毎朝一つ一つ点検しなおさなければならない。天の恵みに外ならない生産物をみずから無駄遣いしながら、小売り商人式に外貨獲得の下賎な競争でよのなかを弱肉強食のありさまにしてはいけない。
ユニクロの柳井社長はあれだけのあふれる財を築き上げながらつねづね自社のシャツを着て人前におられる。そのように徹底した誇りをもった売り物を大事にする者が損を買うなど先ずありえないと知るべきだ。
歯磨き粉はほとんど換わったが、マヨネーズなどにはまだ「逆さ置き」で最後の一滴まで自然に使い切るようになっていないものが多い。
不況不況と騒ぐ前に、生産者の命綱を預けられた経営をもって任じるものは、その自己責任で灯台もとから毎朝毎朝一つ一つ点検しなおさなければならない。天の恵みに外ならない生産物をみずから無駄遣いしながら、小売り商人式に外貨獲得の下賎な競争でよのなかを弱肉強食のありさまにしてはいけない。
ユニクロの柳井社長はあれだけのあふれる財を築き上げながらつねづね自社のシャツを着て人前におられる。そのように徹底した誇りをもった売り物を大事にする者が損を買うなど先ずありえないと知るべきだ。
最高裁判長について
2009年4月29日。熊本県天草市の小学2年の男児生徒へ体罰を与えた暴力教師を最高裁が赦す。
この悪魔の如き裁判長は学校教育法11条をこえて暴行罪の正当化を行ったに過ぎないだろう。
この悪魔の如き裁判長は学校教育法11条をこえて暴行罪の正当化を行ったに過ぎないだろう。
2009年4月26日
2009年4月25日
経済学
スミス的古典派の素朴な需給均衡論はそれが作物へ長期保存の効かない場合の農業の法則であり、ケインズ的現代派の失業発生論は製品の技革速度が相応にはやい工業分野に関しての理論なのだ、とまとめあげることができるだろう。仮に、必需品をスミス財、便宜財をケインズ財、奢侈品をスズキ財と置く。すると、スズキ係数(生活費全体に対する情報のみに割く百分率。すなわちInformation cost/Cost×100%)はこの両方には属さない産業の豊かさを示す一つの指標として用い得る。そしてスミスの見識にしたがって便宜と奢侈の品に関してはいかなる生産の自然的上限も設けられていないとすると、スズキ係数はエンゲル係数に対する生計的付加価値の総額をしめすことになるだろう。もしエンゲル係数をここでFood cost/Cost×100%と定義すると、
スズキ係数/エンゲル係数=Information cost/Food cost×100%
は実質的な工業的便宜品への支出を基礎付ける指標式(エンゲル分のスズキ係数、エンゲル\スズキ係数)となる。
そしてケインズの理論が実際になりたつのは、この食費に対する情報費という限定的な条件下においてのみであるだろう。いいかえると、失業率が発生するのは社会が有する労働力供給がそれを吸収する雇用需要に合致しない場合だけであって、なおかつそれは工業的便宜品の社会的価値の毀損が生じない付加価値の差延量においてのみである。ここから、一定時間の製品価格担保をNew timeと置くと
determination I/determination F = New time
∴ dI/dF∫[0→N]f(N2)dN×100%=f(N)%
の積分係数は単位時間あたりの製品担保価格比率を変化量としてあらわすことになる。これを新品係数と呼ぶと、我々はこの積分係数の逆演算によって失業率比例を図示として予測的に割り出すことができるだろう。たとえば120円の食べ物をこの関数で仮に計測すると、製品の情報料として20円を差し引き、その消費期限を3年で概算すれば
d20/d100∫[0→3]f(32)d3×100%
=20 × 1/3 × 27%
=160%
よって、この食べ物を製造から3年以内に消費することは新品係数において+60%の価値担保が見込めると考えられる。裏を返せば、3年間で消費できないときは6割の価値毀損を被ることになる。
同様の計算でマクロ経済における工業製品の付加価値も差延する変化量として概算できる。そして実質的には、この新品係数が高ければ高いほどその製品の価格は製造業にとり、また失業の未然防止に有利なのである。なぜなら時間が経っても毀損しない製品生産はそれが便宜的であればあるほど蓄積し、次の事業のために余裕を、すなわち内部留保を約束するだろう。
スズキ係数/エンゲル係数=Information cost/Food cost×100%
は実質的な工業的便宜品への支出を基礎付ける指標式(エンゲル分のスズキ係数、エンゲル\スズキ係数)となる。
そしてケインズの理論が実際になりたつのは、この食費に対する情報費という限定的な条件下においてのみであるだろう。いいかえると、失業率が発生するのは社会が有する労働力供給がそれを吸収する雇用需要に合致しない場合だけであって、なおかつそれは工業的便宜品の社会的価値の毀損が生じない付加価値の差延量においてのみである。ここから、一定時間の製品価格担保をNew timeと置くと
determination I/determination F = New time
∴ dI/dF∫[0→N]f(N2)dN×100%=f(N)%
の積分係数は単位時間あたりの製品担保価格比率を変化量としてあらわすことになる。これを新品係数と呼ぶと、我々はこの積分係数の逆演算によって失業率比例を図示として予測的に割り出すことができるだろう。たとえば120円の食べ物をこの関数で仮に計測すると、製品の情報料として20円を差し引き、その消費期限を3年で概算すれば
d20/d100∫[0→3]f(32)d3×100%
=20 × 1/3 × 27%
=160%
よって、この食べ物を製造から3年以内に消費することは新品係数において+60%の価値担保が見込めると考えられる。裏を返せば、3年間で消費できないときは6割の価値毀損を被ることになる。
同様の計算でマクロ経済における工業製品の付加価値も差延する変化量として概算できる。そして実質的には、この新品係数が高ければ高いほどその製品の価格は製造業にとり、また失業の未然防止に有利なのである。なぜなら時間が経っても毀損しない製品生産はそれが便宜的であればあるほど蓄積し、次の事業のために余裕を、すなわち内部留保を約束するだろう。
2009年4月24日
北朝鮮独裁政権の実践的分析
キムジョンイルは老い方をさとり世襲の権威を無理に作り上げるため、国内へは科学文明の完成度を虚飾し、国外へはその実力のなさを隠蔽しつつ体面をたもつ言い訳で“ミサイル威嚇”を方便したと予想できる。
実際にはほとんど日本からの経済援助で生活の豪勢を保っている腰抜け主将なのである。なので(仮想敵国へも含む)国内外への報道姿勢が裏返っていても男として恥じる気配がない。
そして窮鼠猫を噛むという事実からは、核カードの禁じ手を完全に封鎖しながら独裁者を捕獲または海外逃亡させて別のかしらを建てるべきだ。それは現況経緯からすれば韓国民が相応しい。
ロシアとの関係修復を試みだした臆病加減をみれば、いつでも「後ろへの逃げ道」は空けておく方がいいと思える。スカンクですらそうなのだから、気が狂った小人へでさえ五分の魂を軽んじるべきではない。
だから敵の敵は仮想の味方というジャンケン式の道理から言っても、期待できる「非核武装の威厳」による合法的圧政に際して(共産主義をさえ貫けない場当たり的の傾向があるロシアはともかく)中国との同調は敢えて行わないほうが賢そうである。目的は決定的危険の可能性を未然に取り除く『核の去勢』にあって、決して当面の雑魚棟梁への必要以上の執着ではない。
実際にはほとんど日本からの経済援助で生活の豪勢を保っている腰抜け主将なのである。なので(仮想敵国へも含む)国内外への報道姿勢が裏返っていても男として恥じる気配がない。
そして窮鼠猫を噛むという事実からは、核カードの禁じ手を完全に封鎖しながら独裁者を捕獲または海外逃亡させて別のかしらを建てるべきだ。それは現況経緯からすれば韓国民が相応しい。
ロシアとの関係修復を試みだした臆病加減をみれば、いつでも「後ろへの逃げ道」は空けておく方がいいと思える。スカンクですらそうなのだから、気が狂った小人へでさえ五分の魂を軽んじるべきではない。
だから敵の敵は仮想の味方というジャンケン式の道理から言っても、期待できる「非核武装の威厳」による合法的圧政に際して(共産主義をさえ貫けない場当たり的の傾向があるロシアはともかく)中国との同調は敢えて行わないほうが賢そうである。目的は決定的危険の可能性を未然に取り除く『核の去勢』にあって、決して当面の雑魚棟梁への必要以上の執着ではない。
2009年4月23日
メタン革命以後の最有力株
ほぼ無尽蔵で甚大な電力が補償された商業環境では必然に、労働力需要は減退する。なぜならこの溢れる仕事率は単純作業の自動化を急速に推進させるからだ。
(たとえばユニクロやギャップの登場で潰滅した中小の軽織物産業のように、幾つかの最もすぐれて自動化に成功した大企業へと資本の回転は集中するだろう。)
そこで最大の進歩が見込めるのは情報産業だろう。もし単純労働の必要が少なくなればなるほど、我々の能力は如何に密度の高い複雑な情報を機械へ行わせ得るか、すなわち「経営性」に結集していかざるをえない。
だから資本制の元では経営者層へ資本および能力としての国民所得が必然に集中することとなる。その偏差は一般に、なんらかの調整機能が働かない限りは永久に縮まらないだろう。
――つまり、富の集中は電力多産にともなって必然に増大する。肉体労働者層がこの面で得を被ることはその有する家電製品の省運転代金という部分以外には求まらないのだから。そしてそれは機械化の得点を独り占めできる経営者層と比較になる規模の家計負担軽減ではない。
もしこの道理が国民の多数派にも認知される時が来れば、彼らはどうしても不平等への対抗として「福祉国家」を要求しなければならなくなろう。
各種の公共財を国有か公有として無償化することで自らの以前と変わらない程度の分け前以上はなんとか守ろうとするだろう。さもなくば彼らの失業は疑えないのだから。
我々はこの予想を元に、現状から「教育産業」が各種情報産業のなかではもっとも先に進んで需要およびその学位提供価格の高くなる将来を見通せるのである。というのも、仮に大学教育までが無料となれば経営力を身に着けるか、その高度情報産業社会環境での希少化した雇用需要へ最大に有利となる小数の名門への就学または学位取得希望がみるみるうちに増大するからである。
――ある程度より賢明で、子孫への投資を惜しまないくらいの財産をもつ中流以上の国民ならばその最低級よりは高尚な地位を彼等が十分に成人するまでなんらかの教育的配慮で保証したくなるだろう。国家の支配が一元的な政府下でつよい調整機能から世襲を実質的に不利とすればするほど、評判また特権階級の造られ難い常なる能力間競争による急速な実務経験値の暴落から同系列の跡継ぎが難しいほどそうだろう。ゲイツ家が三代続けてマイクロソフトを経営するよりは針の穴を、あるいはハーバードの門を彼等みなが通る方が時代の更新速度にずっとかなっていそうだ。
資本制はそのままで工業的前進を続ければ必然に『特権教育の価格』をつりあげるのである。ここから、ブランド校というものがメタン革命後のしばらく資本を集中投資する為には儲けの上がる最速の判断となるだろう。そこには某国の富裕層の多ければ多いほど、流出する留学生を予想して海外投資をも含められる事情だろう。
中国から日本への留学は米国へのそれに継ぐ数であろうから、国内の小数のブランド校はしばし異常な騰貴を見るだろう。
(たとえばユニクロやギャップの登場で潰滅した中小の軽織物産業のように、幾つかの最もすぐれて自動化に成功した大企業へと資本の回転は集中するだろう。)
そこで最大の進歩が見込めるのは情報産業だろう。もし単純労働の必要が少なくなればなるほど、我々の能力は如何に密度の高い複雑な情報を機械へ行わせ得るか、すなわち「経営性」に結集していかざるをえない。
だから資本制の元では経営者層へ資本および能力としての国民所得が必然に集中することとなる。その偏差は一般に、なんらかの調整機能が働かない限りは永久に縮まらないだろう。
――つまり、富の集中は電力多産にともなって必然に増大する。肉体労働者層がこの面で得を被ることはその有する家電製品の省運転代金という部分以外には求まらないのだから。そしてそれは機械化の得点を独り占めできる経営者層と比較になる規模の家計負担軽減ではない。
もしこの道理が国民の多数派にも認知される時が来れば、彼らはどうしても不平等への対抗として「福祉国家」を要求しなければならなくなろう。
各種の公共財を国有か公有として無償化することで自らの以前と変わらない程度の分け前以上はなんとか守ろうとするだろう。さもなくば彼らの失業は疑えないのだから。
我々はこの予想を元に、現状から「教育産業」が各種情報産業のなかではもっとも先に進んで需要およびその学位提供価格の高くなる将来を見通せるのである。というのも、仮に大学教育までが無料となれば経営力を身に着けるか、その高度情報産業社会環境での希少化した雇用需要へ最大に有利となる小数の名門への就学または学位取得希望がみるみるうちに増大するからである。
――ある程度より賢明で、子孫への投資を惜しまないくらいの財産をもつ中流以上の国民ならばその最低級よりは高尚な地位を彼等が十分に成人するまでなんらかの教育的配慮で保証したくなるだろう。国家の支配が一元的な政府下でつよい調整機能から世襲を実質的に不利とすればするほど、評判また特権階級の造られ難い常なる能力間競争による急速な実務経験値の暴落から同系列の跡継ぎが難しいほどそうだろう。ゲイツ家が三代続けてマイクロソフトを経営するよりは針の穴を、あるいはハーバードの門を彼等みなが通る方が時代の更新速度にずっとかなっていそうだ。
資本制はそのままで工業的前進を続ければ必然に『特権教育の価格』をつりあげるのである。ここから、ブランド校というものがメタン革命後のしばらく資本を集中投資する為には儲けの上がる最速の判断となるだろう。そこには某国の富裕層の多ければ多いほど、流出する留学生を予想して海外投資をも含められる事情だろう。
中国から日本への留学は米国へのそれに継ぐ数であろうから、国内の小数のブランド校はしばし異常な騰貴を見るだろう。
国防の将来
メタン発電の時代が工業化された島国へほとんど莫大な資源を約束するのは目に見えている。
すると、いかなる立国でさえこの富裕を羨み、可能ならばかれらから分け前を引き出すか、あるいは移民や侵略によって富を分割しようと企むだろう。産業革命後のイギリスを考えれば防衛力そのものは決して無用とは思えない。
もし米国が産業の進退に応じて駐在軍備を省力する政策を決定すれば、自衛隊は解釈改憲的差延、或いは「建前」の上で主要な護り手とならざるをえない。したがって今後の国防の課題は如何にして警察権力との一致を計るかにあるだろう。
どの国家も警察力を否定しておらず、また日本国憲法も文民統制の性格上そうしていない。
日本人の歴史がはっきりと示していることに、史上で文官が長期にわたって政権を維持できなかったという“育ちの野蛮さ”こそは現代の国際平和レベルでは顰蹙ものというべきだ。
絶対の確信を持って言えるのは、もし些かなりとも国民が油断すれば必ずや戦国時代から五百年にも渡る武人統治の血筋が騒ぎたち、国政を暴力革命で奪い取るだろうと。
我々はほかのどの国家よりも強烈な自制心で『文武の分権』かつ『文民統制』をはかるべきだろう。さもなくば次は国統ごと水爆以上で消し飛ばされても首長が謝れば済むどころではない。
人類史は戦争が犠牲にする人間の数量、残虐さが次第に増大する傾向をも明らかに示している。
古今でいまだ侵略統治を被らなかった強い国家は英米だけである。その理性的国防法を手本とするのは現在で最も有徳なことだろう。
すると、いかなる立国でさえこの富裕を羨み、可能ならばかれらから分け前を引き出すか、あるいは移民や侵略によって富を分割しようと企むだろう。産業革命後のイギリスを考えれば防衛力そのものは決して無用とは思えない。
もし米国が産業の進退に応じて駐在軍備を省力する政策を決定すれば、自衛隊は解釈改憲的差延、或いは「建前」の上で主要な護り手とならざるをえない。したがって今後の国防の課題は如何にして警察権力との一致を計るかにあるだろう。
どの国家も警察力を否定しておらず、また日本国憲法も文民統制の性格上そうしていない。
日本人の歴史がはっきりと示していることに、史上で文官が長期にわたって政権を維持できなかったという“育ちの野蛮さ”こそは現代の国際平和レベルでは顰蹙ものというべきだ。
絶対の確信を持って言えるのは、もし些かなりとも国民が油断すれば必ずや戦国時代から五百年にも渡る武人統治の血筋が騒ぎたち、国政を暴力革命で奪い取るだろうと。
我々はほかのどの国家よりも強烈な自制心で『文武の分権』かつ『文民統制』をはかるべきだろう。さもなくば次は国統ごと水爆以上で消し飛ばされても首長が謝れば済むどころではない。
人類史は戦争が犠牲にする人間の数量、残虐さが次第に増大する傾向をも明らかに示している。
古今でいまだ侵略統治を被らなかった強い国家は英米だけである。その理性的国防法を手本とするのは現在で最も有徳なことだろう。
2009年4月22日
走者
春雨のおと
へやの緑に水やり
硝子越しに聴く
土砂降りの中を
颯爽と走り抜けるランナー
世のつねを駆け抜ける戦い
飛ぶ鳥のあとへ
なにひとつのこらない
明けたら儚いゆめの上を
なにも見えない
先行きなく曇った空の下で
孤独に息を嗄らす
誰も感じない苦痛を
腹の底に潜めた侭
真っ暗な世の中を過ぎ行くだけだ
流れ去るだけの今を
繰り返す大河が
僕の耳をつんざく
へやの緑に水やり
硝子越しに聴く
土砂降りの中を
颯爽と走り抜けるランナー
世のつねを駆け抜ける戦い
飛ぶ鳥のあとへ
なにひとつのこらない
明けたら儚いゆめの上を
なにも見えない
先行きなく曇った空の下で
孤独に息を嗄らす
誰も感じない苦痛を
腹の底に潜めた侭
真っ暗な世の中を過ぎ行くだけだ
流れ去るだけの今を
繰り返す大河が
僕の耳をつんざく
東京川柳
穀潰しつつ都民にふりかけ血税や知事の
おごるよ風俗街
天皇島は今日も鬼畜の天国です
またまた地方進出!淫乱撮って売り捌けTOKYO
芥川死んだら後は構うまい
みだらな糞女史たきつけよ愁波を贈らせご満悦
若ければ若いほど買うぞ猥褻罪
文芸検閲閣下なるぞ
てのひらをかえしたようにほまれ買う
カネ撒き走らす悪路上
喘息必須の排気ガスリンピックや
まことおもぐろし
おごるよ風俗街
天皇島は今日も鬼畜の天国です
またまた地方進出!淫乱撮って売り捌けTOKYO
芥川死んだら後は構うまい
みだらな糞女史たきつけよ愁波を贈らせご満悦
若ければ若いほど買うぞ猥褻罪
文芸検閲閣下なるぞ
てのひらをかえしたようにほまれ買う
カネ撒き走らす悪路上
喘息必須の排気ガスリンピックや
まことおもぐろし
2009年4月21日
常陸国と武蔵国
鮎川の夏の始めに遊びしほとりで
並んでコンビニのざる蕎麦を食べる嬉しさよ
誰もいない海岸線を撫でる風が
停めた自転車をかすかに湿らせて行く
テレビの中で騒ぎ回る大都会の光景
段々と似てくる下らない月9のドラマみたく
我々の町を変えていく力
海の向こうから聞こえない音楽を
ただ一色で塗りかえてしまう
畦道はアスファルトで舗装される
姦淫の雑誌が回し読みされる
偶像がホルモン剤を打って女装する
当たり前の姿を訳もなく卑下させる
僕は名前もなく声も押さえ込まれた
一羽の孤独なからすになり
右翼の宣伝カーが耳を割るがなり声で
渋谷交差点を鈍行で渡るのを見る
清川はお笑い芸人に潰されて
代わりに京都土産の芸者屋が建つ
極東に渡来した黄色人種が
金儲けするためにあの川のほとりを潰した
恥という観念のない汚れた心の笑みで
タレント知事が僕の目の前を通りすがる
後から何人も何人も
東京湾から這い出してきたへどろが笑う
なんの罪もなかったんだろうに
皇居を護る名目で
情報汚染をファンタジー化するのだ
僕は名もない土砂降りに濡れたからすとして
今ではどぶ水を流しゆく川を眺める
だれからも省みられることのない
高架下の江戸川だろうに
悲しみの声さえ
君は絞り出せない
並んでコンビニのざる蕎麦を食べる嬉しさよ
誰もいない海岸線を撫でる風が
停めた自転車をかすかに湿らせて行く
テレビの中で騒ぎ回る大都会の光景
段々と似てくる下らない月9のドラマみたく
我々の町を変えていく力
海の向こうから聞こえない音楽を
ただ一色で塗りかえてしまう
畦道はアスファルトで舗装される
姦淫の雑誌が回し読みされる
偶像がホルモン剤を打って女装する
当たり前の姿を訳もなく卑下させる
僕は名前もなく声も押さえ込まれた
一羽の孤独なからすになり
右翼の宣伝カーが耳を割るがなり声で
渋谷交差点を鈍行で渡るのを見る
清川はお笑い芸人に潰されて
代わりに京都土産の芸者屋が建つ
極東に渡来した黄色人種が
金儲けするためにあの川のほとりを潰した
恥という観念のない汚れた心の笑みで
タレント知事が僕の目の前を通りすがる
後から何人も何人も
東京湾から這い出してきたへどろが笑う
なんの罪もなかったんだろうに
皇居を護る名目で
情報汚染をファンタジー化するのだ
僕は名もない土砂降りに濡れたからすとして
今ではどぶ水を流しゆく川を眺める
だれからも省みられることのない
高架下の江戸川だろうに
悲しみの声さえ
君は絞り出せない
2009年4月20日
財政論
ケインズ的修正主義は強制的有効需要の拡大で失業の救済を基本目的とする体系なのだから、慈悲からの景気づけというでもいうべきもの、つまりもともと生財の知力には有利ではない立場の層へ貴重な国家財源を無償恵与するというのは本末転倒であって、単にそのような無駄遣いは放蕩者がとるにたらない望外の贅沢に耽るよすがとなって即日消え去るにすぎず、あらたに生産的な人員を増加させるにはなにも及ばない(タナボタ浪費)。そればかりか、これらの支出対象はおよそ社会で必要悪か公には害悪とみなされているもっとも卑しいたちの奢侈品へ、少なからず需要を与えるという悪影響すら免れない。
景気対策としての有効需要拡大の適切な投機先はつねに、公共福祉を最大化させるような耐久性の高い基盤施設に限る。即ちケインズ政策は建設需要にのみ、適当なのである。なぜならば、この方法によってしかより持続性の高い就業回復は考えられないからだ。ほかの表層活動への財政投機、たとえば催し物や戦争のような仮設性の強く瞬間的に営まれるそれは、殆どが即日に消化されてしまうことから、生産の中核以下を担う肉体労働力を疲弊または不自然に沸き立たせさせこそはすれ、決して景気の回復そのものには繋がらない史実が過半だった。その最も失敗した反例に見返りのない防衛戦を張らせた元冦時の武家配置、近年ではイザナギ景気後の大阪万博で浮足立ったところへ石油危機の直撃が挙げられる。万博や五輪などは同時に都市開発や工学奨励の意味を持ち、しばし記念物を遺す点ではより建設投機に近い政策だが、かといって余裕のある時に使い込んだ財政難傾向の結末は戦時や恐慌などの緊急時に国債を発行させざるを得なくする点で最善ではない。それらはいわば財政の道楽であって、例えば偕楽園造成事業のような民間福祉を兼ねた大盤振る舞いよりは徳の面では幾分か、先憂後楽の教えに背くとも思われる。財界人の方が必需には詳しい限り。
景気対策としての有効需要拡大の適切な投機先はつねに、公共福祉を最大化させるような耐久性の高い基盤施設に限る。即ちケインズ政策は建設需要にのみ、適当なのである。なぜならば、この方法によってしかより持続性の高い就業回復は考えられないからだ。ほかの表層活動への財政投機、たとえば催し物や戦争のような仮設性の強く瞬間的に営まれるそれは、殆どが即日に消化されてしまうことから、生産の中核以下を担う肉体労働力を疲弊または不自然に沸き立たせさせこそはすれ、決して景気の回復そのものには繋がらない史実が過半だった。その最も失敗した反例に見返りのない防衛戦を張らせた元冦時の武家配置、近年ではイザナギ景気後の大阪万博で浮足立ったところへ石油危機の直撃が挙げられる。万博や五輪などは同時に都市開発や工学奨励の意味を持ち、しばし記念物を遺す点ではより建設投機に近い政策だが、かといって余裕のある時に使い込んだ財政難傾向の結末は戦時や恐慌などの緊急時に国債を発行させざるを得なくする点で最善ではない。それらはいわば財政の道楽であって、例えば偕楽園造成事業のような民間福祉を兼ねた大盤振る舞いよりは徳の面では幾分か、先憂後楽の教えに背くとも思われる。財界人の方が必需には詳しい限り。
積極的防衛戦略
憲法九条による武力の制限は、それが知謀に関する限りはなんの制限もないと説明する。
すると、日本が自らと矛盾せずに北へ先手を打つには敵国内を調度よく情報撹乱し、自滅崩壊を加速させるしかありえない。
たとえば、なんらかの「迷惑の機先」を捉えて国際世論の納得を買い、巧く米軍を出動させることが徳なのである。独裁者には最も腐敗した人格を予想して先ず間違いはなく、ここから公正よりは狡猾を外交原則とすべきで(悪党には正義感を啓発しても無意味である)、したがって敵の明らかな弱みを口実にすべきとなる。“人質”の進退はまったくこの為に適切だろう。
だから、“人質”に関する非常に高圧的な問い掛けを絶えず経済制裁のカードと引き換えにくりかえし、なんらかのつまらない示威行為を、どんなに小さなものであれ日本領へ直接及ぼさせるべきなのである。それが安全保障条約上で恰好の、実質的な逆襲の機会となるだろう。これは『取立作戦』と呼べるだろう。
自衛隊は例によってかならずや後方支援でなければならないが、にも係わらず的確にキムジョンイルを捕えるならば国際社会にはなにも損害はもたらされないだろう。
すると、日本が自らと矛盾せずに北へ先手を打つには敵国内を調度よく情報撹乱し、自滅崩壊を加速させるしかありえない。
たとえば、なんらかの「迷惑の機先」を捉えて国際世論の納得を買い、巧く米軍を出動させることが徳なのである。独裁者には最も腐敗した人格を予想して先ず間違いはなく、ここから公正よりは狡猾を外交原則とすべきで(悪党には正義感を啓発しても無意味である)、したがって敵の明らかな弱みを口実にすべきとなる。“人質”の進退はまったくこの為に適切だろう。
だから、“人質”に関する非常に高圧的な問い掛けを絶えず経済制裁のカードと引き換えにくりかえし、なんらかのつまらない示威行為を、どんなに小さなものであれ日本領へ直接及ぼさせるべきなのである。それが安全保障条約上で恰好の、実質的な逆襲の機会となるだろう。これは『取立作戦』と呼べるだろう。
自衛隊は例によってかならずや後方支援でなければならないが、にも係わらず的確にキムジョンイルを捕えるならば国際社会にはなにも損害はもたらされないだろう。
2009年4月19日
土建業の砂糖粒
東海道線の移動速度を上げることは財貨の流動にとって、もっぱら最善の基盤開発なのだと言っていい。
ここから、道路法および鉄道事業法に於いてその空中および地下へも敷きうる線路や高架を別の所有者へ売り出すような権利、つまり『空中権』や『地下権』を整え直すのが迅速な業者間の新敷設競争をいざなう、景気づけの良策だと思われるだろう。
そしてそのための端緒は国土交通省の利権拡大を意味するのだから、方途を教えさえすれば明日の地位危うき某――土着の土建屋票(組票)と戦後復興期から癒着する――エセ官僚連中も、蟻へ知らせた砂糖への道筋の如く何一つためらわず暗に明に、ロビー活動を開始するに違いない。というのは冗談でいいが。
ここから、道路法および鉄道事業法に於いてその空中および地下へも敷きうる線路や高架を別の所有者へ売り出すような権利、つまり『空中権』や『地下権』を整え直すのが迅速な業者間の新敷設競争をいざなう、景気づけの良策だと思われるだろう。
そしてそのための端緒は国土交通省の利権拡大を意味するのだから、方途を教えさえすれば明日の地位危うき某――土着の土建屋票(組票)と戦後復興期から癒着する――エセ官僚連中も、蟻へ知らせた砂糖への道筋の如く何一つためらわず暗に明に、ロビー活動を開始するに違いない。というのは冗談でいいが。
物理学について
量子転移の物理条件は光速の謎を解く最も有力な思想株式らしく見える。我々は光に原則的上限がある訳を自然学の体系上、確実には知らなかった。
アリストテレス以来、度あるごとに無という非物理的な仮定を要する問題に直面する人類が苦肉の策としてもちだしてくる真空という理想化状態は、ダ・ヴィンチでも精神作用の理由をそこへ仮説づけて慰めを得たが、空間的な移動を情報の「後を濁さない」交換というほぼ極限の瞬間に等しい条件下に各種の化学反応系をくみこむ工夫で解決され易くなるらしい。
工学への落とし込みを見れば、情報伝達の光速化と、その拡大化としての空間の移転が、おそらく非常に長い天文学的距離をほぼ瞬時に移動させる宇宙エレベーターの実現として、可能になる日が来るだろう。この面で、経済効果のフィードバックを要請する工科系大学では、今日に於いて量子論の徹底した突き詰めは決して流行の素材ではないと知ることになるだろう。
有名な反・量子論者としてのアインシュタインの勘違いの原因は微視的論理を巨視で解決しようとした、視野の広すぎる空想癖にあったとも考えられる。遠慮なくその権威の肩をのりこえていくしか科学の前進はない。
アリストテレス以来、度あるごとに無という非物理的な仮定を要する問題に直面する人類が苦肉の策としてもちだしてくる真空という理想化状態は、ダ・ヴィンチでも精神作用の理由をそこへ仮説づけて慰めを得たが、空間的な移動を情報の「後を濁さない」交換というほぼ極限の瞬間に等しい条件下に各種の化学反応系をくみこむ工夫で解決され易くなるらしい。
工学への落とし込みを見れば、情報伝達の光速化と、その拡大化としての空間の移転が、おそらく非常に長い天文学的距離をほぼ瞬時に移動させる宇宙エレベーターの実現として、可能になる日が来るだろう。この面で、経済効果のフィードバックを要請する工科系大学では、今日に於いて量子論の徹底した突き詰めは決して流行の素材ではないと知ることになるだろう。
有名な反・量子論者としてのアインシュタインの勘違いの原因は微視的論理を巨視で解決しようとした、視野の広すぎる空想癖にあったとも考えられる。遠慮なくその権威の肩をのりこえていくしか科学の前進はない。
世襲衆議論
元冦後の藤原氏の衰亡や関東軍の実質的独裁による忘れえない大敗北を歴史的経験として豁眼するに、実質的な世襲政権の支配は概して近視眼となりやすく、統治の方針として最善ではありえない。ここから、世襲議員を衆議へ認めることは避けねばならない。イギリス民庶議優位の原則はまったくその権力の癒着による腐敗速度を遅めるには民主的議決のかなめだろう。
血縁を利用して権限を伸ばす貴族的偏見を平然と隠さない独裁は国政を大きく傾ける自民党の癌細胞となる。
古今、当時の世論すなわち視野狭窄で現世利益をのみやみくもに求める庶民感情に合致した扇動政権が長続きした記録はない。徳川末期でさえ一橋派は質実剛健の気風を重んじ、大老の密勅へ具体的な実力行使をもって最大限対立していた。
血縁を利用して権限を伸ばす貴族的偏見を平然と隠さない独裁は国政を大きく傾ける自民党の癌細胞となる。
古今、当時の世論すなわち視野狭窄で現世利益をのみやみくもに求める庶民感情に合致した扇動政権が長続きした記録はない。徳川末期でさえ一橋派は質実剛健の気風を重んじ、大老の密勅へ具体的な実力行使をもって最大限対立していた。
2009年4月18日
模倣説
まねという行動規則が最初に生じた場所が遺伝子という概念を現実化した。真似されうる規則順列が群れを造らせた。そして真似の集積が文化圏を生じ、それらの相互作用は各文化圏の真似事として文明を斉す。
創造説に対して、模倣説の立場が持ち上げられる。
偶々生じたような真似の形態として源初の細胞を挙げるとすれば、その複製と分裂とは宇宙の物理的熱反応という時空環境にとっては特有の近似的閉鎖系内で混沌度容量の増大を意味した。するとこの生化学反応はそれ自体で自律した系列を持って増大することができる適所を閉鎖系の中で最大限に模索し出す。単純な生理規則からより複合した、より規則的変則を可能とする多細胞の連携した熱的反抗が始まる。進化の実質的な規則とは模倣の集積による真似遺伝の拡充だけであった。だから神の、想像できる限り全知全能の真似に対しては不可能性だけが模範となる。生物とは固有の半閉鎖系の中で増大しつつある生化学反応上の反熱反応的な斥力値のこと、要するにまねの系のことだから、その上で創造性を演じるとは群れの全模倣を最大の儀式として自らの作為と詐称するような神話の方便にある。
社会の仕組みとはこの模倣系を他に比べ最大の相対的な容量増大へ導く為に、形質の実質的規則を絶え間無くまねあうことである。もしこの一方が他方の形質上の規則を一つのこらず学習すれば、その系が放出しうる外部への混沌度は圧倒的となり結果、生存をめぐる闘争に際して行動を真似されて遺伝順列の入り込む隙間を埋め立てられることはより少なくなる。おそらく異性体である動物の場合、性特徴としてのそれはより大きな混沌化の規則を好んで増大させるだろう。その方がより素早く遺伝配列を寡占できるのだから。一般的複雑性の選好は真似のし難さを最大多数の複製という遺伝項目内での優先順位の順に整列させる為に有用な法則である。減数分裂の規則。染色体は自己以外の塩基配列を持たない→性特徴を配偶子へ優先せよ。それは目次を形成する場合、瑣事を後に書き連ねる方がより調った辞書となり易いのに似ている。
どうしてまねが生じたかという生物学からの問い掛けには、擬似的な閉鎖系の中で持てるあらゆる化学的手段を培養せよと命ぜられる。かならずやそこには生命体という熱的にかなりは整った連鎖反応が見られるだろう。自然が断裂した反応系(引力系の不可逆性を観よ)をかくも豊富に用意しているというのに、なぜにその中へ一つなりとも可逆性を呼び込めなかったと考えるのだろうか。我々同士が続けてABCと書くことがもし奇跡の範畴にあるとするのなら、川が流れることさえも同等に驚愕すべき奇跡に違いない。だがそれらを科学するのは不逞でもなければ頭脳の仕事というに他はない。
創造説に対して、模倣説の立場が持ち上げられる。
偶々生じたような真似の形態として源初の細胞を挙げるとすれば、その複製と分裂とは宇宙の物理的熱反応という時空環境にとっては特有の近似的閉鎖系内で混沌度容量の増大を意味した。するとこの生化学反応はそれ自体で自律した系列を持って増大することができる適所を閉鎖系の中で最大限に模索し出す。単純な生理規則からより複合した、より規則的変則を可能とする多細胞の連携した熱的反抗が始まる。進化の実質的な規則とは模倣の集積による真似遺伝の拡充だけであった。だから神の、想像できる限り全知全能の真似に対しては不可能性だけが模範となる。生物とは固有の半閉鎖系の中で増大しつつある生化学反応上の反熱反応的な斥力値のこと、要するにまねの系のことだから、その上で創造性を演じるとは群れの全模倣を最大の儀式として自らの作為と詐称するような神話の方便にある。
社会の仕組みとはこの模倣系を他に比べ最大の相対的な容量増大へ導く為に、形質の実質的規則を絶え間無くまねあうことである。もしこの一方が他方の形質上の規則を一つのこらず学習すれば、その系が放出しうる外部への混沌度は圧倒的となり結果、生存をめぐる闘争に際して行動を真似されて遺伝順列の入り込む隙間を埋め立てられることはより少なくなる。おそらく異性体である動物の場合、性特徴としてのそれはより大きな混沌化の規則を好んで増大させるだろう。その方がより素早く遺伝配列を寡占できるのだから。一般的複雑性の選好は真似のし難さを最大多数の複製という遺伝項目内での優先順位の順に整列させる為に有用な法則である。減数分裂の規則。染色体は自己以外の塩基配列を持たない→性特徴を配偶子へ優先せよ。それは目次を形成する場合、瑣事を後に書き連ねる方がより調った辞書となり易いのに似ている。
どうしてまねが生じたかという生物学からの問い掛けには、擬似的な閉鎖系の中で持てるあらゆる化学的手段を培養せよと命ぜられる。かならずやそこには生命体という熱的にかなりは整った連鎖反応が見られるだろう。自然が断裂した反応系(引力系の不可逆性を観よ)をかくも豊富に用意しているというのに、なぜにその中へ一つなりとも可逆性を呼び込めなかったと考えるのだろうか。我々同士が続けてABCと書くことがもし奇跡の範畴にあるとするのなら、川が流れることさえも同等に驚愕すべき奇跡に違いない。だがそれらを科学するのは不逞でもなければ頭脳の仕事というに他はない。
文芸論
構文洗浄化説。言葉が有する側面は考察に値する。それは音声か文字かで伝えられる。言葉は音声としての分類と、文字に於けるそれとを両立して現に在る。他方で、文字の発祥は決して単線的ではない。象形から表音へという抽象進化説は必然と言えない。発音記号を持っている文化圏でさえそれへと言語表記を一元化する流れが普遍ではないと見るのが音楽と文芸との批判の役目だろう。
音声としての文字体系の中へさえ、表意記法からの調整が見られる。ラテン語の与えた語彙群は音声としての俗語をもかなりの程度、様変わりさせた。より造語の容易な、文字単位の表意性の裕かな漢字はそもそも装飾文字としての繁雑さを多く含んでおり、音声中心ではない表記体系を中国一帯の文字種へ伝播させた。ここから考えられるのは、実際の言語推移の規則とは文字と音声との最適化にもとづくということだろう。デーヴァナーガリー文字や簡体中文のように抽象進化に反する例も見つかる。
実際の言語使用には時代の科学民度、民族内知識の総量が深く関わるものであるから、各種の文体のうち如何なる選択を用いるかはその為の哲学、いわば文芸論に基づくだろう。言文一致とか白話運動とかいった文芸論の波は時代の口承をも洗浄していった。現代文化が終りを告げた未来についても又同然の経過があるだろう。
音声としての文字体系の中へさえ、表意記法からの調整が見られる。ラテン語の与えた語彙群は音声としての俗語をもかなりの程度、様変わりさせた。より造語の容易な、文字単位の表意性の裕かな漢字はそもそも装飾文字としての繁雑さを多く含んでおり、音声中心ではない表記体系を中国一帯の文字種へ伝播させた。ここから考えられるのは、実際の言語推移の規則とは文字と音声との最適化にもとづくということだろう。デーヴァナーガリー文字や簡体中文のように抽象進化に反する例も見つかる。
実際の言語使用には時代の科学民度、民族内知識の総量が深く関わるものであるから、各種の文体のうち如何なる選択を用いるかはその為の哲学、いわば文芸論に基づくだろう。言文一致とか白話運動とかいった文芸論の波は時代の口承をも洗浄していった。現代文化が終りを告げた未来についても又同然の経過があるだろう。
狭い国
携帯の待ち受けで待つ妻子を糧に働く工務店員
一万円を持ち去る
何一つ残らず消える記憶の上で
我が物に振る舞う塩基配列
どこかで見たありきたりの空であって
なにも望まない僕は眠る
もし理由があるとしたら
それは最も取るに足りない夜の星々と同じ
過ぎ去るのみの朝焼けだろう
激しく移動し続ける車の列
きみたちでさえ見つからない夜へ沈む
どうでもいいくらいあふれた宣伝で
なにを儲けたいんだ
国だとか血筋だとか肩書きだとか
教養だとか教育だとか
なにを儲けたいんだ
サラリーマン同じ姿で歩道橋を群れ渡る
イギリス風のネクタイした幼稚園児が
妻子をもうけて幸せな墓入り
老人ホームで薄情の安売り
電化製品を更新してたまに交尾するだけの猿
探しても見つからない夢模様
狭い国だ
一万円を持ち去る
何一つ残らず消える記憶の上で
我が物に振る舞う塩基配列
どこかで見たありきたりの空であって
なにも望まない僕は眠る
もし理由があるとしたら
それは最も取るに足りない夜の星々と同じ
過ぎ去るのみの朝焼けだろう
激しく移動し続ける車の列
きみたちでさえ見つからない夜へ沈む
どうでもいいくらいあふれた宣伝で
なにを儲けたいんだ
国だとか血筋だとか肩書きだとか
教養だとか教育だとか
なにを儲けたいんだ
サラリーマン同じ姿で歩道橋を群れ渡る
イギリス風のネクタイした幼稚園児が
妻子をもうけて幸せな墓入り
老人ホームで薄情の安売り
電化製品を更新してたまに交尾するだけの猿
探しても見つからない夢模様
狭い国だ
あぶく
あぶく銭を撒く東京人ヤクザ
あがめろと義務学校で教え込むためこどもを殴る蹴るは自由のくに
その外見だけをみて珍しがる外人
血眼で貢ぐのが義務の奴隷のくに
明日もあさってもヤンキーとオタクに囲まれて勉強を邪魔されて復讐心でかねもうけする為に出席
あがめろと義務学校で教え込むためこどもを殴る蹴るは自由のくに
その外見だけをみて珍しがる外人
血眼で貢ぐのが義務の奴隷のくに
明日もあさってもヤンキーとオタクに囲まれて勉強を邪魔されて復讐心でかねもうけする為に出席
2009年4月17日
自然法則の知的淘汰論
優勝劣敗の規則にとって、その最も合理的な慣則は取るに足らない構造をより精確に切り捨てていく淘汰の方式が本質を形成するのだと言える。ジャンクDNAの内、偶々その変異が環境にとって適合度の高い特質が当て嵌まれば、当然その慣習的基礎は続く世代の間では徐々に系統的発生の遺伝形質へと絶えず蓄積されゆく選好度の増大に於いて獲得的であることをやめただろう。要するに生存闘争の最たる合理性はそれが変異の限りない散乱をある優秀さに目的づけて淘汰できることにある。進化論あるいはダーウィニズムへの批判の殆どは創造説が種の変化を容認しないために、その自然の創造的序列の最高段階へ人類を置いた、という古くからの万物の霊長仮説を信仰の前提とする思想体系からのそれであった。だが我々を含む宇宙に対する理解にとって最も規範に足る自然認識の数学的基礎によれば、天文学は単なる確率概念の範囲で地球外生命体の可能性を予言できる。ドレイクの方程式を存在確率ゼロ以下にする論理的根拠は自明ではない。それも地球の置かれた惑星環境が決して唯一的でも必然的でさえなく、ある化学的な組成の配合によって生じる有機的特徴に過ぎないと、簡単なエントロピー増大則そのものが確約するからだろう。なぜならもし地球と極めて近似した惑星場を宇宙間のほぼ同等な周縁域へ仮定すると、そこへ漸次的進化の奥行きに従って次第に複合された細胞としての知的生命体を予想するのが順当となる。脳という部位はどの文明場に於いても次第に増大する傾向を持つ。それは観測できる限り地球物理的な宇宙系では絶えず熱的エントロピーが増大することから、その生物が外部へ放出できる情報量をこの慣習的基礎へ適応させればさせるほど、世代間で起こる資源価値の高い場所の寡占競争に際してその複雑な行動基準は比較して優位を勝ち取る。
仮に脳ができるかぎり多くの獲得形質的情報を記録するための生態装置だと仮設すると、その容量の生得的増大の傾向はつねに最大の学習を保証する十分な構造だと考えるのが妥当である。自然は長い集団的闘争の中で人類の祖先達へ最も初源となる文化として共通神というまねを恒久的に指定した。この理念は脳の学習可塑性という構造にとっては結束の単位を保障させる役目を果たすことになった。言葉がおそらく共通神というまねごとの一番基本的な形となっただろう。この言葉という道具は遺伝的な仕方によらず集団の血縁間を緩やかにつなぐ為の最たる外部媒体であったからだ。
唯一神の信仰は、だから、人類の古代文化が備えた最大の結束の方便としてかなり妥当性を持つものだった。幾らかの飛び抜けて先験的な天才人がはじめてその考えを持ち出した時の周囲の人種の驚きは、未だにその際の言行録を聖書と呼ぶ慣習が生き残っているので信憑性がそれなりにある。言葉でしかなかった筈のまねはその方が人類という脳の増大した群生の基礎条件を呈しだす。結果、この唯一神への結束の固さを試す為の殲滅戦争が行われるだろう、たとえ経済共生的吸収合併も含むだろうとも。そしてもっと遠い未来にであっても、最も慣習的に強力なまねを可能にした集団が至るところで勝利を占め、種の形質の更なる増大を実現するだろう。この真実の法則は、自然界がより空間としての情報容積を増大させて、そこで起こる物理現象を、生物という斥力形態を含む時間軸に沿って多彩にしていこうとする傾向を普通に持っていることと経験的に一致するのである。
もし人類の中で、まねのよくない種、つまり外部的に伝達されゆく言葉のミーム容量の低い生態的に単純な文化質のそれをまねのうまい種よりも優先させる場所があるとすれば、当然ながらそこで観られることとなる変異の幅も同様の慣習に従うだろう。唯一神のまねが創造説の抜粋としての知的設計論を余儀なくすることは、この集団の知性が当文化の系列を言葉以前に求める聖書原理主義を正当な道徳観として保存してきたというより他の社会的意義を持たないのである。
我々は、以前にも増して延長された青年期一般を準備する文明化の学習能容量の増大そのものが、いずれこの系列の遺伝形質を単なる脳容積の相対的に高い種へ有利となるほど複合した行動秩序を要請する場所のもつまねし難さに於いて、典型的な獲得行動の一種とのみ見なせるだけ知性の変異とその種類を繁雑にしていくことが淘汰の法則にとっての合理であると考えなければならない。その認識が、即ち言葉のまねがたさが敷衍するほど、当行動形式はDNAの複製という生殖の論理にとって成功する区域を広げるだろう。
仮に脳ができるかぎり多くの獲得形質的情報を記録するための生態装置だと仮設すると、その容量の生得的増大の傾向はつねに最大の学習を保証する十分な構造だと考えるのが妥当である。自然は長い集団的闘争の中で人類の祖先達へ最も初源となる文化として共通神というまねを恒久的に指定した。この理念は脳の学習可塑性という構造にとっては結束の単位を保障させる役目を果たすことになった。言葉がおそらく共通神というまねごとの一番基本的な形となっただろう。この言葉という道具は遺伝的な仕方によらず集団の血縁間を緩やかにつなぐ為の最たる外部媒体であったからだ。
唯一神の信仰は、だから、人類の古代文化が備えた最大の結束の方便としてかなり妥当性を持つものだった。幾らかの飛び抜けて先験的な天才人がはじめてその考えを持ち出した時の周囲の人種の驚きは、未だにその際の言行録を聖書と呼ぶ慣習が生き残っているので信憑性がそれなりにある。言葉でしかなかった筈のまねはその方が人類という脳の増大した群生の基礎条件を呈しだす。結果、この唯一神への結束の固さを試す為の殲滅戦争が行われるだろう、たとえ経済共生的吸収合併も含むだろうとも。そしてもっと遠い未来にであっても、最も慣習的に強力なまねを可能にした集団が至るところで勝利を占め、種の形質の更なる増大を実現するだろう。この真実の法則は、自然界がより空間としての情報容積を増大させて、そこで起こる物理現象を、生物という斥力形態を含む時間軸に沿って多彩にしていこうとする傾向を普通に持っていることと経験的に一致するのである。
もし人類の中で、まねのよくない種、つまり外部的に伝達されゆく言葉のミーム容量の低い生態的に単純な文化質のそれをまねのうまい種よりも優先させる場所があるとすれば、当然ながらそこで観られることとなる変異の幅も同様の慣習に従うだろう。唯一神のまねが創造説の抜粋としての知的設計論を余儀なくすることは、この集団の知性が当文化の系列を言葉以前に求める聖書原理主義を正当な道徳観として保存してきたというより他の社会的意義を持たないのである。
我々は、以前にも増して延長された青年期一般を準備する文明化の学習能容量の増大そのものが、いずれこの系列の遺伝形質を単なる脳容積の相対的に高い種へ有利となるほど複合した行動秩序を要請する場所のもつまねし難さに於いて、典型的な獲得行動の一種とのみ見なせるだけ知性の変異とその種類を繁雑にしていくことが淘汰の法則にとっての合理であると考えなければならない。その認識が、即ち言葉のまねがたさが敷衍するほど、当行動形式はDNAの複製という生殖の論理にとって成功する区域を広げるだろう。
日誌
100円の缶ジュースを買うお金に困る生活者から無理矢理とりあげた消費税を、「さもしい」と言いながら自分のふところに隠した分をのぞいて威張ってばらまく。
だが、このような不良政府が長続きすることだけは決してないだろう。そしてその税収の上に立ってテニスコートで軟派する軽薄者を偶像と崇める悪の軍団が、この世に長者として生きながらえることも絶対にないに違いない。
だが、このような不良政府が長続きすることだけは決してないだろう。そしてその税収の上に立ってテニスコートで軟派する軽薄者を偶像と崇める悪の軍団が、この世に長者として生きながらえることも絶対にないに違いない。
2009年4月16日
社会学
凡庸な形質、或いは中途半端な形質はその生殖系統が無目的に乱された結果だと言える。育種のために自然や人為が行うのはなんらかの特徴をもった種について、その特徴にとって害のある遺伝形質を注意して取り除き、同時にその特徴を最も顕著に示す獲得および遺伝形質の個体か群を生存上より有利となる条件へ置くことでその一層の個性化を計る方法である。いいかえると育種の最善の方法は剪定と選良である。
もしこの方法をまちがえれば全体として特徴をなくすか、又はなんの利点も持たない種が広がるだけの結末が待っている。倫理とのかけひきから評判の優れない社会生物学について、この学識系列へ自然淘汰の考えをそのままもちこむのが危ういという直観の根拠は、もしダーウィニズムがそこでも真なら人類間の競争的排除も遷移の規則で説明できてしまうからだ。つまり、個体間淘汰を当然と仮定すると我々は経済的共生の理想的な体系によってではなく、それを二分する勝利種と敗退種との絶えず分割されゆく関係へとヒト科を整理する思考がその基本的な経済遷移の規則として理に適うという結論が導かれる。人類社会に於いては特有の少数派の個性への虐め行動が定式化される傾向があり、それは一般に多数派からみて犯罪と呼ばれている。そしてこの犯罪感情が、或いは単に犯罪措定の法が彼らにとっては種の生育にとって剪定の役割を果たしているのが明らかである。当該個体群の不利になる変異を生態的に排除する、というのがその本質なのだろう。預言者は故郷では尊ばれない、とか郷原は徳の賊なりとかの先哲による幾つかの判断は、普通、極端に調整的または配分的であるような行動形は効き過ぎる薬の副作用のように別の不利さを集団生態へ与え兼ねないからなのだと意味づけられる。かつ、この極端な行動形はいわば社会のホルモン生成の作用と呼べるだろう。そしてその効き目が致命的とまでになる場合には当作用は集団全体の意志の名を借りて甘んじて排除される。たとえれば過剰な性ホルモン分泌が免疫力を解除してしまう為にその生態がみずから病気を患う前に、過度の勇敢さとか柔和さは無謀とか卑屈とかの過剰な性質となって自らの意図する偏った行動を性別的な見地から自己阻害し、性淘汰は審美的に優良な個体、すなわち極度に中庸な個体へのみ働くのであるから、その異常な個体を少なくとも実際の自滅からは救うのである。社会においてはこれが異常な極端すぎる形質として犯罪なる名義の発生する理屈である。
逆に、同社会一般に褒賞の法が暗に明に定められる場合がある。こちらは生態への快楽物質分泌のように、その有利な成長を奨励する作用にたとえられるだろう。勿論いうまでもなくそこにも抑制はある。脳内麻薬中毒者が危険なのは過度の趣味人や奇人変人への一定の偏見がそれらの熱狂を規制するために急進または退行が尋常の中継的変異よりも進化にとって相対的に有利ではないのと同じであって、通常そのような超急激な突然変異へは保存が働かない。というのも適切な受け皿がないためにこの単独では素晴らしい遺伝子配列はつづく世代のより平凡な種類に混ぜ入れられ、その奇跡的天才は多少あれ崩されてしまうことだろう。尤も人類は遺伝子バンクなどの外部媒体手段でしばしばこの自然のままの遷移規則を時に破格もできることになるらしい。
社会の安心へ最大の徳目とされることが多かった信賞必罰の原則は亦この両作用、犯罪と褒賞の正しい運用の道理なのだと考えるのが妥当だろう。すると、前例がないか、もしくは前例を大幅に超えた極端な変異をその社会集団が一体、歓迎するかどうかは、結局はその集団が将来へ向けて如何に習性を変異させていくかのその時点で、最も信頼に足る指標だと結論していいことになるだろう。もしこの集団が銀河団の運動法則の発見を一笑に付し代わりにそれをなした個性を牢獄か精神病院送りにしたならば、そうせず寧ろ慎重な学会議決のすえ爵位で厚遇した集団に較べれば当たり前だが、将来像はまったく異質な姿になると予見できる。前者はおよそ堕落した無知きわまる賊党の増長とさらなる跋扈によって荒廃した生態が最も好適な種である茨の地となるしかなく、後者は最も選れた知性の成長がますます促進される限り古今の学識の殿堂のうちいやましに最高潮が見られる寛大の宝庫となる確率が相対的に高い。これらの演繹がもし幾つかの実証の過程から真実味のある社会への知識であると認められる時が来れば、我々は同時に、他の進化した種類たちに従って、人類自身での抜本的な種的分化を予見することになるだろう。そしてつねなる目的に向けた剪定と選良すなわち血統の育種によってより良く利益を享受するのが、地球の自然がつくりあげた審美的な恩寵へ、種の改良へ無理に逆らわない有り様として正統なのだと認識することになるだろう。幾つかの社会国家では血統主義というかなり保守的だと一般に考えられがちな道理が国民の永住権へ賦与されている現象が観察できるが、古くからの世界宗教というよりは、あらゆる繁栄した種を容易に一掃できる真実に畏るべき自然淘汰の観点からこれをみるとするならば、その政権が永続を望むかぎり結局なにより賢明なことなのだろう。
まったく次元の異なるくらいその種集団にとり極度に有用な変異が出現する確率は、客観的に分析すればその生殖系統が一定の環境変異の中で最大の効率を達したという事実でしかないのである。逆に、極度の稔りなさ・醜さ窮まりない奇形・あくどいほどの無用な構造がもし生得的に生じるとすれば、それはその種の両親の生殖系統が完全に無目的な、つまり望ましい理由がなく、一定の系統立った合理性のない乱暴の影響を受けた結果なのである。なるほど極悪の犯罪的人格がしばしばこのような聞き知るも身の毛のよだつ極度に不幸な生い立ちを背負っているのもかならずや偶然ではないのだろう。この種の環境変異が密度効果などによって固定化するとそこに相変異の規則がみとめられることだろう。ある国柄というものもかなりの程度は必然の地政学的法則に基づくはずである。
生態的有用性への変異の効率という社会の共通文化或いは社会資本のかなり耐久性のある蓄積の観点を考え直すと、専らの課題に対する経済性が集める汎用さよりは未然の事態へ備える学術や政治に関する際だった特長が、それを群ではなく個体の変異へ当て填めれば既視感のあるありきたりさではなく未視の特別なめずらしさが、種の繁栄のためにはおそらくより有益な、優先する価値ある選好の順序なのだと思わせるのだ。というのも、哺乳類によって魅力自体のための性特徴はおよそ雄間競争の合間でなんとか図られるに過ぎないのだから、このために役立つ特質は続く世代での競争的社会淘汰に打ち勝った場合にのみやっと遺伝されうるものだろうから。さらに、このことは中庸律という論理規則を右でも左でもない的中を必ずしも迷惑でも道楽でもない範囲で追求する個性に関して適用するかぎり、つまりいわゆる個人の幸福の追求に関して、決して犯罪および褒賞の過剰という極端すぎる変異への抑圧の原則と矛盾しないのである。それはどうしてしばし偉人が生じるかを十分に説明する数理的な規則である。
もしaを犯罪的傾向の変異、bを褒賞的傾向のそれ、cをそのどちらでもない幸福追求の傾向のそれとする。なお以下では略称としてそれぞれaを犯罪、bを褒賞、cを幸福とおきかえて記述する。
¬a∧¬b → c
∵c → ¬[a∨b] これが証明されるべきことであった。
以下は反証。
もし
c → ¬a∨¬b
であれば cならば aである か bである かのどちらかが成り立つだろう。
ここで、
[a→c]∨[a→b] …①
とすると、犯罪は幸福である か 犯罪は褒賞である のどちらかが成立する。ところで
c → ¬a の場合はその幸福が犯罪でないのが自明であり、常識的に矛盾する。反例、戦友の絆。一方、
c → ¬b の場合はその幸福が褒賞でないのが自明であり、常識的に矛盾する。凡例、受賞級の発見。もし①のaをbにおきかえて
[b→c]∨[b→a]
としても、論理式として等しいので結果も同様である。すなわち 褒賞は幸福である か 褒賞は犯罪である は 幸福が犯罪でない と 幸福が褒賞でない が常識的に矛盾する以上どちらも論理として破綻する。反例、兵器開発の栄誉、皆勤賞。
こうして幸福cは犯罪aや褒賞bによって定義されてはこれなかったので、はじめの式
c → ¬a∨¬b
はそれ以下に記述した四種の論理式のどれもが偽なかぎり自明ではない。
よって犯罪でもなければ褒賞でもないものが幸福であり、なぜならば幸福は犯罪または褒賞ではないからだろう。これには反例が見つけられない。以上。
もし上述の道理が理解できれば、なぜ人類に限っては雄よりも雌に、つまり女性の方へつよく審美性が要求され易いか、という通常の動物の種内競争とは異なった現象が殆どの部族(か文明化されたと称する民族でさえ)で広く文化の傾向へ観察できるかも自明の理となる。それは生殖系統の合目的性を社会淘汰の起きる頻度に際して守り抜くためなのである。これゆえに雄性形質たる男らしさが人類にあってはどうしてすぐれた理性かすぐれた知性へと集中する傾向があるのかも至極、その種の血統を保存する本能の立場にとってすれば、当然の選り好み方なのである。ここに限って専門家以外へのある程度の納得のために道徳観からみて卑俗な例示をも辞さないとすれば、よほど安心できるかよほど信用にたるかが、ほどほどに魅惑的である雄よりも人類にとっては遺伝のよしあしについての手堅い選好なのだとも説明できるだろう。だが極度に魅惑的な場合については、その特殊な雌体の形質が雄性の特徴をかなりの程度、獲得形質を含む顕性の範囲で兼ね備えるかぎりで、この原則をしばしば、又は多かれ少なかれはみ出すかもしれない。ともあれ人類の自然科学という原生人類が考えられ得るかぎり聡明な営みの情け容赦ない法則知が教えるところによれば、決してこの例外が多数派を占めることはない。さもなければこの集団そのものが他の隣接する種集団との断続的な闘争に際し、形質の特性が不安定または極度に一様になっていた結果、敗退するか押しのけられるか、よりその弱小が明らかの場合はなんらかの奴隷化によって支配されたか、最悪のときに滅亡させられた筈である。しかし、我々は常に勝利した集団がより広域に拡散するという適応放散の理屈を忘れない限りは、タカ派の戦略を、則ち知性の戦略を防御的なハト派的理性のそれよりも普段の行動にとっては、信用に足る導きの糸なのを疑えない。おそらく、理性とは戦時訓練にたとえられる群的編成にとってのそれであって、決して平和時点での最適化した行動規則ではない。勇敢なドイツ兵が誤ったプロシアの砲撃に際して土のうの上に颯爽と仁王立ちとなり、偏在する同僚のイギリス兵へ大声で謝罪の意を述べた説話とはそれがもし平時の企業内で起こった呉越同舟の倒逆なのなら単なる失笑物だったろう。すると、順当に事実を収集する習慣をあまり否定しない知識欲旺盛な個人の緻密な思想の結晶中では、あるいはその我らが惑星へ順応した頭脳が独り構想する理想的なイデア界にとってするなら、王侯貴族が種にとって有益なのは普段の窮屈な序列のためではなく、戦乱時点での迅速な協力行動の準備のためにかも知れない。攻撃行動による失点が大きいほど争いの高いリスクはそれを儀式化する傾向をもち、当個体群の行動型を紳士的に、より大人しくさせるという社会生物学からの法則を軽視すべきではない。軍備の寡占による政治的順位制は同等の利点をもつと定義できる筈である。無論ながら我が日本国にはその種の空想を事実と誤認するまで疎かな学究の徒か党派はかなしむべきまでの歴史認識の充足のゆえにそれを科学としてではなく正に詩想にしか活かすまいが。回想へ事実を返したのを素朴な返し歌と取れたのは東国造とされたおきなの巧妙なおべっかつかいなどではなく、先入観のない素直な物の見方でしかない。どうしてその知識の奏でる歌合わせを神遊びも矍鑠たる余裕もなくして、毫も責められたものだろうか。素朴な自然人の心情が都会慣れた芸術屋の放恣よりも真実に詩的である以上、科学する者は高等な文明ぶった擬態をよりずっと、懇切丁寧な自然の説明を職能として誇るべきだろう。
かりそめにも戦争と平和を越えて有利不利の差は、もしその系統が経済的性徴という女性からの程ほどの選好によって十全から帯患までのありうる健康体として保存されゆくならば必然に開き続け、なんらかの“揺り戻し”がしばしば種の棲息環境を侵さないかぎりは決して元通りにはならないこと、いわゆる自然淘汰による新種の形成過程という社会的生態の必然を忘れるべきではない。もし人類が殲滅戦争をあまねく最大の功利であると認める極道の徒たるを望まない、かなり大人しいかもしくは天敵から免れたほぼ属として同様の種類であると仮定すれば、次第に文明化が進んだ同一惑星の中では理性的な適所としての原理主義宗教の停滞地域よりは、次々有利な突然変異を蓄積し続けられる知性にとっての棲息域が、普段からより多大な供給を受け易い平和時の同盟集団のほぼ決定的な勝ち越しによって、いいかえれば暴力を辞さない群れたやくざ集団ではなく独立した平民の寛容な胴元にはどんどんと増大するのを暗黙のうち観察できることになるだろう。
生態の進化そのものとは無関係に、社会淘汰の法則は必然に、より知性の高い集団へ微笑むだろう。
もしこの方法をまちがえれば全体として特徴をなくすか、又はなんの利点も持たない種が広がるだけの結末が待っている。倫理とのかけひきから評判の優れない社会生物学について、この学識系列へ自然淘汰の考えをそのままもちこむのが危ういという直観の根拠は、もしダーウィニズムがそこでも真なら人類間の競争的排除も遷移の規則で説明できてしまうからだ。つまり、個体間淘汰を当然と仮定すると我々は経済的共生の理想的な体系によってではなく、それを二分する勝利種と敗退種との絶えず分割されゆく関係へとヒト科を整理する思考がその基本的な経済遷移の規則として理に適うという結論が導かれる。人類社会に於いては特有の少数派の個性への虐め行動が定式化される傾向があり、それは一般に多数派からみて犯罪と呼ばれている。そしてこの犯罪感情が、或いは単に犯罪措定の法が彼らにとっては種の生育にとって剪定の役割を果たしているのが明らかである。当該個体群の不利になる変異を生態的に排除する、というのがその本質なのだろう。預言者は故郷では尊ばれない、とか郷原は徳の賊なりとかの先哲による幾つかの判断は、普通、極端に調整的または配分的であるような行動形は効き過ぎる薬の副作用のように別の不利さを集団生態へ与え兼ねないからなのだと意味づけられる。かつ、この極端な行動形はいわば社会のホルモン生成の作用と呼べるだろう。そしてその効き目が致命的とまでになる場合には当作用は集団全体の意志の名を借りて甘んじて排除される。たとえれば過剰な性ホルモン分泌が免疫力を解除してしまう為にその生態がみずから病気を患う前に、過度の勇敢さとか柔和さは無謀とか卑屈とかの過剰な性質となって自らの意図する偏った行動を性別的な見地から自己阻害し、性淘汰は審美的に優良な個体、すなわち極度に中庸な個体へのみ働くのであるから、その異常な個体を少なくとも実際の自滅からは救うのである。社会においてはこれが異常な極端すぎる形質として犯罪なる名義の発生する理屈である。
逆に、同社会一般に褒賞の法が暗に明に定められる場合がある。こちらは生態への快楽物質分泌のように、その有利な成長を奨励する作用にたとえられるだろう。勿論いうまでもなくそこにも抑制はある。脳内麻薬中毒者が危険なのは過度の趣味人や奇人変人への一定の偏見がそれらの熱狂を規制するために急進または退行が尋常の中継的変異よりも進化にとって相対的に有利ではないのと同じであって、通常そのような超急激な突然変異へは保存が働かない。というのも適切な受け皿がないためにこの単独では素晴らしい遺伝子配列はつづく世代のより平凡な種類に混ぜ入れられ、その奇跡的天才は多少あれ崩されてしまうことだろう。尤も人類は遺伝子バンクなどの外部媒体手段でしばしばこの自然のままの遷移規則を時に破格もできることになるらしい。
社会の安心へ最大の徳目とされることが多かった信賞必罰の原則は亦この両作用、犯罪と褒賞の正しい運用の道理なのだと考えるのが妥当だろう。すると、前例がないか、もしくは前例を大幅に超えた極端な変異をその社会集団が一体、歓迎するかどうかは、結局はその集団が将来へ向けて如何に習性を変異させていくかのその時点で、最も信頼に足る指標だと結論していいことになるだろう。もしこの集団が銀河団の運動法則の発見を一笑に付し代わりにそれをなした個性を牢獄か精神病院送りにしたならば、そうせず寧ろ慎重な学会議決のすえ爵位で厚遇した集団に較べれば当たり前だが、将来像はまったく異質な姿になると予見できる。前者はおよそ堕落した無知きわまる賊党の増長とさらなる跋扈によって荒廃した生態が最も好適な種である茨の地となるしかなく、後者は最も選れた知性の成長がますます促進される限り古今の学識の殿堂のうちいやましに最高潮が見られる寛大の宝庫となる確率が相対的に高い。これらの演繹がもし幾つかの実証の過程から真実味のある社会への知識であると認められる時が来れば、我々は同時に、他の進化した種類たちに従って、人類自身での抜本的な種的分化を予見することになるだろう。そしてつねなる目的に向けた剪定と選良すなわち血統の育種によってより良く利益を享受するのが、地球の自然がつくりあげた審美的な恩寵へ、種の改良へ無理に逆らわない有り様として正統なのだと認識することになるだろう。幾つかの社会国家では血統主義というかなり保守的だと一般に考えられがちな道理が国民の永住権へ賦与されている現象が観察できるが、古くからの世界宗教というよりは、あらゆる繁栄した種を容易に一掃できる真実に畏るべき自然淘汰の観点からこれをみるとするならば、その政権が永続を望むかぎり結局なにより賢明なことなのだろう。
まったく次元の異なるくらいその種集団にとり極度に有用な変異が出現する確率は、客観的に分析すればその生殖系統が一定の環境変異の中で最大の効率を達したという事実でしかないのである。逆に、極度の稔りなさ・醜さ窮まりない奇形・あくどいほどの無用な構造がもし生得的に生じるとすれば、それはその種の両親の生殖系統が完全に無目的な、つまり望ましい理由がなく、一定の系統立った合理性のない乱暴の影響を受けた結果なのである。なるほど極悪の犯罪的人格がしばしばこのような聞き知るも身の毛のよだつ極度に不幸な生い立ちを背負っているのもかならずや偶然ではないのだろう。この種の環境変異が密度効果などによって固定化するとそこに相変異の規則がみとめられることだろう。ある国柄というものもかなりの程度は必然の地政学的法則に基づくはずである。
生態的有用性への変異の効率という社会の共通文化或いは社会資本のかなり耐久性のある蓄積の観点を考え直すと、専らの課題に対する経済性が集める汎用さよりは未然の事態へ備える学術や政治に関する際だった特長が、それを群ではなく個体の変異へ当て填めれば既視感のあるありきたりさではなく未視の特別なめずらしさが、種の繁栄のためにはおそらくより有益な、優先する価値ある選好の順序なのだと思わせるのだ。というのも、哺乳類によって魅力自体のための性特徴はおよそ雄間競争の合間でなんとか図られるに過ぎないのだから、このために役立つ特質は続く世代での競争的社会淘汰に打ち勝った場合にのみやっと遺伝されうるものだろうから。さらに、このことは中庸律という論理規則を右でも左でもない的中を必ずしも迷惑でも道楽でもない範囲で追求する個性に関して適用するかぎり、つまりいわゆる個人の幸福の追求に関して、決して犯罪および褒賞の過剰という極端すぎる変異への抑圧の原則と矛盾しないのである。それはどうしてしばし偉人が生じるかを十分に説明する数理的な規則である。
もしaを犯罪的傾向の変異、bを褒賞的傾向のそれ、cをそのどちらでもない幸福追求の傾向のそれとする。なお以下では略称としてそれぞれaを犯罪、bを褒賞、cを幸福とおきかえて記述する。
¬a∧¬b → c
∵c → ¬[a∨b] これが証明されるべきことであった。
以下は反証。
もし
c → ¬a∨¬b
であれば cならば aである か bである かのどちらかが成り立つだろう。
ここで、
[a→c]∨[a→b] …①
とすると、犯罪は幸福である か 犯罪は褒賞である のどちらかが成立する。ところで
c → ¬a の場合はその幸福が犯罪でないのが自明であり、常識的に矛盾する。反例、戦友の絆。一方、
c → ¬b の場合はその幸福が褒賞でないのが自明であり、常識的に矛盾する。凡例、受賞級の発見。もし①のaをbにおきかえて
[b→c]∨[b→a]
としても、論理式として等しいので結果も同様である。すなわち 褒賞は幸福である か 褒賞は犯罪である は 幸福が犯罪でない と 幸福が褒賞でない が常識的に矛盾する以上どちらも論理として破綻する。反例、兵器開発の栄誉、皆勤賞。
こうして幸福cは犯罪aや褒賞bによって定義されてはこれなかったので、はじめの式
c → ¬a∨¬b
はそれ以下に記述した四種の論理式のどれもが偽なかぎり自明ではない。
よって犯罪でもなければ褒賞でもないものが幸福であり、なぜならば幸福は犯罪または褒賞ではないからだろう。これには反例が見つけられない。以上。
もし上述の道理が理解できれば、なぜ人類に限っては雄よりも雌に、つまり女性の方へつよく審美性が要求され易いか、という通常の動物の種内競争とは異なった現象が殆どの部族(か文明化されたと称する民族でさえ)で広く文化の傾向へ観察できるかも自明の理となる。それは生殖系統の合目的性を社会淘汰の起きる頻度に際して守り抜くためなのである。これゆえに雄性形質たる男らしさが人類にあってはどうしてすぐれた理性かすぐれた知性へと集中する傾向があるのかも至極、その種の血統を保存する本能の立場にとってすれば、当然の選り好み方なのである。ここに限って専門家以外へのある程度の納得のために道徳観からみて卑俗な例示をも辞さないとすれば、よほど安心できるかよほど信用にたるかが、ほどほどに魅惑的である雄よりも人類にとっては遺伝のよしあしについての手堅い選好なのだとも説明できるだろう。だが極度に魅惑的な場合については、その特殊な雌体の形質が雄性の特徴をかなりの程度、獲得形質を含む顕性の範囲で兼ね備えるかぎりで、この原則をしばしば、又は多かれ少なかれはみ出すかもしれない。ともあれ人類の自然科学という原生人類が考えられ得るかぎり聡明な営みの情け容赦ない法則知が教えるところによれば、決してこの例外が多数派を占めることはない。さもなければこの集団そのものが他の隣接する種集団との断続的な闘争に際し、形質の特性が不安定または極度に一様になっていた結果、敗退するか押しのけられるか、よりその弱小が明らかの場合はなんらかの奴隷化によって支配されたか、最悪のときに滅亡させられた筈である。しかし、我々は常に勝利した集団がより広域に拡散するという適応放散の理屈を忘れない限りは、タカ派の戦略を、則ち知性の戦略を防御的なハト派的理性のそれよりも普段の行動にとっては、信用に足る導きの糸なのを疑えない。おそらく、理性とは戦時訓練にたとえられる群的編成にとってのそれであって、決して平和時点での最適化した行動規則ではない。勇敢なドイツ兵が誤ったプロシアの砲撃に際して土のうの上に颯爽と仁王立ちとなり、偏在する同僚のイギリス兵へ大声で謝罪の意を述べた説話とはそれがもし平時の企業内で起こった呉越同舟の倒逆なのなら単なる失笑物だったろう。すると、順当に事実を収集する習慣をあまり否定しない知識欲旺盛な個人の緻密な思想の結晶中では、あるいはその我らが惑星へ順応した頭脳が独り構想する理想的なイデア界にとってするなら、王侯貴族が種にとって有益なのは普段の窮屈な序列のためではなく、戦乱時点での迅速な協力行動の準備のためにかも知れない。攻撃行動による失点が大きいほど争いの高いリスクはそれを儀式化する傾向をもち、当個体群の行動型を紳士的に、より大人しくさせるという社会生物学からの法則を軽視すべきではない。軍備の寡占による政治的順位制は同等の利点をもつと定義できる筈である。無論ながら我が日本国にはその種の空想を事実と誤認するまで疎かな学究の徒か党派はかなしむべきまでの歴史認識の充足のゆえにそれを科学としてではなく正に詩想にしか活かすまいが。回想へ事実を返したのを素朴な返し歌と取れたのは東国造とされたおきなの巧妙なおべっかつかいなどではなく、先入観のない素直な物の見方でしかない。どうしてその知識の奏でる歌合わせを神遊びも矍鑠たる余裕もなくして、毫も責められたものだろうか。素朴な自然人の心情が都会慣れた芸術屋の放恣よりも真実に詩的である以上、科学する者は高等な文明ぶった擬態をよりずっと、懇切丁寧な自然の説明を職能として誇るべきだろう。
かりそめにも戦争と平和を越えて有利不利の差は、もしその系統が経済的性徴という女性からの程ほどの選好によって十全から帯患までのありうる健康体として保存されゆくならば必然に開き続け、なんらかの“揺り戻し”がしばしば種の棲息環境を侵さないかぎりは決して元通りにはならないこと、いわゆる自然淘汰による新種の形成過程という社会的生態の必然を忘れるべきではない。もし人類が殲滅戦争をあまねく最大の功利であると認める極道の徒たるを望まない、かなり大人しいかもしくは天敵から免れたほぼ属として同様の種類であると仮定すれば、次第に文明化が進んだ同一惑星の中では理性的な適所としての原理主義宗教の停滞地域よりは、次々有利な突然変異を蓄積し続けられる知性にとっての棲息域が、普段からより多大な供給を受け易い平和時の同盟集団のほぼ決定的な勝ち越しによって、いいかえれば暴力を辞さない群れたやくざ集団ではなく独立した平民の寛容な胴元にはどんどんと増大するのを暗黙のうち観察できることになるだろう。
生態の進化そのものとは無関係に、社会淘汰の法則は必然に、より知性の高い集団へ微笑むだろう。
2009年4月15日
国際協調の監督的見地
我々がアイデアと言うとき知らずしらずにプラトンの恩恵を受けている様に、ある種の対象を持つ概念をそれ自体を指す理念にまで昇華するのは知識系統に対する、哲学的な批判の基礎付けに待つ。もし観念というものを定義するなら、それは感性に待つだろう。すべての認識は観念から概念へ、概念から理念に至り、再びあらたな観念の生産へと還元されるように見える。それら個々の働きは分けて独立すべきものだとして、より高次の認識はそれらの巧妙な循環または輪作にあるらしく思える。分業と協業の作用はこの循環的輪作のためにそれぞれ適宜らしい。文化と呼べる働きがあるとしたらこのリズミカルな再生の活動に目標を置くべきと思える。理知と感情とが相互を敵視するのではなしに、互恵する適度な距離を保つべきは循環的輪作をよく為し能う農耕の道理に近い。
もしそのような豊富の骨が掴めるとすれば国民の性格もまた、再生の律動へ適応すべきだろう。限りない階級分化も、限りない平等調整もこの面からすると最高の格率ではないだろう。多くの階級制度には層間変位をうまくする抜け道、あるいは遊び幅が設けられるのが通常だが、社会の順位制において固定せずとも過剰な流動性をふせぐ対策には例外の余地は絶対に欠かせないものらしい。
よりよく調和した社会には体制の塑性がより一層必要だろう。地域間の協調もそれが互いへの牽制を兼ねてこそ、結果、偶然に左右されにくい堅固なバッテリーを組むことになる。他国を無視すべからずという憲法の理念は傲慢をでも自虐をでもなく、より強化された協調の場を世界へ要請する指導力を当然視するところに成り立つ。よって原理主義そのものさえ決して粗野な見た目より悪の道理ではないだろう。
もしそのような豊富の骨が掴めるとすれば国民の性格もまた、再生の律動へ適応すべきだろう。限りない階級分化も、限りない平等調整もこの面からすると最高の格率ではないだろう。多くの階級制度には層間変位をうまくする抜け道、あるいは遊び幅が設けられるのが通常だが、社会の順位制において固定せずとも過剰な流動性をふせぐ対策には例外の余地は絶対に欠かせないものらしい。
よりよく調和した社会には体制の塑性がより一層必要だろう。地域間の協調もそれが互いへの牽制を兼ねてこそ、結果、偶然に左右されにくい堅固なバッテリーを組むことになる。他国を無視すべからずという憲法の理念は傲慢をでも自虐をでもなく、より強化された協調の場を世界へ要請する指導力を当然視するところに成り立つ。よって原理主義そのものさえ決して粗野な見た目より悪の道理ではないだろう。
哲学と文の学の関連
後自然学が自然学の後から進もうとするのはそれが最も総合的な学識であると示すに留まる。知恵を好む事は決して後発的ではない。シェリングの意見に、哲学するとは学究自体のことであるから哲学部の存在を問う必要がないとある。但し、哲学という訳出語は惟神への道を哲ること、より恒久しき精神を有することにある。
現存の哲学部の存在はこれらを慎重に鑑みると、自然学の最終的形態としての社会学をも含めた批判を行う為に他の学野とは独立して、総合の学野として設えられるべきなのだと思える。それは既存の研究領域を拡大する事を専門化し、蛸壷と化した科学者とは異なる観点から、認識を容認か否定する為につねなる独立した論理作用を学識の外へ置いておく為に。一般教養のためには哲学部が最適な本質となる。文学と呼ばれるものは、芸術に関する趣味批判を特徴づけるとしても必ずしも最善の総合的学問体制ではない。それは実践的学究の為の文の学ではなくて、文芸の準備という技術面からの命題が忍び込むからだろう。
言葉と学識の分岐が十分なしうる訳ではない。文章と学問が不即不離であるのは伝承に関する筆記の可塑から生じる事態だと考えられる。記号の論理がそれ自体を指すということ、文の事実がまなばれたことを一定の伝承形態へ託す。
哲学に流行があるという事象が示すのは、代の考え方が最も総合的な知性を道徳と見做す所から。
現存の哲学部の存在はこれらを慎重に鑑みると、自然学の最終的形態としての社会学をも含めた批判を行う為に他の学野とは独立して、総合の学野として設えられるべきなのだと思える。それは既存の研究領域を拡大する事を専門化し、蛸壷と化した科学者とは異なる観点から、認識を容認か否定する為につねなる独立した論理作用を学識の外へ置いておく為に。一般教養のためには哲学部が最適な本質となる。文学と呼ばれるものは、芸術に関する趣味批判を特徴づけるとしても必ずしも最善の総合的学問体制ではない。それは実践的学究の為の文の学ではなくて、文芸の準備という技術面からの命題が忍び込むからだろう。
言葉と学識の分岐が十分なしうる訳ではない。文章と学問が不即不離であるのは伝承に関する筆記の可塑から生じる事態だと考えられる。記号の論理がそれ自体を指すということ、文の事実がまなばれたことを一定の伝承形態へ託す。
哲学に流行があるという事象が示すのは、代の考え方が最も総合的な知性を道徳と見做す所から。
青
まっさらなダムをそば立たせる春雨の儚さ
神奈備の山から起こりし曇りしめやかなる
アスファルトを染め上げる薄紅の上ゆく車輪
海寄りの田畑稲穂に住まう疋蛙一斉に隠れる
音を立てて鳴りしきる杉林のもと地蔵様見る
列島を覆え雨の為なる春先の恵み野良犬を濡らせ
過ぎ去りし風の向きに聞こゆるのは常磐の波打つ夕暮れ時
うす盆の街を走り去る明々と照らす電車から見た海空
何もない空へ浮かぶ真ん丸のお月様は君を観る
二度と戻らない若々しい頃も若葉と共に葉桜と散る
街を侵す消防車のサイレンが遠くへ伸びゆく
蒸散する路上から黒猫の走る山あいへ消える
滔々と流れる川あお鷺の戯る空に月架かり下る
神社の上の椿散るただひとり錆びゆく手摺りよ
生温かい街からの風を夜景の上に溶かし混む色
多摩丘陵へ降りる青
歩道を走る子供のキックボードが硝子の街を写す
隠されたのは
神奈備の山から起こりし曇りしめやかなる
アスファルトを染め上げる薄紅の上ゆく車輪
海寄りの田畑稲穂に住まう疋蛙一斉に隠れる
音を立てて鳴りしきる杉林のもと地蔵様見る
列島を覆え雨の為なる春先の恵み野良犬を濡らせ
過ぎ去りし風の向きに聞こゆるのは常磐の波打つ夕暮れ時
うす盆の街を走り去る明々と照らす電車から見た海空
何もない空へ浮かぶ真ん丸のお月様は君を観る
二度と戻らない若々しい頃も若葉と共に葉桜と散る
街を侵す消防車のサイレンが遠くへ伸びゆく
蒸散する路上から黒猫の走る山あいへ消える
滔々と流れる川あお鷺の戯る空に月架かり下る
神社の上の椿散るただひとり錆びゆく手摺りよ
生温かい街からの風を夜景の上に溶かし混む色
多摩丘陵へ降りる青
歩道を走る子供のキックボードが硝子の街を写す
隠されたのは
2009年4月14日
特権階級増設論
我先日痴呆の老婆が病原菌を都内満員の電車内へ咳込み盛んに飛散させるを目撃したり。
然るに日本の無階級社会は将来、あの種の惨劇から大きな損害を受けなければならない。もしそれが中流階級車両しか存在しない国家にたまたま乗り合わせたケインズであったならその社会は二度と景気を依然にまで回復させないであろうし、たまたまニュートンであったなら数千年近くを無明の境で彷徨い民族ごとほかの知的集団に解体されるであろうし、たまたまダーウィンであれば創造説の過信を修整できない弊害の為に血統の意義をも失ったであろう。
特権階級の存在意義を滅却させた、又はさせるのを疑いない善意であると信仰した大衆社会の現象は、近々凡庸なだけの際だった変異のない均質化した同系遺伝子集団の大量絶滅を予見させるに十分である。もし天皇制があればどの階級も無用と述べるつもりならたった数名では変異幅が他集団より圧倒的に不足すると結論できる。ここから、格差論が血統上は特徴を持たない凡庸遺伝種プールからの根拠のない怨念であると考えて間違いない。
もし少しなりとも理性の残った貴人がこの奇怪な島国に残存していれば、最優先の社会的課題が特権階級の増設であると直観する筈だ。さもなくばあの種の遺伝的伝染病により既存種の全数が死滅しても自然の賢明さを人員整理と述べるしか間がないのだから。中流のみの社会は極端に変異幅の狭まった、免疫的弱点のみの構造体でしかない。
人間社会では最も極端な形質が、超極端さであれ超中庸さであれ種の生存の為に保存されるべきでありいかなる観点からさえ凡庸がそうなのではないと知るべきだ。
然るに日本の無階級社会は将来、あの種の惨劇から大きな損害を受けなければならない。もしそれが中流階級車両しか存在しない国家にたまたま乗り合わせたケインズであったならその社会は二度と景気を依然にまで回復させないであろうし、たまたまニュートンであったなら数千年近くを無明の境で彷徨い民族ごとほかの知的集団に解体されるであろうし、たまたまダーウィンであれば創造説の過信を修整できない弊害の為に血統の意義をも失ったであろう。
特権階級の存在意義を滅却させた、又はさせるのを疑いない善意であると信仰した大衆社会の現象は、近々凡庸なだけの際だった変異のない均質化した同系遺伝子集団の大量絶滅を予見させるに十分である。もし天皇制があればどの階級も無用と述べるつもりならたった数名では変異幅が他集団より圧倒的に不足すると結論できる。ここから、格差論が血統上は特徴を持たない凡庸遺伝種プールからの根拠のない怨念であると考えて間違いない。
もし少しなりとも理性の残った貴人がこの奇怪な島国に残存していれば、最優先の社会的課題が特権階級の増設であると直観する筈だ。さもなくばあの種の遺伝的伝染病により既存種の全数が死滅しても自然の賢明さを人員整理と述べるしか間がないのだから。中流のみの社会は極端に変異幅の狭まった、免疫的弱点のみの構造体でしかない。
人間社会では最も極端な形質が、超極端さであれ超中庸さであれ種の生存の為に保存されるべきでありいかなる観点からさえ凡庸がそうなのではないと知るべきだ。
2009年4月12日
生物学
一般に、内的増加率戦略(reproduce rate strategy)の区域ではその生物種が対称形を最美と見做し選り好みし易い傾向がある。他方で環境収容力戦略(Kapacity strategy)下ではその逆がかなりの具合で発見されるらしい。乃ちそこでは特有の非対称さを選り好む場合が多い。
我々はこの原因を、r戦がその場の広域な為に急速な支配を目的に経済的完成度を求め、k戦が隔離の区域にあって寧ろ既得の場所を奪い返す新しい変異を好適とするからだと結論できるかもしれない。言換えればk戦の起きている場所では環境抵抗下で如何なる突然変異を誘発するかに性選択上の焦点が移ると謂いうる。おそらく幼型化の傾向はk戦下で、成熟化のそれはr戦下でより急速に精選されゆくであろう。時間的にも非常な程度で固定した適所ではそこへ要求される適性の的を射る変異が出現する速度が、かなりの広域で幾らでも逃避可能な拡散の条件下よりずっと珍しく特殊化した袋小路へ選好をいざなうべく速くなる。
処で、隔離された小領域でも広大な開放の場でもない、或いは両方の特性が交じり合った半開きの適所がある。殊に外部種の出入りが自由だがそこには一定の定員がある様な場所または場合。多くの生物が進化するのは前述の二方ではなくこの第三の適所に於いてである様に見える。なぜなら進化一般はr戦内での勝利(既存種の完成)とか、k戦内での突然変異の集積(幼型的変種の形成)よりは、新規の習性を要求する今までとはことなった適所を発見しその場を寡占することで果たされ易いのである。当然この希な隙間では既存種とは違う習性をもつ明らかな新種が作られ易い。
この第三の道に於ける適応の型は臨機応変型戦略(ad hoc strategy)と呼ぶことができる。もし環境抵抗がなんらかの誘因から一時的に増大すれば新変異を選好するだろうし、そうではない時には完成度を示す成熟した種をより急速に増加させ易い。だがこのa戦略を生む適所は謂うなれば時間の中に存在することの方が多いように思われる。結局その場所も続く世代の内で環境の変化が一定の周期に捉えられれば外来種の流入がない限りは収容戦域に過ぎず、逆に既に多数の勝利を収めた経済的優位種で占められていればその周辺へ向けての増加戦域と化するだろう。
我々はこの原因を、r戦がその場の広域な為に急速な支配を目的に経済的完成度を求め、k戦が隔離の区域にあって寧ろ既得の場所を奪い返す新しい変異を好適とするからだと結論できるかもしれない。言換えればk戦の起きている場所では環境抵抗下で如何なる突然変異を誘発するかに性選択上の焦点が移ると謂いうる。おそらく幼型化の傾向はk戦下で、成熟化のそれはr戦下でより急速に精選されゆくであろう。時間的にも非常な程度で固定した適所ではそこへ要求される適性の的を射る変異が出現する速度が、かなりの広域で幾らでも逃避可能な拡散の条件下よりずっと珍しく特殊化した袋小路へ選好をいざなうべく速くなる。
処で、隔離された小領域でも広大な開放の場でもない、或いは両方の特性が交じり合った半開きの適所がある。殊に外部種の出入りが自由だがそこには一定の定員がある様な場所または場合。多くの生物が進化するのは前述の二方ではなくこの第三の適所に於いてである様に見える。なぜなら進化一般はr戦内での勝利(既存種の完成)とか、k戦内での突然変異の集積(幼型的変種の形成)よりは、新規の習性を要求する今までとはことなった適所を発見しその場を寡占することで果たされ易いのである。当然この希な隙間では既存種とは違う習性をもつ明らかな新種が作られ易い。
この第三の道に於ける適応の型は臨機応変型戦略(ad hoc strategy)と呼ぶことができる。もし環境抵抗がなんらかの誘因から一時的に増大すれば新変異を選好するだろうし、そうではない時には完成度を示す成熟した種をより急速に増加させ易い。だがこのa戦略を生む適所は謂うなれば時間の中に存在することの方が多いように思われる。結局その場所も続く世代の内で環境の変化が一定の周期に捉えられれば外来種の流入がない限りは収容戦域に過ぎず、逆に既に多数の勝利を収めた経済的優位種で占められていればその周辺へ向けての増加戦域と化するだろう。
2009年4月11日
徳川の防衛
北朝鮮の財政が最終的切迫を迎える時には必ずなんらかの武力によるチョッカイを出して来るのが確実である。
おそらくそれは9・11の小型版のような恐怖政治によるだろう。
太陽政策を永続するのは北の財政難上に無理があり、よって遅かれ早かれ“ジョーカー”を引き渡す為に野暮な脅威を用いざるをえないのは、もし我々がハルノートを渡すまでのことだろう。
ここから、最もつまらないチョッカイのはしけを見つけ次第、可能な限り公徳の論理に訴えかけて一息に敵の首を取るべきが明らかである。すなわち『家康分割の説』は今日の防衛論の上でさえ正義と見なされる。なぜなら“ならずもの”を放っておくのはそれ自体が悪なのであるから、国際世論がこの正当防衛的逆襲によって非難をすることは決してないであろう。その任務成功がすみやかであればあるほど。
しかし国内の極右をいたずらにつけあがらせないためにも臨機の気性に富み豹変に選れる主将を推すのは必然的で、この点では最も機動的な文官があわてふためく国民を煙に巻けねばならない。
政治史一般に於いて、武力差が圧倒的な場合この遠征にはいかなる遠慮も要らない。それはハーンの帝国をみれば判る。商戦や外交を通じた漸次の手だてを要するのは情報不足か又はこちらの劣位が明らかな場合にこそ。
また、この際に米軍との品のよしあしの別を強調する為にいかなる大量破壊兵器をも用いるべきではないのは当然でなければならぬ。警察的武威のみでも、もとが貧窮した社会主義国で武力が一極へ集中している限りその抵抗筋を先手を打ち押さえ込めば、直ぐさまの征服は十分なしうる。
可能ならば麻原逮捕時の如く相手方への最大の威嚇報道こそをもって無血開城を求むるべし。フセイン拘束ふうの泥臭い方法は反面教授である。
なお、これには米軍との必要最小の連帯のみで韓国との協調は無用だろう。判断のにぶい同類項は必ずいらぬ難癖をつけるのが落ちなのだから。
そして北の首脳陣解体後はそれを朝鮮民族自体へと譲るがいい。
手っ取り早くは、南へできるかぎり大きな恩を着せるため、ハングルの公認を真っ先に掲げて最も早速去り、平壌へ米国よりずっと日本の痕跡をのこさぬことだ。日本国旗が報道されれば特に中華圏であとあと面倒なのだから、自衛隊の旗は隠すか警察隊級の別のデザインを用いる方がよい。
おそらくそれは9・11の小型版のような恐怖政治によるだろう。
太陽政策を永続するのは北の財政難上に無理があり、よって遅かれ早かれ“ジョーカー”を引き渡す為に野暮な脅威を用いざるをえないのは、もし我々がハルノートを渡すまでのことだろう。
ここから、最もつまらないチョッカイのはしけを見つけ次第、可能な限り公徳の論理に訴えかけて一息に敵の首を取るべきが明らかである。すなわち『家康分割の説』は今日の防衛論の上でさえ正義と見なされる。なぜなら“ならずもの”を放っておくのはそれ自体が悪なのであるから、国際世論がこの正当防衛的逆襲によって非難をすることは決してないであろう。その任務成功がすみやかであればあるほど。
しかし国内の極右をいたずらにつけあがらせないためにも臨機の気性に富み豹変に選れる主将を推すのは必然的で、この点では最も機動的な文官があわてふためく国民を煙に巻けねばならない。
政治史一般に於いて、武力差が圧倒的な場合この遠征にはいかなる遠慮も要らない。それはハーンの帝国をみれば判る。商戦や外交を通じた漸次の手だてを要するのは情報不足か又はこちらの劣位が明らかな場合にこそ。
また、この際に米軍との品のよしあしの別を強調する為にいかなる大量破壊兵器をも用いるべきではないのは当然でなければならぬ。警察的武威のみでも、もとが貧窮した社会主義国で武力が一極へ集中している限りその抵抗筋を先手を打ち押さえ込めば、直ぐさまの征服は十分なしうる。
可能ならば麻原逮捕時の如く相手方への最大の威嚇報道こそをもって無血開城を求むるべし。フセイン拘束ふうの泥臭い方法は反面教授である。
なお、これには米軍との必要最小の連帯のみで韓国との協調は無用だろう。判断のにぶい同類項は必ずいらぬ難癖をつけるのが落ちなのだから。
そして北の首脳陣解体後はそれを朝鮮民族自体へと譲るがいい。
手っ取り早くは、南へできるかぎり大きな恩を着せるため、ハングルの公認を真っ先に掲げて最も早速去り、平壌へ米国よりずっと日本の痕跡をのこさぬことだ。日本国旗が報道されれば特に中華圏であとあと面倒なのだから、自衛隊の旗は隠すか警察隊級の別のデザインを用いる方がよい。
2009年4月9日
文化上の特殊命題の一考察
日本風土の神妙に移り変わる季節性の珍しさはその文化での収穫物を著しく特殊化してあらわす。この点で、日本の風物はそれが先進的な時は独創として、後進的な時は奇形として評価・表象されるものとなる。或いはそうであらざるをえない。
この為、本の郷士のつとめはその文化のつねなる文明化を必須命題とすることになるだろう。いわば意図の有無に関わらず恒に風変わりな習性を余儀なくする国土の性質の上にあってはその他国の習慣との適合を絶えざる宿命とする。我らは努力して開明的でなければならない。そして奇形さよりは独創性の方が栄誉の表彰であるからには、絶えず自ら先駆けてある為に学問を、特に科学の民度をいずれどの国風よりも我々は贔屓目に見る必要があると云える。というにも、非科学的な独創はおよそ趣味の産物であって、たとえば茶の湯の如く数寄者に愛好されはすれ社会基盤に共通化が行われない万人からの尊敬を受けること希である。
この為、本の郷士のつとめはその文化のつねなる文明化を必須命題とすることになるだろう。いわば意図の有無に関わらず恒に風変わりな習性を余儀なくする国土の性質の上にあってはその他国の習慣との適合を絶えざる宿命とする。我らは努力して開明的でなければならない。そして奇形さよりは独創性の方が栄誉の表彰であるからには、絶えず自ら先駆けてある為に学問を、特に科学の民度をいずれどの国風よりも我々は贔屓目に見る必要があると云える。というにも、非科学的な独創はおよそ趣味の産物であって、たとえば茶の湯の如く数寄者に愛好されはすれ社会基盤に共通化が行われない万人からの尊敬を受けること希である。
スポーツ賭博の消極的な黙認について
被抑圧層の好戦欲求を殺さずに気晴らしの便宜を社会の公益へ結ぶに、野球やサッカー等メジャーな運動競技の賭け事化を防ぐべきではないだろう。それは世界宗教や公的教育等のように奨励を必須とまではせずとも、決して否認されるべきではない生業だろう。少なくとも再軍事化よりは遥かに健全な戦闘力の準備となるのだから。
基幹産業の回転率向上策
運送と移動にともなう「資本の運転率」をあげるには、特に若年層の生まれ持った個性に応じた地方都市圏への才能の分散と特化とが有効な方法論と云える。
ここから、現状の高速道路に可能なだけ新設の高速レーンを設けてその最高速度を法規上、時速200km近くへ上げるのがちかぢかの功利策に見える。
主要あるいはほぼ基幹産業である日本車の取引分を落とさないためには、BMW等のドイツ車と張り合うかそれを超える高気筒のエンジンを搭載した高級車市場へも本格的に進出するメーカーがなければならない。それは国際寡占的なトヨタの中産クラス適応に比べれば、ホンダか日産が現況では適当におもえる。
バイクの超高速運転の不可能さ、危険さをかえりみれば「格好」のみを追求したスポーツカーがいかにステータスを主張し尽くしても足りはすまい。もうヨーロッパのレースで常勝を遠慮するべき時期は過ぎたと言うべきだ。どの白人(しろうと)も深刻な環境問題を目前に黄犬と揶踰れはしない。
他方で、タタやヒュンダイ等の新興勢が格安車に先駆けるのは国民の労働力価格差からすると殆ど防ぎえない趨勢であって、スズキや、トヨタの分業部門がなんらかの「機能」の良さという付加価値を高効率の生産体制を再樹立して達成するしか対抗戦は難しい。
この点で、あまりに労働力の再生産効率の悪い大卒採用に適当な大企業病の蔓延した現況は、遅かれ早かれ大きく途上国産の庶民車生産に於いてはなを開けられる‘負の抵抗’である。
もしも彼らを資本の過剰流動性をまともにくらって我が儘に切り捨てるのを結局は国内外で不評を買う損失額であると悟る若々しい経営陣が現れれば、より効率に勝る、より安価な工業専門学校または信望ある専修学校からの人材確保が新規市場適応には不可欠であると考え、そのための採用手段に効率的な「就業前試用制度(インターンシップ)」か又は「自社製の専門学校」を体よく調達しなければならなくなろう。そしてよく働くかれらの信認を受けた家族が20年前後の周期で再調達できるような安泰な人材占有に成功すれば、その企業の発展は未だ衰えないだろう。
ここから、現状の高速道路に可能なだけ新設の高速レーンを設けてその最高速度を法規上、時速200km近くへ上げるのがちかぢかの功利策に見える。
主要あるいはほぼ基幹産業である日本車の取引分を落とさないためには、BMW等のドイツ車と張り合うかそれを超える高気筒のエンジンを搭載した高級車市場へも本格的に進出するメーカーがなければならない。それは国際寡占的なトヨタの中産クラス適応に比べれば、ホンダか日産が現況では適当におもえる。
バイクの超高速運転の不可能さ、危険さをかえりみれば「格好」のみを追求したスポーツカーがいかにステータスを主張し尽くしても足りはすまい。もうヨーロッパのレースで常勝を遠慮するべき時期は過ぎたと言うべきだ。どの白人(しろうと)も深刻な環境問題を目前に黄犬と揶踰れはしない。
他方で、タタやヒュンダイ等の新興勢が格安車に先駆けるのは国民の労働力価格差からすると殆ど防ぎえない趨勢であって、スズキや、トヨタの分業部門がなんらかの「機能」の良さという付加価値を高効率の生産体制を再樹立して達成するしか対抗戦は難しい。
この点で、あまりに労働力の再生産効率の悪い大卒採用に適当な大企業病の蔓延した現況は、遅かれ早かれ大きく途上国産の庶民車生産に於いてはなを開けられる‘負の抵抗’である。
もしも彼らを資本の過剰流動性をまともにくらって我が儘に切り捨てるのを結局は国内外で不評を買う損失額であると悟る若々しい経営陣が現れれば、より効率に勝る、より安価な工業専門学校または信望ある専修学校からの人材確保が新規市場適応には不可欠であると考え、そのための採用手段に効率的な「就業前試用制度(インターンシップ)」か又は「自社製の専門学校」を体よく調達しなければならなくなろう。そしてよく働くかれらの信認を受けた家族が20年前後の周期で再調達できるような安泰な人材占有に成功すれば、その企業の発展は未だ衰えないだろう。
2009年4月5日
重農主義の回復力指導
各交通路の間へ如何なる政策上の介入も防ぐ放任戦略によって、最も輸送の機敏へ適した安上がりな運通手段で農業者間での功利を目指す経営合理化の努力を、我々は国内の食料生産質量へ広く誘引すべきなのである。単なる消費の物量から引き出した減反政策や中央分権的重商化の弊害は結局、現国民性の総大阪人化に至らせるに過ぎない。そしてこの種の商売専守国民が通例とするがめつさ、狡猾な守銭奴の性格、或いは逆転して拝金主義的豪放を好ましいとすら見做す深謀遠慮なさはみな、我々が自らの郷国を金儲けの為に土地の神ごと売り払った因果となるのだ。
重商主義偏向政策は自民党独裁がますます近視的搾取にしか目的を措くまいとする浅ましい税吏の徒を、どうやって普遍的国民性の上に位置付け天下らせようか思案しているか、にしか意味内容を持たないと云える。もし強い地元魂をもつ気骨ある士がこの事情に眼を啓くなら、先ず独裁政党で弱体化しきった中央政府のおしつけがましいマンガ式等分割政策案を自律して却下するであろう。そして地域連盟を通して一方的な減反や生産統制の暴威を地域市場の確保で否定し、より粘り強く勤労をつづけ改良された設備と科学的農法によって生産力を増大させることで諸外国の安価な量産品に負けないほどの競争力を身に着けようとするだろう。農協に属する限り一定量以上の耕作物が買い上げられる仕組みを設けるのは、極端な生産量偏差のため仲間割れを起こし兼ねない以上困難である。したがって流通と販売をも通信機器や運送業の自社化で一括して管理できる方がこの資本的経営を推進するのに好適である。地産地消の用語は又、輸送費というものが日用食料に限っては、いいかえれば奢侈および気候上収穫や栽培の難しい珍味を除いては原則的に最も近隣の地域へより生産上有利になる条件づけであると教える。ある国家が使い得る土地あたりの農業生産力の範囲で最大限の合理的経営を図ることが、輸入品との価格競争上で、輸送費と単位面積あたりの生産質量との市場取引間相殺作用で拮抗する成果を挙げるには正道である。
これらは日本の内で最も面積あたり土地価格の安い、広大な酪農適地としての北海道を米国型の量産体制へみちびくこと、あるいはまた急峻な山地が過半である他の内国地域では極めて土地生産性を高めた北欧型機械農法へ現行の労働集約性を徐々に改良していくことが今後の課題に足ると考えさせる。
一般に生産物について価格平衡の作用を鑑みればいかなる立場からも過剰生産ということはありえない。余った品を輸出しないまでも、国内価格がよりもっと安くなるだけである。万が一捨てられるとしても、それは家畜をはじめより低次の消費者や分解者にとっては以前として栄養たることをやめない。なんらかの不純物からの生物濃縮をさえ注意深く退け、自然浄化の作用に待つかぎり最終的には堆肥として、再生産へ寄与する。すると世の中に惠まれ過ぎるということはありえない。この点で、政治屋とか商売人が単に外交方針とか儲けに対する売り損ねとか云々をするのは元々、国内の全生産物が無料になるまで豊富となったあかつきにこそ語るべき地口でしかありえない。それらは生産者への誤った考え方、おそらく儒学的なまつりごと至上思想の出世欲と悪感情が引き起こす価値の転倒なのである。植物に依存する動物がその果実をあしざまに罵るのは痴愚を超えては倒錯でしかない。つまり儲けにしか関心がなくなった哀れ窮まるあきんどは餓えながら血眼になって働くが、その品性は同情を買うよりもずっとカネにしか執着心がないという点で永久に貧困なのである。もしこれが真実の見識なら我が国民存在をミダス王の轍へいざなう政治癒着の悪徳財界人とやらは一切粛清されるべきものである。
重商主義偏向政策は自民党独裁がますます近視的搾取にしか目的を措くまいとする浅ましい税吏の徒を、どうやって普遍的国民性の上に位置付け天下らせようか思案しているか、にしか意味内容を持たないと云える。もし強い地元魂をもつ気骨ある士がこの事情に眼を啓くなら、先ず独裁政党で弱体化しきった中央政府のおしつけがましいマンガ式等分割政策案を自律して却下するであろう。そして地域連盟を通して一方的な減反や生産統制の暴威を地域市場の確保で否定し、より粘り強く勤労をつづけ改良された設備と科学的農法によって生産力を増大させることで諸外国の安価な量産品に負けないほどの競争力を身に着けようとするだろう。農協に属する限り一定量以上の耕作物が買い上げられる仕組みを設けるのは、極端な生産量偏差のため仲間割れを起こし兼ねない以上困難である。したがって流通と販売をも通信機器や運送業の自社化で一括して管理できる方がこの資本的経営を推進するのに好適である。地産地消の用語は又、輸送費というものが日用食料に限っては、いいかえれば奢侈および気候上収穫や栽培の難しい珍味を除いては原則的に最も近隣の地域へより生産上有利になる条件づけであると教える。ある国家が使い得る土地あたりの農業生産力の範囲で最大限の合理的経営を図ることが、輸入品との価格競争上で、輸送費と単位面積あたりの生産質量との市場取引間相殺作用で拮抗する成果を挙げるには正道である。
これらは日本の内で最も面積あたり土地価格の安い、広大な酪農適地としての北海道を米国型の量産体制へみちびくこと、あるいはまた急峻な山地が過半である他の内国地域では極めて土地生産性を高めた北欧型機械農法へ現行の労働集約性を徐々に改良していくことが今後の課題に足ると考えさせる。
一般に生産物について価格平衡の作用を鑑みればいかなる立場からも過剰生産ということはありえない。余った品を輸出しないまでも、国内価格がよりもっと安くなるだけである。万が一捨てられるとしても、それは家畜をはじめより低次の消費者や分解者にとっては以前として栄養たることをやめない。なんらかの不純物からの生物濃縮をさえ注意深く退け、自然浄化の作用に待つかぎり最終的には堆肥として、再生産へ寄与する。すると世の中に惠まれ過ぎるということはありえない。この点で、政治屋とか商売人が単に外交方針とか儲けに対する売り損ねとか云々をするのは元々、国内の全生産物が無料になるまで豊富となったあかつきにこそ語るべき地口でしかありえない。それらは生産者への誤った考え方、おそらく儒学的なまつりごと至上思想の出世欲と悪感情が引き起こす価値の転倒なのである。植物に依存する動物がその果実をあしざまに罵るのは痴愚を超えては倒錯でしかない。つまり儲けにしか関心がなくなった哀れ窮まるあきんどは餓えながら血眼になって働くが、その品性は同情を買うよりもずっとカネにしか執着心がないという点で永久に貧困なのである。もしこれが真実の見識なら我が国民存在をミダス王の轍へいざなう政治癒着の悪徳財界人とやらは一切粛清されるべきものである。
2009年4月4日
2009年4月3日
法則論
法則が成立する、と考える習性は地球のある知性がその目的にとって適度に惑星化されていくところに生じる。定期的な環境変異の運び行きの中で習慣的に集められた認識の材料が科学知識を作る。調度蜂蜜の様に、人類は様々な生活要素を結晶させて自然法則という認識用栄養分を蓄える。富でさえ、巨視すればこの法則素としての共感的比例概念へと次第にひきかえられていくらしく見える。我々の工学では不老不死を実現させられていないのだし、結果どの個人も死亡するまでしか富の形を残さない。だが蓄えられた知識は外部媒体を通じて伝承される限り滅びず、その認識が上級の秩序であればあるほど古びない。すなわち価値としての知財は富の上位概念。
いいかえれば情報量としての豊かさは群生技術の産物であり、その蒐集は蓄財のたくみさに基づくのだろう。
一方すべて学識の集積はそれが進む程、生活形の常磐化をなしあたう様だ。生まれ育ちの安定はこの作用による。建築術的堅牢が特有の郷士を羽含む。法則としては生命が暮らす当惑星の恒星離心率が低いほどその恒常的特質が、逆に地表面の気候条件の乱れがこの変化へ特殊な類型を与えるほど風土的特質がよく収集されるだろう。
いいかえれば情報量としての豊かさは群生技術の産物であり、その蒐集は蓄財のたくみさに基づくのだろう。
一方すべて学識の集積はそれが進む程、生活形の常磐化をなしあたう様だ。生まれ育ちの安定はこの作用による。建築術的堅牢が特有の郷士を羽含む。法則としては生命が暮らす当惑星の恒星離心率が低いほどその恒常的特質が、逆に地表面の気候条件の乱れがこの変化へ特殊な類型を与えるほど風土的特質がよく収集されるだろう。
論理的双方向性の洋学史的經緯
学問の営みの上で二方向の論理が正当化されるのは本質的なこと。不完全性定理は学問の上では合理的な真理かもしれない。数理と倫理とが相互に違う論理法則をもつのは相互の誤謬を監視する為の必要条件であり、随って物理にとって自家撞着でさえなかった。より単一化されうる規則へと物事の認識を還元する作為はより総括的で複合された大きな理念へと止揚するそれとは異なる推論路程を辿り、故にどちらも訳なきことではなくなる。自然法則の前での足踏みを現代人が信仰箇条とする理由も又この論理的双方向性という学問の基本規則の上にある。
だから、もっと素朴な考え方で充ち足りていた祖先がなぜ造物主の仮定を理念と取り違えたかまともに問う工夫に進まなかった如く、現代人が工学の恵みに浴してなぜ物理が法則的かを問う猶予をえられないとしても殊更かれらの怠慢でなければ哲学の不足に終わる。
宇宙の数理秩序視観をピタゴラスが始めたとするなら、その倫理秩序視観はカントの創始に求まるだろう。いずれにせよ物理学はすべてに法則性を求めて止まない。
ニュートンの哲学は森羅万象へ物理法則という神ながらの計画をあてはめようとする試みの上であった。そして物理秩序視観は論理的双方向性の結果にとっては最も高度の概念を比例のたとえを用いて文法づけようと試みる絶好の適所だと云える。それは真の文学にとっては教科書的中心領域を司る。もし最高度の比例概念が知られる様になれば我々が自然法則を信仰する為の合理的必然性または客観的態度は学問それ自体の秩序の中で論証されるだろう。法則性が単なる論理規則の一種として厳密に定義される時も同じ経路上で果たされるだろう。
だから、もっと素朴な考え方で充ち足りていた祖先がなぜ造物主の仮定を理念と取り違えたかまともに問う工夫に進まなかった如く、現代人が工学の恵みに浴してなぜ物理が法則的かを問う猶予をえられないとしても殊更かれらの怠慢でなければ哲学の不足に終わる。
宇宙の数理秩序視観をピタゴラスが始めたとするなら、その倫理秩序視観はカントの創始に求まるだろう。いずれにせよ物理学はすべてに法則性を求めて止まない。
ニュートンの哲学は森羅万象へ物理法則という神ながらの計画をあてはめようとする試みの上であった。そして物理秩序視観は論理的双方向性の結果にとっては最も高度の概念を比例のたとえを用いて文法づけようと試みる絶好の適所だと云える。それは真の文学にとっては教科書的中心領域を司る。もし最高度の比例概念が知られる様になれば我々が自然法則を信仰する為の合理的必然性または客観的態度は学問それ自体の秩序の中で論証されるだろう。法則性が単なる論理規則の一種として厳密に定義される時も同じ経路上で果たされるだろう。
2009年3月30日
社会学
適応価値の性特徴的側面は経済性自体とも多少あれ異質である。我々は経済生活に於て希な適性をもつ彼らを暫し見かけるし、逆に経済的でも性徴に欠陥をもつ或いは反性差的な個性を権利の上で認証する場合がある。仮にこれらを簡単な人間性という指標で認知すると、凡そ類人猿と違いのない形質から最も神格的な彼ら迄は高い経済性へ達するという内容での達成度に加えて、その達成形式に関する偏差を異なる姿で取る。
人種概念が何らかの遺伝に対する分類を許すなら、その最も特徴的な変異の幅が顕れた形質について、則ち二次性徴の雄性形質に関する目立った偏差に関して真と認められる。もしこの概念の獲得が知識にとって有益ならば社会形成に於る、文化型分析の指標の一つに用る可塑性認識の道具に、だろう。群的行動型の中庸の極として企業活動が社会生物に経済概念(建築術の形式)を該当させる原理(いわば群生の原理、とでも云われる)に相違なくば、必然に或る適所の環境変異誘因は最も目覚ましく合目的化された形質を獲得形から遺伝形に至る連続した世代間の選好的集積により適応価値化し、結晶させるであろう。幾つかの誇示や雑種間競争の手段となる形質への学習的模倣は変異の尋常ならぬ個性を教育し、目的に適った行動型へと習性を漸次変形させ、擬態の演技を物してこの系の総合的複雑さを増す役に立つ。かの為にさえ、社会の有する富の相対比が調度裾野を拡げる富士山の如く末広がりを許せば許す程、詰り配分と調整間に調和的正義を適宜に達し得るほど分業の合理化を計る建築本能の微積に応じ、適応価値の寛容さは現実の物とも成る。
かねて文明国と呼ばれる場所で利潤や生存自体にさえ無用の構造が生じる珍しさをのみ理由として時に保護され、又は擁護され、奨めて養生さえされるのは冷静に観察すれば分業制の経過である。専らなんの稼ぎにもなりえない無駄な体制を切り捨てないのは、それだけの変異幅を養っておく余裕がなければできないことだ。地球で最初に8の字を画いた蜂はおそらく誇示の性選択効果の為に運よく保存されたのであり、決して公益を仲間に認められたからではないのは最もはじめに発明された行動型が稼ぎに繋がるまでに大幅な差延がやむをえないくらい複雑な協力行動を余儀なくした社会であればあるだけ真だろう。寿命より長く効用を持つ個体の変異の合目的性はそう信じられている様、一般に芸術の天才と呼ばれてしかるべきだろう。その突飛奇特な蜂の一群は次第に種内に広まった遺伝形質が再びその指導力を獲得させるという偶有の功績あるいは企業性の為に他の旧態依然たる付和雷同的や放浪気質的な昆虫群より多くの資料を集めることになったと考えられる。
偶々果った既存秩序より勝って分業化の合理を達した独創の、又随って芸術性の生得形質はよくもゆとりがあればこそ、自身には多かれ少なかれ経済的欠損があろうと後生大事に保存されるだろう。そしてこの形質が一大部位を形成するに当たって社会は彼らの有する合理的特徴から利益を受けることが益々多くなるだろう。逆に協業的形質はそれが模倣され易いだけ凡庸な構造であればあるほど、競争的価格平衡の作用に才能としてより希少ではなくなり収穫量を減らしていくだろう。まるで遷移する樹林に等しく、日光を支配する為に伸ばした枝は他の木々がそれを真似る限りで栄養を享受する、企業間の競争的遷移。
以上が富山湾化と形容されうるが如き形質と環境との相互変異あるいは文明建築の基本的な運動法則である。我々は富士の法則としてこの末広がるほど豊かになる社会性生物の道理を認識することができる。そこでは崩れ易い低い山であるだけ急峻な構造の幅を、安定した優美な姿であるだけ多彩で分業された末広がりの生態の各適所を必要不可欠とする自然法則を、社会体制の必然的変遷の規則に見立てることができよう。たとえ直接の種間か種内の競争が何らかの協同か共生の方法で部分的に又は殆ど全面的に回避されている中から高度の社会性をもった生物属にとってさえも、その経済適合の規則は普く一定の構造の可塑化を続けようとする懸命な自助と協調の連綿たる作為に従うと知るのなら少なくとも既存人類については、世界計画への逆恨みを含む狂信者らの誤った偏見を破棄させるに十分ならんと反省させられる。
人種概念が何らかの遺伝に対する分類を許すなら、その最も特徴的な変異の幅が顕れた形質について、則ち二次性徴の雄性形質に関する目立った偏差に関して真と認められる。もしこの概念の獲得が知識にとって有益ならば社会形成に於る、文化型分析の指標の一つに用る可塑性認識の道具に、だろう。群的行動型の中庸の極として企業活動が社会生物に経済概念(建築術の形式)を該当させる原理(いわば群生の原理、とでも云われる)に相違なくば、必然に或る適所の環境変異誘因は最も目覚ましく合目的化された形質を獲得形から遺伝形に至る連続した世代間の選好的集積により適応価値化し、結晶させるであろう。幾つかの誇示や雑種間競争の手段となる形質への学習的模倣は変異の尋常ならぬ個性を教育し、目的に適った行動型へと習性を漸次変形させ、擬態の演技を物してこの系の総合的複雑さを増す役に立つ。かの為にさえ、社会の有する富の相対比が調度裾野を拡げる富士山の如く末広がりを許せば許す程、詰り配分と調整間に調和的正義を適宜に達し得るほど分業の合理化を計る建築本能の微積に応じ、適応価値の寛容さは現実の物とも成る。
かねて文明国と呼ばれる場所で利潤や生存自体にさえ無用の構造が生じる珍しさをのみ理由として時に保護され、又は擁護され、奨めて養生さえされるのは冷静に観察すれば分業制の経過である。専らなんの稼ぎにもなりえない無駄な体制を切り捨てないのは、それだけの変異幅を養っておく余裕がなければできないことだ。地球で最初に8の字を画いた蜂はおそらく誇示の性選択効果の為に運よく保存されたのであり、決して公益を仲間に認められたからではないのは最もはじめに発明された行動型が稼ぎに繋がるまでに大幅な差延がやむをえないくらい複雑な協力行動を余儀なくした社会であればあるだけ真だろう。寿命より長く効用を持つ個体の変異の合目的性はそう信じられている様、一般に芸術の天才と呼ばれてしかるべきだろう。その突飛奇特な蜂の一群は次第に種内に広まった遺伝形質が再びその指導力を獲得させるという偶有の功績あるいは企業性の為に他の旧態依然たる付和雷同的や放浪気質的な昆虫群より多くの資料を集めることになったと考えられる。
偶々果った既存秩序より勝って分業化の合理を達した独創の、又随って芸術性の生得形質はよくもゆとりがあればこそ、自身には多かれ少なかれ経済的欠損があろうと後生大事に保存されるだろう。そしてこの形質が一大部位を形成するに当たって社会は彼らの有する合理的特徴から利益を受けることが益々多くなるだろう。逆に協業的形質はそれが模倣され易いだけ凡庸な構造であればあるほど、競争的価格平衡の作用に才能としてより希少ではなくなり収穫量を減らしていくだろう。まるで遷移する樹林に等しく、日光を支配する為に伸ばした枝は他の木々がそれを真似る限りで栄養を享受する、企業間の競争的遷移。
以上が富山湾化と形容されうるが如き形質と環境との相互変異あるいは文明建築の基本的な運動法則である。我々は富士の法則としてこの末広がるほど豊かになる社会性生物の道理を認識することができる。そこでは崩れ易い低い山であるだけ急峻な構造の幅を、安定した優美な姿であるだけ多彩で分業された末広がりの生態の各適所を必要不可欠とする自然法則を、社会体制の必然的変遷の規則に見立てることができよう。たとえ直接の種間か種内の競争が何らかの協同か共生の方法で部分的に又は殆ど全面的に回避されている中から高度の社会性をもった生物属にとってさえも、その経済適合の規則は普く一定の構造の可塑化を続けようとする懸命な自助と協調の連綿たる作為に従うと知るのなら少なくとも既存人類については、世界計画への逆恨みを含む狂信者らの誤った偏見を破棄させるに十分ならんと反省させられる。
2009年3月29日
経済政策放任主義
集積の利益を省みる限り、下手に労力を分散させず、東海道メトロポリスの領域へ集中的に大都市化を進めるのは利口なことだ。
南海および相模トラフによるほとんど100年置きでの大地震発生の高確率、それに伴う建設投機衝動が経済効果にもたらす規模は決して弱々しい人為による道州政策でカバーしきれはしない。
京阪地帯での商業欲求は遺伝的ルーツとしての渡来系怜悧さを考えてみてもやはり、他の地方文化が一朝一夕で追い着ける種類のものでも、また真似ようと試みるべきそれですらないだろう。
我々は今日でも、京都に住もうとすれば異国に移民する覚悟でなければならない。大阪では幾分威丈高でいなければ万事に気後れせざるを得ない。単に方言の「らしさ」にのみならず、郷土の性格というものは日々の習性自体に異質さの強調を、個性化を否応なくしている様に見える。
財政逼迫のみを理由として一律な税収調整を進めることは、結果的には全国総東京化を伴い、たとえば彼ら東京人の欠点である“気の弱さ”を汚らしいオタク文化の蔓延というあしき現象でまきちらすに違いない。
仮に十年単位の短期的には多少の好況に似た“愚者の楽園”が広がったにしても百年単位の中期間で客観すれば、どのまともな親でもそれらの‘江戸風の’頽廃が中央政府の愚行で資本原理主義の末期癌としてあまねく感染させられたのを悟り、「薩摩風の」いわゆる九州男児に歴史的に観察できる様な雄々しくも急激な保守の反動によって、差し引きすればゼロに戻るほどの成長速度しか持たせられもしまい。
最も賢明な宦官は透き通る静かな声音で『自然に委せよ』、と重農主義的格言を引くに留め、永田町の掛け持ち政治屋があたふたと駆け回るのを久遠の表情で見渡すだろう。馬を鹿と為す者が反逆と目される所ではいかなる政権闘争も利権夜郎の芝居に過ぎないのだから。
南海および相模トラフによるほとんど100年置きでの大地震発生の高確率、それに伴う建設投機衝動が経済効果にもたらす規模は決して弱々しい人為による道州政策でカバーしきれはしない。
京阪地帯での商業欲求は遺伝的ルーツとしての渡来系怜悧さを考えてみてもやはり、他の地方文化が一朝一夕で追い着ける種類のものでも、また真似ようと試みるべきそれですらないだろう。
我々は今日でも、京都に住もうとすれば異国に移民する覚悟でなければならない。大阪では幾分威丈高でいなければ万事に気後れせざるを得ない。単に方言の「らしさ」にのみならず、郷土の性格というものは日々の習性自体に異質さの強調を、個性化を否応なくしている様に見える。
財政逼迫のみを理由として一律な税収調整を進めることは、結果的には全国総東京化を伴い、たとえば彼ら東京人の欠点である“気の弱さ”を汚らしいオタク文化の蔓延というあしき現象でまきちらすに違いない。
仮に十年単位の短期的には多少の好況に似た“愚者の楽園”が広がったにしても百年単位の中期間で客観すれば、どのまともな親でもそれらの‘江戸風の’頽廃が中央政府の愚行で資本原理主義の末期癌としてあまねく感染させられたのを悟り、「薩摩風の」いわゆる九州男児に歴史的に観察できる様な雄々しくも急激な保守の反動によって、差し引きすればゼロに戻るほどの成長速度しか持たせられもしまい。
最も賢明な宦官は透き通る静かな声音で『自然に委せよ』、と重農主義的格言を引くに留め、永田町の掛け持ち政治屋があたふたと駆け回るのを久遠の表情で見渡すだろう。馬を鹿と為す者が反逆と目される所ではいかなる政権闘争も利権夜郎の芝居に過ぎないのだから。
2009年3月26日
福祉制限の説明
将に来るべき福祉国家路線にとって、最も注意深くなるべきはその最小単位に“個人”をではなく、『家族』を据えるという在来方針の貫徹である。
我々の話題をさらう事が多い有名な生物理論家からの指摘を待つまでもなく、福祉国家の現実は自然生態の合目的性つまり「人間当たり前の姿」から最も遠い一つである。
資本国家ではおのずと抑制されている破産宣告の潜在的可能性を法的に解除する、という赤軍残党なりの理屈に適った荒業は、経済力の過半を「持てる者」に強制的におぶさるという負担増をあたかも自明の権利かの様に正当化する。それが結局は多少の出生率の上向きにつながったとして、次に控えているのはあふれかえる‘持たざる者’の莫大な負債である。
日本という伝統的に政府権力の甚だしい特殊なケースでは、その経済単位を細分化すればするほど法の抜け道を広げる悪循環を免れないこと、たとえば我々が深情けを浮浪者にどれほど報いてみたところで可能なのは餓死を見なくて済むという消極的な成果たるに過ぎないのはサッチャーの格言を引く前にも気づく世のあわれであった。
確かに、資本制下にも関わらず財政難を抱えた、一般的な意味では無能な政府組織にとってなんであれ税源を益すものは無条件に取り上げたくなるのも政権政治の末路、考えられぬ醜態ではない。一方、民主政治の本質である「国民主権」の原則は世論の圧力によって無駄遣いを飽くまで規制したがる。
こうして多数派が教育を受けた経験を持ついくつかの先進自称国では当然、それら進取と保守の天秤は一定の振れ幅をともないつつ「中道路線」を穏当と見なす方向付けを次第に受け入れる。
結局この路線図に書かれている暗号の内容とは、政府の効率よい運営費の内訳に他なるまい――そしてそれ以外には国民生活改善への具体的道具さえ見当たらない。
したがって安上がりでサーウ゛ィスのいい防衛者を国民があまねく見つけようとするならその雇用主自身が非効率的な経済単位を押し付けるべきではないのが自明の理なのである。
主人が熊手を持ってどれだけ粟を掬ったところでそれが自身に還元されない、という現象は福祉国家が単に‘個人の無際限な自由’をではなく、収穫率の向上を計る方法としてかれみずからに「ざる勘定」を教えるため、すなわち家計を更によりよく富ませるために起こる。
どの農家でも当たり前の道理が知らせるに、働かざる者食う可からず――或いは高度化した文明圏で労働種類の多岐化に及び緩和した見識では、すくなくとも食い過ぎるべからずという訳である。当然、無料でもてなしを受ける為にはそれ相応の代償として、税収に自主貢献した順番に、と云わねばならぬ。
勿論一文にもならない生業の真価はその国賓級の名誉により酬いられるに相違あるまい。我々後進文民はカミの恩寵のもとに何をまちがえたか、つかの間の交尾をくりかえすしか能がない個々のお猿さんを囲う趣味には、肌色の健康さの為か狭い国土にある動物園の容積制限のゆえにか随分縁がないらしいのであった。
我々の話題をさらう事が多い有名な生物理論家からの指摘を待つまでもなく、福祉国家の現実は自然生態の合目的性つまり「人間当たり前の姿」から最も遠い一つである。
資本国家ではおのずと抑制されている破産宣告の潜在的可能性を法的に解除する、という赤軍残党なりの理屈に適った荒業は、経済力の過半を「持てる者」に強制的におぶさるという負担増をあたかも自明の権利かの様に正当化する。それが結局は多少の出生率の上向きにつながったとして、次に控えているのはあふれかえる‘持たざる者’の莫大な負債である。
日本という伝統的に政府権力の甚だしい特殊なケースでは、その経済単位を細分化すればするほど法の抜け道を広げる悪循環を免れないこと、たとえば我々が深情けを浮浪者にどれほど報いてみたところで可能なのは餓死を見なくて済むという消極的な成果たるに過ぎないのはサッチャーの格言を引く前にも気づく世のあわれであった。
確かに、資本制下にも関わらず財政難を抱えた、一般的な意味では無能な政府組織にとってなんであれ税源を益すものは無条件に取り上げたくなるのも政権政治の末路、考えられぬ醜態ではない。一方、民主政治の本質である「国民主権」の原則は世論の圧力によって無駄遣いを飽くまで規制したがる。
こうして多数派が教育を受けた経験を持ついくつかの先進自称国では当然、それら進取と保守の天秤は一定の振れ幅をともないつつ「中道路線」を穏当と見なす方向付けを次第に受け入れる。
結局この路線図に書かれている暗号の内容とは、政府の効率よい運営費の内訳に他なるまい――そしてそれ以外には国民生活改善への具体的道具さえ見当たらない。
したがって安上がりでサーウ゛ィスのいい防衛者を国民があまねく見つけようとするならその雇用主自身が非効率的な経済単位を押し付けるべきではないのが自明の理なのである。
主人が熊手を持ってどれだけ粟を掬ったところでそれが自身に還元されない、という現象は福祉国家が単に‘個人の無際限な自由’をではなく、収穫率の向上を計る方法としてかれみずからに「ざる勘定」を教えるため、すなわち家計を更によりよく富ませるために起こる。
どの農家でも当たり前の道理が知らせるに、働かざる者食う可からず――或いは高度化した文明圏で労働種類の多岐化に及び緩和した見識では、すくなくとも食い過ぎるべからずという訳である。当然、無料でもてなしを受ける為にはそれ相応の代償として、税収に自主貢献した順番に、と云わねばならぬ。
勿論一文にもならない生業の真価はその国賓級の名誉により酬いられるに相違あるまい。我々後進文民はカミの恩寵のもとに何をまちがえたか、つかの間の交尾をくりかえすしか能がない個々のお猿さんを囲う趣味には、肌色の健康さの為か狭い国土にある動物園の容積制限のゆえにか随分縁がないらしいのであった。
2009年3月22日
選手の食事
勝れた運動選手は競技にかなう食事を計るべきであり、平均的栄養価にこだわるべきではない。筋肉質をつくるには動物性タンパク源(鳥肉や卵白など)を、或いは頭脳を働かすにはぶどう糖(白米やパンなど)をごく多く摂取すべきとなる。又かえって肉体の活力を抑制すべき僧侶などには菜食主義が方便である。バランスした食事は標準的な体を維持する基本であり、決して運動選手にとっての最善ではない。
2009年3月21日
天文学
楕円は二点からの距離の和がつねに一定な点の軌道なので、xy軸のある平面上では、x線上の点aとy線上のbに対して
x2/a2+y2/b2=1
また、これに対してz軸を引いて同様に、z線上の点cを定義すると(a>0,b>0,c>0)のとき回転楕円面の方程式が得られる。
x2/a2+y2/b2+z2/c2=1
以下簡易的証明手順。楕円軌道上の二点からの一定距離を2kと置け∧軌道上の同点を(x,y)とすれば三平方の定理より二焦点(k,0),(-k,0)に対して(k-x)2+y2と(k+x)2+y2との平方根の和は2kの二乗に等しい。a2-k2=b2と定義しb>0→a>kである限り上述の楕円標準式が得られるだろう。かつ(x,z)について真ならばb2の代わりにc2を用いても真。以上。
ここで、もし我々の属した七夕宇宙系より外へ最も時空的に隣り合わせた十五夜宇宙系を仮定する。かつ万有法則m=Acと質量とエネルギーの等価法則E=mc2との関係性から、E=Ac3の転化比例が導ける。よって、七夕系においては引斥力の結果として単位質量mに対してエネルギーEは、ブラックホール表面積または単に引力場Aに対して光速cの三乗の指数的比例で働くことが理解できる。
さて、上述の回転楕円面方程式について1焦点(k,0)のx座標をk=±√(a2-b2)と定義し、離心率e=k/aと考えるとさらにz座標について同様に第二離心率e2=k2/cをも考えられk2=±√(a2-c2)と定義できる。伴ってその回転楕円面はいわばラグビーボール型からドラ焼き型へと移る。偏平率fは1<f<0の間でf=(a-b-c)/aで与えられ、この球面上のすべての点は四焦点からの距離の和がつねに一定である。以上から七夕宇宙系の隣りにある十五夜宇宙系およびその次に近いからかさ宇宙系が措定できる、野口雨情の童謡から、綺麗なお月夜が雨雲に隠れた後で必要になるからそう呼ぼうとするのである。
これらの理由は、エントロピー増大則が斥力系の最も有力な要因として宇宙外部に異なる大きな引力場が存在することによって働く、という認識で決定的に説明されるだろう。距離の二乗に反比例する限り引力は最も遠くにある質量の重いもの、例えば鉄などを、最も軽いと見立てられる光束波のエネルギー準位を引き込むより遥かにゆっくりとしか移動させない。その物理現象としての最初の証拠はドップラー変偏が銀河系ごとに異なる比率で時間的に進む、つまり各銀河団は色様々な変化によって違った速度で流れているといった普遍的な流路を見つける観測結果でもとりあえずは発見されうるだろう。調和定数すなわち惑星流率が一定な一方、それらの巨視的な流れゆきには一つの大きな潮流が四本の、或いは便宜的には二本の河川を通って拡散しながらまとまっていくのをほとんど過疎な引力系の相互作用で占められた闇が支配する暗黒海へのみちびきとして観察できる。それらは宇宙という回転楕円体の焦点が外部宇宙系からの引力で純粋な正球形から崩されている分だけ星屑の流れ出る方向を変えて行く。天の川から見れば、この最も有力な二本の銀河流路は我々が日の出ずる処に住む限り東側の居場所として織り姫の流れ、もう一方の我々から遠い側の流れとしては彦星の流れと見なすのが至当だろう。尤もベガ流路とアルタイル流路としてもハッブルの法則は変わるまいが。
また、最も単純な正球状としてのアインシュタイン型宇宙の上で定義されてきた物質の平均密度の公式R
2=2/κρを用いては、近似的には回転楕円面の離心率
e=√(a2-b2)/aか、より精密にはドラ焼き型球面の離心率
e2=√(a2-b2-c2)/aのそれで正確な中心分布帯を取ることができる。宇宙斥力との釣り合いを擬似的な開放系の中で保つ普遍宇宙モデルを鑑みれば、ある適宜な領域にほぼ等密度で一定質量の物質反応が集積するのは時間的に真である。
x2/a2+y2/b2=1
また、これに対してz軸を引いて同様に、z線上の点cを定義すると(a>0,b>0,c>0)のとき回転楕円面の方程式が得られる。
x2/a2+y2/b2+z2/c2=1
以下簡易的証明手順。楕円軌道上の二点からの一定距離を2kと置け∧軌道上の同点を(x,y)とすれば三平方の定理より二焦点(k,0),(-k,0)に対して(k-x)2+y2と(k+x)2+y2との平方根の和は2kの二乗に等しい。a2-k2=b2と定義しb>0→a>kである限り上述の楕円標準式が得られるだろう。かつ(x,z)について真ならばb2の代わりにc2を用いても真。以上。
ここで、もし我々の属した七夕宇宙系より外へ最も時空的に隣り合わせた十五夜宇宙系を仮定する。かつ万有法則m=Acと質量とエネルギーの等価法則E=mc2との関係性から、E=Ac3の転化比例が導ける。よって、七夕系においては引斥力の結果として単位質量mに対してエネルギーEは、ブラックホール表面積または単に引力場Aに対して光速cの三乗の指数的比例で働くことが理解できる。
さて、上述の回転楕円面方程式について1焦点(k,0)のx座標をk=±√(a2-b2)と定義し、離心率e=k/aと考えるとさらにz座標について同様に第二離心率e2=k2/cをも考えられk2=±√(a2-c2)と定義できる。伴ってその回転楕円面はいわばラグビーボール型からドラ焼き型へと移る。偏平率fは1<f<0の間でf=(a-b-c)/aで与えられ、この球面上のすべての点は四焦点からの距離の和がつねに一定である。以上から七夕宇宙系の隣りにある十五夜宇宙系およびその次に近いからかさ宇宙系が措定できる、野口雨情の童謡から、綺麗なお月夜が雨雲に隠れた後で必要になるからそう呼ぼうとするのである。
これらの理由は、エントロピー増大則が斥力系の最も有力な要因として宇宙外部に異なる大きな引力場が存在することによって働く、という認識で決定的に説明されるだろう。距離の二乗に反比例する限り引力は最も遠くにある質量の重いもの、例えば鉄などを、最も軽いと見立てられる光束波のエネルギー準位を引き込むより遥かにゆっくりとしか移動させない。その物理現象としての最初の証拠はドップラー変偏が銀河系ごとに異なる比率で時間的に進む、つまり各銀河団は色様々な変化によって違った速度で流れているといった普遍的な流路を見つける観測結果でもとりあえずは発見されうるだろう。調和定数すなわち惑星流率が一定な一方、それらの巨視的な流れゆきには一つの大きな潮流が四本の、或いは便宜的には二本の河川を通って拡散しながらまとまっていくのをほとんど過疎な引力系の相互作用で占められた闇が支配する暗黒海へのみちびきとして観察できる。それらは宇宙という回転楕円体の焦点が外部宇宙系からの引力で純粋な正球形から崩されている分だけ星屑の流れ出る方向を変えて行く。天の川から見れば、この最も有力な二本の銀河流路は我々が日の出ずる処に住む限り東側の居場所として織り姫の流れ、もう一方の我々から遠い側の流れとしては彦星の流れと見なすのが至当だろう。尤もベガ流路とアルタイル流路としてもハッブルの法則は変わるまいが。
また、最も単純な正球状としてのアインシュタイン型宇宙の上で定義されてきた物質の平均密度の公式R
2=2/κρを用いては、近似的には回転楕円面の離心率
e=√(a2-b2)/aか、より精密にはドラ焼き型球面の離心率
e2=√(a2-b2-c2)/aのそれで正確な中心分布帯を取ることができる。宇宙斥力との釣り合いを擬似的な開放系の中で保つ普遍宇宙モデルを鑑みれば、ある適宜な領域にほぼ等密度で一定質量の物質反応が集積するのは時間的に真である。
2009年3月19日
雄性形質の進化適性
幼型化の適応性はそれが結果としての脳容積の拡充形質を選り好みする理由で。さもなくば雄性であるとも呼べず、人類に群的協同は知能行動化の傾向を強めるもの。
この種の逆転化は経済型を勝利速度で優位にする。文明一般への人類内適応は種内競争を抑える代りに幼型人種を連続した選択で属全体に置き換えさせ、やがては進化の項目からさえ離脱させる。自然に於いてそうである如く彼らは袋小路に入り込んだ孤立した種となり類としてのヒト間での勝利の本道から逃れ出るだろう。もしこれが宿命なら、進化した人種は先んじて地球外へと生存圏を拡げる為にその旺盛な好奇心を維持させるのだろう。抜群の器用さがなければ宇宙工学は決して発展しない。
この種の逆転化は経済型を勝利速度で優位にする。文明一般への人類内適応は種内競争を抑える代りに幼型人種を連続した選択で属全体に置き換えさせ、やがては進化の項目からさえ離脱させる。自然に於いてそうである如く彼らは袋小路に入り込んだ孤立した種となり類としてのヒト間での勝利の本道から逃れ出るだろう。もしこれが宿命なら、進化した人種は先んじて地球外へと生存圏を拡げる為にその旺盛な好奇心を維持させるのだろう。抜群の器用さがなければ宇宙工学は決して発展しない。
2009年3月17日
2009年3月14日
印僑との差別化商戦略
タタ・グループの発展率を看るに、彼ら印僑の日本進攻はユニクロやMUJIの英米進出と同程度かそれに勝る衝撃を与えるだろう。
地球を見渡し、余りに狭く小さな極東島嶼へ最適化しきった否応ない奇形さを免れぬ企業の敗退は、今から見渡せる惑星経済の必然の成り行きとなる。又それは商業経営に関与する者以外にとっては粗あらゆる観点から利得を齎す。
今日では有料の多くの奉仕が殆ど無料に近い「普遍価格」を呈する如くである。
彼らとの最大の商戦地区はインドシナ領域となるだろう。最も傾注すべきは無闇に多種多産や移り変わりの甚だしい値下げ競争へ参入せず、『現地の為になる』仕事へ第一に没頭すべき事である。
大儲けの風で‘得して損する’安物小売り業者を脇目にふり、あたかも日本の丁稚が文句ひとついわずに毎朝の便所掃除を当たり前と信じる誠実な姿勢を貫き通し、地元人からの信頼と感謝の度合いが高まれば高まるほど、結局は何が真にその場で求められる商品でありサーウ゛ィスなのかを迅速的確に発見し、やがては品質のみならず価格面での最適化競争にも勝利を収める道筋を先進できるもの。
逆説的な様だが、海外店舗の最重要の監査とは本社のある母国内よりも地元人からの感謝の声なのだ。遵って本社との意見衝突は常によき適応化の兆候なのである。それが最後の最後には故郷への最大の錦ともなりうる。
ある国家で非常に尊重されている本土では無名の日本人は、青山に骨を埋める覚悟であったろうがそのクニでの最高規模の勇気ある貢献を遺し、いずれ語り草ともなりながらこたつを私室に敷いていた。和して同ぜずとは国際企業活動の要と云われる。
地球を見渡し、余りに狭く小さな極東島嶼へ最適化しきった否応ない奇形さを免れぬ企業の敗退は、今から見渡せる惑星経済の必然の成り行きとなる。又それは商業経営に関与する者以外にとっては粗あらゆる観点から利得を齎す。
今日では有料の多くの奉仕が殆ど無料に近い「普遍価格」を呈する如くである。
彼らとの最大の商戦地区はインドシナ領域となるだろう。最も傾注すべきは無闇に多種多産や移り変わりの甚だしい値下げ競争へ参入せず、『現地の為になる』仕事へ第一に没頭すべき事である。
大儲けの風で‘得して損する’安物小売り業者を脇目にふり、あたかも日本の丁稚が文句ひとついわずに毎朝の便所掃除を当たり前と信じる誠実な姿勢を貫き通し、地元人からの信頼と感謝の度合いが高まれば高まるほど、結局は何が真にその場で求められる商品でありサーウ゛ィスなのかを迅速的確に発見し、やがては品質のみならず価格面での最適化競争にも勝利を収める道筋を先進できるもの。
逆説的な様だが、海外店舗の最重要の監査とは本社のある母国内よりも地元人からの感謝の声なのだ。遵って本社との意見衝突は常によき適応化の兆候なのである。それが最後の最後には故郷への最大の錦ともなりうる。
ある国家で非常に尊重されている本土では無名の日本人は、青山に骨を埋める覚悟であったろうがそのクニでの最高規模の勇気ある貢献を遺し、いずれ語り草ともなりながらこたつを私室に敷いていた。和して同ぜずとは国際企業活動の要と云われる。
2009年3月12日
台詞
いつ終るとも知れぬ無数の現象、精神の観察するそれらに理由を見つけるのは余程困難である。人は旅の中途で何を見出すか? 混沌たる宿世を? 仮にそれらの起源が知れないとして、世界へ生存する知性は因果律の探索をやめようとしない。
偶像論
現代社会で偶像、idolの果たす役割は軽視せらるべきではない。青年期の延長はその中途段階で文化的昇華への期待値を、代償によって補う必要性を益す筈である。特定の性特徴を選択的に表象させることを通じて、最大多数へ可能な限り経済的な代償情報を提供する生業は巨大な規模で膨れ上がり、いわば生けとし偶像興行としての芸能界を形作っている。成る程それは虚構であり、聖像、iconとしての演技体系を意味するに過ぎまい。だが同時に象徴制に関する累々の議論を省みてさえ我々は、演劇の巧みさが協力行動の強力な紐帯となる現実を否定仕切れる迄の世界精神的秩序には無い。
すると人間という未完の機関はいまだ偶像を少なからぬ方便として必要か活用形としている。
幾つかの聖書で禁忌の条項へ数え上げられる偶像崇拝はそれが本来の現実をも覆い隠す程に増長させられた限りで、狂信をも誘う可能性の故に悪徳とされた。虚構を現実と思い込むことが代償への耽溺を際限なく加速させればその個性は当然ながら、幻想に惑う世間の不案内者として被淘汰の謗りを大分免れなかっただろう。他方ではこの種のカミガカリ的精神状態が精霊思想、animismとして信教の具に益した文化史にも人類は事欠かない。それは被抑圧的な無意識の領分に関する専門家として、霊媒師や神聖宗長、所謂shamanらを次々生み出していく。彼らはまことしやかな嘯きを以てつくり物語に託し、現実には満たされえない仮の情報を与える。この能力の為に少数部族のみならず多くの民族状態に於て巫祝階級の存在、或いはミコ的な存在が社会内でひそかに補償されていくものなのだ。
結局、現代人が政治として記憶する集団的調整の行動形とは可能なだけ合理化され共有もされた呪術信仰の名残りであるのだろう。その体系は殆ど群生にとっての無意識の集合に他なるまい。演劇術に関する基礎的変異の保存は憂き世に芸能界を恒常的とし、かつその内で更に審美化された経済界と倫理化された政治界を構成する。彼らが演技者として群れ、如何に振る舞うかは象徴制についての価値観に基づくものだ。浄化の用に類する限りでこれらの配役はまた性選択的とも呼ばれ得る。なぜ偶像が禁忌の慣習の元で暗黙の内に伝達されていくかの理由が正に、それがつくられたまことであり、演劇術による代償行為であるがゆえになのである。いけにえとしてidolは現代にも生き続ける、象徴の作用による慰めの方便と呼ばれるだろう。だが我々はやはりそれを合目的形相と見做すことならず、現代文明段階では止むを得ない群的象徴化すなわち便宜な社会形成の手段と呼ぶしかない。地位肩書が要求される組織形態ではたとえ嘘であっても配役を用いざるを得ないのだから。
将来の世代にとっての解決は、社会形成の最善の手段に位の援用を最小化する理念の発明に待たれる。実際に犠牲の居ない世界は又階級制の組み替えが自律流動的で恒常かつ頻繁となった本質的相互等価の世界であろうし、若しその様な社会形成の原理が代償を無用か不必要とした範囲を広げるほど幸福の閾値も少数階級の独占物でなくなり益々普遍的とならなくてはならないだろう。
すると人間という未完の機関はいまだ偶像を少なからぬ方便として必要か活用形としている。
幾つかの聖書で禁忌の条項へ数え上げられる偶像崇拝はそれが本来の現実をも覆い隠す程に増長させられた限りで、狂信をも誘う可能性の故に悪徳とされた。虚構を現実と思い込むことが代償への耽溺を際限なく加速させればその個性は当然ながら、幻想に惑う世間の不案内者として被淘汰の謗りを大分免れなかっただろう。他方ではこの種のカミガカリ的精神状態が精霊思想、animismとして信教の具に益した文化史にも人類は事欠かない。それは被抑圧的な無意識の領分に関する専門家として、霊媒師や神聖宗長、所謂shamanらを次々生み出していく。彼らはまことしやかな嘯きを以てつくり物語に託し、現実には満たされえない仮の情報を与える。この能力の為に少数部族のみならず多くの民族状態に於て巫祝階級の存在、或いはミコ的な存在が社会内でひそかに補償されていくものなのだ。
結局、現代人が政治として記憶する集団的調整の行動形とは可能なだけ合理化され共有もされた呪術信仰の名残りであるのだろう。その体系は殆ど群生にとっての無意識の集合に他なるまい。演劇術に関する基礎的変異の保存は憂き世に芸能界を恒常的とし、かつその内で更に審美化された経済界と倫理化された政治界を構成する。彼らが演技者として群れ、如何に振る舞うかは象徴制についての価値観に基づくものだ。浄化の用に類する限りでこれらの配役はまた性選択的とも呼ばれ得る。なぜ偶像が禁忌の慣習の元で暗黙の内に伝達されていくかの理由が正に、それがつくられたまことであり、演劇術による代償行為であるがゆえになのである。いけにえとしてidolは現代にも生き続ける、象徴の作用による慰めの方便と呼ばれるだろう。だが我々はやはりそれを合目的形相と見做すことならず、現代文明段階では止むを得ない群的象徴化すなわち便宜な社会形成の手段と呼ぶしかない。地位肩書が要求される組織形態ではたとえ嘘であっても配役を用いざるを得ないのだから。
将来の世代にとっての解決は、社会形成の最善の手段に位の援用を最小化する理念の発明に待たれる。実際に犠牲の居ない世界は又階級制の組み替えが自律流動的で恒常かつ頻繁となった本質的相互等価の世界であろうし、若しその様な社会形成の原理が代償を無用か不必要とした範囲を広げるほど幸福の閾値も少数階級の独占物でなくなり益々普遍的とならなくてはならないだろう。
2009年3月5日
協同の論理
身体的成熟が社会内家計的而立よりずっと前に訪れるという環境要因は、それが青年期の一般的延長を通じて性行動の複合性を企画するが故に文明化の一段階と呼ばれる。もしこの種の変異幅の保証された場が進化の誘因として原理的なら、複雑な成長過程そのものが自己目的に斉す昇華の企みの為でもあるし、亦かれらが模倣を事とする限りでその学習伝承が個体群の社会建設に有益であろうからだ。
上述の内容を真と認めると何故、文明系では成熟的諸形質への一定以上の抑制要因が道徳に編入されていたかも明らかとなる。生物として対象化されるヒトは通常の生存競争要因を協同へと向け換える方便にそれを用いたのだったろう。より抑制され、より延長的となった性成熟の表象は益々形式的複合性へ寄与し、かくして単なる延長自体の為の新伸性すなわち幼型化さえ選択的となった。
感情として我々が只の感性(外界への受容的な働き)から峻別しうる生産的能動性は、結局の様、理知という否定媒介を止揚する働きとして性特徴の中心でもあった。選れた感情の表象は続く世代の遺伝形質の目安となる、感情は真似られる物ではなく純粋な神経系統の生育結果だからだ。我々の心を感嘆させる俳句は学習や後天的努力によってというより如何に感性の動きを合目的化なしえたかという精神の完成度を証明要素とする。多くの文化圏で芸術耽溺への批判が倫理として説かれた一因はその過度の伸長が自然性への再帰を呼ぶ為にであり、なぜなら合理化を施した担い手自身が学習者の代表だからでもあった。言換えると素質の隠蔽として模倣を集積した者が知識人とされ、巧みな言い訳を生業とする知恵者が栄える形質の幅の狭い区域では学問の、伝承後学習系の権威が本来の自然的秩序を覆い隠す役目をつとめた。あらゆる学者が規範として仰いで来たユークリッドの体系さえも測量術を後学化した天性の追認に過ぎなかった。創造的知性と呼ばれる働きは存在しない。全ての知性は模倣の活動である。それは近代世界観の基準とされる力学にとってさえ自然運動を原論風に叙述する手段を代数学に基づいて考察した証拠に外ならないこと、我々が知識と見做すどの科学活動も体系づけられた模倣の積算であると考える他ないものだ。
進化にとっては依然として審美性が有用であって、また感情がその特徴となるのも疑いがないことである。雄性形質としての理知は、寧ろ文明場にとって条件付け、或いは基礎付けの役に立つに過ぎない。独創性は感情の技術においてのみ見出だされ、模倣と教育とが更に強化された社会環境にでも未だどの個性とも異なる遺伝的素質を開花させられる場合にのみ、綿密にあてはまる好ましい方向への突然変異つまり進化の実証なのである。この種の特徴を慎重と熟慮をもって集積させ、かつ配偶と養生を欠かさないことで人類は、文明を殆ど天国と見紛うばかりに協同の為に好適な系とすることができる。
上述の内容を真と認めると何故、文明系では成熟的諸形質への一定以上の抑制要因が道徳に編入されていたかも明らかとなる。生物として対象化されるヒトは通常の生存競争要因を協同へと向け換える方便にそれを用いたのだったろう。より抑制され、より延長的となった性成熟の表象は益々形式的複合性へ寄与し、かくして単なる延長自体の為の新伸性すなわち幼型化さえ選択的となった。
感情として我々が只の感性(外界への受容的な働き)から峻別しうる生産的能動性は、結局の様、理知という否定媒介を止揚する働きとして性特徴の中心でもあった。選れた感情の表象は続く世代の遺伝形質の目安となる、感情は真似られる物ではなく純粋な神経系統の生育結果だからだ。我々の心を感嘆させる俳句は学習や後天的努力によってというより如何に感性の動きを合目的化なしえたかという精神の完成度を証明要素とする。多くの文化圏で芸術耽溺への批判が倫理として説かれた一因はその過度の伸長が自然性への再帰を呼ぶ為にであり、なぜなら合理化を施した担い手自身が学習者の代表だからでもあった。言換えると素質の隠蔽として模倣を集積した者が知識人とされ、巧みな言い訳を生業とする知恵者が栄える形質の幅の狭い区域では学問の、伝承後学習系の権威が本来の自然的秩序を覆い隠す役目をつとめた。あらゆる学者が規範として仰いで来たユークリッドの体系さえも測量術を後学化した天性の追認に過ぎなかった。創造的知性と呼ばれる働きは存在しない。全ての知性は模倣の活動である。それは近代世界観の基準とされる力学にとってさえ自然運動を原論風に叙述する手段を代数学に基づいて考察した証拠に外ならないこと、我々が知識と見做すどの科学活動も体系づけられた模倣の積算であると考える他ないものだ。
進化にとっては依然として審美性が有用であって、また感情がその特徴となるのも疑いがないことである。雄性形質としての理知は、寧ろ文明場にとって条件付け、或いは基礎付けの役に立つに過ぎない。独創性は感情の技術においてのみ見出だされ、模倣と教育とが更に強化された社会環境にでも未だどの個性とも異なる遺伝的素質を開花させられる場合にのみ、綿密にあてはまる好ましい方向への突然変異つまり進化の実証なのである。この種の特徴を慎重と熟慮をもって集積させ、かつ配偶と養生を欠かさないことで人類は、文明を殆ど天国と見紛うばかりに協同の為に好適な系とすることができる。
2009年3月3日
救世主教の再生
キリスト教道徳が浸透していない事実が日本の国で「罪悪感」の希薄な一因ならばやはり何らかの工夫でその教義を復活させるべきである。
仏教が国民の安心へ深く染み渡った今日からみれば、儒教と共にそれを輸入した際の太子の心配が取り越し苦労だったとさえ感じられる。無論、巧妙な翻訳作業による和風化が施されたからこそ国統は保ち得たとも考えられる。
専ら直接政治の蚊帳の中で信教を革新することは不可能だし、実際にそれを試みている政党等も存在するが法的に政教分離原則の歴史的正しさを参照できる折、政治参加すればするほど状況は悪化し、人心は混乱するばかりである。
従って、經国の大業をなし遂げうるのは在野の宣教師でなければならない。
例えば凡そ平和の続く時代にあると、大陸から孤絶した、高度に感性の栄達へ好適な季節風土の色彩の強いこの島国では、優美の極を通り越して深い頽廃に沈み込む傾向が潜在している。その象徴として記録されている文芸に源氏物語もある。
恐らくは先史時代における、魏史倭人伝へ示される多婦の風習が遺伝的形質の何処かへ記憶されており、外敵の侵入もさしたる内乱もない期間が連なると先祖返りの法則がその澱みとして現れてくるのだろう。また反動として真逆の形質、平家物語にみられるが如き激情的好戦性もやってくるのだが。
一般にキリスト教道徳が浸透した文明国ではそれら退行、反動形成の歴史現象を観察できない。モルモン教の希な例外を顧みても寧ろ極端な厳格説の行き過ぎで侵略的布教傾向には先例を事欠かないとして、概して国内に頽翳の兆しは看られないらしい。勿論国教会化には権力集中の腐敗が歴史の常として普き。
ゆえ必然に、キリスト教道徳の布教には「信仰中心主義」を自律して回復し直す必然を負う。集徒化し易く又それを正当化する文言さえ聖書には存在している上、脱構築からの文章論を再検討してみても原理主義化を逃れるにはキリスト本人が正に模範をしめした様、「自らの十字架を背負って」個人の内面からの信仰を告白し続ける他、良策はないのである。
上述の事例ひとつ取っても極東の倫理は完成されたとは未だ言い難い。現実に姦淫自体を巨大産業化している国民性とは神の子にとっては目を覆いたくなるばかりの地獄全体でもあろう、この絶望の彼岸を前に我々信徒の勉めとはかのカルウ゛ァンの抱きし理想と寸分も違いはないのである。すなわち神の恩寵を信じて天職へ一途殉ずるべきなり。あの奢れる資本家達が針の穴の筵よりもっとカミノクニへ入り難い限り、少なくとも一心不乱の努力の継続によって魂の救いは訪れるであろう。
仏教が国民の安心へ深く染み渡った今日からみれば、儒教と共にそれを輸入した際の太子の心配が取り越し苦労だったとさえ感じられる。無論、巧妙な翻訳作業による和風化が施されたからこそ国統は保ち得たとも考えられる。
専ら直接政治の蚊帳の中で信教を革新することは不可能だし、実際にそれを試みている政党等も存在するが法的に政教分離原則の歴史的正しさを参照できる折、政治参加すればするほど状況は悪化し、人心は混乱するばかりである。
従って、經国の大業をなし遂げうるのは在野の宣教師でなければならない。
例えば凡そ平和の続く時代にあると、大陸から孤絶した、高度に感性の栄達へ好適な季節風土の色彩の強いこの島国では、優美の極を通り越して深い頽廃に沈み込む傾向が潜在している。その象徴として記録されている文芸に源氏物語もある。
恐らくは先史時代における、魏史倭人伝へ示される多婦の風習が遺伝的形質の何処かへ記憶されており、外敵の侵入もさしたる内乱もない期間が連なると先祖返りの法則がその澱みとして現れてくるのだろう。また反動として真逆の形質、平家物語にみられるが如き激情的好戦性もやってくるのだが。
一般にキリスト教道徳が浸透した文明国ではそれら退行、反動形成の歴史現象を観察できない。モルモン教の希な例外を顧みても寧ろ極端な厳格説の行き過ぎで侵略的布教傾向には先例を事欠かないとして、概して国内に頽翳の兆しは看られないらしい。勿論国教会化には権力集中の腐敗が歴史の常として普き。
ゆえ必然に、キリスト教道徳の布教には「信仰中心主義」を自律して回復し直す必然を負う。集徒化し易く又それを正当化する文言さえ聖書には存在している上、脱構築からの文章論を再検討してみても原理主義化を逃れるにはキリスト本人が正に模範をしめした様、「自らの十字架を背負って」個人の内面からの信仰を告白し続ける他、良策はないのである。
上述の事例ひとつ取っても極東の倫理は完成されたとは未だ言い難い。現実に姦淫自体を巨大産業化している国民性とは神の子にとっては目を覆いたくなるばかりの地獄全体でもあろう、この絶望の彼岸を前に我々信徒の勉めとはかのカルウ゛ァンの抱きし理想と寸分も違いはないのである。すなわち神の恩寵を信じて天職へ一途殉ずるべきなり。あの奢れる資本家達が針の穴の筵よりもっとカミノクニへ入り難い限り、少なくとも一心不乱の努力の継続によって魂の救いは訪れるであろう。
2009年2月28日
真名教育の意義
仮名文字がもともと仮の名でしかありえない以上、その草書化されない侭の真名を、乃ち漢字教育を徹底することは日本語の独自さを将来の漢語圏で維持し続ける為にもまこと理に叶う。GHQの漢字簡略化方針は英文との適合性のゆえにのみ近代的ではあれど、日本文化の在来方針とは無関係と云われるべきである。漢文が通用する利点は決して漱石の頑固に帰せる錯誤ではない。初等教育を終えれば、我々が常用字を簡単な略字と見做すのも至当である。カタチの巧妙さに特徴をもつ限り表音化は漢文学発展の本領ではないし、現代の簡体字が流通する区域は共産圏の枠内に過ぎない。よって和文が如何に繁簡自在な漢文学を構築してもいつしかその普遍性はやまとことばの中で生き続けるだろう。国際標準として英「語」教育が重要視される他方では、東洋圏の基本疏通手段としての漢「字」教育は全く同等か或る場合にはそれを勝る意義を持つものだ。
東洋のくびき
文化サロンを数多く持たない伝統は必ずしも後進の特徴というのでもなく、期待される社交の役割が顕著にか密かにか洋式ではない証拠でもある。生産性の観点からすれば上記の見解は照葉樹林文化にとっての普通でもありそうに思われ、かれらには労働集約の土地生産性向上戦略が慣習的だったか適応的なので相互の連携は耕作の効率や効用と離れて為し能うと考えられ難い一つの制約が掛かっているともいえそうだ。
ある博士が講義録で、孤立型・対話型・集団型という研究体制のパターンを類型化して居られたが得意苦手の対句を越えて、漢詩ならぬ学問の推敲には地域の特色を復興させるべき条件がありそうである。特に、稲作の行われてきた場では村社会的発祥が一般なので概して孤立でなければ集団へと二分極の性格へ誘われやすい。閉鎖的談合の中へ混ざれなければ排除するといった八分式空間の研究法では、公開討論や参加可能な談話の場を用意するのは余程困難だし、かれら土民のなかには議論と喧嘩の区別がつかない蒙昧の痴が珍しくもない融和の風習が蔓延してもいる有様だ。東京都民の衆愚らがよく使うこの種のあしき俗語として、明らかなファシズム的村八分と全体主義を意図して各個人から意見並びに討議内容の多様さや言論・表現の自由を、その群衆性によって剥奪封殺したがる「空気を読め」「(この語を略して)KY」という命令語がある。
単純に議論の機会を多産するといった不自然な恣意ではかれらの村社会を一層強固に保守化するばかりで埒も明かず仕舞いとなる。
ここでは適所を人為的に創造する工夫でしか、旧套を脱する習性を身に着けさせられない。喫茶文化をopen cafeの経営で導入し、大学での公開討論をテレビ中継し、広い社交的対話のきっかけを学校授業の一環にすること、これらでも鬱々とした東洋式文化の閉鎖的性向を一掃する契機となるなら我らにとってはもはや伝統の定義自体を改善しなければならなくなるだろう。Orientalであるとは奇形的な異国風であり続けることではない。退行した東京町人による御宅文化の醜風は一切絶やされるがよい。
現状の半東洋的社会を更に徹底して西洋化することは必ずや、子孫の社交性の向上に適いその健全に益するだろう。しかしそれが決して日本らしさを喪失させまではしない。漢字を用いても中国人である必要はないのは洋服を着ていても欧米人たるのに十分でないのと同じ。田園には高い教養が、また都市の逸民には強壮な先進文明との容赦なく厳しい競合的淘汰圧が東洋のくびきを再検討する、現代的命題なのは誤りない。
ある博士が講義録で、孤立型・対話型・集団型という研究体制のパターンを類型化して居られたが得意苦手の対句を越えて、漢詩ならぬ学問の推敲には地域の特色を復興させるべき条件がありそうである。特に、稲作の行われてきた場では村社会的発祥が一般なので概して孤立でなければ集団へと二分極の性格へ誘われやすい。閉鎖的談合の中へ混ざれなければ排除するといった八分式空間の研究法では、公開討論や参加可能な談話の場を用意するのは余程困難だし、かれら土民のなかには議論と喧嘩の区別がつかない蒙昧の痴が珍しくもない融和の風習が蔓延してもいる有様だ。東京都民の衆愚らがよく使うこの種のあしき俗語として、明らかなファシズム的村八分と全体主義を意図して各個人から意見並びに討議内容の多様さや言論・表現の自由を、その群衆性によって剥奪封殺したがる「空気を読め」「(この語を略して)KY」という命令語がある。
単純に議論の機会を多産するといった不自然な恣意ではかれらの村社会を一層強固に保守化するばかりで埒も明かず仕舞いとなる。
ここでは適所を人為的に創造する工夫でしか、旧套を脱する習性を身に着けさせられない。喫茶文化をopen cafeの経営で導入し、大学での公開討論をテレビ中継し、広い社交的対話のきっかけを学校授業の一環にすること、これらでも鬱々とした東洋式文化の閉鎖的性向を一掃する契機となるなら我らにとってはもはや伝統の定義自体を改善しなければならなくなるだろう。Orientalであるとは奇形的な異国風であり続けることではない。退行した東京町人による御宅文化の醜風は一切絶やされるがよい。
現状の半東洋的社会を更に徹底して西洋化することは必ずや、子孫の社交性の向上に適いその健全に益するだろう。しかしそれが決して日本らしさを喪失させまではしない。漢字を用いても中国人である必要はないのは洋服を着ていても欧米人たるのに十分でないのと同じ。田園には高い教養が、また都市の逸民には強壮な先進文明との容赦なく厳しい競合的淘汰圧が東洋のくびきを再検討する、現代的命題なのは誤りない。
中央統制の審美的限度
それが審美的でなくとも、知的概念や道徳理念は評価される可、と考えるのが通常ならば「芸術として」の文物を過剰に見積もる傾向が風土的に内在している文化の危険は、たとえ見にくくとも真理である事象から目を背け勝ちになる過剰な品性に逆説として弱点視されうるのだろう。育ちが良すぎるということは或いは通用の世間知らずとか、皮肉の起源として郷士へ大陸旅行を敢行させるファウストの逆理とかで説明されるのがつねなら。勿論独創の為にどれだけ感性の鋭敏さを形質投資にあてても損は買うまい。だが標準を構えるとか、野生味あふれる豪快な業績とかの非選種な手当てに対して、繊細さはかなしくあだともなる。
経済が唯一の国民倫理ではない理由もここに見つかる。泥沼に降り立つ丹頂鶴はその美しく長い足の為に滅多に羽を汚さないかもしれない、一方で彼が目的として摂取するのは干潟に土着するダボハゼなのだ。無論どちらが望ましい生態とも言い切れず、努力の余地を最低でも地方生活の素朴な体質へ確保しておくことは我らが一時の泡沫に戰ぐ貴重な絶滅危惧種でのみありえないというなら、必然なのである。眉を潜めるばかりに血みどろの訓練を経た貧困層出の選手が、にも関わらずある種の成功者だと言える野趣を社会風紀へ幾分かのこすべきは、平安の御代にて支配的富裕層の次第なる柔弱化を将来的に補う方法でもある。
経済が唯一の国民倫理ではない理由もここに見つかる。泥沼に降り立つ丹頂鶴はその美しく長い足の為に滅多に羽を汚さないかもしれない、一方で彼が目的として摂取するのは干潟に土着するダボハゼなのだ。無論どちらが望ましい生態とも言い切れず、努力の余地を最低でも地方生活の素朴な体質へ確保しておくことは我らが一時の泡沫に戰ぐ貴重な絶滅危惧種でのみありえないというなら、必然なのである。眉を潜めるばかりに血みどろの訓練を経た貧困層出の選手が、にも関わらずある種の成功者だと言える野趣を社会風紀へ幾分かのこすべきは、平安の御代にて支配的富裕層の次第なる柔弱化を将来的に補う方法でもある。
文明系統の整理
文明の個別さはその普遍性に益すか、比類する価値の源泉だと考えるのは功利の見地からさえ合目的である。体系の由来が異なる場合、その摂取または編入は元の文化にとっても異系交配の利潤を斉すのが疑いない。
文明系の希さはその価値にとって一つの重要な側面を為す。然し単に独特だから乃ち最高度の文明を意味するのでは毛頭ない。我々には希少価値が却って系統発生の適宜さ、謂わば選好的由来により増すことを当然視すべきとなる。例えばある系統樹の葉先が華を咲かせてもその珍しさは草木全体にとっての生存益に叶う限りで理由ある。同じ様に他には見出だし難い形態で栄える地域は文化交雑の適当さへ偶有的に膠着した為にそうなので、文明度を仮に審美性、或いはもしそれを一般に量へ還元して信じられる所の経済性の概念により評価するに当たっても同然なのだ。つまり文明の形態は普遍の観点からのみ判定されるべきではなく、寧ろその背景にあたる遺伝的素質に関しても価値と認められる。所謂先祖返りの法則を鑑みても、特有の社会状況になった際に類似の歴史が繰り返されるのは文明形質の自然に思える。従って、現生人類には一体どの系統が真実に未来の繁華への道なのか明言することができない。文明樹の保存の意義は社会の遺伝的ファクターを維持する周到な用意の面からも擁護されうる言説なのだろう。こうして殲滅的侵略型の文明系は経済性の低さという自然要因からさえ、いいかえれば協同の機運が高まった暁の国連の倫理勧告已然にさえいずれ被淘汰種の驕りに過ぎなかった。それは各々生存を賭するに中り好意を受けることが益々少ない程、諸民族および生態系一般にとっての不利益を被る定めである選好的競争の規則なのだから。
実際、珍しい品を多数創出しうる為には異系交配の良い結果が整理されて現れねばならず、柳に風というくらい高度の構造的可塑化が図られた形跡がなければいつであれ、彼らが独創性を認知され貴ばれる記憶もなければ。
文明系の希さはその価値にとって一つの重要な側面を為す。然し単に独特だから乃ち最高度の文明を意味するのでは毛頭ない。我々には希少価値が却って系統発生の適宜さ、謂わば選好的由来により増すことを当然視すべきとなる。例えばある系統樹の葉先が華を咲かせてもその珍しさは草木全体にとっての生存益に叶う限りで理由ある。同じ様に他には見出だし難い形態で栄える地域は文化交雑の適当さへ偶有的に膠着した為にそうなので、文明度を仮に審美性、或いはもしそれを一般に量へ還元して信じられる所の経済性の概念により評価するに当たっても同然なのだ。つまり文明の形態は普遍の観点からのみ判定されるべきではなく、寧ろその背景にあたる遺伝的素質に関しても価値と認められる。所謂先祖返りの法則を鑑みても、特有の社会状況になった際に類似の歴史が繰り返されるのは文明形質の自然に思える。従って、現生人類には一体どの系統が真実に未来の繁華への道なのか明言することができない。文明樹の保存の意義は社会の遺伝的ファクターを維持する周到な用意の面からも擁護されうる言説なのだろう。こうして殲滅的侵略型の文明系は経済性の低さという自然要因からさえ、いいかえれば協同の機運が高まった暁の国連の倫理勧告已然にさえいずれ被淘汰種の驕りに過ぎなかった。それは各々生存を賭するに中り好意を受けることが益々少ない程、諸民族および生態系一般にとっての不利益を被る定めである選好的競争の規則なのだから。
実際、珍しい品を多数創出しうる為には異系交配の良い結果が整理されて現れねばならず、柳に風というくらい高度の構造的可塑化が図られた形跡がなければいつであれ、彼らが独創性を認知され貴ばれる記憶もなければ。
運動について
肉体を通じた精神性の表象のみが、運動競技を単なる戯れから峻別する。自らに科した限界の負荷をルールの許す最も合目的な表現型と一致させること、そしてその絶えざる修練が我々に現実態としての崇高さを付与する。肉体的能力差をではなく、それが用いる最高度の負荷を競技の本質と見なせる限りは、勝敗は成る程ただのゲームに過ぎないだろう。しかしここに優劣の違いがまざまざと示されるところ、本能の統治を果敢に為した精神面での力量差である。知識分析のなしうるところはその比例性を高める事。もし以上の見識が真実さを含むなら、競技の巧みさを決定づけるのは直観の才能だと考えられる。
ある運動方法に対するより合目的な行動型を技術として身に着けるのは、肉体の形質へ与えるべき習慣づけの絶えざる修整、による。それは直観によってしかよくなしうるものではない。
ある運動方法に対するより合目的な行動型を技術として身に着けるのは、肉体の形質へ与えるべき習慣づけの絶えざる修整、による。それは直観によってしかよくなしうるものではない。
2009年2月25日
格差
格差、という認識が時代の流行になって久しい。だが個性の掛け替えの効かなさ、始点の条件は、本質的に(言い換えると「法の元」に)のみ飽くまで権利の上で平等とされるべきというアメリカ独立宣言以来の伝統として擁護されているのが現状なのである。というのも、格差という共産主義的言辞に比べて、努力差が世代間で蓄積されない筈がないのだから。それは文化と呼ばれている。
重要なのは品位を落とさない程度の救貧への適宜な調整であって、人生の開始点をも平等一律へ引きずり下ろす極端な暴威ではない。如何に勤倹奮闘してもちっとも家庭文化の向上しない環境、また国家の名のもとに全財産を世代毎に全没収される場所がもしあればそれはマルクスの野望が最も邪悪な姿であらわにされた、どんな努力も無意味と化す無間煉獄なのが疑いない。従って成功した努力家を正当に評価厚遇し、却って税制の景気自動平衡機能を損なわぬ限りで一律課税を推し進めるのは民主主義を標榜する一時の思想傾向の流布が、単なる頭数において労働者階級の支配権をますます強調する風議のさなかにあっては真に財政の、取るに足りないごく少数なテロリストの駄々を敢えて鑑みぬつとめである。結局かれらのやり場のない絶望は共産圏でしかまるで解消しないのだから。我々がもし少しばかりの社会学の嗜みさえ顧みれば、民社主義は今日で最も理にかなう保守の仕方であると北欧を模範とし、理解するだろう。
重要なのは品位を落とさない程度の救貧への適宜な調整であって、人生の開始点をも平等一律へ引きずり下ろす極端な暴威ではない。如何に勤倹奮闘してもちっとも家庭文化の向上しない環境、また国家の名のもとに全財産を世代毎に全没収される場所がもしあればそれはマルクスの野望が最も邪悪な姿であらわにされた、どんな努力も無意味と化す無間煉獄なのが疑いない。従って成功した努力家を正当に評価厚遇し、却って税制の景気自動平衡機能を損なわぬ限りで一律課税を推し進めるのは民主主義を標榜する一時の思想傾向の流布が、単なる頭数において労働者階級の支配権をますます強調する風議のさなかにあっては真に財政の、取るに足りないごく少数なテロリストの駄々を敢えて鑑みぬつとめである。結局かれらのやり場のない絶望は共産圏でしかまるで解消しないのだから。我々がもし少しばかりの社会学の嗜みさえ顧みれば、民社主義は今日で最も理にかなう保守の仕方であると北欧を模範とし、理解するだろう。
2009年2月18日
普遍の考え
依然としてしきたりや個性は自分にとっての絶えざる反省の契機となるだろう。
我々には普遍性というものを単純にscientificであることによって信じられた時代を過ぎ去った歴史上の思想習慣の中にしか見いだせもしない。大量絶滅の如き項の整頓も、普遍性が理知を特別視しない賢明かつ合目的な秩序の元にのみ予定している、と考えるのが啓蒙の程からして今日では、合理的故。
我々には普遍性というものを単純にscientificであることによって信じられた時代を過ぎ去った歴史上の思想習慣の中にしか見いだせもしない。大量絶滅の如き項の整頓も、普遍性が理知を特別視しない賢明かつ合目的な秩序の元にのみ予定している、と考えるのが啓蒙の程からして今日では、合理的故。
2009年2月12日
生物学
昼行型生物の概日リズムが一日より若干長く、ロドプシンの合成でリセットする仕組みが淘汰されてくる理由は、夜行型の生物には視神経の退化が見られる事情と照合する。乃ち光量に感覚を依存する度合いが強い生態的適所に入り込む程、この生物の概日周期が平均より遅れる変異は明るい内に寝静まるという危機を避けやすく作用する限り優位なのである。逆も然りで、いいかえると夜行型生物にとってはロドプシン・リセットのシステム群はその不利さの限りで目のよい種類の餌食となる確率を意味しており、彼等の生態的律動がおもに視神経以外の条件付け刺激に敏捷となる傾向をも場の適応形質としたろう。
こういう暗なる仮説に説得力があるとすれば、視神経系の明順応の速さを昼行型動物の諸体質に殆ど例外無く発見なしえ、更に夜行的と分類されるものに逆の、暗順応適性の遺伝形質傾向をみつけられる限りであり、尚且つ幾らか多角の実験で視紅合成組織と活動に導く生体ホルモンとの必然的連環が検証されたともなれば、しばし定説としても構うまいが。
ともあれ確実な事象として医学的応用の見地からすれば、暗所でレチナールから視紅を再生するビタミンAを副作用抑制範囲で投与すれば、多くの後天的不眠症の予防をロドプシン・リセットの観点から凡そなしうる。
より重要なのは初期の走性からやがて視神経への系統的発展の経過を分析することだ。それにより別の系統を辿った生物種を見分けられれば、つまり視覚依存の度合いが少ない動物にとっての生態的地位を詳細に叙述できるとすれば人類の感性が唯一不変ではない証拠にもなるだろう。実際コウモリ、梟の様な種では電磁波またはそれに類した視聴覚から遠い現象を感覚器で捉えるという形質を観察できるのだから、人間原理と呼ばれる思い上がりは全く地球に於ける無知識時代の傲慢と見下げられる価値しかないものだ。地球外生物学にとってさえその無用の定義は早晩極めて有害な科学検索下の差し障りとなるとして。尤も、信仰上は是非なくてはならない理念なのは誤りない。万が一にも人が第一の生命体でなければ、かれらの協同は利害に法とると主張する原因を喪失するだろう。
こういう暗なる仮説に説得力があるとすれば、視神経系の明順応の速さを昼行型動物の諸体質に殆ど例外無く発見なしえ、更に夜行的と分類されるものに逆の、暗順応適性の遺伝形質傾向をみつけられる限りであり、尚且つ幾らか多角の実験で視紅合成組織と活動に導く生体ホルモンとの必然的連環が検証されたともなれば、しばし定説としても構うまいが。
ともあれ確実な事象として医学的応用の見地からすれば、暗所でレチナールから視紅を再生するビタミンAを副作用抑制範囲で投与すれば、多くの後天的不眠症の予防をロドプシン・リセットの観点から凡そなしうる。
より重要なのは初期の走性からやがて視神経への系統的発展の経過を分析することだ。それにより別の系統を辿った生物種を見分けられれば、つまり視覚依存の度合いが少ない動物にとっての生態的地位を詳細に叙述できるとすれば人類の感性が唯一不変ではない証拠にもなるだろう。実際コウモリ、梟の様な種では電磁波またはそれに類した視聴覚から遠い現象を感覚器で捉えるという形質を観察できるのだから、人間原理と呼ばれる思い上がりは全く地球に於ける無知識時代の傲慢と見下げられる価値しかないものだ。地球外生物学にとってさえその無用の定義は早晩極めて有害な科学検索下の差し障りとなるとして。尤も、信仰上は是非なくてはならない理念なのは誤りない。万が一にも人が第一の生命体でなければ、かれらの協同は利害に法とると主張する原因を喪失するだろう。
2009年2月9日
文学論
重要なのは知性を他の諸価値と混同しない事。理性による判定、それさえ知性の恩恵を被っている。知らず知らずの内に、理性は飽くまで知性の部分集合を為している。それが後自然学の所残であった経歴書に高らかなのは哲学のいとなみが自然学識を同時代の社会的実践へ折衷する業として、常に理性が与えられ直して来た、という成長律だから。
感情を尊重する事は知性と矛盾しない。それは技術的本性なので、少なくとも数理学と社会学の間に属する何らかの獲得形式の換言へと定義される。
何故なら純粋な知性の、現象への還元を通さない思考作用の記号による抽出が前者ならば、後学には恒にここより経験識側に論理を推し進める他の目的がない。もし純粋な知性の身の探求に知性が終るとすればそれは一切の社会的な有用性を失い、記号のパズルにしか出なくなる。尤もそれで大半の数学愛好家自身は困るまいが。ならば、帰納法は本格的には社会学的な方法論で、演繹法は数理学的なそれである、と考えるのは大雑把には論理学野の整理に適うだろう。いわれるところの仮説証明法、abduction、仮証法はこれらのどちらからも認識を借りつつ展開する自然学的な真理の探求に最もよく適合していると思われる。スコラ学の二の舞を踏むつもりではないが、最低でもこれらの哲学的基礎付け、つまり認識に関する批判は凡そ実務の立場からさえ思考の節約に、労資の省力に有用であると結果できると思う。例えば、ごく紛らわしい名称で自信作を形容したものだが、パスカルによる数学的帰納法は哀しいほど演繹的思考形式の典型を与えるに十分な事を鑑みればいい。つまり概括であれ全ての哲学が、科学の分析に対する総合なら学問の方法論の錯綜を成るだけ混乱を防ぐ様に設えるのは一つの有徳な理性の命題ではないか。
我々には社会学の最終的実践法に倫理学を、いや学をというより正に行動を置くのが、徳義の不変を謳った『文明論之概略』以来、この国で至善に止どまるべき大学の、修養の目的である、とも考えられる。知行合一が武士の掟であったことは、陽明学と朱子学の対行を先に知り後に行うとした後者の流暢さを暗に許さぬ殺伐たる現実に即して中江藤樹ら、士族にとって前者が拠り所となった理に等しい。いいかえれば、日本に於ける陽明学派は福澤諭吉に至って質的変化を伴い、その道徳規範を数理学、自然学、そして社会学そしてmetaphysicsの正順へ整え直したのであった。物ありて後に倫あり、とは彼が徳義の不変さと両立する理念として、少なくとも士族層へ知先行後の回復を批判した精神の表れだろう。そして、当時にもこの種の理性を意義ありと認めた実践のさなかに生きる意味ではプラトンの理想に最もよく当て嵌まる防衛者の様な哲人、も現れた。
そして感情と理知とが最もよく合致する点は、畏らくは社会学の根底に措かれた演劇の工学に至る。何れの倫理思想もそれが実践を伴う理念である限りは、実は劇作法、ドラマツルギーの研究だった。コペルニクス的転回とは社会学の最終的内容が、本当は演劇手法の研究であったというまさに劇的な論点にもカントが依然として無知であったこと、無論誰しも比較的にしか対象を認識しないとして、彼にとっても又、アリストテレスの幸福主義から自由ではなかった事情を照らし出す。政経活動とは人間の演劇芸術的群性すなわち芸能であったからには、哲学および形而上学ないし後自然学を汲む所の総ての社会学は劇作術の学問的論証の作業に過ぎず、他ならない。これが文学の種別において、科学と哲学とに分岐しだした西洋学または単に洋学が史学の立場からすれば、根本的には唯一の道でしかなかった説明である。それらのどの学問も記号法により、何らかの認識を或いは表象機能を能え直す文についての学。
感情を尊重する事は知性と矛盾しない。それは技術的本性なので、少なくとも数理学と社会学の間に属する何らかの獲得形式の換言へと定義される。
何故なら純粋な知性の、現象への還元を通さない思考作用の記号による抽出が前者ならば、後学には恒にここより経験識側に論理を推し進める他の目的がない。もし純粋な知性の身の探求に知性が終るとすればそれは一切の社会的な有用性を失い、記号のパズルにしか出なくなる。尤もそれで大半の数学愛好家自身は困るまいが。ならば、帰納法は本格的には社会学的な方法論で、演繹法は数理学的なそれである、と考えるのは大雑把には論理学野の整理に適うだろう。いわれるところの仮説証明法、abduction、仮証法はこれらのどちらからも認識を借りつつ展開する自然学的な真理の探求に最もよく適合していると思われる。スコラ学の二の舞を踏むつもりではないが、最低でもこれらの哲学的基礎付け、つまり認識に関する批判は凡そ実務の立場からさえ思考の節約に、労資の省力に有用であると結果できると思う。例えば、ごく紛らわしい名称で自信作を形容したものだが、パスカルによる数学的帰納法は哀しいほど演繹的思考形式の典型を与えるに十分な事を鑑みればいい。つまり概括であれ全ての哲学が、科学の分析に対する総合なら学問の方法論の錯綜を成るだけ混乱を防ぐ様に設えるのは一つの有徳な理性の命題ではないか。
我々には社会学の最終的実践法に倫理学を、いや学をというより正に行動を置くのが、徳義の不変を謳った『文明論之概略』以来、この国で至善に止どまるべき大学の、修養の目的である、とも考えられる。知行合一が武士の掟であったことは、陽明学と朱子学の対行を先に知り後に行うとした後者の流暢さを暗に許さぬ殺伐たる現実に即して中江藤樹ら、士族にとって前者が拠り所となった理に等しい。いいかえれば、日本に於ける陽明学派は福澤諭吉に至って質的変化を伴い、その道徳規範を数理学、自然学、そして社会学そしてmetaphysicsの正順へ整え直したのであった。物ありて後に倫あり、とは彼が徳義の不変さと両立する理念として、少なくとも士族層へ知先行後の回復を批判した精神の表れだろう。そして、当時にもこの種の理性を意義ありと認めた実践のさなかに生きる意味ではプラトンの理想に最もよく当て嵌まる防衛者の様な哲人、も現れた。
そして感情と理知とが最もよく合致する点は、畏らくは社会学の根底に措かれた演劇の工学に至る。何れの倫理思想もそれが実践を伴う理念である限りは、実は劇作法、ドラマツルギーの研究だった。コペルニクス的転回とは社会学の最終的内容が、本当は演劇手法の研究であったというまさに劇的な論点にもカントが依然として無知であったこと、無論誰しも比較的にしか対象を認識しないとして、彼にとっても又、アリストテレスの幸福主義から自由ではなかった事情を照らし出す。政経活動とは人間の演劇芸術的群性すなわち芸能であったからには、哲学および形而上学ないし後自然学を汲む所の総ての社会学は劇作術の学問的論証の作業に過ぎず、他ならない。これが文学の種別において、科学と哲学とに分岐しだした西洋学または単に洋学が史学の立場からすれば、根本的には唯一の道でしかなかった説明である。それらのどの学問も記号法により、何らかの認識を或いは表象機能を能え直す文についての学。