2009年5月23日

天皇制の水戸学からの擁護

実質的に、天皇の権威は飽くまでも報本反始の実践に基づく政の象徴に限られるべきで、彼の実在自体を決して神格化すべきではない。水戸学の実質的帰結は天地祖先の恩に報いるというまつりごとの根本が貫かれている限りで直系の皇孫を仰いでも何の異論もない、という大義名分にあるとする。その系統論の意義はやはり政治哲学の上にあるのであって、必ずしも或いは多くの場合は、古代からの自然崇拝をも引き継ぐ神道の思想を国教化させようとするものではない。
 一神教の教義は偶像を厳禁か又は極力回避するので、生けとし人間としての天皇を直接崇拝せよ、と教えることはいわゆる偶像崇拝にあたる。神という全知全能の理念に比べれば如何なる被造物もはるかに卑小かつ無力なので、その結論は神を擬態した末孫が人間と堕する他ないだけに邪教信者ら最高の徳律も彼と同程度に限定させられざるをえない。皇族を宗教的に神格化して崇拝する、という連中は生き身を持たされた人間でしかありえない彼らと同程度の現世的道徳観しか身に着かない以上は常に、他の全知全能の神の理念へ信仰を捧げる集団よりは卑しく、悪辣な暮らし方の侭だろう。この様に唯一絶対神としての理念以外に向けた偶像崇拝が、天皇制を宗教化することのつねなる比較的な頽廃の理由なのだ。抑、神道の原理は自然崇拝にある。聖典から正統づけられた日本列島の創造主としての神やそれに類する集団の一末孫としての天皇という思想はその本質も大和王族の系統論にあるのであって、結局は偶像としての生き身ではなくて擬人化された造物神への忠孝という人間自身の祖先復礼を、祭りの上で古来からの自然畏怖と一致させる為だけに、神道は道徳的正当性を持っている。
 連綿たる国民政権の代表としての天皇の権威は、それが全体意志の象徴である限りに於いて担がれるべき御輿の上の世襲権威であり、よって日本民族の先祖代々を祭るという根本原理の為にのみ彼をその活ける犠牲として仰ぐのは正当化されてよい伝統の手段なのである。こういう經緯のゆえに、天皇を行政的に排斥する、ということは倫理として言えばありえない。ただ必ず許されねばならないのは、政治以外の領域へと一歩なりとも天皇家の権威を濫用すべからず、という名分と実質のけじめである。学術や経済の領域へと天皇家の権威を悪用することは報本反始を行政上で象徴化するための大義名分の手段としてのみ許可されるべき世襲特権の越権であって、独裁者は絶対に悪さを免れないので腐敗した自民族中心主義としてのこの兆候を見出だし次第、国民は主権在民の元で堕落した皇統を即座に解体する義務を要するのである。そしてより緻密に考え詰めると、政治に於いて三権分立を鑑みれば天皇家が保障されるのは飽くまでも「行政」のみの上であって、立法や司法の上ではない。例えば万が一にも皇族の一種が民間へ犯罪行為に及んだとか、国民を害する不合理な立法へ働きかけたとあればこれは行政権威の行き過ぎであって、飽くまでも厳格に裁かれねばならない。
 こうしてはっきりと示されるのは、象徴天皇制度は謂わば憲法の枷を行政権力の直接の長へ科する為の上位者通告制度である、ということだ。だから天皇へ直に行政の腕を振るわせる訳には歴史の恒を念えば行かないが、比べてこの直接の長がなんらかの巧妙な抜け道を通じて憲法の根本目的をすり抜けた合憲の悪行に及んだ場合、天皇は憲法最後の信託者としてそれを誡め、時に及んでは国事行為を己の義務感に基づいて拒否できねばならない。これは国民の総意に則る天皇の権威が行政府の最終的長であるという象徴制度の真実の定義であって、その世襲の擁護が国内での無償生存を保証する事と引き替えに大義名分に基づく最終的犠牲心の責務を負う事の帰結であると説明するものだ。生まれつき最高の行政権威を保障された者は彼を養う国民永年に渡る全労役の血潮の為に、即ち一切の衆目と全生命の国民依存という条件の為に絶対に彼ら国民の総意を裏切ることはできないから。