2009年5月28日

炭素循環の藝術的本質

低炭素社会なる意味不明の筋が通らないプロパガンダは罠でもあり、我々が彼らより相対的に高い科学民度を保っている限り本気にする必要はないだろう。
 マスコミは売上を伸ばしたいが為に扇情の手段に墮し勝ちであったし、正反両面からの批評を載せて良識ある市民への参考に書すといった常識誌は総中流と呼ばれる文化幅の狭まった現況では生き残るのがよほど困難なので、おもとしては個人主体のインターネットだろうがやはりこの異常な喧伝術に向けては殆ど機会費用のかからないメディアを通じて政策通側からの啓蒙活動も折節必要となってくるだろう。
 教養において中流以下の大衆がこの用語をまともに受けとって、たとえば我々の今の主要燃料源である石油の節制などを下手な市民運動じたてにでも仕出せば、これは世論の大勢について当然後退を余儀なくしよう。
 低炭素社会など絶対にありえない。それは全生物が絶命すれば成功するとしても、むしろ重要なのは循環型社会のとりあえずの効用、つまり過剰温暖化への適切なブレーキ効果の方にあるので、その中途ではどれほど大量豊満な炭素転化がよのなかにあっても一向に困る生命体はない筈である。
 もし二酸化炭素が酸素よりも化石エネルギーの燃焼で割合として高くなりすぎると批判したいなら、如何にして温室効果を打破できるか、と積極論から高技術文明を擁護できる。それは地球全域で見た呼吸商を適正な比率へ保ちながら皆が発展する、といった動植物共生の観点から植生の栄養源であるCOをも巧く消費させるべきと、説得すればよいことに過ぎない。