2009年5月15日

経済学

人類内ででさえ、ある地域はその気候から来たる特徴ある形質を過剰価値という暴落作用によって省略する傾向がある。殆ど自明の事柄として、差額は小売商が意を得る利益の法則であり目の付け所といえる。
 こうして、国際貿易にとっては資本投機の最終目的が特産品を通じた円滑な価格平衡を達成すること、更にはその自己目的な作用から及ぼされる分業率の完成にある、と論を結んだとして新古典派経済学者もよすがなしに構うまい。より安いところに豊富にある資材を別の加工場へ移転する、というのが差額分を寡占する骨なのである。消費が又、自然全域にとっては一つの秩序形態の生産である事を鑑みるべきだろう。
 だから、人類の誰かがある文化場で生産や生成される過剰価値の物事を、それを時空間的に異なった地域へ運輸させる間に生じる小売差額から邪魔にならない程の利潤を受け取ったとしても、なんらかの多数派のたくらみから敵意を抱いたり堰き止めたりしない方がずっと賢い。いわゆる道義感の観点、共感的優位を傍観者の立場からみて必須の行為是認条件と考えていたスミス的徳律は結果としては、最大多数への貿易をより有効に進めようとした場合に限っての、限定的真であると言える。この種の小売競争は至る所で示されざるをえない一つの経済的普遍場面であるが、その際に被供給者にとってより優先度の高いのは急速に価格平衡の原理にしたがって資材が現に多く易く手に入る事の方であり、決して彼ら商人の同業組合内での同士討ちや足の引っ張り合いで無駄な費用を損失させられることではないので、この点のみで和平的な競争者の側を、結果的には選好するに過ぎない。道義感は小売競走をしている側の得失点差に関わる有効さであり、必ずしも享受する被奉仕側の要求ではない。我々はスミスの古典派経済学の根本に対して主客の混同を指摘し、その理論的修正を要求できる。結局、同業組合を出し抜くまで狡猾な生業者は単に法的な制限を差延する先見の分だけ他の篤実な古典的経営より実用的に有利なのである。傍観者が明白な事業観察者と違うところは、彼ら商務同業組合が演ずる一挙手一投足が生産と消費者にとってすれば近所で通り掛かったサッカー場で縁もゆかりもない草プレイヤーが七転八倒しているのを面白おかしく見て自身にはなんの痛痒をも覚えないのに等しく、外部不経済のごときはた迷惑な乱闘騒ぎをその演ずるフィールド外へと持ち出さないかぎりでどんな商業上の荒業偉業が出たところで、公式法規と突き合わせて審査する政府や一喜一憂のスポンサーでもなければ関係がない。どうせ負ける正義感ぶったチームへ同情はしても共感しないことができるのだ、それは応援するか否かともかかわりないゲーム視の客体法則である。
 この様にしてリカードの主張する国際分業仮説について、文化が気候や民度に関する特殊な資材生産能率を持つという文化間価格差額がその根本的なよりどころであったと知れる。実質上、生産や消費者には分業の微積分がもたらす情勢浮沈は関係がないのである。寧ろあらゆる観点からみて安価で容易に需要が満ちるのは経済体制上の望ましい変化でもある。そして特産品というものが流通業を盛んにするほどそれらを交換する双方の利益である事はやはり職人間の専門性が高まるほど効率化する製作合理化の要になにも変わりがない。貿易制限は最終的には完全に崩壊する好きずきな仮囲いに過ぎず、どの郷国でさえ人類間文明を理由とする上では絶えず迫り来る飢饉と気候変動の台風を前にそのお気に入りのやわな藁屋に居座って痩せ我慢し続けるのはいずれ不可能であると知れる。