2009年5月13日

科学の理解

自然界から数理的な比例を抽出し、且つその法則を社会学と矛盾しない様にまとめるという学問上の更新は、古代宗教が持っていた計画と根本的に異なる営みではおそらくない。法則知に対する信仰は近代文明という一つの宗教段階の、民族間思想基盤の特徴を為す。だがそれを終局の思想状態だと述べるのは根拠薄弱であると言わねばならない。近代化は文化であり、文明の完成そのものとも限らない。
 この方針から客観すると、科学信仰もある倫理段階の経過であったと知れる。知識に向けての非常な期待感は明治以来の人が科学技術と呼ぶもの、いわゆる工学の発展が極めて急速であったという一種の歴史的真空での慣れに基づく偏見である。つねに、ガウダマの昔から「あるものは知れてもほかのものは知れない」のであるから、いいかえれば知識は相対的でありつづける星の下にあるので、知識信仰がすべてを隈なく解決し尽くすという結果は多分に漏れずないのだろう。科学は科学に止どまり、それはいくら合理化を推し進めてみても芸術は芸術であり続けるのに同じく、結局は科学知識が人類へもたらした恩恵とは理由ある比例を法則知として思想乃至文芸の手本に示したことであった。
 聖書と呼ばれる詞書きが存在する。そして注釈が成立するのはそれを先代の模範として更に滋味深く要領よくまとめられた文章へと清書する事、つまり書き直すことがさらに選れた聖書を書き上げる場合に限ると云える。そうでない文書類は捨てられなければ整理整頓されて蠹た古書庫へ至る。
 科学にとって本質的なのは、今までよりもすぐれて比例が尽くされた合理的建築型応用への転用なのではなくて、この聖書の注釈を根気よく続けるという文学的かつ思想的な意図の方だ、と考えることができる。転用は一過性かもしれないが注解のほうはとても長く世代間に伝承されるから。こういう広域に亙る歴史学上の思想史脈を夫々緻密になぞると、西洋地域で運よく発酵した科学という果実は、真にはキリスト教(ヘブライズム)、古代ギリシアの哲人思想(ヘレニズム)、そして古代エジプト文明周縁のユークリッドやピタゴラスから中世に至るアル・フワーリズミら中東思想家の流れを汲むような測量術的な数学を西洋化して昇華したものであったと確認できる。この成果はのちに地球中へ伝播され役立つことになる、主としてガリレイ、デカルト、ニュートンらを起爆とした一つの文化的酵母であった。だがその果実が上述の理論支流を利用して、さらに古代ユダヤ思想の批判というジーザス的個性の思想の鋳型を換骨奪胎示されたという部分に、西洋風の根本原則と理論上の欠陥も内在されている。知恵の実の摂取に対する原罪観念の抑制を、西洋文化圏の学者たちは栄養の原材料としてそれら科学的な急進をやってのけた。
 しかしながら、もし神の国がありうるのならなぜ我々は選民を自称する者をも引き入れてはならないというのだろうか。移民の商圏に向けての潜在的脅威観からのキリスト教の博愛の強調とその理論化の徹底を事とする道義心の底には、一抹の邪心が忍び込んでいる。要するにユダヤ教の教義は決して無力化されるべきではない、人類間に於ける文化史上での記念すべき路程標である。汝の敵を愛せと述べる者は、たとえ裏切り者へでさえも慈悲の面目を改めなかったと見るべきだろう。ここから、科学的探検にかかわらず道徳哲学の上では、我々は決してユダヤ教の信仰を単に押し潰したり断章取義の上、抹消しようとしてはならない。どの弁証法上に於いてさえ、以前の未だ不十分だった理性の見解は否定媒介としてであれどもそれ相応の存在意義を有している。たとえば世界の果てにある孤絶された島国に土着した一族の王がもし彼らの自然崇拝の帰結から万が一にもその神格を擬装する偶像性によってすでに大きく啓蒙された海外国民の誹謗の的になった暁にさえ、なんらかの熱狂に駈られた革命の事情から裸で鞭打たれる彼を磔刑へ処した裁判官や周囲の人間の煽情行為はやはり、土着の民にとっての主人公を否定するという比較的な悪業の先例によって、かれらの野蛮さなりの人格度を汚名で塗り固めたという自然本来の制裁意図を十分満たしているに違いない。勿論最低の判定から鑑みて凡その民族で非難の的だった偶像崇拝の民俗因習化の結末は、それ相応の因果関係によって、神理念そのものへの純粋無垢な信仰を維持発展なしえた高等民族に較べれば当然ながら、彼ら土着民の道徳的な劣位程度にありうべき不遇を用意して待っている筈ではあるとしてもだ。
 同様に、科学の否定は将来、場合によっては十二分にありうる、又はなければならない思想及び文学上の転回となるであろう。その後におよんで原罪観念を引き合いに出し、知恵の実を食さざる以前の理想郷へ回帰する信念を主張する一派が機に乗じて勢力拡大の目論見に出たとしてもなんらかかわりなく、世の中に自由権の擁護を高貴な者の義務感から責任する賢明な人が最も多い知識階級の統治権が立派に確立している文明圏に於いてのみ、脱科学的思想への進歩は見られることになるだろう。煩雑で入り組んだ科学史を考究するのに十分な意欲のあって、しかも既存の思想潮流へ特別な考慮を払う必要をば極力少ない有閑層的な社会集団にとってのみ、その先見の明は不安定な政治的事情からも独立した私権を保ち得るであろう。且つ予想されるだけでも、この科学史家を兼ねた学究の士についてしか、当面の重要度に大幅な相違がある移り気な発明発見の連続した投機市場じみた思想変容情勢から、冷静で批判的でありつづける距離感を保った位置取りを期待も希望もできないだろう。実際、ノーベル賞などという地方商事による私家版の罪滅ぼし的な栄典授与が最高の達成なり誉れなりと俗に囁かれる学問情勢はまったく常軌を逸した、比類なき真理探求精神にとっての低俗化、子供染みた陳腐なお遊戯化と述べられねばならない。仮に科学史の立場から指導権をおのずと任じるべき英国立科学協会の最高権威でさえ通俗書の書き手と同列に並ぶに羞恥や自尊の心を失くしたのだとすればその有様たるや、人気や売上以外で信頼に足る導きの糸は権威ある本来有り難い号や肩書よりもずっと、科学知識売買の非道で長期化した氾濫戦場からどれだけ批判的な優越感を痩せ我慢式に保っていられるかという逆理的な認識領域へ集中せざるを得ない程だ。
 現代人が批判的な言論をなんとなく説教臭くて真面目なこころみをがっかりさせるものとして嫌悪し、安価かつ案外で簡単に答えを与えてくれそうな口先のうまい通俗書へ頼る傾向は余りに過度であって、いうまでもなく批判それ自体は矢面に立つ演技派そのひとにとってすれば一般に不快でしかも耳に逆らう苦い薬ではあるけれども、確かに、過剰情報社会という未経験の事態にとって未然に対策できる自己免疫あるいは言論検疫の機能としてこれより有効な既存の製薬はどこにも見いだせない。真理と呼ぶに値するほど確実な知識は的外れな批判を寄せ付けないという汎用的な能動性を、すなわち実験によってくりかえし検証できる実証性を持つものであるのだから、我々は宗教と今は名のつく生まれ育ちのよい真理を意味もなく非難して科学と呼ばれる仮装の擬態をけばけばしい化粧にも関わらず世界最高の自然な整形なのであると見なす近代的偏見だけは戒めねばなるまい。イスラム教圏で女性へのベールを義務づけている事を浅薄な興味で迫害する者は、己が如何に科学的真実をのみ凝視し道徳感を置き去りにしていたかを、その明晰な知見に基づき不幸で不穏な家庭生活という人間生活にとっての最も根源に近い足元から崩壊するバベルの塔へも科学の狂信という思想上の壊乱騒ぎの兆候から、必然に演繹できることだろう。