2009年5月6日

資本主義論

商いが経済感情の合目的質であると考える事に客観した矛盾は覚えられない。商は経済活動そのものを目的視した場合、群生の最も活発な調和を奏でるのに適した理念だとおもえる。だから、昔ながらの農本思想であれ、いわゆる近代化のための重工業思想であれそれらを媒介するのに適宜な商の基礎付けがない限り、どちらも自体として完成の域へは載せられない。
 道徳の立場からは、けれども、商務の有する独占支配の側面を合理化できないのである。流通の円滑というそのなりわいには決して肯首しきれない卑劣さの芽生えがつねに付き纏う。掠め取る能率へと取引差額の効用は還元され易く、したがって一般に、商業集団へは何らかの政治的調整がなければその上前が他の生産者が斉す実質の価値容量に較べて不利を被る例がない。非生産的仲介者という商人蔑視の根底にある考え方には社会集団が生産的であればあるほど、その売買をつかさどる群がぶら下がるほかない、というあきらめの空気が欠かされない。実際に、純粋な取引商は希少と豊富との時場価格差をのみ利用して、財貨の流通経路を資本流動性の増大という大目的に逸ることを最も得意とした形質の持ち主である。そして彼らにとっては群生の過不足を見分けてそれを仕事へと援用するのが返礼を省く盛業の骨なのだ。経済感情、或いは経済感覚の発達という面から観察すれば、人は取引商より鋭敏な群生の長者を見つけ出せないだろう。彼は情報の調和以外には何も生産方法を持たないが、代わりに最大の利益を享受することにかけては如何なる欠点も見出だしえない能力を維持している。長期的な文明史の潮流は、にも係わらずこの集合または場合によればその階級を最も先に不幸な運命で処する筈である。社会学の教えるところに基づくなら人は、群生にあって中間的な形質というものはその極度の完成度という一部例外を除けば、普通には保存されないのだと経験的に帰納できる。中庸は淘汰の規則にとっては希である、というが為だけに真、乃至もっとも完全な意味で美なのであって、もし中庸が多数派になればそれば凡庸に堕するのだ。
 だから、仮に現代という形がどうそのあからさまな差別化や不平等を装飾の華美として誇示していてあれ、経済的合目的性は必ず被淘汰をへるべき、絶滅する未然の前兆なのである。というにも、群的中庸の最たる特徴は社会集団が商取引を盛んに行っているという仲介層の自己欺瞞を派手派手しい看板で宣伝するに過ぎないのである。かれらの目立ちかたは多くの観衆を、通り過ぎゆく旅人の足をしばし止めずには置かない。だがそれも束の間だ。住む為には困難を極める非生産的仲介者の街は、十分な才能を持った特殊な形質の持ち主をかれらなりの価値意識に則り、役立たずの穀潰しと銘打ち排除するだろう。資本主義はこの長期の見解に立てば、固定資本となりがちな幾つかの共通財を物好きの忙事に委せて効率よく処理させる為に工夫された過渡期のシステムだったと見なせる。かれら資本家は取引商、小売商、卸売商、という生産者の上に乗りかかる媒酌員を流動資本の装飾業者として雇い殖やす牧場主であって、その終局の方針は組織だった活動を効用の面から功利化すること(使用者思想、utilitarianism)であった。
 学究的な個性にだけは先に啓かれる風景は、社会の福祉全般という審美的群生の増大が射利か名声を求める卑屈な社会階層の犠牲者の心情を以て巧妙に、大幅に過剰評価させた利益を示して特有の価値観を持たない社交的集団を極度な合同労働ディスプレイへと尋常に導き、忙殺という極めて安寧で非・革命的なルートを辿って徐ろにその野育ちらしい余分な精力を削ぎ落とす知恵の産物である。この点でも資本制はかんがえうる限り流血を見ないで済む維持された漸進的社会変革の思想であり、他のどの社会思想、共産主義、社会主義、自由主義、原理主義、福祉主義すらよりも優れて、ということは他の群生に先んじて、公共の福利厚生を助けるのに有効だろう。
 商権の擁護、商務の倫理性は正にこの観点から今日主張されるのであって、必ずしも万世に全面的な肯定ではない。現実には邪心のかけらを含まない商いということは決して見当たらないであろう。もし誰かが善意からあきないを営むなら、彼は嘗ての聖者の言を入れて慈善を業としただろうから。