2009年5月19日

あつまり

個性の桎梏へ向けて最大の憂さを晴らすという東洋的な反逆は、にも関わらず必ずしも合目的な形質ではない。結局は團性とでもいうべきもの、群性と個性の中庸にある様な適度な集団適応形質が最終的には優勢となる一族を形成する。形質を保存するのにあるまとまりを持った単位が保証されていなければならない、と生物から学ぶ者がかんがえたのにも一定の真理がある。余りに広いので遺伝子順列の煩雑な交代はある特有の配列を弾き出すのには十分な荒野ではなく、袋小路でなくとも最低、隠れがが用意されねばならない。その隠れがの大きさが適度なほど、選好のよい側面は集積され易くなる。
 だから当面の戦闘によって被捕食者が増減させる数量よりは、進化自体の決定的な条件は隠れがの性質を問う事で測れる。隙間やnicheと云われているものの種類が本質であり、経済的浮沈は形質の特徴を選好するという進化の法則よりはずっと重要度の低い場の在り方である。
 専ら進化それ自体が自然の命ずる生物本性の目的であると考える根拠は見つからない様に思う。もしそうならこれほどまでに多彩を極めた生物群集のだれかれがなぜ他の経済化された形態に侵略されていかないのか。あまりに軽視されてきたダーウィン思想の側面は、共生的秩序の部分にある。適者生存の強調は生物学上の分野を為すに過ぎず、おもうに環境抵抗による種内遷移を除けば如何なる生物群にとっても生態上での主眼ではないのである。東洋圏でよく信じられているところに、生物は無駄な殺生をしない。もしそうする特徴のある形質なら警戒を喚ぶか、自らへ恵まれる生々流転の内で余裕ある飼料の絶対量をおのずと減らすのは疑いない真実なので、淘汰されなければ最低でも希な適所を除けばこの寛大さの少ない恐れられる生物種は他の生物からの多くの場合は相互的に予想外の公益を受けづらくもなる。インドでヒンズー教徒が牝牛を貴ぶところは、蚊を通じたマラリアの感染から人への被害を相対的に避け易くするという生態的相互依存の関係が、共存共生の思想としてその習性の殆ど土着本能化の経過へ、見出だせるかもしれない。或いはイスラム教徒やユダヤ教徒が砂漠の中で廃物利用を兼ねていた豚を飼い馴らす事は水の希少なところの衛生的にずっと不利になる結果にも、逆内容ではあるが同等の住み分け関係史が、その不浄感の理由へ仮説からややも帰納できるか分からない。
 いわば適者生存の規則は限定的真であって、この場合の適者はいつも場の性格へ依存している。弱肉強食の場も、共生共栄の場もある。
 何が進化にとって有益なのかという観点のみが形質の特徴からさえも、無機環境の物理的遷移も生物の有機連鎖と無関係でないばかりか却って進んで隠れがの微積や集散の経過史を通じての系統分析、いいかえれば変化の規則を抽出させるのに選れて雄弁である。展開やevolutionは唯一の生物目標ではないのだ。それは種と場の変化を一定の着眼点に基づいて順序立てて紐解こうとしたときに導かれる人間理性にとっての道具的規則でしかなくて、自然の有している莫大な知性を網羅できるほど全能の概念ではない。何匹も産まれきては漁師に捌かれる蟹の子は、人々の舌やその美食眼を充たす目的を意図して磯や沢を戯れるのではないとしても、我々の注意深い観察力がその甲殻類に特異な形態や個別の種が夫々に微妙な生育条件の違いから形質の変異を伴うという事実を捉えるなら、どうして美味を好まない民族集団ではその一々の活きのよさを一目で見分けられるだろう。ズワイガニとタラバガニを異ならせている深因は又、観察力にも変異を設けた自然の互恵性に依る。要するに一般に信じられているより遥かに、自然の合目的性は変化に対して寛容なのである。この素晴らしい変化の法則がなければ、化学的組成であれ単純な幾つかの原理を基にした宇宙の隅々までを、更に相異ならせる多様化の仕組みは築けない。多様性に対する信頼は自由という理念の法則からさえ個別的な変異としての個性を保存か擁護させる人間なりの変化の法として盛んに取り立たされる近代固有の概念であるけれど、同時にその奥行きは汎神論というときどき宗教段階に現れる思想上の溜まりを唯一回性の概念との対比によって修正させるだけ果てしない。山奥で誰からも省みられることなく神々しい荘厳な落水を打ち続けている大きな大きな滝壺は、観察者の有無にも係わらずやはり極めて厳かな住みかとしてそこに生じている。人が住まずとも深い清流に潜むヤマメや岩蔭でじっと瀧の音を聴いて座すイワナが、草蕨の生え揃う霧たちこめた渓谷を飛び交うキジや吹き荒ぶ冷ややかな風に揺れ仕切る蓑虫がその冷気を供えていく。では、都市という固有の適所のみに住み着いている限り人が俗物さより峻厳さを身につけるのにはおそらく彼らよりも環境誘因に不足するであろう。人間的美はその世間単位の淘汰では決して、人間らしさの強調以外の変化を辿り得ないだろう。
 同様に、あつまりは新規な隠れがを見つけ出すのに必要最小の単位であって、このあつまりが群れやひとりよりも有利なのは日々生じている自然界の数限りない場所柄を変化を通じた習性と選好の世代間集積によって占め治すといった適応放散について、今までのどの血統よりも気高い生態を羽含む為の最適者の条件たることに等しいと思える。