世界は呆れる程広いので、優れた賢人を活かさずに劣悪な境遇に押し込めておき、代わりに醜悪窮まる娼婦を溢れる大金と共に厚遇している本性の歪んだ民族がどこかに居たとしても笑い事にすらなりえまい。
優れた判断で次々に賢者の血統を選良している紳士集団は当然、これらを同一の遺伝子を含む人類の末路とも感じない。
この様な奇形民族に属する場合、人は進んで殉死するか、又は亡命する以外では宿世の救済ということも決してありえないであろう。
辛抱強い説得と啓蒙が民族の本性をいつかは叩き直すと信じる者は自然淘汰の法則が如何に広域に渡って奇種変種を絶滅させて来たか、至誠なる神がごく僅かな隙間を除けば、なんら跡を残さないほどいかに厳密に遺伝的系統上でそれらの変形を切り捨て、全体の進化を整理整頓させて来たかを省みよ。
我々にとり確実な真実として、浅ましき東京および京都人種へは少なくとも「淘汰する」という積極的な社会還元が相応しいのである。これには倫理学上の根拠として、血統の剪定という名目が与えられるであろう。
――海外から渡航してきた正しい血筋の若き旅人へ聖書ならぬ“源氏物語”などという皇族猥談集を市長が臆面もなく勧む。トルコ風呂などと銘打った異様な頽廃の風俗を気違いじみた理性の変性にかえりみて護っておきたいが為にソープランド等と名を代えさせた中央政府ありし。
キリストが色目の在りかすら不徳とした真っ当な理由を永久に、この劣悪な奇形人種は理解も共感もできないに違いない。民族全体の実践的な理性状態を任じるべき政府の程度がそうなので、生れつき文明人と同等の理性という特徴を持つには不足する人種も、この地表にはやはり悲しくも存在しうるのではないかとまで思わせる。
それら野蛮品種の血統を繁殖禁止のため徐々に隔離する以外の方法では永遠に、生まれながら良心に劣った種集団の汚れた血が地球内、どこそこへ感染するのも避けられまい。まるで治癒不能な伝染病の様に。
――或いはこれが危険思想だ、狂信だ熱狂だ、ナチズムだと批判する者も(理性に悖る奇形人種の実質的集合である京都か東京の特定一族には)あろう。だが私としても容易に肯首し難い檄論なのだが、今日まで至る人類学上の冷徹な理性的反省力で今後の人類間風俗の改良をおもいみる限りでは、その様なほとんど『物哀しい結論』を引き出すしかなかったのである。
業というものは厳密に宿命を支配するのだから、我々には全滅待望の志だけでも十分すぎるほどと思われもしようが、寧ろそれらの穢多人種が一刻も早く地表から消滅する方が美観の面からも、倫理風紀の面からもやはりより望ましいものではある筈だから、東京および京都人種という野蛮な血統への具体的な聖戦は人道の正義にきっと叶うと思えるのだ。
いうまでもなく常識的法律や国連憲章の人権宣言はこの聖戦を「和平的な闘争」以外の領域では許可しない。
我々は性根の歪んだ野蛮人、東京人らと京都人らを最大の悪徳を地球中にばら撒く悪魔血族であると専ら任意に見なして、それら国民にとって獅子身中の虫なるものどもを可能な限り巧妙な殲滅戦争で文明の高徳と高潔を信じるこの惑星の人間界から退治、亡ぼさねばなるまい。
もし、それは徹底した人格批判によって東京人種と京都人種とを人類内の穢多品種として定義する工夫次第であろう。実際「小子、鼓を鳴らして之を攻めて可なり」と孔子が云う様に、悪行の憶えがある人間にとってはどれほどの被迫害でも絶対に反論する事ができない。その因果は自業自得なのである。(唯一の改心はこころの底から反省の意を述べて神の前で懺悔することで果たされる。)
そしてこの試みが人類内のどこでもあまねく成功すれば、社会淘汰の当然の流れに従って、罪悪感や羞恥心の存在しない退化した理性の持ち主である特有の東京・京都人種というものは各種の文化圏から駆除ないし排除される事で、漸次にそれらの汚れた繁殖流路を立ち消えさせる事も可能だろう。
――正統の世界宗教はどれも姦淫を生業とする悪人を一度も擁護していない。「なぜ日本の首都に限ってはいつも退廃風俗が蔓延するのであろうか」。ならば必ずその中心に鎮座しながら堕落の連綿をのみ絶好の適所として悠々と生き延びている悪魔の王もひとりでに地表から居場所をなくしてしまうだろう。
この最果ての地にさえも清教徒精神の尊さが根付くというならその結末は当然の応報として、民族の良心を税金搾取の為おおやけへかこつけた利己心から永年痛ましめてきた傀儡的偶像、悪魔の親玉を合法的かつ冷静に追放か改宗させる議決征圧的な名誉革命に至る筈である。