2009年5月8日

自然の原理

直観的な把握は無用ではない。又それは論理と齟齬するとも限らない。世界と呼ぶ体制が直観的にのみ第一に現れるのは偶然ではなく、人知は感覚を使ってしか環境情報を認識できない。蝶は触覚を用いて蜜を求め、犬は聴覚や嗅覚を通じて仲間と群れ集い或いは餌を探り当て環境を自己秩序化へ使う。自然概念を含む理念的世界は直観から得られた素材を加工してなりたつ。もしこれらが真なら、直観を研ぎ澄ます為に尚更、理念界は役立つ。 芸術の巧妙さが季節風土にあって最たる特産形質であるのなら、感覚を冴え渡らせることは他の気候にあってよりずっと、かれら国風の焦点と成り易い。えりすぐりの感性はもし最大の理知を背景に持てば、その感情表象をほかの如何なる気候風土にあってよりも更に微妙な趣を採らせるだろう。
 かれらにとってすれば学問の強調や政治経済的保護はいわばこの感覚の芸術化の養生にとっての親切さなのである。たしかに芸術性の過剰評価は決してそれ自体が普遍化への唯一の道ではない。そして学問と政経の状況がわるければ、季節人の写す作風はかならずしも最美ともいえなくなるだろう。だが特徴の強調はつねに自然界が命じている適応放散の、散乱と淘汰との原理であって、花散る効果は一層のこと精選された世界を生じさせるのには欠かせぬ生物観の総体である筈だ。紫陽花は向日葵より劣る華なのではなく、単に適した時や土壌が違うのである。地方文化も斯くの如くだろう。