2009年5月10日

建築哲学

古い建築物が我々を屡々極度に落ち着かせ、深く感心させるのは経年優化という作庭手法の上手さに関わらずそれらが時代の淘汰を承けてなお生き残ってきた希少性の起源が、絶妙さにあるからだろう。実際、経済学の理論は新しさを器の用件として当然視する。『書経』(盤庚の上)にある様に、古人も道具は新しい方が良いとみとめていた。先端工学は日々更新されるので設備と機能の面はほぼ絶対に新品の方が良い。そうならなければ製作者がモデルチェンジする筈がないのだから。
 骨董収集は老子でいう「無用の用」を日常の器へまで応用か越権した習性であって、旧体字を趣味とするのは自由だが便利さの前では実用主義の側に勝利を認めざるを得ない。汚いという言葉が未整理の事物の前で思い浮かぶとすれば、その理想は恒に使いづらさの自覚の上に、したがって改良可塑性の中にある。建築物に限っては他の容器とは別格の美術性が古風のなかに見つけられるとして、その本質は用途を超越した理念の表象にあると思える。そこにある絶妙さは風土または風景のなかにあるもので、単独の意図としての個別的土地定着物の建設を超えて自然の形を作りかえて漸く露にされた構造形態らしい。もし古典建築と称される建造物に特別な審美性が存在するのなら、既に風化してしまった用途の為にではなく、それが有する歴史的構造が我々の想像力を励起するが為にだろう。つまり、建造物の史的本質は構造形態の側が持つのであって、機能設備がではない。
 建築物の絶妙さはたくみさそのものの中にあって、時の経過にも変わりなく人造基盤を保っている建築者の設計意図の的確さを第三の自然へ投影できる為に生じる。我々が道具視できる用器は代替可能な人工物の趣を免れないが、既に文化へ定着したこの種の建造物は絶対唯一な風景の一部となっており、万が一崩れるようなことがあれば急いで後生の人間たちはできるかぎり元通りに建て直すのである。建築する者の誠心誠意さ、有する精神の高貴が際立つ程その意図する理念は時代をのりこえる趣を取る。掛け替えの効かなさは総合美術としての完成度に由来しているので、芸術作品一般がそうであるように近似的模倣つまり複製はできても完璧な再現はできない。唯一個であるという性質は極めて微妙な判断の隅々まで染め切った天才的独創性に基づいている。だから建築家ないし棟梁、建主の名義が科せられるという作品性は、頻繁にスクラップ&ビルドされる仮設の上ならいざ知らず、人目を引かずには置かないまことに珍しい歴史的建造物に限っては相応に適当なのである。
 そして工学的な芸術を創造神学の結果であると定義すれば、神の建築計画が第三の自然を貫いている根拠はこの唯一回性にあると云える。故にその本質は比類なき崇高と一致するだろう。