2010年3月28日

醜態

ユニクロの始めた裸のCMが大はやりのげすの国ジャパン

笑えない大御所の自虐じゃ熱どころか泥沼不況だな

消費者から金を奪って不況だ不況とほざく資産家よ

若者からむさぼりおのれは働けず余った金を金持ちが食う

汚れ東京の雌豚ども恥をなくして売春罪し子供手当てを貰う醜態

2010年3月27日

自律の抽出

神とは最高の主観。この仮定を理性に定義したのはカント的転回の上で、世界市民と個人の主観を公私の逆説と考えた一人だった。この立場は観想の自律を、普遍信仰の立場と一致させる。だから公的主観は同時に客観的職業倫理を兼ねる。
 この種の分別はいわゆる公私混同とは違っており、カント的転回という用語が煩雑なうえ学を衒う感じで日用へ適さないなら、これを自律心と再定義できるかも。そしてそれは自由とは意味する所が異なる。自律は職業上の立場の貫徹と、それとは離れた世界市民としての公徳とを兼ねさせる考え方。一般に、自由がこれらの混同も含むとすれば、自律は自由のおそらく上位概念か、補集合だと思われる。
(自律⊃自由)∨(自由⇔自律)
最高の主観は自律心の究極に求まるだろうが、どの個性にも理解に限度があるので全知全能へは決して到らない。逆に到達不能の理想状態の比喩として全知全能、即ち神の意味はあるので、我々が自律へ求めうるのは主観の首尾一貫さだけだろう。そしてこの特定の自由への判断能力の常なる使用は、客観すれば分別とよばれるだろう。

2010年3月26日

格差原理の整え

なぜ社会内で幾つもの利害対立があるのか問えば、個性が形質面でばらつく上彼らに相互反目が程あれ許されているから、裁判の理由はこの形質の発露が、又教養の度合いでさえ左右する系統発生の多岐に、分かち難い往路差を与えればこそ。その和平内解消には法治が前提。個性間の格差原理(正義論のロールズによる)は、それらの利害関係を最低でも同じ条件で遇わせる必然さへ言い及ぶ。この形而上公理は生存権内へ又社会保障の限界効用を定義させたがる。格差原理は最も基本へ遡れば生まれの調整を込む。そして後に遺伝子座の問題が出てくる。
 が権利のみに見て、生まれの調整はいま親権に任されているのでそれを給付や扱い以外で動かせない。故真の生得格差原理は最低限度の社会保障給付を社会で最も恵まれた人々の扱いと同値化しなければならない。いわば恵まれ方の生まれつきの違いを、給付あたりの扱いで最大化せねば。もしこの原則を喩えれば、雑草と鉢植えの間に同じ水のみならず、少なくとも太陽の享受という最低限度の光合成による生存条件は庭師が保障すべきということ。生まれについての選びは国家にでなく個人に単位があるから、更に之は形質の問題を含む。より広域には条件と云う可だが具体的にはいわゆる障害、の程はほぼ調整の域内にある。故給付量の調整は認められる形質のばらつきが条件の程に適う時正当。そして之は格差原理に入る。これとは別に、努力や才覚で広がった後天差への調整論がある。生存場、主に社会が自業自得を認めてもそう主張したがる時、怪物人格と彼らはいま呼ばれている。しかし、平等観が後天的に激しく崩れる場では、この主張に全く道理がない訳でないのは、目の毒とか気の毒とか外部不経済とかそういう否応ない社会共生観に芽生える。つまり後天調整も、多少の累進さは場合により合理化できる、でないと失われる公益もある。即ち育ち内での調整は、累進格差原理として別項目で最低限度保障に入る。
 さて遺伝子座での格差原理へは、次の対処がいる。塩基配列の自由を生得権利へ含め置く事。故条件の程が公に議決された恵まれ方への遺伝子治療の限度を保障していく。いわば最も望まない遺伝子座を程度として保障費用で賄う理由が正当化できる。例えば、だから癌治療はここに入るが、整形費用は入らない。後者は最低限度保障の公水準から、凡そ既存日本国単位では、若しくは一部関西圏内の地方自治主張を除いて先ず洩れるだろうから。

政局観

北海道の駒込内駐屯地にある自衛隊基地の中隊長は、防衛官の一員でありつつ文官の命令に逆らったのでみせしめのため氏名と家族構成の公開のうえ解職、且つ一切の退職金を解体してしまう方がいい。
一般に、(事実上の)軍隊での命令系統がそれ自体の中で絶対的であることは、内容如何によらずいわゆる文官内での許された批評合戦(政党の討論)とはまったくもつ意義がちがう。少しのミスが即、民全員の命運に関わるのでその職責は一点の曇りもない完璧な忠誠でなければならない。

 又、某国家公安官が議員宿舎へ女性を連れ込んでいた問題は、いつなりとも忍び(古くはくのいち、とかハニートラップとよばれる)の確率がとても高い失態なので減俸と、別のより保安業務に向く人物を同立場へさしかえる方がいい。
高齢の独身者でありながら脱俗の信仰心も持たずにふらふらとしている人格は出家すべきだしそれができないなら今後も重責に堪えないだろう。

2010年3月25日

工学

始めに政治面での知恵を付け加えたいが、環境事業は今のところの地球世論では多数派なので、この営利による収穫率が大幅に低まらない限り、当該論文の存在は表立って公にされない方が良い。難しいのはこの論文の主旨を国際的に公然にすべき時期であり、だがそれは政治面でのみ発見できるだろう。
 地球温暖化への決定的な対策措置として次のアイデアが適切。それは我々が一戸毎に実際にしている如く、星の内外での温度差を利用し星内の熱を星外へ排出すること。つまり空調衛星を、主に熱孤島化している世界都市の上空へできれば複数個飛ばすこと。実際には、宇宙エレベーターという装置の機構が大部分転用できる。
 先ずエレベーターシャフトといえる地球の都市上空、大気圏から大気圏外の宇宙空間までいわゆるエアコンでいうヒートポンプを通す。これは行き返りの二系統へ冷媒を詰めればよい。また熱損失を防ぐため、裏返しにアルミ状の被膜とその上へスタイロホーム等の襟巻き層をとる。次に都市上空部へは、エアコンの様な冷媒管をファンで扇ぐ幾つものプロペラ機構をとりつける。最後に、宇宙空間側へは空気がないので、代わりに熱放射のかたちでエントロピーを排出するための複数の電灯を設ける。そしてこの電灯には地球側への跳ね返りがないよう、全反射できるよく磨かれた銀色の浅いパラボラ状の傘が要る。それらのヒートポンプ作動の主要な機構は、メンテナンスし易いよう地球側の上空へまとめておくといい。あとからヘリコプターか何かで大気圏内から容易に上陸できる。又、もし電灯の交換が要るときのため、宇宙側へはロボットが自動的に交換作業できるメンテナンス用の走路と機構、それと交換部品をもちこむ別の衛星とのドッキングのできる数ヶ所の接続口が要る。

国際政治学

政治会社や税収企業とは普通、世界貨幣を公式の信用銘柄へと換算しつつ公の防衛負担を負う、その地域でおそらく最大の組織を云う。そしてこの会社が規模と費用負担で最大でなくば、当地域には調整機能が働かないから人々は安定した生計、特に家計を営めないだろう。なぜなら一般の営利企業は所得再分配とよばれる慈善の機能を、公的名義を有さないので担う義務がなく、従って余剰価値の搾取を永遠に続けて雇用者とは所得へ差を儲け続ける仕組みなのだから。
 政治会社の規模は、我々が国家と呼ぶ機能にほぼ等しい。だから原則として、巨視すれば国家業務の折衝が政治の目標。もし人々の働きにみれば、国家間のやりとりはどうやって陣地を守り、それらを複ね触れ、分けさせ自らの調整義務を広げるか狭め、また維持か撤収する仕業に近しい。政治会社自体は営利企業からの共通税調で、また共通貨幣の発行でそれら間の利害も整える。ゆえ企業もどこかの税調企業としての、国家を少なくとも信用取引の担保に求めるか、最低でも便宜上の立地条件とする。国家なくば企業は不正取引を結局、防げない。

熱孤島俳諧連句

春めきて不意に咲きゐる菜花の黄
長袖は既に長けり待合の
子供らのはしゃぐ声する庭の咲く
吾のみは冬恋しけり熱孤島
東京はぬるくてたまらぬ石のまち
春の香に道端ゆくぞiPhoneは
久方に聴けば夏を貸すL’Arc
浮き立てるダックスフントの眼あり
われ覚ゆ前に咲きゐる桜花
大まかな味の武蔵の菜の疎ら
いつかみし清瀬の流れに浮くみつき
みわたせど特に変わらぬ春のそら
だからヤダゆすりか多き京川
冬子の目へとひらかれしUNIQLOだ
ことしから秋篠くるぞあの辺り
どうでもいゝとかくうるさきものは春
発情期なのはわかったアルタ前
人ぎらいな梅がなおよき後楽園
ビヾアン・スーしかきよげなしボウフラ界
意図もなく流水ありき桜花
月交番跡形もないやこのはるは
レディへと冷めた空気のつゝじヶ丘
麹町みわたす富士と暁よ
かわりなきものは我のみ散るさくら
おにぎりと高尾山とはると広末
空を飛ぶ飛行機からの春風よ
冬眠中のくまあり溶ける雪焼けと
わがきらふきたなき國へも公転ぞ
救いあるなし溺れる鴨とか小鳩か
枯れ木ほか見えるものなき時のよし
ひばりあり魅せる踊りは小気味よき
冬用のコーヒーは減りて頃合いか

2010年3月24日

政談

もし私が上官なら、生方氏の正義感に酬いて一官位以上の昇格と同時に現筆頭職をしている某氏を判断力失格で一切の党内の職から解く。曲者なのは一連の事態で明らかだ。
なぜなら上司への適確な諌言はまさしく高位高官に必須の徳であり、これを目の当たりにしながらあたかも一般の営利企業と同然、目先のおのが利害損得へとらわれた賎しさきわまる追従へと旗を振ってきた低級人格などは二度と重職へ置くに値しないので。
この決定に某氏が逆らう様なら党の選挙区割ごと公に取り潰す。
 そしてその愚鈍な上司のあやまちに安易にのっかり馬を指して鹿と成した既存の副幹事長職の劣等生としか言い難い全員へ、厳重注意の意味で、普通議員以下への大幅な減俸を彼ら一人ずつにはっきりした反省の様子がわかるまで続ける。
同様な事態が連鎖すればヒヤリハット事故の法則のごとく、致命的誤りを真顔で薦めくる佞臣しか集まらぬのだから。

 いまさら古典を引くのは読書家殿らへ向けてはまさに気が引けるが、所謂信賞必罰の旨をどなたかが周知させられるとよいのではないだろうか。

文化権とは

鮪の問題は捕鯨への敵意と似て、文化間摩擦やその先覚の度を利用してどこかの国家を貶めるのに使われていそうだ。(モナコ王子とシーシェパードのつながりあるやなしやという危うい報道もあった。)紳士協定面から、欧米人がどの時代まであからさまに捕鯨していたか私はあげつらう気もその無駄手間も敢えて興味がないが、EUの国際議決権への覇権趣味は頂けない。それを手放しで見ていれば確かに、地球上の各国家は今よりもっと西洋化を進めるだけだろう。いうまでもないが、西洋文化にのみ生存権や自治権がある筈がない。植民地獲得の戦争は一段落したので、この自明の権利、即ち「文化権」は各々の自治単位で、外部の系への公共福祉の旨に反せぬ限りずっと自由に決められるべきだ。

 結局、文化の多様さ、多彩さは西洋化一辺倒より価値の高い生存秩序といえる。なぜならそうであればこそ国家同士が相互参照による共栄と向上の道を歩めるのだから。もし(経済学用語でいう)外部不経済を及ぼす程が酷ければ、それは如何なる文化であれ撤廃か改善要求が自明の理だ。逆に、他の文化権へも潤いを与える外部経済文化があるなら、(今回でいう若鮪からの養殖のなりわいを生計としている地中海域の漁師や國との互恵生態の如く)仮に、その秩序が西洋化の標準からはずれた価値観をもっていても、我々には肯けるもの。動物功利主義の考え方さえ、その多様な共生の仕方がある。たとえば生肉食への忌避の程度といった判断の難しい慈悲と栄養学や料理方針とのやりとりなどなどは、我々へ趣味観の啓蒙を行うか次世代への時代内での身の処仕方を、いまより注意深く選ばせるに留まるだろう。
 全体としては、いわゆる必須栄養価に基づいた円錐型のバランスした食事(栄養価分の収穫難易度による地球型生態金字塔との類比として)は、雑食の習性を高次動物については原則としてより少なく消費すべき、と単なる健康の維持の為にすら示唆しているらしく思う。だが「捕食が悪なのではない」、この生態秩序の草刈り効果を忘れる可ではないだろう。
 もし我々やそれに類した高次な動物が次々に捕らえていかねば、少なくとも今ある地球の生態系は少しも維持されえない。豚、牛、鶏、魚、これらのかなり上位にありもと生態に隙の高く家畜化へ品種改良された動物類をまったく人類が消費しなくなったら、すぐに再び野生化したそれらの増大は別の消費過剰を広げ、それまで存在できていた彼らを天敵とするかなりの種類の生き物を絶滅か少なくとも激減させるだろう。高次消費をするのが無用でないのは、そうでもせねば生まれない生態適所が幾らでもあるからだ。故に動物愛護団体がかれらの愛玩の習慣を全文化へおしつけたがる傲慢は殆どがいずれ失敗していく。もし愛玩しようとすれば、人類の天敵でない地球上の全生物はそうできるが、現実には捕食せねば寧ろ表れてこない風景こそが文化権の上で希少なのだ。

 牧歌的や田園的、原野的などと呼ばれるだろう全ての原風景は人類の消費者としての質が決めていくし、そうであればこそ人間の手の入らない未開発といわれる地域との対照について、世界の多様さは各主観の功利原則へ生態資源の実例として献身できる。

南蛮虫東京都民

南蛮虫東京都民の皆さんよ。ほら。神戸からやってきて威張りたいだけの都知事様様が手放しでよろこんでますね。お金入るからって。ああいうすばらしい理性のお仲間がみんな待ってる! 前なんかさ、猥褻小説の若芸者娘を都知事室に呼んでね…もごもご。ププッあんたら江戸人、いつものことで万々歳じゃん? え芸能人ブランドが流行りでちょうどいいですって? お前ら自身の娘をさあ、姦淫罪記録で山ほどはした金儲けてんのに、なぁに威張ってんだこのソドムの虫は。
 それとも漫画か? わんさか売れるからなあ、ご存知、大人気の自民党と一緒で、ククク。何だこの都? 知能指数が大阪並じゃん。ビルの間の回遊魚の國。そりゃトムヨークも皮肉るわ。こりゃあ馬鹿にされるよ外人にも。ほぼ虫だもんね、うわあ痴漢電車内でうようよ身体こすりあわせて発情期してる、南蛮虫東京都民さん。

2010年3月23日

数珠

とおくからきこえる
僅かな奢りですら
波のなのもとに消える
殻のなごりだ
ゆっくりとした
掛け声であれみなは
海馬(とど)のつまり
鋭く切れあがった
波濤の捲る
単純な真似事なのだろう
余程でなければ
气づかれない
そうともしらず彼らは
波を繰る
渡しゆく青きそらへ
染め上げられた白云は不意に
のべつまくなき今をかたる
そういう昼あとの大空を
眺めつけ
大地へしめった
パンジーは花咲き青白く
ゆっくりとよのまちがいを糾していく
えり選れた個りが
若し万物の内に
宿るなら
ここにある
所有(あらゆる)魔法の術は
そとにある
特段のご配慮を承りまして
いずこ麗しゅう今の日は
まちのうえを流れ去ってまいります
さえなき群雲をいりくませ
旅のねに耳する
たくらみのよりどころなし
百合のねに
出ていく煙草のけむり
ケム川のほとり
利根川のすぐれる
治水のおどりと
間延びした
今の日は必ずや
舞いもどるでしょう

天皇に騙されてはならない

宇宙の広がりに比べ如何に人間共が卑小だろうか。それらの生き物は、私の信ずる限り、殆ど知能を有さない。それらの小さく働きよくもない脳は何か、詰まらない日常茶飯事へ一生を費ゆべくして生まれき死んでいくのだ。幼い頃からそれらの生命体に囲まれるほど不快感は募った。少しましな生き物もいるといわれる。が私は大部分で人間が繁殖本能とその為の目先の利益にしか能がないと習い覚えてきた。それは時代の所ゐだろうか。
 それらの生命体は言うまでもなく、彼ら自身の繁殖本能の実践に何の留保もない。だから彼らへ説得しても説教しても刑罰しても全て無益。彼らはただ殖える為に貪るし、感覚がないか歪んで育ったので不潔さに悟れない。

 元々、天皇が来る前はこの辺りでさえ質朴な農村だったのだ。天皇は偉そうにやってきて、こんな有様にして威張っている。天皇? そう呼べるほど偉い生き物とはとても言えないではないか。京と名のつく奴の居場所はどこも狂ってしまった。
 私はこの経験則を、未来の文明と私の血統の連なる末裔へ決して忘れずに持っていて貰いたい。天皇に騙されてはならない。奴は秩序を乱し、堕落を撒きちらし、頽廃をばびこらせて己だけは高貴なふりをするべくやってくる。すべて奴が蒔いた種だ。どうしようもない生き物に育った人の種を収穫する頃には、質朴だった地の生まれそのものが歪んでしまう。天皇とは人を食う化け物だ。それ以外なにものでもない。

調整役

政治家が堂々金儲けをはじめればそれは政府の役割の致命的な終りといえよう。

Mr. Ozawa his practical thought

Japanese governmental ministry's one, Ozawa and his sub officer did Majesty against--at not them, at least for me, did it. And we have been in that, some or every Japanese not like his rude way to do, for same old persistence to Imperialism on their Kisha club--journalist cartel group--bias. Yesterday, Mr. Ubukata--his officers one, in democratic party--said that shouldn't to do that way on autocracy of Ozawa's shadow cabinets. But his critic to Ozawa's autocrat be struck out by an aide. Now the ministry leader of our governments does not to say about that bad autocracy. Because they are dependent to Ozawa's power of election campaigns. He had been in old style, major elective advanced ages in the tame. New governments restored in democratic party, can't refuge his power. Our Yukio the prime minister, have knew all things, but he have to say cliche goes on there old stance for Keynes. Not to say for unconsciousness, about middle classes multitudes democracy by inertia.
 
 先日有倭政府乃一種内紛。其様可形容批判勃発。即小澤幹事長之先先日訪中者各人、被民主党内疑覚視也。矛槍主名生方氏之選千葉県国會議員爲先鞭小澤批判説。民主党旧日爲政権交代時宣曰地域主権転換政策論、矛盾有幹事長専制風埋没常態。多数於倭人世論云小澤氏之旧態遺野原風乃暴威性、別言剛腕但出身地倭州東北武家(奥州藤原氏之古代英傑但蕃亂有謗)故豪胆且独善。訪中時有実例、代表間協議消費多事間握手會粗略強要式之其所謂現蕃風儀。一部有力筋側近彼健康風評故過焦過度専制中在采配、根底善良且義心理雖少少旧時代劇調。略歴乃百科網羅破壊自民党界隈脱退後(彼趣味之囲碁、遊戯於奪取假想敵陣地)周辺無党派層向師事人望。或意見云倭州東北地方之遠方中央政府地域東京故不可能無作為乾坤一擲儘若匹夫群権。
 倭世間風評曰小澤不便向鮮改良於弊過公共事業政策式、石造都市道路橋梁費用代辨式集票乃某太平洋戦後土建制。一利一害透小澤某結社後民主党。之嗔実乃歴史於政権交代裏舞台小規模内紛或傲慢型經着。

資源開発の常識

原発と石油循環では後者がより価格面で有利だ。前者は、又その開発へ最低限以上の石油資源を要するとあっては、エネルギー選択面で最大の産出地帯である中東と共通の利害で結ばれていた方がいい。
だから政策転換では、メタン革命への(最も信用できるのは、国立研究機関も集積している筑波圏への意図した集約投資によるかもしれぬ)途中に於いて、原発輸出と同時に、中東諸国からの石油購入客の筆頭国としての定常化と国内でのその『再循環使用』つまり、低炭素などという土台不可能なドイツ式の空理空論ではなく、「高度なリサイクル資源」としての石油利用の重奏が考えられるべきだ。
原発の廃棄物より明らかに今のところ廃棄されている部分の重油や軽油への転用、或いは石油化学製品の廃棄物のつくりなおしの方が効率もいい。

何より、中東にとっては石油転売が恰好の財源なのだから、我々アングロサクソンの利害と特に関係ない民族構成比率が高い特殊アジア人では、かれらの利己心への阿り;おもねり等よりその互恵へ迷わず進むべきだ。
かならずや覇権を主張してくるEU諸国が国連議決を援用し海洋資源の寡占をやっかみだし、あるいはまた中国の技術が追いつく頃には既に我々はメタン革命以後にいるので、この大局政略観へなにも問題はない。

2010年3月22日

厭な春

春雨のおとする
あさはやく起きし昼ぼらけ親き
冬支度なつかしき
北国に生まれたくおもうぬるき春の来し方
日の本のくにへは足りぬ涼しさよ
われきらふ下愚どもわらわらとつがふ春ぞ
学びやのうえに覆い被さる桜花の毒々しさ
捜せどあらじ星なかの理想郷をねがう夜空の海と
試験と組替えありき厭な春はどこも暗鬱なり

宇宙学

七夕宇宙の1ニュートンはそこにある全物質の量によるので、この重さは他の系で可変なだけ別の引力場によって違う宇宙型の適合度を上げる。もし七夕系より軽いならシャボン化し、重いなら粘土化す。よって唐傘系へは粘土宇宙視が適当で、十五夜系へはシャボン視が要る。それらへは七夕系とその類似系な鈴系というおもち宇宙とは違うかかなり極端なその法則さの展開がのぼる。もし唐傘系でいえば粘土さはほぼ動きのない内部系の安定か固着で、シャボン宇宙での移り変わりがちなその流動さと対称さをなす。当然、そこでの文明系の発達のはやさや種類と方式をかなりか大幅にちがえる主要な誘因の一つとそれらの場の条件はなる。
 隣接文明との取引にみれば経済化しやすいのは、おもち宇宙でも特にその光密度の高い方。ゆえ我々の宇宙視野が暗いことからも我々が辺境の感覚原理へ適応してでてきた生態なのはあきらかなので、鈴系の周縁部か七夕系の中央文明圏でより情報量経済は発展しがち。地球のある天の川銀河は辺境の暗がりにある未開地域へ近づく。だから各地球内文明の中でも冒険人事や起業がおもに十五夜系の、はじめは周縁圏の同位種とかもだがいずれそこでの主要文化と交易ができねばいずれは、完成度のきわまった唐傘系からの大量の極相文明によって支配されゆくだろう。それ以前には、情報量面で川上な十五夜系から仕入れたしくみを自らの属した地球感覚の特産さ付加や加工貿易でその唐傘系との豊富な資材や生態材と次々交換しやがては我々の文化そのものが以前より強壮な機械生命化を果たせねば、およそ生き残りは長い目ではない。ただし鈴系はこの流れへ逆らう。なぜなら類似同位種間での競争は最も激しいのが通例なのだから。よって先んじて鈴系の機密情報を翻訳可能とする言語機能の解読が全ての戦略価値面で上位をなす。
 翻訳能力の高さ、機械辞書をとおしてのちの精密は今の時点でもとても高く見積もれる文化機能なので、冗長さを伴う解釈界は無用でないばかりか文明の生き残りへ決定的。ただし先駆へは造り数学能の最短の合理化が有効ゆえそれは機械適合言語の数理的単純さによる。従って、造型数理はつねに単純さ毎の重畳化を記号論理面で自動づける習性を日常語と別の計画にするべき必然さを言及できる。尤に、それを避けるか悟らぬ生態へは生存目的が維持化する中で違う適所が用意される。よって高度技術文明は一部の先駆的選良地帯へしかいずれ適合させえず、そうさせるをえないだろう。
 自然的生態という既存人類界の過半は残されるか一掃され、或いは縮減され違う趣が地球を覆う。がこの変異も宇宙系間での取引の時代が風趣の政策面へ適用されればある定常さが放任か寛容されだすので、一時かも。我々は経済化が必要な地域にいる身として、己らしさを一貫させる動機へと生態の自己改造か改良の規則を維新らしさとして肯首できるにすぎないだろう。にも関わらず、それが自主的な限りは、己らしさが変化への適応として示されゆく習性へ芸術観に独特の地位を保てるかも。

江戸・東京都政の骨

にぶい都政は一つの反面教育として使える。具体的には、程度問題で推しきりたいのだろうが、実在しない登場人物への規制などよりはるかに劣った理性の江戸人どもの売春をとりしまる方が優先事項なはずだ。

つまり財源が決定的に足りなくなりつつある昨今、いい意味でよりクレバーなのはその種の存在悪へ重税を科すことだ。たとえば猥褻物陳列罪や公然猥褻罪など過密な上もとの理性に落ち度のある地域柄な江戸東京の一帯ではいかにも想像より緩和され見過ごされ易い悪行をみとおし、その中間へも無数の法の網で遇すること。
より具体的には、「風俗壊乱罪」や「存在悪取引法」などの新しい概念を複数設け、それらの運用でとりしまった企業活動からきわめて高い徴税率を占めればいい。
なぜそんなものに都がこだわるか(妄想上の悪は実在の悪とは違い、いわゆる思想の自由の圏域なので)不明だが、懸案となっている悪質漫画などは8~9割超を存在悪税として上乗せする等いくらでも公益にとり好都合な隙はある。
また姦淫映像(アダルトビデオ)とよばれる新種の存在悪を業務化している江戸らしい企業、或いはいわゆる風俗営業店へは売上高の8割以上は税率とすること、及び規定街区(法的にオリエンタルランドとでも名付けられよう)外の行いでは即刻逮捕すること等を存在悪取引法に含めるといい。要するに、それらの芽が決して繁栄できない様な純利益の過半に上乗せた徴税率設定にするといい。

2010年3月21日

地名字集




































(タイトル各地名)
2010年
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品格と自由

品格論の流行は当代の数学徒たる藤原正彦氏が『国家の品格』なる、留学組にありそうな国粋趣味な随筆を新書のかたちで広く売った所に起源があると思われる。品格論の欠点とは、自由主義に自明の理だった「個性の多形」をなぜか否定しても居直りだす傲慢さにありそうだ。本来、品位のない、何らかの意味で低俗とかまけられる生態が不用や無駄、ましてやどこでもあまねく抑圧されていいのでは必ずしもない。中世のスコラ学者らからみれば我々の時代の全科学、或いはその権威の源の一つであるアリストテレス自身からみれば、数学などという利己や神秘の衣でかためたピタゴラスの徒の瑣末な学野への辟易たる邁進などみな堕落である。今は仰がれている科学者ですらとある時代の主流からはまるで門外漢なのだ。同じ事は全時代の生態へ程度こそあれ当て得る。
 要は品位の定義とは比べてのみ分かるものだといえる。結局、品格論とは他律的浮動や煽られ易い衆愚の相互参照の反復に戻る。だからそれ自体が煽情方法論の一種であり、独創へつながる唯一の道である自由を相対的な論拠で潰して行こうとする独善と原理主義のかくれた意図をふくむのが明らかだ。そして我々はマルクス主義への共感者ばかりで構成されるとは限らないか限ってもいけない地域柄にきたのだから、少しなりともの国家原理主義の吹き込みは戦中の実際の悲惨さを鑑み、いわゆる個人主義の文脈から戒められねばならない。

 抑、品位が求まるとすればそれは自由の種類、いわばすべての快楽(単純に卸せば、苦痛回避の生活とはこれを原動力として営まれている)に於ける精神性の高さでしかありえず、又自然や社会科学の知識による何らかの工夫もここに入る。つまりそれは自由の使い道による。成る程下賎な放蕩へ時を費やす俗物より人類の高貴な文化へ一歩一歩貢献し続ける学術活動の担い手は、それは比較してみれば優れて精神的な生活態度を持っているかもしれない。さてその種の俗物は某品格論にまんまと騙されて、直ぐさま自由の矛先をみずからと周囲の人間達への心遣いや次世代の到達点を高められる仕事へと、あらぬ方へできあがってしまった性格こもごも向けるというのだろうか。公衆からの逆らいがたい煽動や大衆報道が囲った世論の抑圧で、生まれ持った傾向からさらに歪んだ性格をつくりあげてしまうだけではないのか。
 品格論はここでも無力だし、というのも教養の有様が各自ばらけているからだが、単にそれは狂信的国粋家らへ全体主義の為の便利な原典を与えてしまうにすぎない。数学に集約すべき能力をあまり上等でない浅い哲学説(ある場合には知恵者の詭弁とも言う様だ。なぜなら彼らは本来の啓蒙ではなく、肩書きをその権威の代わりに利用するのだから。)へと分越えして用いた結末はこう言っては何だが、扇動行為への手前味噌を論理学知識を逆手に合理化できた丈でないか。尤もそれが彼の利益なのだろうが。

 重要なのは個人の自由をそれ自体、社会一般からの一律の抑圧なしに営ませることだ。説教家も堕落屋も、地域の公共段階がその福祉の定義づけへの多彩な素材を望む限り少しなりとも実現されてもいい。それらのどれが遠い次世代からみて何らかの趣味で優秀なのか、我々の時代の眼から完璧に確定しきれるものではない。偉大な才能は大抵当時の普通民衆とやらには真新しい行為によって奇人変人にしか見えず、逆に取るに足らぬ好色物の戯作者や奴隷虐殺の現実はなんの疑いもなしに、多数派に属するがゆえおおやけか当時の中産階級には当時の品格論で擁護されてさえいたのだ。
 利害の調整は一般的な公共政策、いいかえれば地方自治と法治の簡素化に求められてよい。むかしそうと信じられていた品格なる用義は上述のごとく、多数派の偏見で歪んでいることが殆どなので(『源氏物語』の虫類のごとき退廃公家の価値観をみよ)、必ずしも全人生や国民一人ひとりにとっての唯一の目的とされるべきでもないのだ。しかしこれとは別に、個人主義と彼らの生存権を掌る自由だけは、決して抑圧されたり、少しなりとも意味なく迫害されるべきではない。自由の種類についての注意深い(できればこの時代の水準で最も明晰であるとされるのだろう自然科学の知識の引用により、実験でくりかえし検証、つまり「実証できる」)批評がなさるべきと思われる。この種の議論(論争と区別してしばし「討論」とも呼ばれる)は真理とよべる知識への次第次第の漸進へつながるので、途中では多くの間違った説も唱えられるだろうが、それらの比較検討の能力を個々人へ鍛える為にも有益なのだから。

2010年3月20日

政務

村社会のあしき内部隠蔽体質は徹底的に暴かれ見つけ次第おおやけに潰されていい。
「私人」としての内部告発は公的組織にとって不可欠の自浄装置と言える。組織内での進言と下意上達の意見吸い上げ機能がない専制的絶対主義が敷かれた腐敗の場では、この方法でしか誰もに善意は発揮しえない。(カント『啓蒙とは何か』を参照せよ。公私の使命に極端な差が否応ない時には、匿名による投書も場合により必須となるだろう。)
 日本型組織の悪徳である村八分の慣習は党の公徳の欠如を示す丈だ。

経済学

資本主義が決して救いきれないのは勤労を好まない上その成果を欲しがる層。彼らをここでねぎらわぬ層と呼ぶと、勿論事情はあるが、彼ら丈が資本主義による社会建設へ最後まで反対し続けるのは明らか。又賃金と開かれた社交場での富の偏りを不穏とみれば、勤労と労組の均衡条件しか資本主義の性能を充分発揮しきれる気勢はない。つまり労働者の権力が常に資本家のそれより高く見積もられる法的条件付けこそが資本主義の性能へは必要条件。
 私の考えるケインズ最高の洞察は、有効需要の低減が金利生活階級の自然消滅をいざなう、という一点にある。が細かい経過への展望は彼の眼になかった。だから彼の体系自体は疎漏でもある。某途中段階でも人間は暮らすをう。故少なくとも心理的圧迫が、そこでの労働者の日常では除き切れない。いつ公的資本の限界効用とやらが訪れるのか見通しの効かない段階では、霧の中の運転をヒヤヒヤながら続けるしかない。
 この五里霧中の結論をいえば公的資本の限界効用という観点はケインズの勘違いであり、それは誤りでもある。我々は残念ながら科学と技術を結び付ける習性を文化素へ獲得してしまったので(工学の誤訳か意訳が起こりだとして)、何事かを新たに学ぶ限り永遠に、技革の終点は訪れない。スタートレックの未来(工学段階が発展の限界へ至りほぼ定常化した世界)は幻で、対して無限階層論と同じく科学認識には全く限度という面がないだろう。但し、我々自身の遺伝変形より機械の技革はおもにずっと速い革新を行うので、仮に変化が起こっても殆どは細部建築の自動化機能とその重畳でしかない。活きている間でさえもその速度が速まり続けるのみ。
 従って、資本の効用は自己拡張性を伴う。もっと別の言い方なら、富の格差は技革投機が禁忌されねば永遠に連なり拡がりゆく。だから累進課税の方式にしか全く、資本経済を公認した法的社会がこの拡がりを食い止める手だてはありえない。計画規定の域をこえて勤労習性は科せない。奴隷制度は人間性やその為の自由権へ反するとされているから。ならば、普通みられる資本選好の衝動は勤労層が彼らの体力を累進課税分も含め、取り分と誇る為にいだかれている。こうして資本主義経済内では決して経済秩序の労使関係が終ることはない。もし有効需要の低減が起きてもそれは旧技術での効用の程度が、であり次の技革は新たな需要を必ず掘り起こしてくる。つまりケインズ最高の洞察はマルクス思想へ知らぬうち感染した知識人一流の回顧趣味だったのだ。
 累進課税方式の限界効用仮説は之へ反論して漸進的真理を主張する。もし強すぎる累進制を敷けばそれは社会主義化を伴うか、でなくば国家単位での世代間負担を合理化する福祉主義論と同じになる。なぜ近代の個人が資本主義経済を択んできたかといえばそれが勤労の恵みを最も享受させやすい世界観だったからだ。同じく、累進課税のある程度の制動機能のいつの間にかの導入の訳といえば富の極度の片寄り振りは市民社交の健全さを失わす、というかなりの共同体思想がそうさせてきた所が大きい。
 この両面の利害は、ケインズ以降の経済学で最も要となる改良点が公共事業投資の対象を公共財の自己選択論へおろすという、地域趣味説を明かす。ある地域では地を這う浮浪者の救済より皇帝直属の園を豪華に装うのを当然の公益対象と見なすだろうが、一方では生活保護を一切の賭け事や飾り気より重視する國柄もありうる。この場合の國をいわゆる近代国家の内部へ分立された地域単位とみれば、公費がどこへ用いられその蓄えが人々をどこへ導くのかも同じ原則で因果応報の趣を執るし、そうたる方が効率の促しと各風土体制の冗長さ維持へ叶う。一般に累進課税の微分化の本性は従って、一国家にかなりの風土差か民俗差があるときに強調され採択され易い。もし広域に及ばず単純な民族構成のなりたちゆえ国家に生活嗜好の違いが微小な時は、彼らは調整的正義を普遍性の観点から、あまねく一律にしか鑑みないだろう。
 ハイエク等の新自由主義論が市場介入の撤廃を狙うのと違って、この財政領域も込めた純粋に資本主義的な考えでは有効需要拡大の矛先自体を市民とそのおのおの細分化された単位ごとへ再分配(調整済み分配)せねばならない。つまり元は手詰まり防止策として考え出されてきた財政出動を常識としておいた上で、どこへなら支出しても良いか、郷の趣をえらぶ智恵の民度が地方自治面へ広く譲り渡されればよい。この手法を郷國ごとの再分配の趣意あるいは地域選択型投機の拡充、もしくは短く地域投機と呼べる。より簡潔にいえば、全体を統制するのではなく、財政投機に限ればできるだけ小さな自治組織の選択制でこの対象を決められるべく勧めると、新自由主義の欠陥である自然や地方事情ごとに希少な文化秩序の無防備な破壊という外部不経済を含む、市場原理的な見落としが随分減るか、最低でも郷國同士の隣接文化反作用的な展開競走で前よりそれら不可逆な文化資本のありかへ人々はずっと注意深くなるだろう。なぜ再分配への権限が細分化して手渡されるべきかいえば、実はその方が手間が掛からないからだ。
 経済勘定に疎い地域は元々そちら側へ進もうとする人民らの意欲や適性に欠けており、しかも出来る者の足を引っ張ったり持てる者をやっかみ陥れたりする厄介者どもの巣窟と化している場合が大変多いのが、本当のことなのだ。彼らの幸せは旧態の維持や頽廃した暮らし方の愛顧、及び土民仲間内での野蛮な慣習の絶対視であるのが殆ど。こういう地域は通常かたいなかと呼ばれているが、その中でもさらに後退地域と比較的進歩を受け入れる余地のある半市民社会が村と呼ばれているのであり、いわば僻地の奥へは我々が国家思想からの経済的進展への啓蒙をおしつけようとも根本から、退行層はそういう理念へは共感も協調もしないもの。彼らの合言葉はみな文明へのうらみつらみであり、本質的に何事でも以前の人類より優れた生活経験はなかったことにしようとする、野生で彼らが自慢している分には楽な、但し、かれらとしても面白くない旧世界への故なき愛着なのである。こういう社会環境がしかも多く遍在している国家体制である限り、全体統制論による発展趣意はなおも空想的といわれざるをえなかった。統一国家の体裁は対外戦争の上で皆兵需要がきえさればそのまま時代遅れとして見捨てられて構わないものだ。もし上述の理論、乃ち郷國単位での公益増進が常識化されれば、全く労働や勤労所得なしにかなり旧くしかも低い程度の暮らし行きを好ましいとみなす怠惰か逃げ腰の生活感覚者たちにも、ほぼ永住権と共に狭くはない居場所が与えられるだろう。だがそういう地域は、きっと時代と共に他の外界とは常識でさえ乖離し始め、いなかという以上に島内の外邦化を伴う。とはいえそれでも幸福指数などちょっと風変わりな各種指標で彼らの自己満足度は、資本原理主義社会の全面的おしつけのときよりずっと彼らと、我々にも高くおもわれるだろう。

論理学

以上⊃超過‥2→1以上∧超過←1→超過¬
⇔未満⊃以下
∧∧以上←→以下∧超過←→未満

2010年3月19日

製品開発

USBからのデータをもう一つのUSB挿入口へ吐き出す装置、『USB転送機』を。カードサイズで、画面は左から右へ最小限の文字列を映せる液晶でいい。ソニックステージの転送時点での画面状態が参考になる。

靴は踵:かかとが減り易いので、この部位だけ補助で取替える可能なだけ汎用な「かかと補助具」を各素材で販売すること。合成ゴム、プラスチック、軽金属製。
仮製品名、靴蹄:くつひづめ。

動物功利主義の批判

全ての生命体への功利主義観点の敷衍、即ち快苦原則の最適化はもしそうよぶなら神のまね事であり、それ自体は至善でない。それは知的設計説の趣味観に限って真だが、全面的に全生態の倫理状態を代表すべきものではない。動物の快苦を我々のもつ痛覚や快楽物質のあてはめで量ろうとすることさえ人間原理の行く末あしき傲慢なのだろう。野良猫の幸福と介護犬の名誉は捕鯨の技能とか豚や牛肉類の食事と似て何らかの主観からの趣味を反映する。同様に、知的設計説の趣味のみが全生態への慈悲心の基であるとはいいきれない。
 この点で、動物功利主義というべき(ピーター・シンガーなど)オーストラリアを中心とした学派は、趣味主義の本の前座に過ぎない。宇宙生態学でいう感覚原理を、我々の今の生態地位上での確かな主観の根拠としていい理由はどこにも見つかりはしない。というのも我々の生態地位は、大量絶滅の史実を省みれば偶々有るものとも考えられるだからだ。この偶有さは痛覚のしくみをある程度は共有しているだろうかなり上位の動物類と我々とが似た生存競争の場を共有し、又それ自身の規則で奪い合うべき自然の道理を全く曇りなく原則づける。つまり弱肉強食は、いわゆる利他行為の同種間保存、道徳と呼ばれる習性と等しく、とある系の内外へも趣を違えてでも分派していく。我々か私は、この神ながらの賢明さが我々を生み出し、又我々の言説を超越した主観という絶対非対称さで導いている、と信じる。結局、動物との共生は私か私達の都合なのだ。そして生態金字塔の消費順位制度はその理が複合した生態を可能とする高次細胞間協調作用の節制する仕事量分の秩序度に関して、我々の神ながらの自由を異種や異類への共生か捕食かに任せている。慈悲心の趣味は主観による程度である。だからそれは場毎の生存哲学だが、どこでも一律のおしつけに足るだけ自明ではない。宗教段階や道徳の常識は系内主観の互恵習性に委ねられる。
 もし宗教原理主義に考慮すれば、神が我々へ他の動物への支配を明け渡したのは殖えすぎた人類の堕落以前であり、そうとすれば楽園の再建に携わる知性の面で、倫理学説上も我々は程度こそあれ知的設計の外でいかなる捕食をも肯首できる筈だ。謂わばそれこそが趣味に叶えばよい。後から現れた預言者たちは神の代弁を名乗ったのに過ぎないことを考えれば、神自身の口から語られた言葉こそ比べた誠があると云われねばならない。無論それすら解釈論の範畴だろうと。

2010年3月18日

都

何もない社会の上であおがらす
寒くあり東京直す薄き靄
誰もなき霞の中の街の様
遅すぎる開店時間と浅いつとめて
東新宿毒々しき色のダウンジャケット
温かなおーいお茶飲み首都うつろ
ハングルが語るざこばの湿り気や
不夜城へ通ううお共凍りつき
救いなし歌舞伎町に住むま冬の御器被り
ひとでなし浮浪者見捨てる厚着ども
天皇が一人威張れば葉よ散れる
借金で大学通える宮家の嚔
くさ/\しあるく庶民の妙なき呻きぜ
何気なき陽の波のこった凍る朝
消えされよこのきな臭き霜付き場
面影はあれどきたなき下水川
見下ろせば上のつもりか霧都庁
煙草吸う気違い孃がアルタ前
倒るればそれで終って冬子也
集まりて為す事どうなの繭峠
児のべゞ群れ打つスーツに紛れ込む
臭う毛布の前へ魅せる宝石
飼い羊新卒とかで同じ顔
外人にゃ譲る改札寒々し
腐った界隈へ襟巻き小学生
もういいよ広告枯らせよ山手線
売り場ごと冷え込み代われる不安感
iPod使いもせぬが散る間際
社員競争分かるが冷たな接客だ
間抜けかなソニーの回るおもちゃ凛
安物を嫌ゑり原宿偽欅
うすら寒しいつものGAPまえ撮影隊
あの店員で冬眠せぬ携帯売り場は
また建てどぬくき人あるマンションか
100円ショップ店員あかるく乾きける
銀座ならみせびらかしで毛羽立てり
鴨遊ぶ玉川へ浮くヘッドライト
椎名林檎のイメチェン浅き真冬日
われ厭う東京の春一番を横切る
謝って絞るバルブと豊田の薄
また建てり茄子畑なくせし夭き家
もういいや飛行機へ着せよ羽布団
俄か雨か霙の六本木
旅立てる人と等々力渓谷の雪
ジャズなのか枯れ木と滝と錦鯉
御苑まえ家なしの這う天皇誕生日
分からず買ゐしセールの白いダース
春早すぎる石詰め都気持ちわるき

2010年3月17日

経済生態学

原理的な生態秩序は、それ以外の生態との共回りを伴う。故この単位は孤立系では決してありえない。最低でも隣り合った生態秩序との取引を前置きとして経済圏を作る。
 生態秩序の連鎖は他の系を引き込むか押し出す。駆け引きはやりとりされるのが生態秩序の資源で、他でないと示す。もし生態秩序が資源をもたないなら、取引は起こらない。生態間取引は経済圏毎の選好か嗜みを特有の変わった向きへしつらえる、経済圏は実質の生態秩序度の単位。生態秩序度をecological cosmic rateからecrと置くとecr logarithm zはこの未知数zの対数。所で経済圏をeconomical territoryからetと置くとz log etはこのetの対数。単位を揃えるべくzはmetre毎秒とすれば
ecr log××log et(m/t)
××: テンソルの転送
は計測できる経済量。これを汎用化すれば
ecret/z2‥経済量テンソル
z: 一般重畳さ(m/t)
が導ける。zを二乗化したのは、それが縮約単位の省略形だから。よって厳密には空間量と時間量の幅で未知数は二行に渡る。
 経済量テンソルは経済圏が自乗比で母系の生態秩序度から拡大していく道理をとく。もし隣接経済圏の間ならこの比は一般重畳さに対して単位生態秩序度あたり2の累乗根分だけ縮約される。すなわち、経済圏は嗜みを母系あたりかなりの強さで違和させつける。
 この実験での検証には、同じ自治圏を観測しつつ隣接自治圏への波及が時代当たりどれだけ進むかを何らかの秩序、たとえば道路網普及などへ確かめれば済む。嗜みは似た比例を経済量テンソルへ推して保つ。

2010年3月16日

この夜は

言葉なきこともすぐれる今の時あらわれる夜と臥し月回る
みつきありさかさとなくばこの夜はすぐれてかえす春のぬくみよ
すでにあらじとていつのそらはおぼえて今の夢などなくして明けむ
くつがえすまにさりあらばこの夜はきこえあらじとすぐる声する
ありうならばくれ/\゛もそとは少しつ春のきぬわれひとりのみ冬こゐしけり
すぎさりてはじめて聴けゆいのちの足音はあおきはるのまちを去りぬ

女権の洞察

私は女権への過度の調整的措置や無理に性別の生得差を否定した過剰な、いわば不平等な平等を与える事に反対だ。又まともな理性のある女性というものを一度も見たことがないので。即ち彼らの淘汰誘因内に理性の項は含まれてこなかったのだ。

 女性へ人権を与えた原因は、アメリカへ進出したイギリス人の移民がその危険な土地できわめて偏屈な女性崇拝の希少価値理論を展開し、しかもフランスはじめキリスト教道徳の転用に及んだ西洋各国がこの迎合に走ったところにあったと思う。全体として見ると、品位のより高い女性が存在しているのは儒学や古代宗教の浸透しその戒律が生きている先進的と言われざる圏域でらしい。つまりアメリカ人の思惑は女性らしさの性格形成という面では致命傷だった。
 実際、女権はそれまで自由人男性へ権利として与えられていたものをそのまま適用するかたちで無意識に進められた。この流れは自明どころか一過性の特殊な経験であり、まったくアメリカ風の、至る所風変わりで偏った習性なのだ。だからこの風習にならった浅薄な国家群では否応なしに女性らしさは消えうせ、また省みられず足蹴にされ、代わりに男勝りがなぜか皮肉もなしに貴ばれねばならない共通の勘違いが正当化される、という文化面での野蛮化が観察できた。

 女子供という範畴化自体は哺乳的保育能力を省み疑問符として大きすぎるとはおもわれない。希な例は常に可能性があるが、問題は心理の基調にある。勿論、性別をふせた成果の比較で、我々は完璧な正答率を達せるとは言い切れないが、或いは出現率でみれば確実に、男性の公の社会へ献身する理性的才覚は生まれつき女性平均のそれを上回ると見られる。彼らの遺伝へ性的二形にみられる役割分業に関する選択が、遥かな古代から続けられてきた。住み分けとして女性の人権を一人前と捉えさせること、或いは階級制度の消失により奇形とすら言えるだけ女性脳化した男性が存在しだしていることは危機的なばかりか、21世紀前半の文化流路面での錯誤ではないか。アメリカによる統治は、上流階級というものの中で発酵しておくべきだった分限道徳とか男女の別とかなんらかの貴族道徳をみな廃してしまった。商売道徳の称揚が資本経済の社会では常識とされる結果、ちゃきちゃきと働き深く考える習性なき器量のよい形質、つまりは接客業種が他より生存されやすくなる。だがこの形質はえり抜きの中間さという他特段の特徴をもたないので、あまり尊重されるを要さないと言える。なぜなら全体数にみれば他の形質はみな代わりになれるのだから。

 私の考えでは階級制度の再興、又は最低でも女権の減衰措置は、もし大衆単位で不可ならものごとを考える余地のある実質的貴族の層でだけでも信奉や礼賛されすべきだということだ。この種の貴族精神の高踏さがきえさった世界からは決して、かなり秩序の整った法や、おもに家庭道徳の面で優しさとして知られる女らしさの定義は二度蘇らないだろう。
 アメリカという歴史の浅い国の実用家らが述べている再生産率への最適化は、きわめてごくまれに生まれるかもしれないあきらかに男勝った各形質の奇種さを伴う女性のために、全体としてのぞましい社交の風紀、同性間競合の健全さを意味し、中性的中間形質を削ぎ落とす効果をもつそれをとっぱらってしまう様な、浅薄だ。代わりに私の考えでは、女権は少なくとも機会平等・結果放任、乃ち結果は部分的にのみ最小限調整された方がいい。常に性別を問わない自由人の機会平等権が一般女権への調整的な贔屓よりも比べて優位になる法政は徳あると認められる。でないと国家は次第に後宮化しやがてその傾きは現実的となるであろう。

2010年3月15日

社会学

最も原始的な秩序として、極小空間とそこでの羽振りは原子量につき真。単に、社会でのふるまい方に見た抽象さは適応した習性の都市化比率につき、この空間量の原則をあてたもの。
 空間での社会系、これは都市化密度とも呼べる。では何が真に抽象さなのか、それは秩序についての立方法則による。社会系は別の空間とは違う秩序をめざす。これは空間順列につき一定度の重畳化を伴う。社会が極小化された幾つもの粒子の運動と捉えられれば、都市化法則は立方の積み重ねが空間あたり蓄えられた事已。逆に立方でない粒子運動は混乱を招く。多くこの作用は犯罪視されたりもする。さて情報量の選好さえそうならなぜ社会関係が立方化への動静に左右されないか。つまり機械を介した社会との折衝は常に、改めて機能づけられた何らかの資源を掘り起こすことへ繋がる。
 善意とされる利他性能は、機能面から思い付かれた立方法則の情報量選好、おもに文化素の質的それに過ぎない。故ある時代の社会的繁栄は決して不動でなく、飽くまで機能からの交流の活発度と分かる。
 もし全ての立方法則が同じ働きの文化素の発祥別にすぎないなら、社会の性能は結局、資源配分の効用係数が対外と対内で一定の均整を保ってあり続けられるその可塑さのあり方に等しい。つまり経済粘度が恒常態規則と一致すればその社会応報は好ましい。有償無償をとわずその営みの質は立方規則の一定の積み重ねがどの向きを主にするかの趣意による。故経済粘性は資源についての技巧からの選好を帯域毎に待つ。経済粘度は体制内冗長さを立方法則あたりの効用、つまり機能で択ぶ。乃ち経済粘度は、それが悟られれば尚更、最大の機能化をかなりのひまながさと共に維持促進させゆく。
 社会機能が粘りで省みられれば、化学素単位でみた都市化で著しい趣向差が生まれていくのは自然。

不協和音

東京は狂った所ぞ不潔な魚屋
意味不明朝方番いのケバ烏
棍棒もって監視カメラつき東宮御所あし
眺めおればSP睨めり首相官邸
韓国人しかいない皇居前広場
知能なく趣覚えず東京人
色事か金しか目になき江戸末裔
子供へは無視と冷遇江戸の店
麹町通りすがりみたぞ寄生芸者
西よりはましだがそれでも汚いこの都
猥褻は許容範囲があづま風
茨城へビビり千葉へとりいる江戸こびと
集まれば集まるほど威張る旗本は
下町をみくだし自分は学習院
多摩側は特に江戸へは関心なし
気のつよき者は江戸には少なけり
身を飾る女の魂腐敗せり
短気だがすぐに萎れる江戸鰯
KYとほざいて併せる江戸仲間
川崎へつながる路線は雑魚多し
横浜はずっと都会ぞ山の手ジン
こんなまずい食事で開業可能とは
値段張り豪華にみせれりゃ裏はどうでも
武蔵野ジン虚勢張らせりゃ一流だ
引きこもり恐れ漫画は禁止せず
道端で有名人は見るだけ損
狭き門というか家かよ兎小屋
サラリーマン週刊漫画読んでて暮らせる
満員の鮨詰めで通うキチガイOL
発狂し逮捕の冤罪なら乗るな
テレビの中しか美しくない東京
深夜明々電車の産籠(うぶかご)幼児連れ
群集で行列で走る蟻んこ都民
勿体ない広告ばかりの流れ作業
不協和音キョート辺りからくるものの奏でる

2010年3月14日

皇室上句

「アフリカは自然を愛する多くの日本人にとって憧れの地です! 仲良くしましょう! わたしが時期皇帝ですから、もっともっと経済発展して奴隷労役してください!」

なんで嘘つくの? 軽蔑してる人なら見たことあるけど、きいたことないよ…アフリカへの憧れって。ニコニコしてるあの親分、何様? なんで代表づらで日本国民の自然愛を堂々代弁? 高々象徴なのに、愛想売りが本領かよ。もういいよ京都人の血統は! 演技も、知能もレベルひくすぎて笑えないよ。

ひとのまち

集めつゝ消える砂浜青砂(あおさご)ぞ
みるからにいます水辺のかものわよ
テキパキトアツメレバナキ月ノ沙(さらすな)
質剛く営む生業愛想捨つ
みわたせど敵うものなしひとのまち

東京の文芸界

ほら、段落毎にタイトルつけちゃだめだろ、大江翁に叱られるぞ。それじゃまるでブログだ、既得権威の侵害! できれば東大文学部出て。合格したいんだろ? ああいうできるだけよみづらい下手な文章でさ、肩書と分厚いセルロイド眼鏡つけて。できないの? ダメだよそれじゃあ! ほら、面接で入った会社の犬を騙くらかすんだ。田舎者でいいからできるだけ頭いい振りして。最低でも早慶マーチ以上の高い学歴ちらつかせるんだ。東京なんてそんな次元なんだよ! できない? ならグラビアアイドル見て。ほら売れてるだろうが、何億円も! 
 なあにを戸惑ってるんだ、ダメだなこいつは! 帰れ! いくらでも代わりはいるんだ。政治家をだませえ? 国費留学しちゃえばエリートコースだぞ? 日本人なんてそんな次元だ。ノーベルとりたいんだろう? なら踊るんだ。ほらささっとマスコミ出て。見た目の偏見で言われた通りのイメージぶるんだ。億ション住みたくて来たんだろ?

緊急法案

強い不況と虐め発覚件数は強い相関を示す。そこでは大人社会の裏返しの縮図として、特に所得で恵まれない肉体労働の階級にある子供が、できるだけ陰惨に大人に目立たない様、自分たちより弱い立場の者を虐待して親から受ける心身の圧力を軽減化したがるらしい。
学校では仲間内のギャング集団が生まれ易い自由時間がかなりあるので、およそ公立の雑多な階級の混濁している場ではこの法則は決定的になる。だから急激な不況時には生徒の自殺が頻発する。

これは資本経済の社会でだけ当たる法則かもしれないが、「不況時の虐め鬱憤法則」と呼んでいい。
 ゆえ、今日ではこれからも多発するのが明らかな自殺未遂や表に見えない陰湿をきわめる生徒間の心身への嫌がらせが現行している確実性を予測し、その国と地方の法案と条例の整備によってすぐさま訴訟できる体制をつくりすえおかねばならない。

具体的には、親へ生徒が相談をもちかければネットか電話を経由して即座に、学校と対象の加害生徒を訴訟できるしくみを整えよ。相談窓口と地裁や高裁を直結し、専用の弁護士を行政が雇っておき、彼らが円滑に損害賠償を請求する手続きへ入れる仕組みを完璧に構築せよ。

2010年3月13日

政治学

地球上で各種の資源を見つけるには、先ず使い道がなければならない。ゆえ資源量概念は変わる。資源は用途にとっての機能を果たせる分量。資源量とみた生態での用途視は、機能を産業や仲介業についての微分値と合わせる。資源の量はおもに生態用途がどこへつくかによる。ゆえ機能の気づきは全て他一切の資源量への掘り起こしと等しい。
 資源は考えによる。もし産業が巧みならその工学度に応じた別の資源値が設けられゆく。資源量には、よって需要との兼ね合いが前置かれる。もし産業密度に偏りが出ねばどこも文化間交換を企業化しない。ゆえ機能の傾きが皆何を仕組みに社交させるかの基。
 機能面にみた企業からの趣味は、文化間差額の交易量感についてすら現実的。換言、趣味の種類が交易の選好品へあたる。なら資源量は望まれた交易についての、自然と社会か社会間の建設意図のみ。機能からの文化益は、そこでの趣味観による。資源量についても豊富と貧困には機能規制が前提となる。功利主義的幸福感覚についても同じ。快苦は家政か個性機能の傾きにより、なら資源対比は文化益概念を決して出えない。一般に政経計算の機能規制は、よって土地文明の質に着く。だから功利主義からの社会生態への一律統制は必ず細部で失敗する。
 文化間交換差額は決して資源対比での希少さのえり好みと矛盾しない。いいかえれば交易面で彼らが利害損得を推しゆくのは自動化されていい文化素の流れ。これは商業種が、生態としては機械的であること、別の資料を与えもう一方がそれに不足しつつ自主交流できるなら必ずそれを移し替える中で繁昌したがる事を証する。商業種は何れ自動化されるだろう。その公理系は生物量にみてほぼ一定であり、交易規則さえ社会が基盤法律化すれば必ず仲介業は機械操作系へ還元され得るのだから。敢えて言及すればなんら彼らの末路は予想できない。しかし彼らの転用が進まねば先ずその量感はどこかへ処分されるだろう。産業の機械化は、当然ながら機械操作系の専攻度以外の習熟を徐々に廃してしまう。伝統芸能界は縮約され、小さな空間量を占める圧縮率へしか省みられず、又その適所でしか生態づけえない。

物理学

全てがおもち宇宙なのではない。もしそう呼べば、定常さが一定の時間順序内で膨み縮みをくりかえす単位系にかぎってそう。おもち宇宙は隣り合う系との一定の引斥力がある法則のもとにある丈の体系。

F=S: 力学的エネルギーは熱量膨張に等しい
とは、Newton/time: 時間毎のニュートン単位のおもち宇宙の基本法則。よってもし力学系と熱量系とを等価とみなせば、おもちの進退は外部宇宙系とのやりとりが行われねば恒常さをもたず、でなければ混沌。もし時間流率がエネルギー不変則と同じ次元なら、混沌化は規則では必ずしもない。すなわち時間流率は系がもつ潜在引力場の大きさ: Aに等しいので熱量膨張の単位は
F/S=1は熱量単位: Heat Blessing: HB
を
HB/N/t∫function(HB)は熱膨張流比
で測れる。よって
HB・t/N∫f(HB)=S・t/F・N∫f(HB)
力学的エネルギーは1ニュートンを定数単位と置けば
S・t/F∫f(HB): おもち流比、ただし単位はN
は外側とのやりとりが機能あたり増減する値と置ける。もし単位時間あたりの熱量が外部系からの同値の斥力より大きすぎれば力学的エネルギーが分母からこれを拘束し、内部では潰れの力が働く。こうして引力の原因は、おもちの過疎化に単位時間あたり逆比例した内部構造へ働く穴埋めの力であり、それは真空効果での引力子の不在さか仮想さを説明づける。

近代日本

上下関係を正当化して難無くいきのびるのを、生れついての得意技とした江戸土民はあちらこちらで、下賎な上司の悪念を代わりになって実行するに余念ない。その上司は、キョートからでてくる猥談のぬしを次々囲う。なぜならそれが和の伝統なのだから! 倭人とよばれてきた、西日本寄りの劣った血統。益々わるくなる、雑ぜられていく血。出た雑種は以前よりさらにおかしい。

 キョートでは常識らしかった。
 彼らの狂った性格は、この世を下品にすることへどんな留保もなかった。金を奪い、暴力団を集め、己の家を護らせる。かわりに全てを下落させる。彼らには己以外のだれもどうなろうと構わないのだ。自称王は、キョートの文法をはるかな異国の地、東京都でも相変わらず試していた。

天皇陛下万歳

広島の呉、中学生に姦淫犯罪小説の指導! ハッハ。
自由マンガ党、平和主義で徴兵令! ワハハハ。
ホリエもんどうしたんだ…あんたが三線なんてさ。
皇族どうしたんだ…生き埋めで虐めてただろう、中国人。
NHKどうしたんだ…あれだけ恵んでやったのに。
老人どうしたんだ…戦争終らせといてやったのに。
都知事どうしたんだ…猥談誉め称えられたじゃないか!
豊洲どうしたんだ…汚いじゃないか。
こんな時に麻生さんどこいったんだ…マンガじゃないか。
出版業界どうしたんだ…ブログ馬鹿にしてたじゃないか!
学歴どうしたんだ…リストラ後の就職口ないじゃないか。
元気ないな、さあ自衛隊入ってアジア中で嫌われようゼ。
従軍慰安婦どうしたんだ! ソドム東京で禁句じゃないか。
テレビ元気だせよ。ガンバレ頑張れ、下品の安売り。
小泉さんどうしたんだ? 息子はいるぞ、ん、世襲か。
首相でどうした? ずいぶん学歴高いじゃないか。
よーし金だ金だ、星中がみてるぞ日本人。
イギリスどうしたんだ、見る影もないじゃないか?
アメリカいいぞ、やっちゃえやっちゃえジャイアンツ。
あ、わるものだ。まじめに生きてるイラクの庶民。
千葉大どうした…殺人事件おおすぎるじゃないか。
あ、わるものだ。派遣斬りのトヨタ自動車。
あ、いいひとだ。ノーベル賞で東大卒のえばってる人。
あ、ノーベル賞で京大卒のえばってる人だ。
あ、微妙なひとだ。ノーベル賞で東北大卒の会社員。
あ、わるものだ。ノーベル賞の審査員と小浜市。
カレー食べたい。甘いやつ。え、ないのインドに?
あ、イギリス人だ。階級差別こいてる。
あ、イギリス人犯罪者の末裔だ。鯨狩りもう辞めたの?
あ、福島県浜通りの女の人だ。元気げんき。国会でみた。
鮪のお寿司ってたべちゃいけないんだって、迷惑だもん。
天皇姑息すぎたんだ…北欧のアカデミズム応援って。
サラリーマンどうしたんだ…お金余ってるじゃないか。
芥川賞どうしたんだ…村上龍が牛耳ってるじゃないか。
ソニー頑張れぇ、どうした、仙台がついてるじゃないか。
芸大うざい! フランス騎士も宮崎県知事も着いてるし。
糸井さんこれは…マザー3、64で長年待ってたのに…。
スクエニ曖昧じゃないか…。
おっ、いいな。まだまだCD現役だバンプオブチキン。
鴇全滅って…弱すぎるだろ倭品種。
携帯各社どうした…機種変飽きるじゃないか…。
ソニーって国内モデルじゃ高すぎるんじゃないのか…。
サムスンどうした! 日本の門戸は開いてるじゃないか。
TBSどうした…堀江門の隠し撮り犯罪スレスレだろうが。
カンサンジュンはどうした。褒めてたじゃんアラーキー。
日比野はどこだ。みんなお前を待ってるじゃないか?
よーし自衛隊で散々悪さすんだあ、これぞ日本軍人って。
天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!
サッカーはどうした。幾らなんでも比弱すぎるじゃないか。
老人万歳! 延命措置! やあ評判の孝行息子だぁよ。
学校で子供の自殺じゃ大騒ぎじゃないか、電車会社。
魚みてえな人間うようよいるな、大阪繁華街。臭い。
ほら、引き篭れば終りじゃんか? 金儲け働き蟻ども。
派遣の子供餓死させれば逮捕じゃないか? 会長さん。
大臣って儲かるんだなあ。末裔まで安泰じゃないか。
どうした皆…苦しそうじゃないか? 黄金虫の共食い。
天皇どうした…敗戦しても生きのびてるじゃないか。
こんな醜い国でよくも生きれるなあ、メイド喫茶の土民。
ほらオランダ王侯も怒ってるじゃないか。どうした神道。
お仲間が日本刀もってるじゃないか、あれは何だ皇室。
自由ニート党どうした。今後は伝統文化売らないのか。
何が楽しいんだ? 姦淫罪ゲーム売買してる江戸オタク。
舞妓が歩いてるぞ。何する人なんだ?
ほらどうした? 姦淫犯罪映像で娘売ってるぞ、東京都。
あれが仏教徒か? 極悪源氏物語の尼。
なんだこの国。死んだ方がいいんじゃないの? 素で。
ほらあれが日本人だよ。あぁ東アジアを荒らし回った…。
ほらあれが日本人よ。あぁ下らんアニメの…きたね~。
ほらあれが日本だ。満員電車で痴漢の…キャハハハ!
ほらどうしたんだ京都人。あ、まちがった。芸者さんか。
ハラキリはどうしたジャップ? トヨタも言い訳ばかりだ。
ギャッハ、壁の蔭から猥褻物頒布罪の関西土人がノーベル賞。
あれえどうしたんだ薩長同盟。金儲けしてるじゃないか。
ん? ブシドー…あ、まちがった。野蛮人の仁義、と。
忠孝道徳万歳! 人身売買性奴隷稼業東京の東洋陛下万歳!
ワハあの中国人勘違いすぎ。大隈像前で記念撮影とは。
あれえどうしたんだ日本企業。学歴女だらけじゃん?
ギャハハ…「こんにちはしごとさん」。これ政府機関?
シュールだ…前原大臣マジで空気しらないよ、関東の。
アッハッハ、ほら踊れおどれ関西人芸人。つまらん。
さんまキツッ、声嗄れて…。
ゴクリ…これがスタジオALTAか…なんてことないな。
今さら! 今さら! いえただの逆走です、ポスモは。
磯崎新やばそうだがいいのか? 名誉博士やれよ東大。
もういいでしょ倭人は。人間名乗るの無理あるよ、脳が。
和を以て特攻隊、うふふ。えー仕方ないと思ってます。
あれぇあれなんだ。道端で公然猥褻罪撮ってる猿。
ぎゃっはっは、東京人。人身売買都民、必死で生きてる。
南蛮虫と東京人わはは等号だな、完璧つなげる。
死ねば都民。はあ? 淫行勧誘罪会社員の癖に生きてくの?
はいはい、スポーツなのね。もうわかったよ悪徳都知事さん。

在日米軍再編の計略

茨城空港は、現知事が述べていた様に国の空港でもあると位置づけると利用価値がとても高い。

不況を逆用し、既に整備された大規模な更地が余っているという恰好の状況は、そこを再編米軍基地のキャンプベースと考えれば神の采配があったかの如く、最小費用でのニューディール的な公共事業モデル敷地と見なせる。
我々の思いやり予算を削減しつつ、今後とも周辺要地をキャンプシュワブとして安価で提供する契約をとりつければ、それはLCC(Low Cost Career/Carrier)での新たな財投モデルと考えていい。なぜなら海外企業(国家単位の税収企業視も含む)の自主的呼び込みによる開発費はどう考えても不足してしまっている国費をみたび用いるより安上がりに済む。

 唯一の懸念は土着化したヤンキーの暴走だろうが、私の歴史を見る目が正しければ茨城県民の基本性格は保守的であり、またその一端は御三家のコアというべき水戸徳川家の血統があるからだが「武家作法」を最も尊ぶところがある。
いいかえると、茨城県民が自衛隊兼用となった現空港付近の土地へ米軍基地の強大な武力をも摂り込むとしても、それをたとえば薩摩や長州や土佐の様な中央政協調へは反抗的な地方風あるいは公家作法だけを貴ぶ京都の様に、想像できるなんらかの国政否定へ向けて悪用するという未来は考えにくい。
彼らは武家の義理に則って、飽くまでもそれを忠実に運用していけるだろう。そして土地の風に呑まれゆく米軍基地内外のヤンキーらも、必ずや日本国の保守保安及び『尊皇攘夷の核』を担うのを義務と考える様、やがて民から逆説的に感化される筈だ。
 沖縄県民は彼らとはまるで違って武権をよびこむことをちっとも有り難がらないので、米軍が地霊を無視してあたり構わず基地を力建させたいのと違って、そこでは楽天的な南国気質によって弱い威力しか決して得られはしない。
だから沖縄米軍が今後ともその場で威厳を得るのは難しく、県民からつねづね詰まらない排斥論をなげかけられる始末だろう。

2010年3月11日

遺伝学

生きている丈で地球上では人為系というべき次元の容量は増えていく。情報概念はこの部分の形。ならば一般にどの協力行動も混沌度増大則の一部をなす。熱量にみた容量増大は、人為系が生態中の情報系列の複雑化をなす一反応と教える。ならば生態の複ね合いはそうでない時より熱反応の種類が違える已。遺伝は同様のはかりをたもつので、生態反応自体は系として日々複合化へ赴く。逆に生態は進化の系統反応を伴わない。
 遺伝さは消化か消費の上へ生産者同士の生物量再生産能率のおおよその順列に系統した発展をととのえる方へ向く。遺伝さは之を系統の結果たる複ね合いへつくる。ならば生態反応の基本法則は情報複合の向きといえる。量れば、之は進化度と等しい。よって遺伝さは異種混合を場の条件内で最大限計る系統をそうでない変異より適応度に準じて調え易い。
 遺伝さの向きは情報量の必然な増大と逆であり、変異は審美化を貴ぶ。ゆえに遺伝さは向きを情報量と合わせず、異種混合を同系配列の奇形化を除いては進めない。よってもし遺伝さが同列の変異を択べばその特徴は生態の定まった適所へしか合っていかない。すなわち遺伝さの奥行きは一般の異種混合さがかなりの幅の母系と共にこのましい中継種の団りをいざなった時広がる。この神経の益す力線は混雑や競争が必ずしも適切な混合を選ばせる機先と限らぬと言う。ならば遺伝さは進化場条件の珍しく整った地点でしか明白なあつまりを伴う前進をしない。
 遺伝変異の奥行き深さは集められた系統の審美さが情報量集積の比例を示す程強い。故一般に珍しい品種は、その為の適所を逃さねば益々珍しくなり傾く。之をとけば品種差は適所と流入した遺伝系統の恒常観がどれほど偶有さを伴うかに等しい。普き遺伝さは審美程度が即珍しさと進化の一般の帰結に叶うと教えている。何が真に進化なのかへは系統さが珍しさに異なる系との適度な配置、つまり的に合う突然変異の編み入れが図られる丈。この的は一定の性特徴の用法による。故そのかわりばえのみ適所にとり、生態活動の本質となる。

政策綱領

売春禁止法をつくり、風俗営業店と俗称される客の好奇心にそう接客業種を根絶すべくそれらに携わる大脳奇形のある人種を死刑にせねばならない。
しかしこの一気な施策でも必ずや抜け道として、倭人種のことだから援助交際などの悪質な不法を行い出す。これは見つけ次第、現行犯逮捕か銃殺できる法を整えるべきだ。

不純異性交遊は全て文明空間からは排斥されてまったく構わない。こういう劣った大脳の人種は賤業種としてもともとDNA分岐上問題ある渡来系血統の混じった関西圏か、その血筋を引く東京都の皇室付近という最底辺部にしか少しも流通させるべきではない。
これら昔ながらの汚染地区は国家からの隔離のうえ最終的には生化学兵器により滅亡させるべきなので人畜駆除を後回していい。行う日が来ればDNA分岐を精確に辿り一人のこらず処分できるだろう。

道徳定理

用法内で味の側を築くのが哲学的冗長さなら言語でいうその啓発観は、言葉の使われ具合がどんな慣習をつねとするかへ叶う。意味と趣味とは部分と全体との味への言い及び。言語のひま長さは用いられる文脈の定常観が高いほど現実的。趣味的文脈は順列規則の凡そのつねさと似た経過を経る。言語内で類推へ係る手間は可塑化できる。故一般に科学知識の精密な言い及びと違う何らかの定常観が、日常と専門の言語に入り込むならそれは某冗長が無論内部へ意味を込める趣味、の面へ当てられたから。なぜこうなるかは、知識層内負担理論の仮説がある程度説明する。ひま長き知者はそうでない者より道徳の面で優位な筈、というかなりの常識風がある。この種の慣習か馴れは訓辞の解釈界へ領域開く。人々はこの種の無意識の祖先を敬わねば罪やおそれを感ける。哲学が、今日の意味で生き続けるのは訓辞への馴れの為だ。そしてこの規範はそれ以上の無意識的理解という一般教養の上回りがなくば打ち破り難いので、宗教的拘束か信の側面は全訓辞へ入り込む。宗派と学門の差は更新速度のみ。古を信じるのと改めて考えるのとでは後者がより別系統と親近し易いから。

政略論

政治資金問題の非建設的応酬は検察と警らに任せ、国税の有効な使い道へ議会を転換させるには公然と小沢氏との縁を切って事態を好転させるべきだ。
実力派はこれでも生き延びるので政権与党にもなんら問題はない。

信仰

失業し収入なき若者から視聴せぬ豪勢のため毎月数週間分の食費を貪っていくNHKとその職員どもへどうか子孫末裔迄はらわたちぎれ苦しみ抜く天罰の下りますことを。

2010年3月10日

語学

言葉の適度さはみな順列内の知覚による。∴知覚∈審美感覚。審美感覚は狭い知覚をとぐ。この知覚は母語系にとり先験的。
写像関係は言葉の知覚集合を母語系へ向けとぐ∴写像さは知覚集合の順列規則へのくみかえ已←→順列規則は不動∧∧母語系の代替⇒写像関係は知覚集合の補集合∴母語系は写像の分かれ。
写像は
(言葉∪文語∪口語⊃発声⊇文字∋発音記号)⇔言語
に対して
言語⊃主観⊇境
∴主観は言語と分かれう∧口語が即主観¬→境は言葉を写像内に持つ。
 現象学というあやふやな体系は境の主観との勘違いでしかなく、それらには共通集合も含まれるが同一¬→主観論に戻る。⇒主観論は理念論述の才を自己目的化した非対象論か形而上学なので他の語学体系内に育まれえない。

2010年3月9日

現代数学仮説

経験則は常に公理系内へ編み入れが起こっている数理公式の集まり合わせと定義すると、意識の他の公理系への真偽命題の決定力は経験則の補集合特性つまり補いの無限に限りう。経験則は補公理系。故所謂決定可能さは学習可塑さが残る限りで真。逆に補いへの編み入れが起きない孤立のいとまきではその脆さを突く決定不可能命題が生まれる。原則として、経験則は開放的公理系でもある。造り数学の最短化規則は経験則増大でなく、孤立した公理系の証明過程が厳密化へ寄与しその道具らしさが高まるのを期待する。ここでもし私の意見を差し挟めば、究極の経験則集合は哲学系と呼ぶをう。この集合は忌憚なくいってまったく任意でない体系づけへの方法論をもちあわせていない。哲学系は既存論旨の脆さを穿つため矛盾した経験値からの作り上げた論理、日常生活で言い訳か最高でも合理化とよばれる何事かをいう権利や立場であり、この止揚的啓蒙運動乃ち弁証法の本質は数理科学の知見が全知へ達しえない、という戒め機能または学習継続の動機づけ規制に働く。哲学系は冗長さしか達しえない。つまり真理をふやかす中で多矛盾度や曖昧さを維持か促進させる余計量への機構を出ない。だから『実践理性批判』にある如く善意しか哲学には実現しえないだろう。そしてそれは知識量に対する啓蒙度に、乃ち無知なる領域への気づかせに叶う限りで。
 数学の厳密化が経験則をみな公理づけきるのは難しい。故今の段階で数学が為すべきは、経験則の母集合化も極力最短化の規則で行う計画を始めること。入力を除きこの出力作業自体の自動化も視野に入れねばならない。
 造り数学分野は、この作業つまり経験則の母集合化計画へかなり使われるをう。なぜなら最短化がなくば秩序を見つけることはできない。どの論理記号も同値の単位重畳さへ叶う複合さで測り、文字か字単位での規則づけを科学知識の一層の精密化へ向けて働かせるをう。

あの家系

幾ら説教しようと大多数の東京人はちっとも行いを変えない。それらの生命体は、関西人の気が入っているので頭が悪いのだろう。そもそもボスですらあれだし。
 かと言って、放っておけばそれらの生命体は星中へ汚猥をまきちらす。いつものことではある。江戸土民とはそういうものだ。救い様がない。尤も、たしかに関西人そのものよりはましだ。関西ではヒトがいない。サルしかいないのだ。感覚というものがない。

 世の中と付き合えと教え込まれてきたが、どうしてそう教えたのかいえばあのボスが悪者だからだ。あの家系は昔から搾取をなりわいとしてきたので、世の中で商売してほしくて仕方ない。その差額を脅して奪うのが本領なのだから、ああしておのれが偽造した学校では、世の中とのへばり付き合いを叩き込むに違いない。世間とは家畜だと思っているのだから。
 単純に、そのサルは馬鹿すぎるので必ず地獄に堕ちるだろう。そうでなければ辻褄が合わない。九州の血とまざった関西人のracismなど語るに落ちる。その国の正当性が疑わしいと感づいてから、全てが邪悪に他ならないのを十分観察してきた。救い難さをこれほどまでに理解しようとも、なおも目の前で東京人は江戸の文法を守り続けていった。彼らは愚鈍でよこしまなボスの手下になり、散々わるさをしてよの風紀を乱し続けた。
 だが、宇宙の広さに比べていかにその虫類がみにくく卑小でも、業のリターンはどんどんと膨らみつづけていく。東京人のなす悪がどれほど膨大か、日々メーターを測る仕事の中で私は群れになった馴れ合いの邪悪さを、とても精密な記録にすることができた。そして私は未来の世代へとその記録を余さず持って行くつもりだ。

2010年3月8日

商品開発

茹卵製造機。
市場価格は千円台から三千円程度で、タコ焼き機の形を二つ迄おとした姿をもち、電源をいれて二、三分から十分で1.半熟、2.温泉風、3.完熟からボタン毎に出来上がりを択べる。白と赤の二色展開。
開発費を抑えるに既存電気ケトルの機構を工場へ直接出向いて転用か抜粋する。
継続的製造そのものはパナソニックの子会社が名乗り出そうなので託すか、又は製造委託しブランドは自ら得る。がサザエさん等の庶民級の番組へCMできる利点は前者をより望ましくするだろう。

負の呼び水効果

東京都が万引き防止のポスターをあちこちに張り出した。しかし自分が見るに、これは呼び水効果を伴い逆効果の部分も大きい。
高級品店や開放的な店では万引きなどゆめにもおもい寄らなかったが、そんな所に突如万引き禁止を喚起する場違いなポスターが張り出されていたのでそういう悪徳がこんなところにもありえるのだ、とかえって犯罪可能性が逆啓蒙されてしまった感が私にはあった。

税収を欲しがる都の下司根性が、こういう負の誘引で自業自得の結末を呼ぶとしても不思議はない。万引きをよく行う層が出入りしそうな猥雑な雑貨屋の如き界隈と、決してそうではないだろう大手百貨店の見分けくらいつくだろうに。
悪政貪たり。税は人民が進んで支払いたい分量を以て臣下共々節制篤実に甘んじるのが徳政の本旨だが。

生態学

地球型生態の本質は地球の上での適応度にある。大多数の理想がそうであるのと等しく、地球上で行われる生態反応は特有の傾きを担い、それは僻地さを伴う。地球が他の星団とやりとりできない間は真に。
 この生態を適応度の面でいくつもの類型に分けるのは容易。が生態は不可逆さを少なくとも維持面で伴う。故生態已に省みれば類型は時代類型。かつ大多数の類型は系統樹の末節を継ぎ足すか衰えさせ為す。生態の適応度は時代環境なりの変容を引き連れる。故類型は遺伝の法則でも維持の在り方を時代毎に違う方向へとぐ。
 生態の適応度は、星団の特質を含むどの系外惑星内ででも固有さへ赴く。故生態の在り方は常に境らしさとの折衝条件による。境さは適応の質を変え、別の変りを尊ばす。ならば生態法則は場の恒常的特質を内部化した傾向。但し、この定まりは決して時代類型をこえない。
 生態が一定りの群生をもつ大きな訳は適所での境さが幅を伴う類型だったから。→境は適応形質の文化素。境が遺伝子への選び因みになる。この因みは境らしさを追う。
 遺伝子の偏りは、つね適応度を世代交代速度で微分する。それは
Δ速度/Δ世代数∫function(時間)・・常適応度
の定積分を
limitation[世代数]時間/突然変異出現率‥重複世代数
の平均さで割った値、即ち
常適応度/重複世代数×0.5%=遺伝偏差値
が境らしさ毎に恒常さの原始関数であると示す。故遺伝子の偏りは生物量と見れば資源と同値。
 生態の適応度偏差は何れこの観点から、塩基対情報量用の燃料か解体後の秩序度の抽出しとして資料にされう。でないと偏りある資料は永久に偏り続け、境らしさを崩壊させる。つまり遺伝子資源の利用か単に捕食は縮小された戦争行為の省略形で、より合理な熱量循環の規則。遺伝の因みは形質が境の再生産率へ不可欠に結んでいる事、かつ全反応の底に突然変異出現率という文化素への影響波の強さを選び抜きの原理と定める中で、実質的には外部系への可逆反応の程度を重要な単位重畳化の比例としたと明かす。この点でも世代間の再利用可能さを鑑みた境らしさへの貢献が、社会型生態にとっては再生産率に対する環境での適応方向へ一定。

2010年3月7日

海の香

走り去れる通勤自転車きよし川
あさがすみ海の香をきくわが庭に
あおぞらにきこえる若さは今も清けり
水色のまちに染むなり潮風よ
わが愛すまちはひろけり響く凪
山奥でしんみり待ちける水芭蕉

救い

必ずしも救われる可でない人もいるのだ。
罪が裁かれる次元が、
もし腐りきったこの世の法廷の外であっても。

共生思想の位置付け

自然との共生という思想は、自然征服への理性にとっては過程と見做される。自然と一体化している間はその支配などには思いも寄らない。
 多様で様々な生態をそうでないのより豊かで先行きある体制と考えるのは適者生存上妥当かも。が、生態系の支配者が、つまり極相種が支配圏已ならず広い生存適所を持てるか決められない。地球の一時代の極相種が支配圏を最も手広げた丈で誰もそれを永遠とは思わない。この点で、古代宗教の中で永遠概念が頻出するとしても疎かな知り様だったとおもうしかない。神概念を除けばそれらの予言に、同種間社会内規則づけをこえてあまり見るべきものはないらしい。尤もそれが倫理というものだが。
 今の時点の生態学識から紐解けるのは、自然共生型の生態論は地球の内にあっては中継種の生態領域らしいということ。故量感への紛れにみた生存確率は、かなり長期に鑑みてもこの領域への適応が最も高いだろう。何らかの文化反応系にみた極端化を避けるという習慣づけを以て中庸の徳とした古代の哲(さと)りとは、それ自身を経験則下での実際の生き残りに想えば凡そ確かだったのだろう。先駆種が生じる余地にとってさえも、極相化への一極適応よりもある程度の中継団が残っている方が有利なことは、溢れる生態現象のなか何が真に新しい変異かへ多様さの光明を照らすのに役立っている。著しい多様さがない場では、珍奇さとして一般的に進化と思われる変異でさえ排他的か淘汰的に差別され、大多数派である極相種の支配力によって潰されゆく。
 自然共生型の生態思想は、もしそれが生態池の養生のみに目当てを限られれば、押し付けがましくない一つの考え方としては用いられていい。だが真の先駆は常に極相化した完成度の高い品種からのみ大幅に図られるので、自然征服型の生態思想はこの中世的変異の団(あつま)りを引き連れるかさもなくば支配し直す。そしてこういう経過全体にみた生存確率の面から、円滑な進化の為に自然共生論は量感を伴う母系となる。言うまでもないが、にも関わらずそこには常に矛盾か自己満足か自己適所化を伴うので、審美感覚の超中庸論のため以前とは大きく違う新変異に類する品種を選択しきれないだろう。だから自然共生型への最適化系統からは生き残りはあれ生態的な進歩はない。

国会中継の電網適性

インターネット最大の利点は情報発信量あたりの維持費面であり、この為、既存の地上波では放映しきれない濃やかな動画チャネルの解放は、行う意志さえあれば今でも可能である。
一般に、公務への不信はその不透明度といらぬ隠蔽場面の多さによるので、国会審議をインターネット中継しつづける政府チャネルを設け置くならそれは各国へ先駆ける大いなる革新といえる。

しかも、この為にはもし最高級の画質など無益な豪勢さを廃し、市販の質のデジタルカメラと必要充分な市販パソコンを通じた実用的中継へ限れば、いわゆる批判にさらされがちな公営法人NHKを使いまわすよりずっと最小限の費用で最大公益が図れることだろう。
だから計略担当大臣の直下の部下数人へこの仕事を託せばそれは大袈裟な手間をとらず即日行える。国会動画の保存の始末だけ、既存の官僚機構、おもに書記官関係者へあとはしっかりやってくれと流せばいいに過ぎない。

2010年3月6日

商品開発

インターホンからの文章入力で用事記録を保存できるシステム(『interlog:インターログ』)を。いくつかの定型文からも択べ、音声記録ものこせるよう。

文化の特徴

科学精神による侵略は世の一契機でしかなかった。対応に見た生態秩序は趣をことにしたのみ。
 科学精神が無用ではないが、それ丈が世界精神の本性とは考え辛い。特に数理による自然比例の認識がその侭、生態侵略への道具へ転用された事は決して唯一の法ではないのだ。この用法自体、西洋哲学の縁起説の未消化を実証している。
 ベーコンの自然征服論にとって縁起説は蚊帳の外に置かれた。彼らが依存している自然界の諸条件は、極相化した自身らの支配圏拡大の土台としか見做されなかった。
 従って、科学精神の導きさえも民族の智恵の総量に基づいて構想されゆくのは明らかだ。なにをよしと見なすのかにとり民族の目指す理想は、自然への考察の結果のみならずそれを用いる主体に対しても違いを生む。善意の程度は今日でも最も信頼できる智恵のありかだろう。この程度は常に神の意いに劣るだろうが、にも関わらず現世系で至りえる最高の指導力は理念の上に花開く人知の限界にある筈。
 科学精神の用途をもし共生界へ限れば、藝術はやはりそこでの最も究極された目当てだといえる。わざ自体は彼らの特徴を誇り示せるにすぎないが、それでも我々はこれより過ぎた何らかの神意の顕れを見つけ行く仕組みをもたない。最高のわざはまた同時に科学精神の技術へと仕組まれた顕現として、我々の智恵の壮観を個々の芸術のあつまりたる街の上に花咲かせる。家、村、町、市、県、府、道、都、国、などこういった今ある領域の幅は決して個性と矛盾しない。芸術があつまった結果として全ての風趣は形作られゆく。自然界と人間界の調和の姿は技術そのものを活用した芸術界とよばれるべき世界をつくる。風趣の目的はこの芸術界の在り方に求まる。よって、科学は技術の、技術は芸術の道具である。芸術界自身は神の計画を実行していく一手順でしかありえないだろうが、対してその調和から想像できるあらたな生態がこそは育まれるべき本当の進歩であり、そこでは生態が真に多様さへの導きたり得る証なのである。
 もし支配のみを目的とした適応行動があったとしても、補集合は常にその個性を取り囲んでいつしか分解し、次の世代への土壌となす。故に自然界と縁起説の土台に基づいて適度に協調する世界観は、文化とよばれていいだろう文明化の間にある土壌の養生にとっては最適たる。文化が次世代への投資であることは、農耕文明が何れ文化の程度を自身の理由づけとしてきた証だろう。このさなかに咲く生態条件が真に芸術界とよべる場所なのだ。土壌がうまくなければ次の世代は惨めだろう。文化は土地定着型の風趣にみれば最適化の一様態と考えられる。

2010年3月5日

磐

吾むかし椎名町えきまえのマックで息つきし冬おもふ
験(しるし)受け生くそのときがいずれなるなり輝きし日々
上京しみし数々の出来事ありてつき/\゛し練馬眺むるそら
保谷まち隅の賭け事わずらゐのくるまや矢張り消えき
朝早く池袋のまち歩きしなかに柔肌愁ふ頃の匂い
借りつ高き志聴き道なおくわざをただ修むる青春うら若し
絵の具の香たのしきころの趣をおさめ磐となりしき

現代経済学

留保資本主義の本質は、大多数の生活者が朝三暮四の連鎖を公認してでも生存したがる生態本能を社会系に依存して成り立たせたい限り、我々の文明が蓄えられた資本の量にこの性特徴を集める合理さにあるらしい。
富んだ家の目立ち方を極端にするしくみは、群衆が再生産率を自らの生態行動の目当てとする「商さ;あきないさ」を維持する限りつねにその偏りを指数関数的増大へ導く。つまり商務への軽蔑が殆どない群衆の中のいわゆる中産層では、おもに再生産率の高い生態を美化してみる欲望によって以前より富む事、今より物資や奉仕の豊かな生活程度を夢見る事が生存計画の動機づけとなりがち。
留保資本主義はこの目先の利益追求の衝動を、富の量感で誘なう計略として最上等。もしそれ以外の資本をえり好んでも所詮は露と消え去るか維持費の嵩みでおしつぶされるかのどちらか。乃ち利益は蓄えを功利とし、でなくば中産層は育成されない。

 この道理は留保済み資本が商さを自体で選好み且つ中産層の進退と軌を一にしていると教える。資本経済の本性は、中産層が利益追求の体面を社会の表で大袈裟に振る舞えるほど強くなる。
結論として言えるのは、資本と呼んでいる対象物はこの利益追求の仕事量自体だということだ。商さが実質的資本であり、留保されるべき社会間資源の中身なのだ。これ以外に価値づけられていい何もない。

 資本主義の文化素は群衆が体面を保ちたがるほど強まる。留保量が仕事についての強制力を引っ張り込むわけだ。中産層への魅了には最も羽振りのいい社会内行動を誇示できねばならず、それにはつねに増強されるべき財産を要する。
だから留保資本の本能とはその蓄えを自らの体面とほぼ摩擦なくなるまで増加させる「見栄:みえ」なのだ。この見栄への誘引は群衆からの注目に正比例する。

以上を冷静に分析した者は次の事に気づくかもしれない。
仕事量の定義は流動的であり、別の資源や技術をつねに追い求めるという技革法則は産業の内部にあって常々かれらとかれらへの選択をくみかえずにおかない。故もし社会内行動の複雑そうな係わり合いに最も基本となる順列規則をあてれば、留保資本主義の目指す所とは中産層との共生体を維持していこうとする考え方の差や違いなのだ。
簡潔に言って、我々は行動すべき範囲で何かを別の所へ形を作り替えるか変えないかして移す行為だけをするのであり、これは商さの選好みに繋がっていく。だから留保された資本量は見栄え;みばえの中にその考え方を埋め込む為の装置か智恵。でないと仕事の動機づけはなくなる。

留保資本主義そのものが現代の荒廃(こういった高い理想からくる失望感は常に全時代の思索を浸すのだと私は信じるが)へ何らかの効き目ある救済措置への全能処方箋ではないのだが、この機能には人知の及ぶ解決策への万能さが宿っている。
具体的に、有徳な金持ちとそうでない者との間には社会改良の為に使える仕事量へ、また評判にさえ大いに違いがあるだろう。そしてこの違いが、社会哲学と我々の個別の科学知を動かす被雇用者との兼ね合いの上で花咲かせる唯一の道である。
失敗した富裕者もある一方で、見栄のため規制される利他行為への転用により自らの持てる資源を最大限に使った、また使おうと事業を行う者はそうでない者よりつねに中産層からの尊重と愛護を受けやすいに違いない。
 全てが誰か一人や一家の下に吸い込まれ独占支配されるのをよしとする原理主義社会に比べれば、或いは成果と努力如何に関わらず公有づけたがる福祉主義社会の誤って捉えられた先天平等の楽観すぎる視野に比べれば、資本経済を前提とした中でも更に先鋭的な「富の格差」を認める留保資本主義社会はその個々配分への合理的秩序に於いて一層の強調と擁護や援護をしてよい安定した体系である。
より賢く能力の高い個性や血筋をそうでない部類よりも尊び、或いは頼りとして歩を進める思想は、何の根拠もなく生まれつき全人間生態の平等だとか出過ぎなさだとかなにかの偶然で成った地位だとかを保守したがる触れ方よりずっと資本量の自ずと偏るしくみへ適っている。

富の格差が広がれば広がるほど我々の社会は前に比べて裕福で、なおも先行き明るいものとなる。これは維持できる財産家や個性はそうでない者よりも優れた考えや資質によって群衆を、よりよき秩序へ導く為の蓄えが豊富だから。
そうでなければ一様な貧しさと足の引っ張り合い、又は馴れ合いが及ぶばかりで暗澹たる社会事情を他の国との折衝や悪巧みで別の世界へ伝染したがるばかりであり何一つ尊敬すべき点はない。
最低限度の生存資源公有化でさえも、極力政治的公的には節制され、篤志厚き富裕家の私の建前をとった慈善事業として営まれゆくのを待つ方が必ずや優秀な社会秩序を用いるのだ。なぜならばそこでは自ら立つ個々人の意欲と努力とが、他者への依存と恵まれを当たり前と考える怠け癖より遥かに尊重を受けるのだから。
 私はこの考えをほか一切の妥協した社会主義と区別する為に、『資本原理主義』と呼んでいいと思う。成る程それは全能の神には遠く及ばないが、なおも人間界では最善の考え方なのが今のところ疑えない。
人間は保有や留保できた資源の量について群衆と同類である間、決して何事かを成し遂げられはしないのだ。先ず資本がなければならない。この為にはどの様な手段でも、無論倫理を全否定はしないが結果的に肯定を得る。

2010年3月4日

川柳

端ない外タレ回すテレビ局

岡村さんお金はあれど家庭なき

矢部っちは一人で笑うFCぞ

かなしけりテロリスト龍馬映す俗

2010年3月3日

人類生物学

逆選好で人間の性選択が進化を抑制されている事実は、来世勘定が宗教の領域へおしやられつつ彼らが長い期間を諸形質の類人猿との近しさを転用する丈に済ました深い訳らしい。逆選好は最も審美的な感覚からのそれへ集められがち。故人間の逆選好は量化の傾きを強める。もし進化に見れば、自己僻地化は量化への解除を適応要因とする最初の段。故まず幼型が示されねば皆人類が彼らの轍を抜け出す理由も生まれない。もし皆が量化の逆選好を続けていけばその社会誘因は皆審美さを高め、代わりに新規か珍奇な物をとぐ。審美さは超中庸さともいえ、故量化の誘引は皆その生態的な多産さへの記憶を素にす。全て人間が文化に高みを得た地域では初期発生期たる幼児時代にしか魅惑感覚は残らない。私は経済圏の消失が多くの場面で発情を抑うと見た。人間は商業で再生産率の高い生態を企む。故皆人口比の密度辺り多い地域では下町気質と云われる再生産率に適った性格が珍重され多くは生き延びるのを許される。
 人口内で商圏の必要が少なくなるほど集団に見る誇示の要請は弱くなり、彼らは例えば地味な鳥類と同じく魂の問題を見栄えより高く見積もる。商業都市では一切が値段で決められる傾向をこの種のとぎと等しくす。何が目あての生態なのか。このといは人間へ向けては、もし芸術を演劇と芸能界なるその秩序の低まった姿でも合目的さの形と考えると、他の全ての生態と埒を設けえなくなる。集団や群れの誇示は国か文明を造る。故人間は社会の誇示を一つの姿とするのが明らかで、しかも之は個々人の総計の身。人類がいきのびている訳が社会性にあるなら彼らの理は全てを他の個性との関りの内に求めたがるより起きの間柄へ当たる。全てのヒトらしさは無人島での生態をとぐ因みにあたらぬ上で文明らしさの個々の形質へ当たる。社会的知性を理性と名づくと結局、全て人間の営みはかなり高度でかさね合わされた誇り示しのかわりばえ已。感情なる能力は実質之誇示の形式已。何がヒトのあつまりで貴ばれてきたか、そして性選択の自然な対称さの余地をより体制の低いすこしであれ原始級の生殖そのものへの感心を成人して後にも意識の上で保つ、この子育てか幼児教育への必然さと併せ省みられた社会性は、女性の雌らしさ、乃ち女々しさの中により保存されてきている。之が何をヒトが最も小さな構えとして今日ありえたかの訳。
 感情を原始級の特質が保たれた結果と考えた者はそれが合目的さの広がりにとっては今なお営まれ続ける生態の理と気づかなかった。寧ろ全ての理知はこの特質への補い。でないと社会らしさは奥行きのないちごらしいたちへ留まる。理知の総量が社会性の誇示にとって基準となる。之は見比べの容態を舞台にみたてる生態論とも符合して証なしている。

2010年3月2日

葉っぱ

渚のまのびの山
たまに忍ばれたそういう
髻(みずら)みずらが運んだ
チャイニーズ・ビーム
とっても典雅なクラシックは
竜巻だ
ぱっぱっぱっぱ
弾けてまざる菜の花の実はね
ぱっぱっぱっぱって
回りゆくむかしのおどりです
よく見つけたねー
そうかも知れなくもない朝焼けそら
聖蹟桜ヶ丘のえきまえの
雫のねアーケード
ふらーとふる明かりとり
ぱっぱっぱっぱっパって
ちりふるのがたのしや葉っぱ
秋の落ち葉ももうないの
だもんでだもんで

けがれ

東京大阪の人身売買文化滅びろ

官僚再構築の原理

リストラとはrestucturing即ち再構築のことだから必ずしもクビだけを意味してはいない。だが現状でも平均的給料夫よりも少ない月給で甘んじている大多数の国家公務員を、さらに厳しい分け前で生きながらえさせるのにも問題がある。
これは構造が重たい、という効率改善の課題であり、もし政治主導あるいはより正確には「議会主導」の旨(なぜなら全ての政府機構は政治界と呼べるのだから)を果たそうとすれば一般企業がそうしてきた様に、縮減人員での効率よい経営計略が練られねばならない。
 専門官僚の優秀さを擁護する発言も少なくない様だが、問題は数であり、国費への負担だろう。いうまでもなく宮内庁関係と最低限度以上の防衛警備予算は(政府が倒れようとするその時まで)まず切り崩せないのだから、最も穏便に事を進められる部位こそ妥協点となる。

勿論、自称政治家の身の上であられる国務大臣以上の面々が相応の覚悟で給与返上もありうるが、今までのこの種の小手先偽善改革の経験上いえることは、やわすぎる仕種を少しでもみせれば明治維新すら合理化したええじゃないか庶民感情というものはどこまでも彼らのいまある上官を貶めるものなのである。
毅然とした態度でどれだけ自ら当然の分け前を独占しても、寧ろ全身全霊で仕事に取り組んでいる姿勢をこそ公に私に報道する方がずっと、年功序列と株取引にのった不平等な取り分へ不満を抱く者の溜飲をさげる効果も将来世代の挑戦への意欲すらも期待できる。

率直にいえば見えない蚊帳の奥でなされている部分を(外交策謀上での致命的欠陥がない限り)最大限とりつぶしていく「政務透明化」を徹底することで、官僚へはいかなる仕打ちでも国民の支持は維持できる。なぜなら、この過程の大袈裟な報道はまるで劇団の様で、彼らも世の不正を暴いている気で豪傑のあらごと芝居に迫りえるのは公開事業仕分けで実証済みなのだから。
天下りならぬ官僚再就職の斡旋は、それが議院立法の中で原則政治家によっては禁止にされ、なおかつ各省庁をつかさどる長自身の口から、独立自尊の貫徹を公に告げゆくことで自動的に東京都付近の平均的業務遂行能力の底上げにもなる。誰しもへ報道されれば人材を欲しがる雇用側の同情も多くなるだろう。

2010年3月1日

幻

ゆめに見た簪が
ほとんど奥行きないプールの
底でゆらゆらとゆれるのを
真夏日におぼえる
大気は音もなく震え
まちがいなく訪れる小鳥の
さえずりを受け流し
遠い島国の曲をかなでさす
ゆずられた席は
ただの一人分の小さな
座布団が敷かれた間だ
勿来の駅舎に居る
私は横切りつづけていく
すべての車や波や云が
それ自体として完璧な
幻であると思う

一粒の月

空蝉(うつせみ)の身の上を
案じているのだとして人は
どちらにせよ独り
その証に観る
この余りに広い宇宙の
どこをさがしても二度
おなじ人生は出てこない
にもかかわらず勿論
わずかな呼吸の合間は
少しずつであっても命を
刻みつづけていくばかり
すでに全ての星々が
あっという間に散りさってから
駅舎の真上に架かった
なんということもない一粒の月を
眺めるともなく見ている

もてなしの趣味

もてなしのよしあしに程がある、とはデリダの論拠になかった。彼は無条件の歓待ということばでの、当為となる奉仕の定義づけでその哲学を卒える。だから見返りなきもてなしがそれ自身のうちに差をもつという感じのよしあしを問題にしない。
 客への態度、は見返り以前に感じを持っている。この感じはおよそ条件づけによらず一定。なぜなら条件は変わるが主の趣味には客への態度の一貫性を保つ動機がある。要は、もてなしには条件以外にも元々目指されるべき的があって、この座りには趣味観なる馬のあうあわないが前提とされる。そして趣味一般は審美感覚論だから、もてなしの程は客体的一貫性へ条件以外の余地たる主の品位を差し挟むいくらもの余白を持っている。論旨の結びからいうと、趣味の合わないもてなしには如何に無条件でも汚らわしさしかおぼえないのでなんの有り難みもない。貧者の一灯という諺は趣味観が心にあること、混同されやすいが奉仕向きのこまやかな精神そのものでさえないことを示す。それは昔風の言い方では魂の問題らしい。先ず以ってよきもてなしは心の限りでなければならない。だからそれはいわゆる絶対帰依の旨を仁の概念と既に深く結んでいる。岡倉のいう譲り合いの心はもっとも分かりやすい心の限りを端的に説明している。茶の湯がこの種の心づかいを啓発した面はたしかにある。成分からくるおちつきは言い争いや格闘よりは穏やかな歓談をより好ませがちだった。しかし茶道のみが心づかいの唯一の道とは念われない。道具に頼っている間その魂は装いである。もてなしのよしあしにはつねにうらみなさや形へのこだわりなさが求められる。もし形のこだわりをもてなし方へ打ち付けたがる風流心の欠けたひとがいても、彼は有り体に感心されはせよ、有り難がられはしない。ここにも程度問題がある。必ずしも歓待がすべての理想をつくる訳ではない。だがただの社交性にみれば、それはもてなしのよしあしではかれる。よき社交性は度重なる印象をよくし、好感をいだかせる。この結果は哲学の上では面白みを意味させるにすぎないが、なお無いよりはましだろう。置かれた社交の条件とは別に、乃ち置かれた取引や交易の関係とはまったく分けて考えてもより面白い性格は、そうでない性格よりも尊ばれるべき。この性格にはよきもてなしの心の基礎が備わっているからで、真昼の唐突な雪のごとくその訪れは別の社交性の持ち主よりも客にとってはまこと有り難い。不躾とは冗談を抜きにすればこころよさが面白みとは違和している習慣づけのこと。以上から、よりよき躾とは心の面白味を鍛えることであると導ける。滑稽味やおかしみは刺激のつよいたちから、不可欠に過度を煽るのでおそらく最善ではない。ここにも中庸の穿ちという実践的善意の限度がある。寧ろ、極端なそれらは面白さか興味深さの部分の形らしい。面白さはもと趣味感覚の鋭敏さからのみ鑑みられる微妙なきもちのゆれなので、見出だそうとすれば普くあるし、無いひとには何もない。教養や演技力と結合することはさらに希で、普通これを才能と呼んで貴ぶ。おもしろさが最良の段階へ高められるとそれは芸術性、或いは芸術味を伴う事柄の風格となる。ところで崇高は芸術の美には及ばないので面白みやもてなしとは関係せぬと公理づけると妥当。自然は我々をもてなすことも楽しませることもとりあえずなく、ただ無条件で広がりをもつ。乃ち神の作品に及ぶものがない限り人為はみなそれを少しずつ恐る恐るも借りてつくりかえ、自らの信じる面白みへ向かって再び玩べるにすぎない。これが本来たえざる息抜きとして活動の重複さへ求まる趣味らしさの意義。このつくりなおし活動は我々にとっての面白みが我々を超越した何者かにとっては愛玩か便利の、おもに興味深い鑑賞を目的とした概念らしいと説き明す。

地球生態学

地球風知覚は感覚原理を人間向けに改めたもの→感覚原理は人間向きの知覚をもたない⇒人間向きの知覚領域は偶々有る補集合∴可塑的←人間感覚は不動¬。
|主観原則が境の抽き出し→可塑∥唯一←地球型惑星確率∴可塑⇒境は主観原則の基。

主義対布教

日進月歩之自由主義対独裁万歳之共産主義如何
民族同胞無問題故漢文簡略化叉無問題揚揚
天下泰平之核開発中嗚呼
不可不再興仏教徒故千別斗共産党否定已也
唐変木之孤立症多多共産圏宣言保持要

生態学

最も原理的に世界の構造を考えれば、それは入れ子状の連鎖で巨視にも微視にも無限階層論をあてう∴世界の中で最も合目的な秩序は、主観原則にとってそう←→無限階層のどこにも秩序はありえない。
主観原則∩感覚原理∪人間原理
感覚原理は主観原則に生物主体の出来映えでかなりの違いを及ぼす→主観に偏り∴無限階層内では主観\秩序しか生物主体の実なし。世界構造の連鎖には、観察範囲の妥当さが主観原則へ認識拡張として求まる已。
 感覚原理は無限階層内でとがれた形質が生態秩序内に編み入れた特定の反応環→感覚原理は観察範囲での適応に原因が求まる∴観察範囲が広がればその適応度は変わる∵主観原則は感覚原理の共通部分。主観原則は感覚原理とその和集合たる人間原理による←∃感覚原理¬∩人間原理→主観原則は偏りある∴人間原理は地球型感覚原理の補集合。
人間原理⊂地球型感覚原理∋主観原則
主観原則は地球型感覚原理の共通集合→人間原理は人間主観原理を共通集合に導く。
 人間主観原理は一切の感覚をその地球型成分比へとしつける→人間主観原理は感覚の知覚化を地球型にとぐ。可塑的知性はそれが地球型である限り特有の偏りをもつ∧その偏りは人間主観原理の管轄下でのみ淘がれる→知覚は地球風にみられる。|知覚が地球風¬→人間主観原理は唯一不動⇒感覚原理は無い∴矛盾→地球風知覚は真理。

2010年2月28日

Ones

I used to be in my town other day
All other fighting spirits vast
Useful expressions under the Africa
The whites do not mean every swans abused
You might be to be liked all ones

分解

人は作りすぎた巣の所為でおのれらの生存圏を過密にし、結果として共食いを始めていた。この競争はかねという餌の奪い合いで、同類をいたぶり殺すところまで進んでいた。人は愚か過ぎる脳の容積しか持たないので、我々には憐れみすらもてないが。そもそも彼らは、生態系全体の中ではごく少数の気味のわるい変異なのだから。それら人というものは、かねを貪る以外には何一つも特徴がなく、巣を無限に拡大するつもりでおのれらの餌を食い尽くして行った。だが彼らの餌には限りがある。
 虫かごの中の世界はあまりに醜悪で、二度と観察したくなかった。だから僕はその網入りの箱を研究室の奥の棚で放って置いた。数年振りに見てみたら、すでに土と少しの荒れ草しかなかった。全ては分解されたのだ。

地球生態学

変化しつつ一定の法則で世界が認識できる、という法則知性は地球場の、しかも特有の時代経験らしい。∵この法則は地球場では極相化した定常さの元でしか自然哲学の内へ栄えなかった。⇒系の秩序が法則適所と違えば違うだけその定常場では別の知性が求まる。秩序の良さは系の定常観が固有の境:さかい条件へ当たると知らす。→秩序に見た時代経験は知性に彩りを用いる。この経験則は知性の彩りを自然哲学内での趣へ違える。→地球場の知性内でも、その外側でも同じ。∴自然哲学では系の知性は固有の秩序段階を目当てとして動く。|秩序段階が非法則なら、その系は網羅的。←→法則は詳細的。∴時代経験の中で個々の観察がふるまう文化素への収集は、網羅か詳細を最大の範畴とす。
 知性が範畴化できる、とは法則能自体がある生態機能な証。→知性は固定した能力でない。⇒知性は可塑的。

2010年2月27日

陸

空き地に咲いた力強き薄
水走る川辺の腰掛け
海からの声を聴く為の陸
上手なり東の京のちいさき家
心たかく咏えばみな晴れ世は流れ

災害地誌

東京で
「オイ、ヤクザ天皇逃げるらしいぜ」
「マジでか? 今更かよ。こんだけ散々東京戦禍に巻き込んどいて、嫌になったから帰るって、それ責任逃れもいいとこだなあ」
「でもさぁ、所詮ヤクザの天皇だよ。行くとこ行くとこダメにして、そんでも天皇なんだよ。自称だけど」
「うーむ。右翼に頼むか」

京都では
「なんやきなはるわ。よーけいっとったに、なにしに」
「飽きたんとちゃいますか。舞妓はんもぎょーさんまちごうて、あっちがたいってましたやろ」
「せやけど。なんでまた急に。御所が閉じてまいますわ」
「おーきに」

水戸では
「んだぁ、亀井の野郎。余計な事しやがって」
「放っとけ。ろくなことにならねぇ」
「金儲けばっか考えやがる」
「ほっとけって。関西人のやることだ」

鹿児島では
「ようがす、天皇制の復活でごわす」
「オー! オー!」
「おいどんの志。遂になったでごわす」
「オー! オー!」
「今度こそ心置きなく征韓ばい、むふ。わいむしゃっぽか」
「オー! オー!」

仙台では
「なんじゃ実家にお帰りか」
「んだって、仕方なかっちゃよ」
「まずスペインに派遣じゃ」
「なにをすんのだっぺか」
「訳ありんす、屏風の買い付けっちゃ。一儲けすっぺさ」
「わぁ、さすが伊達に様子見してんとなかっぺぇ」

川柳

国内じゃ値をつりあげるソニーかな

やる瀬ない多国籍の企業なり

あっちで売りこっちで絞る安泰な

儲かればなにをしようが国跨ぐ

文化など潰して建てれば使い捨て

論理学

知識を記すか言う言語体系はもし微差がなければ皆記号論理の地平に入る。微差は知識でなく訳語の問題。故科学言語を記号論理へ統一したがるのは合理。全て科学言語の記述方法は記号論理の充て填め。科学言語に日常言語か日頃の言葉が入り込むのはそれが記号論理の規則を曖昧化している詩的要因による。この揺れは知識の伝達には合理でない。記号論理の日常言語版は詩的解釈を差し挟み辛い一定の埒を要する。全て、詩的解釈は記号論理の中で最大限に除く可。造り数学もこの為に働く。
 論理記述が単位長さの順列である事、之は幾何学図形と単位複合さを増したそれらの図式化とは別に、全ての数学が論理学にとっての部分作業であると教える。且つそれらの図式化はこの作業が記号のみの仕事であるとしらせる。つまり図式は特定の記号への注解か解法で目当ては単位長さへの説明の省略。図式を数学視するのは必ずしも合理でない。この為に、図式の測量と解析のみが本来の幾何学。
 論理記述の形式を最短化したがる比例は、皆論理哲学の手段が既存解法へのくみかえであるところから順列づけられた注釈を他よりも義務的とす。故皆之比例は鍛えられた違った体系をそれ以前より圧縮的とする為よい。←→記号論理は巧み¬⇒科学言語⇔日常言語∴矛盾。
 記述のよさは同時に口語的たる可。ライプニッツの考えた普遍数学は、実質はこの科学言語の日用程度に等しい。哲学はこの成果をとりこむ。

2010年2月26日

国風の形而上学

芸術への蔑視、これはアリストテレスにとって変化するものへのそれに等しい。観想にとって制作は変化への対応だったので、西洋哲学に於ける場所のよしあしにもこの変化への適応方法はあてられた。不動の座が神の理想界にふさわしい、という理論上の立場がそこにはある。
 実際には、芸術は確かに変わり易いまわりへの対策から生まれるといえる。変化し続ける世界への驚嘆の念が定着されると、ほぼ自然と同等となった何らかの秩序の高度な完成がみられる。ダヴィンチのいう神の弟子という芸術家か工人の立場は、変化していく自然界での位置付けに想えば精確。この立場で実現していくのが、不動の座の建設。だからどこへでも適応し直せる可塑さの上で、芸術家が観想人より劣るのではない。自然界に完璧な不動点はみいだせない。この面で誰もが工人たらざるをえないのだ。神は、もしカントが考えた様に理念そのものでしかありえないなら、世界外存在の如きものは現世系では信仰内のほか確かめる方法がないのだから、神への道の上で芸術家とその仕事はどの立場にある生態であれ不可欠。奴隷制度の不平等と機械的使用の土壌が、そのからりと晴れた変化の少ない温暖な環境で発酵したとき、当時の古代ギリシア型自由市民の頭には芸術の蔑視が正当だと思えた。ルネサンス時代のイタリア自由人がこの偏見を内側から突き破ろうとしたのは、復興が別の土壌で行われた結果だろう。同じく、自由精神が自覚されるかなりの経済的余裕と安定した政治環境がのこされた場所で、その地霊は違う原理を各々目覚めさせる。これらに優劣をつけようとしても、生態が生存競争のどこかにある限りは次のそれを止め揚げた理想によって乗り越えられていくだろう。
 おもとして小刻みな季節変化を他と比較したときの特徴とした日本国風の世界観では、彼らの理念を常に多かれ少なかれ芸術化する。だからその哲学は芸術へのそれとなる可能性がとても高い。それ以外の智恵は、彼らの中では多数決を占めないかさもなくば傍系とみなされがちとなる。地霊がそう指揮しているのだ。芸術場としての国風は、和辻の指摘がただしければ情緒へ過度に耽溺しがちな欠点でもある。だからその国風のぬぐいがたさを各々特徴づける智恵こそ芸術哲学の命題となる。千差万別の芸術観がありうることがこの智恵にとって本質的なのだ。ゆえ趣味なるものをこの概念と捉えるのは適当だろう。重要なのは如何なる趣味が真の智恵と呼べるか、への考究となる。他の風土ではいざ知らず、大部分の日本の国土ではある程度より独立してであれこれと似た考え方がいずれあまねく理解されるだろう。風趣の理念はこの趣の違いがゆたかであるだけ真に芸術性を伸ばしきる土壌として、各々適応的な習性を身につけた証であるとしらせる。

2010年2月25日

国鉄線路の公有化構想

JRが独占している国鉄時代の線路は、それと同等の広がりを持つ敷設をどこかの私鉄が行えないかぎり永久に独壇場として一社にのみ独占利用される。よって鉄道運賃は国内では永久に安くなりはしないし、なったとしても物価に比べてのことなので実質は財閥であるJRにはまったく競争相手がいない。
このおかしな完全独走状況は、おろかな旧世代の政治屋がつくりあげた意図的な錯誤だ。

以上を省みれば、「政府が線路を再び買い上げ、そのJR一社の独占を禁止すること」、「時間毎の運行へ競争関係をつくりあげる交渉の余地を設けること」は民営化の改良にとって不可欠と思える。空中や地下へ二段以上の増設の計画も、或いは競合各社の実力が伴わない間は国土交通省の管轄にした方が効率が高いかもしれない。
というか、放置すれば間違いなくJRはJALの二の舞になり倒産する。今の時点でも腐敗が進み、末梢サービスに支障があるのは、駅員の日頃のはなはだしい傲慢ぶりが実証している。

氷びと

相撲かな裸で踊る氷びと
猥談でとれた地位なら墓場まで
子息へと還流されゆく都税かな
ほなやろかバックに差がある公聴会

比較文明学

人類がその末裔迄を過ごす大きな条件は彼らの僻地さ已。国連系統は皆宇宙文明の中で別の変異を被る。故人類がその侭で遠い世代へ伝わりはしない。∵惑星外との折衝は違う姿をとる。只の系内秩序にみた人類生態は巣の広さ已。全産業もその部分集合。∴文明さは巣作りの程度已。文化反応はこの感覚原理版。
 文明らしさには一つも種内生態の外に出る事実なし。系にはその他の生態をある程度より含む。故縁起体とみた生態は文明らしさの偏りをとりこむ系の秩序度に鑑みる。地政文明史はそれらの移ろいが単なる仮囲いであること、又常に隣あう系との縁起体として已成り立つ形也と教う。地政文明史は生態論へ、その物理化け学条件が皆かれらの既存条件也と教う。|生態論已にみれば生態の系統的進化は縁起界の理想条件で一応の定式づけ可。←→文明系統樹は一部。それらの複ね合せは生態論を理念に与える。⇒物理化学は文明界を記述すべき塩基順列に(¬∀地球型では)条件化している。∴生態論から皆文化素の流れも演繹できる∨確率法則化できる。
 引力場の強さ他置かれた恒星等環境のもつ化学条件が元々の宇宙斥力に与える何らかの当たりはその多様化へ働く。→生命力の当たりとは生化学の比較論に入る事実で、何らかの外力によらない。宇宙斥力はそのおもち状の形が外側から引っ張られる事による単純な逆二乗則の分量しかないが、ここへ加えられる生化学場の条件には千差万別がある。
 生態論が文明単位で省みられてすらそうなので、全て宇宙系同士ではこの違いは決定的。→生化学の比較論には自らの体系が不可欠。←→基準となる原子量の無限階層論には足場が築けない。秩序場の単位が全て比較文明の基礎。←→秩序は比較級を持たない∧∧秩序は不動。|宇宙に偏りがない→秩序は不動、これは矛盾。∴宇宙に偏りある限り秩序は可動(QED)。
 先ず引力場の大きさはその足枷を除く。次に比較文明はより望ましい秩序を知性づける。原子量の単位が違えばそこへ働く化学変化も地球型¬。
秩序の偏りは微分界にも当たる。∵微小条件は引力場の強さに対する反作用系の定常観→大引力場の最周縁圏に定常化された系では微分界に著しい多様さが用いられる¬¬小引力場の中心圏は流動観の高さから化学変化に非法則種への条件がある。遊牧文明と農耕文明という二大分類にしても、この二種の偏りに全く符合しきる訳ではない。⇒狩猟文明界はそれらを跨ぐ。∴僻地系を除き全文明場は競争か共生的。全ての中立さはそれらどちらかの系統へ繰り入れられがち。狩猟文明界は移動的、遊牧文明界は流動的、農耕文明界は定住的。之らに運動か地政が生まれるのは必然∵合理化は先駆種を育む∴「進歩の文化」のみ系統樹を接ぎ木し、他は滞る。

2010年2月24日

記号論理学

逆⇔←→
裏⇔¬¬
対⇔→←
∧
逆←→裏
逆→←対
裏¬¬対

2010年2月23日

西洋形而上学の批判

言文間の写像関係は、また現(うつつ)と夢とのそれにも当たる。故、物語という形で流された写像は、幻(まぼろし)への誘ないを言文間の二重さの内にも映し込んだ。言文の重なりはそれらが口語と文語での間延びを前置きにした並び替えの規則なことで、写像を夢現と言文との間へとさらに移し替えた。
 この綻びはわざの写像さとして、プラトンのたとえから引き続いて今にある。みわざと呼べるものは神の作品ばかりであり、その引き写しにすぎない間はすべて人のわざといえるものは像を写した模造品である。この考え方が、理想と訳されていいだろうイデア概念を抽き出した。よって、言語分析で行われている西洋の大陸系形而上学が写像についての映し込みを最も源まで遡ろうとするのもみなイデア概念に戻る。わざの像写しとして、芸術はすべて神のみわざへの真似ごとでしかありえない。そしてこの言語へのまず夢現の間での、つぎに言文の間での投影は、最終的に文面となったものを入れ子造となった世界の最低でも四重の写像とする。否定の否定は肯定と同値(¬¬⇔→)だから、文面は文面としての実在をもつ。
 分析哲学はみな文面での実在さへの考え究めをプラトンとアリストテレスの時代にあった像写しへの定義づけに戻る。形而上学といわれる体系が常に改め良くなる学殖なら、文面と世界との間に現象学とフッサールからハイデガーへのドイツの学派が呼ぶあらたな世界をつくりあげようとすることは決して最善でない。なぜならこれらの入れ子造になった写像の関わりは、みな語学の問題でしかありえない。最終的に実在するのは文面と世界だけである。よって文面の形式だけを相手どる語学は、他の文芸批評や言語分析などよりも一層のこと実証的で事実に基づき易い。想像力の領域を学殖化しようとする試みは趣味論から外へ出ない。何が到達されるべき理念かへ警鐘を鳴らす試みは、一切の審美感覚への啓蒙とも起源を同じくしている。乃ち理念界での最短語句化へ、いずれ文芸での作劇技法の界隈にしかなりたちえない現象学とやらの試みは必ず還る。この文面語学の考え方を、いわゆる創作の余地を含まない再定義づけとして文学と呼ぶのは、日本語に於いて功利。そこには文面以外への沈降や耽溺は許されるべきでない。何が書かれているか、だけが文学の問題。そしてそれは、最高の理想としての理念のみの問題を考え究める形而上学とは多かれ少なかれ関係なく、哲学の途の上での一課程でしかありえない。

論理学

言語の論理はそれが一定の手順で何事かを伝えられる期待に基づく。論理はこの単位。論理が方法視されるのは以上から妥当。
 論理に論理は説明できない、之はゲーデルの無駄に煩瑣な証明が自己証明した。論理の連綿は決して論理学の智恵でない。寧ろ論理知識はあらゆる最短化をめざす。造り数学は数理記号へ最短化か最小化を施したものだが、論理学は之を最小限度の口語へまとめたがる。故代数記号でない時間順列も対象とせねば。記号論理の整理丈では論理学の全対象は賄えない⇒口語の単位を定型づける合理化が目的。←全口語は補えない。∵おもいをもたない音符は論理の単位にならない。

日本の信教について

日本では資本経済が信仰の弱さと共に広がった所に固有の特徴がある。神道を国教化し、しかもそれに及んで敗戦した記憶は、彼らが信教自体を胡散臭いものと見做し勝ちな変わった勘違いをつくりあげる。
孤立指数の極端な高さは、こういう勘違いの元で彼らに資本経済への順応をこえた全ての生活面での協力の為の文法を失わせる。
 之等の条件は決してそれとして不全でない。つまり国風の一時の特徴でしかない。
が問題は、この種の孤立界を再び個人主義の程度をこえた掌握へ向ける狂信への煽りが行われうる所だろう。
最も間接的な協調への兆しは政治行動の必要さにある。これがなければ公共さはなくなり、彼らの生活する場がたえず勝手主義の超利己的暴威でおびやかされ続ける。
なので、「民主政治の協調界」は他一切の個人主義行動よりも一層の堅持を要する。これがないと現実に於いて、我々の過半数は常に孤独であり続けるだろう。

 尚且つ、信仰の自由はいわゆる確立された世界宗教へのそれが今よりも公に奨励されねばならない。
夥しい分派が散見されるにも関わらず、『キリスト教、仏教、イスラム教』の世界三大宗教は最も信頼の置ける枠組みであることが疑えない。それらを内心のよりどころに生きている人々が如何に多いことか知れない。
 と同時に、この古来から確立済みの三大宗教ではない何らかの体系への帰依を誘なう邪教徒は、想像できる限り彼らの倫理的欠陥を批判されねばならない。
 前三者の中で時によっては暴力への報復も辞さない信仰体系はイスラム教だけだが、なおこの過激な因果応報の心が相手方の人道に反した暴力を抑え止める限りでは法律の範囲内でのみ場合によっては許容されねばならない。
たとえば、運動競技での公式な勝利や芸能界での人気での追い上げなど当代に許容されている誇示の方式での激情へと、この信じられている応報心は向けかえられるべきだろう。

地政経済学

社会計画の内に選良の構えを造るには先ず建築学で地霊ともよばれるその風趣の別の分析をう。この土地勘のよさは地政学の知り方を前置きとし、猶特徴を強める何らかの細かなくみかえが要る。制度にも同じ。風趣は統一化に逆らう。もし選良の分かれ振りを社会になせる効率面から省みれば、この構えは支える才能分布の広さによる。もし人材が揃っているなら汎用がその母市場のせまさのため否応なかった故。∴遺伝子の母系が多く、また育む土地が気候の変わり方に伴って広いほどそこからの文化素は専門化効率のため特徴づけられ易い。土地のひろさそのもの丈でなくそこでの大幅な気候差が、人工比\選良度⇒文化率にとって本質的。
 選良一般は汎用種に比べ能率の高い勤労をものともしない。ゆえ経済力、とよべるだろう各種の指標にとっても各々の持ち前をより発揮し易い。
 もし効率だけでなく、いかに将来の産業変化へ耐えるかの粘り面では、この文化はつねにゆとりをもつ可き。いかに選良の多岐を保つか答えるには所得を込めた経済力外での交換差額以前の品物生産が趣味的に認証されねば成らない。この文化財の認めがないと、選良は永久に品種視されない。金という鉱物もそれが余る土地の元では全く価値とならない如く文化財が理解されない間は、選良すべき生産性への趣好が励起されない。ゆえ先ず媒介する思想が全ての前置きにありう。この思想が元々あった種の偏りへの何らかの後押しを担う。だから趣好が全ての文化率の素で、これはある風趣の媒介力による。全て分業は部門毎の効率を上げるので、経済化を試みたい地域は特定の品種へ向けて風趣をできるだけ違えると細かく合理化できる。しかし経済化には転用の可能性があるのだから、必ずしも商分業へのみこの概念をあてなくていい。単に節制を合理的と考える地域へは趣好の強調は正の働きをもつ。
 似た地域の広がりはそれ自体が反復か真似でうまれた似た形質への選び抜きとなるので、経済化にとっては量的効果しか望めない。∴文化の事情を目指す方へできるだけ隣接毎に大きな違いをもたせるよう環境をつくると巧み。でないと文化は均質さのため亡ぶか押し除けられる。

2010年2月21日

雪だるま

艸艸艸(さやさやさや)どこまでもひろきくさむらよ
宇宙のはてまで広がる星と月の広場
建ててから少しくよくなる打ち放し
あまふりの音もさめ/\゛ベンチ濡る
月さやか街も待つなり雪だるま

宇宙物理学

宇宙の始まり→空間問題⇔最初の一撃のそれ→宇宙には質量の偏り已∴創造は偏りを意味してきた∧物理上は、時間の停止⇔最大の偏り→万物の創り始め⇔時間停止問題が最大の偏りの内に⇒極限内微分時空間が有り得る⇒時間は相対的には完全な停止¬→∃宇宙系が最大…この停止点¬∵宇宙おもちに偏り→∀質量の中枢は可変~∀宇宙系の始点→可動⇒創り始め手→時間差→微時空の縁起∨相互依存∧宇宙おもち→比べた可動場⇒始点→普通点∵時間差→流れ⇒四次元の流率⇔光流率c4/π~大きな宇宙系→少ない微時空地帯∵光流率一定の原理∧半径\質量=恒常円周率←宇宙おもちの時代さ⇔時代おもち

やくざの国

やくざの親分はこういう社会を見下しみくだし大金を奪った。そしていつも大量の武器と棍棒とピストルをもつ大群の用心棒に囲まれながら、おかわいそうにとほざいていた。おかわいそうにと。
 全員が、一人のこらず何かの環境異変で死滅しさえすれば。大地震で学校が潰滅するだけでは十分でない。知能のない、ヤクザの親分に従属するしか何一つ行動規範のないこれらの猿は、僕が生まれてから何一つ善行をしたところを見たことがない。もう遅いんだ、お前らが弱い中国人を殺し尽くし、強いアメ公に媚びいった結果すべてをこうしてしまったんだから。卑怯者の政権では二度と正義は実現できない。

2010年2月20日

文明生態学

人類の文明が唯一つの文明らしさではないのが明らか。これは人類の感覚原理が特定の場の条件へ大幅によっているところからも。→文明色は違う生態へも系を恵む。生態系の重なり論は当然ながら文明色の間へ一定の学識を与えう。これは非法則地位も考えに入れてかなりの確率的幅をもつ。感覚原理の理論は主観がなくば法則さへのきっかけがないこと、つまり特定の感覚原理、その一つは人間の感覚原理とよべるだろうが、からのえり好みが法則さの基調となると示す。文明色はここへ次の光を当てる。生態系はその極相化しきった支配種の間で自己僻地化か内部選好の連続した変形の中へのみ、法則観への世代を跨ぐ言い伝えへの条件づけを行う。このため、知性と目される才能はほぼ生態系がとても安定していた時期の蓄えに他ならない。神のみ知性を与う、とはこの条件が幸運も含み、偶有的でしかも確率としては希なことを教える。無論この広すぎる世ではこの確率は膨大に膨らむが、対して特有の知性に限れば感覚原理の傾向がほぼ同等を除く唯一回さをもたないとはいえない。なぜなら自然界の不可逆反応は文明色についてもかなりの基盤差を常とするのだから。
 文明が互いに隔たっている程それらの感覚原理への共有の余地は少なくなりがち。だが比べ対称さで想えば、裏か反対側の居場所ではこの原理は何らかの類似をもつ。ジオイド、もし宇宙規模でみれば(大変な膨らみと歪みゆきの複雑さから)このお餅は、偏った銀河系も定まり続けないことを前置きとす。流れがあるので、それらは引力と、巨視すれば外部系から引かれる斥力の間で移り続ける。恒星燃焼の先行きもまた流れのさなかにある。
文明の恒久しさは引かれ続ける逆二乗則なりの各混沌化への背きに求まる。ゆえ一文明が久しさについての永久観をもてはしない、少なくとも土着文明では。
 星外交渉か親交の内に一つの土着さは別のそれとであう。がここには所謂やりとり用の配列基がある共有さをももつをう。ゆえ記号のみならず最小の単語が、先ず共有されるをう。この情報量は、事実上既存の文化率をもとにする。星の外との交わり渉りの真の意義は、それが感覚原理の拡張へきっかけを与えること。感覚は環境から抽き出した何らかの特徴ゆえ、この原理のくみかえはおもむきごのみの面からも以前とはことなる変りばえへの始め。

数学内論理記号

← ただし、が but 但

解釈学及び京学批判

ハイデガーのいう解釈学はもし記号論の中へみれば、意味のとりこみを学仕立てにする立場をもちいる。解釈学は分析哲学の母語系内での沈澱で、それは意味解釈についての世界を理念界の中へ確保する。よってこの立場は意味使用の語学に含まれゆく。語学外では解釈論に留まる可で学仕立てに定型化させようとする考えは決して脱構築の立場より有徳でない。
 脱構築は解釈の非定型さへの警句。もし警句が定まった型に嵌まればそれは既に構造であり、学的意味を付加されているかされるべき何らかの体系へ従属している。意味が定まりえないこと、差延とよばれるこの運動は特定順列の文字ことばが別の論理の双対を伴うという写像関係を奥行き保つ。意味はまたおもいと味わいへ分けられる。意い界はそれを整えた側の、味わい界は読み解く側の解釈論をつくる。論理の双対さは殆ど果てなく学問の世界に入り込む。論理があるところ皆双対さにもどる。
 主客未分の純粋経験というこの双対さを経由しない直観を目的とした西田幾多郎の考えは、それが京学派の源氏物語など中世の風物を引く感覚論へ戻るので、いわば幼稚さの愛だと言っていい。直観は原始的世界では最善の選択要素だったろうが、既に知識が栄えた後でもこの経験を最高とみなすのは退行的。知的経験は全ての理性のまやかしを一つずつとりのぞいていく認識の透明化への道であり、これは純粋経験を最も原始的な始りの点としてしか省みない。直観は系統発生知に基づけば概念のない段階での世界認識をいいあらわす言葉を出ない。
 双対関係は比例への愛好を抽き出す原理で、我々の知性が捉える世界解釈への切符。之なくしては透き通った認識はできない。感情論にとってすら、鋭い表現手法がその裏付けとなるのかも。解釈論は比例の学習をその他の曖昧な未分経験よりも高く見積もる。なぜなら分析哲学上、道具はその包み括れる母集合のふわけに有効。さもなくば道具なく解釈する者は自らの認知できる世界概念を不足させ、知らずしらず偏見や理念のまやかしに堕ちる。

国際警邏

吾せんづてテレビという旧型の卑しい媒体を久し振りにみかけし。そこでポルトガルへの旅を映してありし。取材の下郎、あさましきキタナキ仕種にしてみるにたえず。その種のげすを国外へ不用意に出しあたかも日本国人の代わりかと思わせる悪念、必ずや報いあらむ。一部の賤業者ども、之種の手口いとあさましき。何れ逆翻訳型の売国奴どもみなは処分のてくだあるべし。

深い業

とても冷たい世の中に出て
競争させられた
べつに争いたくもなく
どうでもいい友達を蹴落とさなきゃならない
どうしてこうなのか知る為に
社会の一番底まで下りてみた
そこはとても広がっていて
まるで天国みたいに緑ゆたかだった
ほとんど苦労を知らせずに育てようと
大金持ちとやくざの親分が夢中で
自分らの子供だけをその天国みたいな環境に
囲い込むため僕らは日夜働かせられていた
地獄ではその様な野蛮なルールに則ってしか
相手をやっつけることもできなかった

宇宙の中で少しの隙間があって
じっくりと世の中のしくみを考えた
出した結論は
世の中はとても汚い所だから
どう頑張っても何もかもを綺麗にはできそうにない
戦いの限界だった
関西を見に行ってみたら
そこには山ほど下品な人だかりがあって
細やかな心遣いなんて全然お呼びじゃなく
彼らは東京よりもっと汚い暮らしを幸せそうにしていた
いなかを見に行ってみると
そこでは理解力ない人たちが仲間の輪を大事そうに
守っていた。そして僕は世の中を
深い業の中にある付き合いたくない場所だと感じた

「SP連れで御苑走っとるオッサン
おみゃーさんなにしとんねや?」と愛知人がいう
「クックック
偽善の政体
テレビ局の繕った
嘘っぱちの八百長国家
どこまでもみにくい
極東の邪悪な
テロリスト政権
あなたも体験してみる?」と悪魔がいう
暴力革命で打ち立てた
南蛮人の裏切り地獄
どこまでもずるずるとひきこまれる
地獄沼の悪党競走だ

平左衛門

衆愚政一喜一憂庶民感情
とるに足りない衆愚の世論
公共放送まだまだ貪る平左衛門

2010年2月19日

化学

無限階層論を真と仮に定めると、感覚原理は生涯のみではその全体像をみせなくなる。つまり、算術数学の命題は化学や宇宙論については当たらないだろう。それらは、極限か喩えをいわゆる造型数理で補ってのみ無限内の全世界をときあかす。無限階層論が真だと定める証明は出されていないらしいが、ライプニッツ哲学のモナド論を引けばその構想が少なくとも単子原理にとっては真だと定められる。乃ち最小単位は常に算術で量れる一定量の仮設物として求まり、それはさらに細分化できるので物の無限階層の奥には比例単位系だけがある。
 原子量ごとに物が異なる性質をもつのは外界とのふるまいで。ゆえ物質とは比例単位の規則づけで、しかもそれは感覚原理下の分類。物質は微小な引力場の(現状では中間子力とされている)引っ張り合いからみれば、別の宇宙系では光子かその束への初速度条件が(花火効果から)違っているので物質の化合とそれらのふるまいも違う。無限階層論の妥当さは、光子がさらに分割されるという見方を波ではなく、より小さな粒状体のいわば光砂の動きへ描く所にも。この砂は光束が波打つ光の巨視観でしかないとしらせる。光粒子はこの光砂を単位として波と束の性質を兼ねる。この物理化学的には砂力学を必要とする世界は、流体力学を一定の微視引力条件下で特有の動き方へとしつける。砂は粒子としてそれより小さな粒子の風か、大きな粒子からの移動をこうむる。ゆえ光粒子がある単位では束として細かな波らしい性質をもつことは、それより小さな粒子を構想せねばなりたたない。仮に空子とこれをよぶと、次の入れ子造が分かる。
クォーク⊇光子⊃空子
事実上、
光子∩光束∪光砂∪空波
の集合関係があり、光子はこの中で対称さを真空効果を以て仮想的にうみだす引力子(これはエネルギー励起への対称さの仮定として、陥没状態へ置かれた微小空間の歪みにしか見つからない)と共に水銀風な砂状の波としてふるまう。光子に重さが見つからないならそれは空子以下の世界への計測方法がないからで、そこに速さがあれば同時に重みは生まれう。

迎賓

ネット規制わるもの扱い派遣かな
多国籍大企業製CDで天引き
細々しい手続き大変だが極貧
お役所にゃ入れば一生安全ぞ
迎賓の為に拵え税の家

物理化学

偶有さは量子規模の動きが単子ごと相互いへの干渉を、極めて弱まった引力のために普通とすることのたとえ。ゆえ量子論にみる確かめられなさは波束単位とすれば捉えきれる。一つの単子は別の近くのそれを動かすので、常に全体は流れ動きのさなかで一定の法則をもつ。トンネル効果はその波束同士のすり抜けで説明できる。全ての物質は量子規模では確率的にしか固まりや物らしさをもたない。この固まりは同位元素の集まりがかなり安定した環境の中では定常視できる、という偶然の機会によっている以上、違う引力や光速の条件下では時間の間延びのため個々の単子もことなるすり抜けを行い易い。もしすり抜けの確率をとれば、確率としてはおよそ一定だろう。この種の確からしさは数理的であり、砂流率へ赴く。円形の熱放射はπ・R2・T故、単位時間の流量は
(π・R2・T)/t・・Flows⇔F
R: 半径
T: 絶対温度
t: time、時間
所で熱は摩擦で損なわれるので
F-S・・Sand Flows⇔莎、サ、すなぼこり
S: Entropy
ここで、原子量を重畳さで割ると
Atomy÷Perplexity=定量A/H(x)
H(x): 期待値xについての重畳さ
∴莎××定量A/H(x)・・砂流率Θ
××: テンソルの転送、二がけ
単位重畳さは逆数にすると
t/(π・R2・T)∴Θ=π・R2・T××H(x)\A××t
⇒原子量の流率は単位熱放射の損失確率で割れば一定。これはテンソル上でのことなので、二行二列以上の確率の任意の値が確かでなさ、つまりあやふやでも成り立つ。砂流率を原案にもとづいて考察すれば、量子のすり抜けは熱損失の部分形といえる。ゆえこの確率は量子力学を微小空間での摩擦問題と考えさせる。

2010年2月18日

財政再建策

赤字財政の根本は、お役所仕事の非効率にある。
長引く不況でいまだに業績をあげている企業をみれば、いかに最少人員で最高効率をめざし日々研鑽をつんだか理解できる。
だからまず日本政府が国内最悪の事業体であること、いますぐ破滅させられておかしくない破産勧告待ちにあるのを反省し、巧いリストラの手法を考えださねばならない。この期に及んで増税と述べている者は民衆がいかに節制しのびない暮らしに甘んじているか想像ができないのだ。

私は百円の缶を買えないので我慢して水を飲んでいる過労しそうな若者を見た。同じ時間に、片方は彼が払った国税で息をつき高級ホテルの外酒を飲みながらよっぱらった。どちらがよりおおやけの共感を得るだろうか。民主主義は党派内の情実でなく公道の総意を尊ぶ。

巨視的にみれば各種の流通業の内に最低限度の公共サービスは含まれ、そして摩擦でしかない流通業はむしろ無償化された方が全体にみた産業の効用は高くなる。小泉路線にあった小さな政府構想への途上で出鼻をくじく施策を行おうとする揺り戻しは、「民営化による合理化の効率」を無視している。

ゆりもどしを主導した者の悪意の有無にかかわらず、民営化なくして効率は決してあげられない。故いかなる工夫を用いても、可能な全ての領域をまずは民営化してしまわねばならない。
それから、こまやかな想像を超えて瑣末な犠牲を伴ったらしい最低限度の文化的生活の領域を、再び囲い込んで公共財とすべく政府が公開株式の過半を買収する必要がある。
この全ての建前に、地方自治へのお役所事業切り捨てのためのこまかな決定権限の委譲がいる。なぜなら大変こまかなところには中央からはとてもではないが目が及びがたいのだから。
 現政府には金がないので一般株式の方式では購買の余地がない。従って、まずは国家公務員人員数の徹底的な削減でその為の事前の貯え分だけは確保しておかねばならない。
なおかつ、いまあるほとんどの非効率すぎるお役所仕事ぶら下がりサービス分野の仕分けで、それら浪費能力だけがやけに誇大化した大赤字事業群が野の土に還ることによる市場化の活性を狙うべきだ。そうすればいずれは競争のなかで栄えてきた再商業税収も、次第に期待していていい。

しかし、次のことは原則だろう。
『市場の寡占状態にある分野は民間事業体が力をつけるまでは保有しておく』。
さもないと、独占市場として堕落していったJRやJALの二の舞になるので。

2010年2月17日

Damaged glasses

I used to be long vacation guilt abandon
All snows vanished plane green field
Thou lite small my posts full filled
Winter morning stars hearing our knows
Damaged my glasses now talk my old ages