2010年3月16日

女権の洞察

私は女権への過度の調整的措置や無理に性別の生得差を否定した過剰な、いわば不平等な平等を与える事に反対だ。又まともな理性のある女性というものを一度も見たことがないので。即ち彼らの淘汰誘因内に理性の項は含まれてこなかったのだ。

 女性へ人権を与えた原因は、アメリカへ進出したイギリス人の移民がその危険な土地できわめて偏屈な女性崇拝の希少価値理論を展開し、しかもフランスはじめキリスト教道徳の転用に及んだ西洋各国がこの迎合に走ったところにあったと思う。全体として見ると、品位のより高い女性が存在しているのは儒学や古代宗教の浸透しその戒律が生きている先進的と言われざる圏域でらしい。つまりアメリカ人の思惑は女性らしさの性格形成という面では致命傷だった。
 実際、女権はそれまで自由人男性へ権利として与えられていたものをそのまま適用するかたちで無意識に進められた。この流れは自明どころか一過性の特殊な経験であり、まったくアメリカ風の、至る所風変わりで偏った習性なのだ。だからこの風習にならった浅薄な国家群では否応なしに女性らしさは消えうせ、また省みられず足蹴にされ、代わりに男勝りがなぜか皮肉もなしに貴ばれねばならない共通の勘違いが正当化される、という文化面での野蛮化が観察できた。

 女子供という範畴化自体は哺乳的保育能力を省み疑問符として大きすぎるとはおもわれない。希な例は常に可能性があるが、問題は心理の基調にある。勿論、性別をふせた成果の比較で、我々は完璧な正答率を達せるとは言い切れないが、或いは出現率でみれば確実に、男性の公の社会へ献身する理性的才覚は生まれつき女性平均のそれを上回ると見られる。彼らの遺伝へ性的二形にみられる役割分業に関する選択が、遥かな古代から続けられてきた。住み分けとして女性の人権を一人前と捉えさせること、或いは階級制度の消失により奇形とすら言えるだけ女性脳化した男性が存在しだしていることは危機的なばかりか、21世紀前半の文化流路面での錯誤ではないか。アメリカによる統治は、上流階級というものの中で発酵しておくべきだった分限道徳とか男女の別とかなんらかの貴族道徳をみな廃してしまった。商売道徳の称揚が資本経済の社会では常識とされる結果、ちゃきちゃきと働き深く考える習性なき器量のよい形質、つまりは接客業種が他より生存されやすくなる。だがこの形質はえり抜きの中間さという他特段の特徴をもたないので、あまり尊重されるを要さないと言える。なぜなら全体数にみれば他の形質はみな代わりになれるのだから。

 私の考えでは階級制度の再興、又は最低でも女権の減衰措置は、もし大衆単位で不可ならものごとを考える余地のある実質的貴族の層でだけでも信奉や礼賛されすべきだということだ。この種の貴族精神の高踏さがきえさった世界からは決して、かなり秩序の整った法や、おもに家庭道徳の面で優しさとして知られる女らしさの定義は二度蘇らないだろう。
 アメリカという歴史の浅い国の実用家らが述べている再生産率への最適化は、きわめてごくまれに生まれるかもしれないあきらかに男勝った各形質の奇種さを伴う女性のために、全体としてのぞましい社交の風紀、同性間競合の健全さを意味し、中性的中間形質を削ぎ落とす効果をもつそれをとっぱらってしまう様な、浅薄だ。代わりに私の考えでは、女権は少なくとも機会平等・結果放任、乃ち結果は部分的にのみ最小限調整された方がいい。常に性別を問わない自由人の機会平等権が一般女権への調整的な贔屓よりも比べて優位になる法政は徳あると認められる。でないと国家は次第に後宮化しやがてその傾きは現実的となるであろう。