最も原始的な秩序として、極小空間とそこでの羽振りは原子量につき真。単に、社会でのふるまい方に見た抽象さは適応した習性の都市化比率につき、この空間量の原則をあてたもの。
空間での社会系、これは都市化密度とも呼べる。では何が真に抽象さなのか、それは秩序についての立方法則による。社会系は別の空間とは違う秩序をめざす。これは空間順列につき一定度の重畳化を伴う。社会が極小化された幾つもの粒子の運動と捉えられれば、都市化法則は立方の積み重ねが空間あたり蓄えられた事已。逆に立方でない粒子運動は混乱を招く。多くこの作用は犯罪視されたりもする。さて情報量の選好さえそうならなぜ社会関係が立方化への動静に左右されないか。つまり機械を介した社会との折衝は常に、改めて機能づけられた何らかの資源を掘り起こすことへ繋がる。
善意とされる利他性能は、機能面から思い付かれた立方法則の情報量選好、おもに文化素の質的それに過ぎない。故ある時代の社会的繁栄は決して不動でなく、飽くまで機能からの交流の活発度と分かる。
もし全ての立方法則が同じ働きの文化素の発祥別にすぎないなら、社会の性能は結局、資源配分の効用係数が対外と対内で一定の均整を保ってあり続けられるその可塑さのあり方に等しい。つまり経済粘度が恒常態規則と一致すればその社会応報は好ましい。有償無償をとわずその営みの質は立方規則の一定の積み重ねがどの向きを主にするかの趣意による。故経済粘性は資源についての技巧からの選好を帯域毎に待つ。経済粘度は体制内冗長さを立方法則あたりの効用、つまり機能で択ぶ。乃ち経済粘度は、それが悟られれば尚更、最大の機能化をかなりのひまながさと共に維持促進させゆく。
社会機能が粘りで省みられれば、化学素単位でみた都市化で著しい趣向差が生まれていくのは自然。