2010年3月7日

共生思想の位置付け

自然との共生という思想は、自然征服への理性にとっては過程と見做される。自然と一体化している間はその支配などには思いも寄らない。
 多様で様々な生態をそうでないのより豊かで先行きある体制と考えるのは適者生存上妥当かも。が、生態系の支配者が、つまり極相種が支配圏已ならず広い生存適所を持てるか決められない。地球の一時代の極相種が支配圏を最も手広げた丈で誰もそれを永遠とは思わない。この点で、古代宗教の中で永遠概念が頻出するとしても疎かな知り様だったとおもうしかない。神概念を除けばそれらの予言に、同種間社会内規則づけをこえてあまり見るべきものはないらしい。尤もそれが倫理というものだが。
 今の時点の生態学識から紐解けるのは、自然共生型の生態論は地球の内にあっては中継種の生態領域らしいということ。故量感への紛れにみた生存確率は、かなり長期に鑑みてもこの領域への適応が最も高いだろう。何らかの文化反応系にみた極端化を避けるという習慣づけを以て中庸の徳とした古代のさとりとは、それ自身を経験則下での実際の生き残りに想えば凡そ確かだったのだろう。先駆種が生じる余地にとってさえも、極相化への一極適応よりもある程度の中継団が残っている方が有利なことは、溢れる生態現象のなか何が真に新しい変異かへ多様さの光明を照らすのに役立っている。著しい多様さがない場では、珍奇さとして一般的に進化と思われる変異でさえ排他的か淘汰的に差別され、大多数派である極相種の支配力によって潰されゆく。
 自然共生型の生態思想は、もしそれが生態池の養生のみに目当てを限られれば、押し付けがましくない一つの考え方としては用いられていい。だが真の先駆は常に極相化した完成度の高い品種からのみ大幅に図られるので、自然征服型の生態思想はこの中世的変異のあつまりを引き連れるかさもなくば支配し直す。そしてこういう経過全体にみた生存確率の面から、円滑な進化の為に自然共生論は量感を伴う母系となる。言うまでもないが、にも関わらずそこには常に矛盾か自己満足か自己適所化を伴うので、審美感覚の超中庸論のため以前とは大きく違う新変異に類する品種を選択しきれないだろう。だから自然共生型への最適化系統からは生き残りはあれ生態的な進歩はない。