多様で様々な生態をそうでないのより豊かで先行きある体制と考えるのは適者生存上妥当かも。が、生態系の支配者が、つまり極相種が支配圏已ならず広い生存適所を持てるか決められない。地球の一時代の極相種が支配圏を最も手広げた丈で誰もそれを永遠とは思わない。この点で、古代宗教の中で永遠概念が頻出するとしても疎かな知り様だったとおもうしかない。神概念を除けばそれらの予言に、同種間社会内規則づけをこえてあまり見るべきものはないらしい。尤もそれが倫理というものだが。
今の時点の生態学識から紐解けるのは、自然共生型の生態論は地球の内にあっては中継種の生態領域らしいということ。故量感への紛れにみた生存確率は、かなり長期に鑑みてもこの領域への適応が最も高いだろう。何らかの文化反応系にみた極端化を避けるという習慣づけを以て中庸の徳とした古代の
自然共生型の生態思想は、もしそれが生態池の養生のみに目当てを限られれば、押し付けがましくない一つの考え方としては用いられていい。だが真の先駆は常に極相化した完成度の高い品種からのみ大幅に図られるので、自然征服型の生態思想はこの中世的変異の