2010年2月20日

解釈学及び京学批判

ハイデガーのいう解釈学はもし記号論の中へみれば、意味のとりこみを学仕立てにする立場をもちいる。解釈学は分析哲学の母語系内での沈澱で、それは意味解釈についての世界を理念界の中へ確保する。よってこの立場は意味使用の語学に含まれゆく。語学外では解釈論に留まる可で学仕立てに定型化させようとする考えは決して脱構築の立場より有徳でない。
 脱構築は解釈の非定型さへの警句。もし警句が定まった型に嵌まればそれは既に構造であり、学的意味を付加されているかされるべき何らかの体系へ従属している。意味が定まりえないこと、差延とよばれるこの運動は特定順列の文字ことばが別の論理の双対を伴うという写像関係を奥行き保つ。意味はまたおもいと味わいへ分けられる。意い界はそれを整えた側の、味わい界は読み解く側の解釈論をつくる。論理の双対さは殆ど果てなく学問の世界に入り込む。論理があるところ皆双対さにもどる。
 主客未分の純粋経験というこの双対さを経由しない直観を目的とした西田幾多郎の考えは、それが京学派の源氏物語など中世の風物を引く感覚論へ戻るので、いわば幼稚さの愛だと言っていい。直観は原始的世界では最善の選択要素だったろうが、既に知識が栄えた後でもこの経験を最高とみなすのは退行的。知的経験は全ての理性のまやかしを一つずつとりのぞいていく認識の透明化への道であり、これは純粋経験を最も原始的な始りの点としてしか省みない。直観は系統発生知に基づけば概念のない段階での世界認識をいいあらわす言葉を出ない。
 双対関係は比例への愛好を抽き出す原理で、我々の知性が捉える世界解釈への切符。之なくしては透き通った認識はできない。感情論にとってすら、鋭い表現手法がその裏付けとなるのかも。解釈論は比例の学習をその他の曖昧な未分経験よりも高く見積もる。なぜなら分析哲学上、道具はその包み括れる母集合のふわけに有効。さもなくば道具なく解釈する者は自らの認知できる世界概念を不足させ、知らずしらず偏見や理念のまやかしに堕ちる。