科学精神による侵略は世の一契機でしかなかった。対応に見た生態秩序は趣をことにしたのみ。
科学精神が無用ではないが、それ丈が世界精神の本性とは考え辛い。特に数理による自然比例の認識がその侭、生態侵略への道具へ転用された事は決して唯一の法ではないのだ。この用法自体、西洋哲学の縁起説の未消化を実証している。
ベーコンの自然征服論にとって縁起説は蚊帳の外に置かれた。彼らが依存している自然界の諸条件は、極相化した自身らの支配圏拡大の土台としか見做されなかった。
従って、科学精神の導きさえも民族の智恵の総量に基づいて構想されゆくのは明らかだ。なにをよしと見なすのかにとり民族の目指す理想は、自然への考察の結果のみならずそれを用いる主体に対しても違いを生む。善意の程度は今日でも最も信頼できる智恵のありかだろう。この程度は常に神の意いに劣るだろうが、にも関わらず現世系で至りえる最高の指導力は理念の上に花開く人知の限界にある筈。
科学精神の用途をもし共生界へ限れば、藝術はやはりそこでの最も究極された目当てだといえる。わざ自体は彼らの特徴を誇り示せるにすぎないが、それでも我々はこれより過ぎた何らかの神意の顕れを見つけ行く仕組みをもたない。最高のわざはまた同時に科学精神の技術へと仕組まれた顕現として、我々の智恵の壮観を個々の芸術のあつまりたる街の上に花咲かせる。家、村、町、市、県、府、道、都、国、などこういった今ある領域の幅は決して個性と矛盾しない。芸術があつまった結果として全ての風趣は形作られゆく。自然界と人間界の調和の姿は技術そのものを活用した芸術界とよばれるべき世界をつくる。風趣の目的はこの芸術界の在り方に求まる。よって、科学は技術の、技術は芸術の道具である。芸術界自身は神の計画を実行していく一手順でしかありえないだろうが、対してその調和から想像できるあらたな生態がこそは育まれるべき本当の進歩であり、そこでは生態が真に多様さへの導きたり得る証なのである。
もし支配のみを目的とした適応行動があったとしても、補集合は常にその個性を取り囲んでいつしか分解し、次の世代への土壌となす。故に自然界と縁起説の土台に基づいて適度に協調する世界観は、文化とよばれていいだろう文明化の間にある土壌の養生にとっては最適たる。文化が次世代への投資であることは、農耕文明が何れ文化の程度を自身の理由づけとしてきた証だろう。このさなかに咲く生態条件が真に芸術界とよべる場所なのだ。土壌がうまくなければ次の世代は惨めだろう。文化は土地定着型の風趣にみれば最適化の一様態と考えられる。