無限階層論を真と仮に定めると、感覚原理は生涯のみではその全体像をみせなくなる。つまり、算術数学の命題は化学や宇宙論については当たらないだろう。それらは、極限か喩えをいわゆる造型数理で補ってのみ無限内の全世界をときあかす。無限階層論が真だと定める証明は出されていないらしいが、ライプニッツ哲学のモナド論を引けばその構想が少なくとも単子原理にとっては真だと定められる。乃ち最小単位は常に算術で量れる一定量の仮設物として求まり、それはさらに細分化できるので物の無限階層の奥には比例単位系だけがある。
原子量ごとに物が異なる性質をもつのは外界とのふるまいで。ゆえ物質とは比例単位の規則づけで、しかもそれは感覚原理下の分類。物質は微小な引力場の(現状では中間子力とされている)引っ張り合いからみれば、別の宇宙系では光子かその束への初速度条件が(花火効果から)違っているので物質の化合とそれらのふるまいも違う。無限階層論の妥当さは、光子がさらに分割されるという見方を波ではなく、より小さな粒状体のいわば光砂の動きへ描く所にも。この砂は光束が波打つ光の巨視観でしかないとしらせる。光粒子はこの光砂を単位として波と束の性質を兼ねる。この物理化学的には砂力学を必要とする世界は、流体力学を一定の微視引力条件下で特有の動き方へとしつける。砂は粒子としてそれより小さな粒子の風か、大きな粒子からの移動をこうむる。ゆえ光粒子がある単位では束として細かな波らしい性質をもつことは、それより小さな粒子を構想せねばなりたたない。仮に空子とこれをよぶと、次の入れ子造が分かる。
クォーク⊇光子⊃空子
事実上、
光子∩光束∪光砂∪空波
の集合関係があり、光子はこの中で対称さを真空効果を以て仮想的にうみだす引力子(これはエネルギー励起への対称さの仮定として、陥没状態へ置かれた微小空間の歪みにしか見つからない)と共に水銀風な砂状の波としてふるまう。光子に重さが見つからないならそれは空子以下の世界への計測方法がないからで、そこに速さがあれば同時に重みは生まれう。