なぜ社会内で幾つもの利害対立があるのか問えば、個性が形質面でばらつく上彼らに相互反目が程あれ許されているから、裁判の理由はこの形質の発露が、又教養の度合いでさえ左右する系統発生の多岐に、分かち難い往路差を与えればこそ。その和平内解消には法治が前提。個性間の格差原理(正義論のロールズによる)は、それらの利害関係を最低でも同じ条件で遇わせる必然さへ言い及ぶ。この形而上公理は生存権内へ又社会保障の限界効用を定義させたがる。格差原理は最も基本へ遡れば生まれの調整を込む。そして後に遺伝子座の問題が出てくる。
が権利のみに見て、生まれの調整はいま親権に任されているのでそれを給付や扱い以外で動かせない。故真の生得格差原理は最低限度の社会保障給付を社会で最も恵まれた人々の扱いと同値化しなければならない。いわば恵まれ方の生まれつきの違いを、給付あたりの扱いで最大化せねば。もしこの原則を喩えれば、雑草と鉢植えの間に同じ水のみならず、少なくとも太陽の享受という最低限度の光合成による生存条件は庭師が保障すべきということ。生まれについての選びは国家にでなく個人に単位があるから、更に之は形質の問題を含む。より広域には条件と云う可だが具体的にはいわゆる障害、の程はほぼ調整の域内にある。故給付量の調整は認められる形質のばらつきが条件の程に適う時正当。そして之は格差原理に入る。これとは別に、努力や才覚で広がった後天差への調整論がある。生存場、主に社会が自業自得を認めてもそう主張したがる時、怪物人格と彼らはいま呼ばれている。しかし、平等観が後天的に激しく崩れる場では、この主張に全く道理がない訳でないのは、目の毒とか気の毒とか外部不経済とかそういう否応ない社会共生観に芽生える。つまり後天調整も、多少の累進さは場合により合理化できる、でないと失われる公益もある。即ち育ち内での調整は、累進格差原理として別項目で最低限度保障に入る。
さて遺伝子座での格差原理へは、次の対処がいる。塩基配列の自由を生得権利へ含め置く事。故条件の程が公に議決された恵まれ方への遺伝子治療の限度を保障していく。いわば最も望まない遺伝子座を程度として保障費用で賄う理由が正当化できる。例えば、だから癌治療はここに入るが、整形費用は入らない。後者は最低限度保障の公水準から、凡そ既存日本国単位では、若しくは一部関西圏内の地方自治主張を除いて先ず洩れるだろうから。