2010年2月23日

西洋形而上学の批判

言文間の写像関係は、またうつつと夢とのそれにも当たる。故、物語という形で流された写像は、まぼろしへの誘ないを言文間の二重さの内にも映し込んだ。言文の重なりはそれらが口語と文語での間延びを前置きにした並び替えの規則なことで、写像を夢現と言文との間へとさらに移し替えた。
 この綻びはわざの写像さとして、プラトンのたとえから引き続いて今にある。みわざと呼べるものは神の作品ばかりであり、その引き写しにすぎない間はすべて人のわざといえるものは像を写した模造品である。この考え方が、理想と訳されていいだろうイデア概念を抽き出した。よって、言語分析で行われている西洋の大陸系形而上学が写像についての映し込みを最も源まで遡ろうとするのもみなイデア概念に戻る。わざの像写しとして、芸術はすべて神のみわざへの真似ごとでしかありえない。そしてこの言語へのまず夢現の間での、つぎに言文の間での投影は、最終的に文面となったものを入れ子造となった世界の最低でも四重の写像とする。否定の否定は肯定と同値(¬¬⇔→)だから、文面は文面としての実在をもつ。
 分析哲学はみな文面での実在さへの考え究めをプラトンとアリストテレスの時代にあった像写しへの定義づけに戻る。形而上学といわれる体系が常に改め良くなる学殖なら、文面と世界との間に現象学とフッサールからハイデガーへのドイツの学派が呼ぶあらたな世界をつくりあげようとすることは決して最善でない。なぜならこれらの入れ子造になった写像の関わりは、みな語学の問題でしかありえない。最終的に実在するのは文面と世界だけである。よって文面の形式だけを相手どる語学は、他の文芸批評や言語分析などよりも一層のこと実証的で事実に基づき易い。想像力の領域を学殖化しようとする試みは趣味論から外へ出ない。何が到達されるべき理念かへ警鐘を鳴らす試みは、一切の審美感覚への啓蒙とも起源を同じくしている。乃ち理念界での最短語句化へ、いずれ文芸での作劇技法の界隈にしかなりたちえない現象学とやらの試みは必ず還る。この文面語学の考え方を、いわゆる創作の余地を含まない再定義づけとして文学と呼ぶのは、日本語に於いて功利。そこには文面以外への沈降や耽溺は許されるべきでない。何が書かれているか、だけが文学の問題。そしてそれは、最高の理想としての理念のみの問題を考え究める形而上学とは多かれ少なかれ関係なく、哲学の途の上での一課程でしかありえない。