2010年3月13日

政治学

地球上で各種の資源を見つけるには、先ず使い道がなければならない。ゆえ資源量概念は変わる。資源は用途にとっての機能を果たせる分量。資源量とみた生態での用途視は、機能を産業や仲介業についての微分値と合わせる。資源の量はおもに生態用途がどこへつくかによる。ゆえ機能の気づきは全て他一切の資源量への掘り起こしと等しい。
 資源は考えによる。もし産業が巧みならその工学度に応じた別の資源値が設けられゆく。資源量には、よって需要との兼ね合いが前置かれる。もし産業密度に偏りが出ねばどこも文化間交換を企業化しない。ゆえ機能の傾きが皆何を仕組みに社交させるかの基。
 機能面にみた企業からの趣味は、文化間差額の交易量感についてすら現実的。換言、趣味の種類が交易の選好品へあたる。なら資源量は望まれた交易についての、自然と社会か社会間の建設意図のみ。機能からの文化益は、そこでの趣味観による。資源量についても豊富と貧困には機能規制が前提となる。功利主義的幸福感覚についても同じ。快苦は家政か個性機能の傾きにより、なら資源対比は文化益概念を決して出えない。一般に政経計算の機能規制は、よって土地文明の質に着く。だから功利主義からの社会生態への一律統制は必ず細部で失敗する。
 文化間交換差額は決して資源対比での希少さのえり好みと矛盾しない。いいかえれば交易面で彼らが利害損得を推しゆくのは自動化されていい文化素の流れ。これは商業種が、生態としては機械的であること、別の資料を与えもう一方がそれに不足しつつ自主交流できるなら必ずそれを移し替える中で繁昌したがる事を証する。商業種は何れ自動化されるだろう。その公理系は生物量にみてほぼ一定であり、交易規則さえ社会が基盤法律化すれば必ず仲介業は機械操作系へ還元され得るのだから。敢えて言及すればなんら彼らの末路は予想できない。しかし彼らの転用が進まねば先ずその量感はどこかへ処分されるだろう。産業の機械化は、当然ながら機械操作系の専攻度以外の習熟を徐々に廃してしまう。伝統芸能界は縮約され、小さな空間量を占める圧縮率へしか省みられず、又その適所でしか生態づけえない。