逆選好で人間の性選択が進化を抑制されている事実は、来世勘定が宗教の領域へおしやられつつ彼らが長い期間を諸形質の類人猿との近しさを転用する丈に済ました深い訳らしい。逆選好は最も審美的な感覚からのそれへ集められがち。故人間の逆選好は量化の傾きを強める。もし進化に見れば、自己僻地化は量化への解除を適応要因とする最初の段。故まず幼型が示されねば皆人類が彼らの轍を抜け出す理由も生まれない。もし皆が量化の逆選好を続けていけばその社会誘因は皆審美さを高め、代わりに新規か珍奇な物をとぐ。審美さは超中庸さともいえ、故量化の誘引は皆その生態的な多産さへの記憶を素にす。全て人間が文化に高みを得た地域では初期発生期たる幼児時代にしか魅惑感覚は残らない。私は経済圏の消失が多くの場面で発情を抑うと見た。人間は商業で再生産率の高い生態を企む。故皆人口比の密度辺り多い地域では下町気質と云われる再生産率に適った性格が珍重され多くは生き延びるのを許される。
人口内で商圏の必要が少なくなるほど集団に見る誇示の要請は弱くなり、彼らは例えば地味な鳥類と同じく魂の問題を見栄えより高く見積もる。商業都市では一切が値段で決められる傾向をこの種のとぎと等しくす。何が目あての生態なのか。このといは人間へ向けては、もし芸術を演劇と芸能界なるその秩序の低まった姿でも合目的さの形と考えると、他の全ての生態と埒を設けえなくなる。集団や群れの誇示は国か文明を造る。故人間は社会の誇示を一つの姿とするのが明らかで、しかも之は個々人の総計の身。人類がいきのびている訳が社会性にあるなら彼らの理は全てを他の個性との関りの内に求めたがるより起きの間柄へ当たる。全てのヒトらしさは無人島での生態をとぐ因みにあたらぬ上で文明らしさの個々の形質へ当たる。社会的知性を理性と名づくと結局、全て人間の営みはかなり高度でかさね合わされた誇り示しのかわりばえ已。感情なる能力は実質之誇示の形式已。何がヒトのあつまりで貴ばれてきたか、そして性選択の自然な対称さの余地をより体制の低いすこしであれ原始級の生殖そのものへの感心を成人して後にも意識の上で保つ、この子育てか幼児教育への必然さと併せ省みられた社会性は、女性の雌らしさ、乃ち女々しさの中により保存されてきている。之が何をヒトが最も小さな構えとして今日ありえたかの訳。
感情を原始級の特質が保たれた結果と考えた者はそれが合目的さの広がりにとっては今なお営まれ続ける生態の理と気づかなかった。寧ろ全ての理知はこの特質への補い。でないと社会らしさは奥行きのないちごらしいたちへ留まる。理知の総量が社会性の誇示にとって基準となる。之は見比べの容態を舞台にみたてる生態論とも符合して証なしている。