2010年3月24日

文化権とは

鮪の問題は捕鯨への敵意と似て、文化間摩擦やその先覚の度を利用してどこかの国家を貶めるのに使われていそうだ。(モナコ王子とシーシェパードのつながりあるやなしやという危うい報道もあった。)紳士協定面から、欧米人がどの時代まであからさまに捕鯨していたか私はあげつらう気もその無駄手間も敢えて興味がないが、EUの国際議決権への覇権趣味は頂けない。それを手放しで見ていれば確かに、地球上の各国家は今よりもっと西洋化を進めるだけだろう。いうまでもないが、西洋文化にのみ生存権や自治権がある筈がない。植民地獲得の戦争は一段落したので、この自明の権利、即ち「文化権」は各々の自治単位で、外部の系への公共福祉の旨に反せぬ限りずっと自由に決められるべきだ。

 結局、文化の多様さ、多彩さは西洋化一辺倒より価値の高い生存秩序といえる。なぜならそうであればこそ国家同士が相互参照による共栄と向上の道を歩めるのだから。もし(経済学用語でいう)外部不経済を及ぼす程が酷ければ、それは如何なる文化であれ撤廃か改善要求が自明の理だ。逆に、他の文化権へも潤いを与える外部経済文化があるなら、(今回でいう若鮪からの養殖のなりわいを生計としている地中海域の漁師や國との互恵生態の如く)仮に、その秩序が西洋化の標準からはずれた価値観をもっていても、我々には肯けるもの。動物功利主義の考え方さえ、その多様な共生の仕方がある。たとえば生肉食への忌避の程度といった判断の難しい慈悲と栄養学や料理方針とのやりとりなどなどは、我々へ趣味観の啓蒙を行うか次世代への時代内での身の処仕方を、いまより注意深く選ばせるに留まるだろう。
 全体としては、いわゆる必須栄養価に基づいた円錐型のバランスした食事(栄養価分の収穫難易度による地球型生態金字塔との類比として)は、雑食の習性を高次動物については原則としてより少なく消費すべき、と単なる健康の維持の為にすら示唆しているらしく思う。だが「捕食が悪なのではない」、この生態秩序の草刈り効果を忘れる可ではないだろう。
 もし我々やそれに類した高次な動物が次々に捕らえていかねば、少なくとも今ある地球の生態系は少しも維持されえない。豚、牛、鶏、魚、これらのかなり上位にありもと生態に隙の高く家畜化へ品種改良された動物類をまったく人類が消費しなくなったら、すぐに再び野生化したそれらの増大は別の消費過剰を広げ、それまで存在できていた彼らを天敵とするかなりの種類の生き物を絶滅か少なくとも激減させるだろう。高次消費をするのが無用でないのは、そうでもせねば生まれない生態適所が幾らでもあるからだ。故に動物愛護団体がかれらの愛玩の習慣を全文化へおしつけたがる傲慢は殆どがいずれ失敗していく。もし愛玩しようとすれば、人類の天敵でない地球上の全生物はそうできるが、現実には捕食せねば寧ろ表れてこない風景こそが文化権の上で希少なのだ。

 牧歌的や田園的、原野的などと呼ばれるだろう全ての原風景は人類の消費者としての質が決めていくし、そうであればこそ人間の手の入らない未開発といわれる地域との対照について、世界の多様さは各主観の功利原則へ生態資源の実例として献身できる。