2010年3月11日

道徳定理

用法内で味の側を築くのが哲学的冗長さなら言語でいうその啓発観は、言葉の使われ具合がどんな慣習をつねとするかへ叶う。意味と趣味とは部分と全体との味への言い及び。言語のひま長さは用いられる文脈の定常観が高いほど現実的。趣味的文脈は順列規則の凡そのつねさと似た経過を経る。言語内で類推へ係る手間は可塑化できる。故一般に科学知識の精密な言い及びと違う何らかの定常観が、日常と専門の言語に入り込むならそれは某冗長が無論内部へ意味を込める趣味、の面へ当てられたから。なぜこうなるかは、知識層内負担理論の仮説がある程度説明する。ひま長き知者はそうでない者より道徳の面で優位な筈、というかなりの常識風がある。この種の慣習か馴れは訓辞の解釈界へ領域開く。人々はこの種の無意識の祖先を敬わねば罪やおそれを感ける。哲学が、今日の意味で生き続けるのは訓辞への馴れの為だ。そしてこの規範はそれ以上の無意識的理解という一般教養の上回りがなくば打ち破り難いので、宗教的拘束か信の側面は全訓辞へ入り込む。宗派と学門の差は更新速度のみ。古を信じるのと改めて考えるのとでは後者がより別系統と親近し易いから。