2010年3月9日

現代数学仮説

経験則は常に公理系内へ編み入れが起こっている数理公式の集まり合わせと定義すると、意識の他の公理系への真偽命題の決定力は経験則の補集合特性つまり補いの無限に限りう。経験則は補公理系。故所謂決定可能さは学習可塑さが残る限りで真。逆に補いへの編み入れが起きない孤立のいとまきではその脆さを突く決定不可能命題が生まれる。原則として、経験則は開放的公理系でもある。造り数学の最短化規則は経験則増大でなく、孤立した公理系の証明過程が厳密化へ寄与しその道具らしさが高まるのを期待する。ここでもし私の意見を差し挟めば、究極の経験則集合は哲学系と呼ぶをう。この集合は忌憚なくいってまったく任意でない体系づけへの方法論をもちあわせていない。哲学系は既存論旨の脆さを穿つため矛盾した経験値からの作り上げた論理、日常生活で言い訳か最高でも合理化とよばれる何事かをいう権利や立場であり、この止揚的啓蒙運動乃ち弁証法の本質は数理科学の知見が全知へ達しえない、という戒め機能または学習継続の動機づけ規制に働く。哲学系は冗長さしか達しえない。つまり真理をふやかす中で多矛盾度や曖昧さを維持か促進させる余計量への機構を出ない。だから『実践理性批判』にある如く善意しか哲学には実現しえないだろう。そしてそれは知識量に対する啓蒙度に、乃ち無知なる領域への気づかせに叶う限りで。
 数学の厳密化が経験則をみな公理づけきるのは難しい。故今の段階で数学が為すべきは、経験則の母集合化も極力最短化の規則で行う計画を始めること。入力を除きこの出力作業自体の自動化も視野に入れねばならない。
 造り数学分野は、この作業つまり経験則の母集合化計画へかなり使われるをう。なぜなら最短化がなくば秩序を見つけることはできない。どの論理記号も同値の単位重畳さへ叶う複合さで測り、文字か字単位での規則づけを科学知識の一層の精密化へ向けて働かせるをう。