2010年2月23日

日本の信教について

日本では資本経済が信仰の弱さと共に広がった所に固有の特徴がある。神道を国教化し、しかもそれに及んで敗戦した記憶は、彼らが信教自体を胡散臭いものと見做し勝ちな変わった勘違いをつくりあげる。
孤立指数の極端な高さは、こういう勘違いの元で彼らに資本経済への順応をこえた全ての生活面での協力の為の文法を失わせる。
 之等の条件は決してそれとして不全でない。つまり国風の一時の特徴でしかない。
が問題は、この種の孤立界を再び個人主義の程度をこえた掌握へ向ける狂信への煽りが行われうる所だろう。
最も間接的な協調への兆しは政治行動の必要さにある。これがなければ公共さはなくなり、彼らの生活する場がたえず勝手主義の超利己的暴威でおびやかされ続ける。
なので、「民主政治の協調界」は他一切の個人主義行動よりも一層の堅持を要する。これがないと現実に於いて、我々の過半数は常に孤独であり続けるだろう。

 尚且つ、信仰の自由はいわゆる確立された世界宗教へのそれが今よりも公に奨励されねばならない。
夥しい分派が散見されるにも関わらず、『キリスト教、仏教、イスラム教』の世界三大宗教は最も信頼の置ける枠組みであることが疑えない。それらを内心のよりどころに生きている人々が如何に多いことか知れない。
 と同時に、この古来から確立済みの三大宗教ではない何らかの体系への帰依を誘なう邪教徒は、想像できる限り彼らの倫理的欠陥を批判されねばならない。
 前三者の中で時によっては暴力への報復も辞さない信仰体系はイスラム教だけだが、なおこの過激な因果応報の心が相手方の人道に反した暴力を抑え止める限りでは法律の範囲内でのみ場合によっては許容されねばならない。
たとえば、運動競技での公式な勝利や芸能界での人気での追い上げなど当代に許容されている誇示の方式での激情へと、この信じられている応報心は向けかえられるべきだろう。