2010年3月1日

もてなしの趣味

もてなしのよしあしに程がある、とはデリダの論拠になかった。彼は無条件の歓待ということばでの、当為となる奉仕の定義づけでその哲学を卒える。だから見返りなきもてなしがそれ自身のうちに差をもつという感じのよしあしを問題にしない。
 客への態度、は見返り以前に感じを持っている。この感じはおよそ条件づけによらず一定。なぜなら条件は変わるが主の趣味には客への態度の一貫性を保つ動機がある。要は、もてなしには条件以外にも元々目指されるべき的があって、この座りには趣味観なる馬のあうあわないが前提とされる。そして趣味一般は審美感覚論だから、もてなしの程は客体的一貫性へ条件以外の余地たる主の品位を差し挟むいくらもの余白を持っている。論旨の結びからいうと、趣味の合わないもてなしには如何に無条件でも汚らわしさしかおぼえないのでなんの有り難みもない。貧者の一灯という諺は趣味観が心にあること、混同されやすいが奉仕向きのこまやかな精神そのものでさえないことを示す。それは昔風の言い方では魂の問題らしい。先ず以ってよきもてなしは心の限りでなければならない。だからそれはいわゆる絶対帰依の旨を仁の概念と既に深く結んでいる。岡倉のいう譲り合いの心はもっとも分かりやすい心の限りを端的に説明している。茶の湯がこの種の心づかいを啓発した面はたしかにある。成分からくるおちつきは言い争いや格闘よりは穏やかな歓談をより好ませがちだった。しかし茶道のみが心づかいの唯一の道とは念われない。道具に頼っている間その魂は装いである。もてなしのよしあしにはつねにうらみなさや形へのこだわりなさが求められる。もし形のこだわりをもてなし方へ打ち付けたがる風流心の欠けたひとがいても、彼は有り体に感心されはせよ、有り難がられはしない。ここにも程度問題がある。必ずしも歓待がすべての理想をつくる訳ではない。だがただの社交性にみれば、それはもてなしのよしあしではかれる。よき社交性は度重なる印象をよくし、好感をいだかせる。この結果は哲学の上では面白みを意味させるにすぎないが、なお無いよりはましだろう。置かれた社交の条件とは別に、乃ち置かれた取引や交易の関係とはまったく分けて考えてもより面白い性格は、そうでない性格よりも尊ばれるべき。この性格にはよきもてなしの心の基礎が備わっているからで、真昼の唐突な雪のごとくその訪れは別の社交性の持ち主よりも客にとってはまこと有り難い。不躾とは冗談を抜きにすればこころよさが面白みとは違和している習慣づけのこと。以上から、よりよき躾とは心の面白味を鍛えることであると導ける。滑稽味やおかしみは刺激のつよいたちから、不可欠に過度を煽るのでおそらく最善ではない。ここにも中庸の穿ちという実践的善意の限度がある。寧ろ、極端なそれらは面白さか興味深さの部分の形らしい。面白さはもと趣味感覚の鋭敏さからのみ鑑みられる微妙なきもちのゆれなので、見出だそうとすれば普くあるし、無いひとには何もない。教養や演技力と結合することはさらに希で、普通これを才能と呼んで貴ぶ。おもしろさが最良の段階へ高められるとそれは芸術性、或いは芸術味を伴う事柄の風格となる。ところで崇高は芸術の美には及ばないので面白みやもてなしとは関係せぬと公理づけると妥当。自然は我々をもてなすことも楽しませることもとりあえずなく、ただ無条件で広がりをもつ。乃ち神の作品に及ぶものがない限り人為はみなそれを少しずつ恐る恐るも借りてつくりかえ、自らの信じる面白みへ向かって再び玩べるにすぎない。これが本来たえざる息抜きとして活動の重複さへ求まる趣味らしさの意義。このつくりなおし活動は我々にとっての面白みが我々を超越した何者かにとっては愛玩か便利の、おもに興味深い鑑賞を目的とした概念らしいと説き明す。