知識を記すか言う言語体系はもし微差がなければ皆記号論理の地平に入る。微差は知識でなく訳語の問題。故科学言語を記号論理へ統一したがるのは合理。全て科学言語の記述方法は記号論理の充て填め。科学言語に日常言語か日頃の言葉が入り込むのはそれが記号論理の規則を曖昧化している詩的要因による。この揺れは知識の伝達には合理でない。記号論理の日常言語版は詩的解釈を差し挟み辛い一定の埒を要する。全て、詩的解釈は記号論理の中で最大限に除く可。造り数学もこの為に働く。
論理記述が単位長さの順列である事、之は幾何学図形と単位複合さを増したそれらの図式化とは別に、全ての数学が論理学にとっての部分作業であると教える。且つそれらの図式化はこの作業が記号のみの仕事であるとしらせる。つまり図式は特定の記号への注解か解法で目当ては単位長さへの説明の省略。図式を数学視するのは必ずしも合理でない。この為に、図式の測量と解析のみが本来の幾何学。
論理記述の形式を最短化したがる比例は、皆論理哲学の手段が既存解法へのくみかえであるところから順列づけられた注釈を他よりも義務的とす。故皆之比例は鍛えられた違った体系をそれ以前より圧縮的とする為よい。←→記号論理は巧み¬⇒科学言語⇔日常言語∴矛盾。
記述のよさは同時に口語的たる可。ライプニッツの考えた普遍数学は、実質はこの科学言語の日用程度に等しい。哲学はこの成果をとりこむ。