2010年3月21日

品格と自由

品格論の流行は当代の数学徒たる藤原正彦氏が『国家の品格』なる、留学組にありそうな国粋趣味な随筆を新書のかたちで広く売った所に起源があると思われる。品格論の欠点とは、自由主義に自明の理だった「個性の多形」をなぜか否定しても居直りだす傲慢さにありそうだ。本来、品位のない、何らかの意味で低俗とかまけられる生態が不用や無駄、ましてやどこでもあまねく抑圧されていいのでは必ずしもない。中世のスコラ学者らからみれば我々の時代の全科学、或いはその権威の源の一つであるアリストテレス自身からみれば、数学などという利己や神秘の衣でかためたピタゴラスの徒の瑣末な学野への辟易たる邁進などみな堕落である。今は仰がれている科学者ですらとある時代の主流からはまるで門外漢なのだ。同じ事は全時代の生態へ程度こそあれ当て得る。
 要は品位の定義とは比べてのみ分かるものだといえる。結局、品格論とは他律的浮動や煽られ易い衆愚の相互参照の反復に戻る。だからそれ自体が煽情方法論の一種であり、独創へつながる唯一の道である自由を相対的な論拠で潰して行こうとする独善と原理主義のかくれた意図をふくむのが明らかだ。そして我々はマルクス主義への共感者ばかりで構成されるとは限らないか限ってもいけない地域柄にきたのだから、少しなりともの国家原理主義の吹き込みは戦中の実際の悲惨さを鑑み、いわゆる個人主義の文脈から戒められねばならない。

 抑、品位が求まるとすればそれは自由の種類、いわばすべての快楽(単純に卸せば、苦痛回避の生活とはこれを原動力として営まれている)に於ける精神性の高さでしかありえず、又自然や社会科学の知識による何らかの工夫もここに入る。つまりそれは自由の使い道による。成る程下賎な放蕩へ時を費やす俗物より人類の高貴な文化へ一歩一歩貢献し続ける学術活動の担い手は、それは比較してみれば優れて精神的な生活態度を持っているかもしれない。さてその種の俗物は某品格論にまんまと騙されて、直ぐさま自由の矛先をみずからと周囲の人間達への心遣いや次世代の到達点を高められる仕事へと、あらぬ方へできあがってしまった性格こもごも向けるというのだろうか。公衆からの逆らいがたい煽動や大衆報道が囲った世論の抑圧で、生まれ持った傾向からさらに歪んだ性格をつくりあげてしまうだけではないのか。
 品格論はここでも無力だし、というのも教養の有様が各自ばらけているからだが、単にそれは狂信的国粋家らへ全体主義の為の便利な原典を与えてしまうにすぎない。数学に集約すべき能力をあまり上等でない浅い哲学説(ある場合には知恵者の詭弁とも言う様だ。なぜなら彼らは本来の啓蒙ではなく、肩書きをその権威の代わりに利用するのだから。)へと分越えして用いた結末はこう言っては何だが、扇動行為への手前味噌を論理学知識を逆手に合理化できた丈でないか。尤もそれが彼の利益なのだろうが。

 重要なのは個人の自由をそれ自体、社会一般からの一律の抑圧なしに営ませることだ。説教家も堕落屋も、地域の公共段階がその福祉の定義づけへの多彩な素材を望む限り少しなりとも実現されてもいい。それらのどれが遠い次世代からみて何らかの趣味で優秀なのか、我々の時代の眼から完璧に確定しきれるものではない。偉大な才能は大抵当時の普通民衆とやらには真新しい行為によって奇人変人にしか見えず、逆に取るに足らぬ好色物の戯作者や奴隷虐殺の現実はなんの疑いもなしに、多数派に属するがゆえおおやけか当時の中産階級には当時の品格論で擁護されてさえいたのだ。
 利害の調整は一般的な公共政策、いいかえれば地方自治と法治の簡素化に求められてよい。むかしそうと信じられていた品格なる用義は上述のごとく、多数派の偏見で歪んでいることが殆どなので(『源氏物語』の虫類のごとき退廃公家の価値観をみよ)、必ずしも全人生や国民一人ひとりにとっての唯一の目的とされるべきでもないのだ。しかしこれとは別に、個人主義と彼らの生存権を掌る自由だけは、決して抑圧されたり、少しなりとも意味なく迫害されるべきではない。自由の種類についての注意深い(できればこの時代の水準で最も明晰であるとされるのだろう自然科学の知識の引用により、実験でくりかえし検証、つまり「実証できる」)批評がなさるべきと思われる。この種の議論(論争と区別してしばし「討論」とも呼ばれる)は真理とよべる知識への次第次第の漸進へつながるので、途中では多くの間違った説も唱えられるだろうが、それらの比較検討の能力を個々人へ鍛える為にも有益なのだから。