留保資本主義の本質は、大多数の生活者が朝三暮四の連鎖を公認してでも生存したがる生態本能を社会系に依存して成り立たせたい限り、我々の文明が蓄えられた資本の量にこの性特徴を集める合理さにあるらしい。
富んだ家の目立ち方を極端にするしくみは、群衆が再生産率を自らの生態行動の目当てとする「商さ;あきないさ」を維持する限りつねにその偏りを指数関数的増大へ導く。つまり商務への軽蔑が殆どない群衆の中のいわゆる中産層では、おもに再生産率の高い生態を美化してみる欲望によって以前より富む事、今より物資や奉仕の豊かな生活程度を夢見る事が生存計画の動機づけとなりがち。
留保資本主義はこの目先の利益追求の衝動を、富の量感で誘なう計略として最上等。もしそれ以外の資本をえり好んでも所詮は露と消え去るか維持費の嵩みでおしつぶされるかのどちらか。乃ち利益は蓄えを功利とし、でなくば中産層は育成されない。
この道理は留保済み資本が商さを自体で選好み且つ中産層の進退と軌を一にしていると教える。資本経済の本性は、中産層が利益追求の体面を社会の表で大袈裟に振る舞えるほど強くなる。
結論として言えるのは、資本と呼んでいる対象物はこの利益追求の仕事量自体だということだ。商さが実質的資本であり、留保されるべき社会間資源の中身なのだ。これ以外に価値づけられていい何もない。
資本主義の文化素は群衆が体面を保ちたがるほど強まる。留保量が仕事についての強制力を引っ張り込むわけだ。中産層への魅了には最も羽振りのいい社会内行動を誇示できねばならず、それにはつねに増強されるべき財産を要する。
だから留保資本の本能とはその蓄えを自らの体面とほぼ摩擦なくなるまで増加させる「見栄:みえ」なのだ。この見栄への誘引は群衆からの注目に正比例する。
以上を冷静に分析した者は次の事に気づくかもしれない。
仕事量の定義は流動的であり、別の資源や技術をつねに追い求めるという技革法則は産業の内部にあって常々かれらとかれらへの選択をくみかえずにおかない。故もし社会内行動の複雑そうな係わり合いに最も基本となる順列規則をあてれば、留保資本主義の目指す所とは中産層との共生体を維持していこうとする考え方の差や違いなのだ。
簡潔に言って、我々は行動すべき範囲で何かを別の所へ形を作り替えるか変えないかして移す行為だけをするのであり、これは商さの選好みに繋がっていく。だから留保された資本量は見栄え;みばえの中にその考え方を埋め込む為の装置か智恵。でないと仕事の動機づけはなくなる。
留保資本主義そのものが現代の荒廃(こういった高い理想からくる失望感は常に全時代の思索を浸すのだと私は信じるが)へ何らかの効き目ある救済措置への全能処方箋ではないのだが、この機能には人知の及ぶ解決策への万能さが宿っている。
具体的に、有徳な金持ちとそうでない者との間には社会改良の為に使える仕事量へ、また評判にさえ大いに違いがあるだろう。そしてこの違いが、社会哲学と我々の個別の科学知を動かす被雇用者との兼ね合いの上で花咲かせる唯一の道である。
失敗した富裕者もある一方で、見栄のため規制される利他行為への転用により自らの持てる資源を最大限に使った、また使おうと事業を行う者はそうでない者よりつねに中産層からの尊重と愛護を受けやすいに違いない。
全てが誰か一人や一家の下に吸い込まれ独占支配されるのをよしとする原理主義社会に比べれば、或いは成果と努力如何に関わらず公有づけたがる福祉主義社会の誤って捉えられた先天平等の楽観すぎる視野に比べれば、資本経済を前提とした中でも更に先鋭的な「富の格差」を認める留保資本主義社会はその個々配分への合理的秩序に於いて一層の強調と擁護や援護をしてよい安定した体系である。
より賢く能力の高い個性や血筋をそうでない部類よりも尊び、或いは頼りとして歩を進める思想は、何の根拠もなく生まれつき全人間生態の平等だとか出過ぎなさだとかなにかの偶然で成った地位だとかを保守したがる触れ方よりずっと資本量の自ずと偏るしくみへ適っている。
富の格差が広がれば広がるほど我々の社会は前に比べて裕福で、なおも先行き明るいものとなる。これは維持できる財産家や個性はそうでない者よりも優れた考えや資質によって群衆を、よりよき秩序へ導く為の蓄えが豊富だから。
そうでなければ一様な貧しさと足の引っ張り合い、又は馴れ合いが及ぶばかりで暗澹たる社会事情を他の国との折衝や悪巧みで別の世界へ伝染したがるばかりであり何一つ尊敬すべき点はない。
最低限度の生存資源公有化でさえも、極力政治的公的には節制され、篤志厚き富裕家の私の建前をとった慈善事業として営まれゆくのを待つ方が必ずや優秀な社会秩序を用いるのだ。なぜならばそこでは自ら立つ個々人の意欲と努力とが、他者への依存と恵まれを当たり前と考える怠け癖より遥かに尊重を受けるのだから。
私はこの考えをほか一切の妥協した社会主義と区別する為に、『資本原理主義』と呼んでいいと思う。成る程それは全能の神には遠く及ばないが、なおも人間界では最善の考え方なのが今のところ疑えない。
人間は保有や留保できた資源の量について群衆と同類である間、決して何事かを成し遂げられはしないのだ。先ず資本がなければならない。この為にはどの様な手段でも、無論倫理を全否定はしないが結果的に肯定を得る。